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約一年前……僕たちを襲撃する疫病の魔の手に気づいたのは、早朝だった。大きな断末魔に目を覚ました僕は、カーテンを開けて、外の世界を見た……。人間が、人間を襲っている。と言っても、武器を握って応戦するのは襲われる側だった。大の男が、まだ年も幼い女性の身体に覆いかぶさり、肩を思い切り噛みついたのだ。
「ぎゃあ! やめて! やめてえええぇ!!」
耳を突く、叫び声……。しかし、その声に反応したのは正常な人間ではなかった。むしろ、肉を引きちぎったばかりの、同胞だ。取り囲むようにゆっくりと歩を進める、先ほどまで人間だったそれ。
でろりと瞳が零れ落ちたり、右腕が捥げていたり、足のない者は、地上を這ったり……。
僕が完全にそれらを描写しきれないほどの数々のゾンビたちが、女性のみずみずしい身体にかぶり付いた。
「ギャアアアアアアァ! 助けッてぇえ、え、やああああああぁ!!」
女性はびくびくと肉と肉の間から投げ出された足を痙攣させ、無残にも息絶えて行った……。
町の至るところから鳴り響くサイレン。付近の屍たちが、一斉に音の鳴る方へと歩いて行った。竦んで動かなかった足に、ようやく力が入る。それは、立った今襲われた女性がゆっくりと起き上がったからだ。
「母さん……!」
役所に出勤した母のことが心配になって、電話を掛ける。だが、なかなか繋がらない……。電波が悪く、その証拠にテレビの映りも同様に悪かった。だが、ニュースキャスターの悲痛な叫びだけは聞き取れた――
「逃げて!」
その声に僕の足は動き出し、サイレンとは正反対の方へと駆け始めたのだ……。
♠ 12時02分 馬南学小校、二年一組
「はい、三時間目の授業は終わりです。みんなでお昼ご飯、食べましょうか」
山梨と長野の間に位置する田舎町、『馬南村』。もはや町ですらないのだが、僕はここに移住した。幾多もの出会いと別れがあり、最終的にここに行き着いたのだ。
馬南村で唯一の小学校、『馬南小学校』は村の一角に置かれており、人通りは少なかった。生徒は疫病が蔓延する前は百人程度と少数で、しかしやたらと教室が多い。現に、さきほど三階にいた僕は、五年生の教室を三つ通って、階段を下り、二階の二年一組へと顔を出していた。
「あら、克」
教卓の前でチョークを握った少女。眞鍋アンナ、十九歳。幾度か彼女の名前を口に出したが、このパンデミックが起きてから出会ったのだ。その性格は温厚で優しく、頼まれごとは断れない。だからこそ彼女は、誰もが嫌がるガキの面倒を見るなんていう仕事を率先した。僕はそれに巻き込まれた、という寸法だ。
「もう、この時間まで居眠り? 先生ともあろうご身分が、いい度胸してますね~」
アンナは皮肉な笑みを浮かべ、教卓の上で教科書を畳み始めた。「たのしい数学」という、中学一年生が持つべき教科書だ。
「いいじゃないか。僕だって、午前中の授業で疲れたんだよ」
「疲れたもなにも、あなたは教える側でしょ、まったく」
アンナは僕の鼻をつんと指で突いてきた。それを見た生徒たちが「ひゅうひゅう」と囃し立てる。
風通しのいい教室を一瞥する。いわゆる、『生徒』が三人……。生き残った十八歳以下の少年少女は、信也も含めて四人だけ(小学生までの少年少女は除く)だ。四つの席が横一列に並んでおり、右側から、眼鏡を掛けた少女、『桑原寧音』『江藤ひとみ』空席の『猪狩信也』そして『エルツ・センチュリアン』である。
「みんな。もうお昼だし、ご飯を食べに行こうか」
「先生、私はもう少し、今日の数学に関しての質問をしたいです」
マジメっ子の寧音が手を上げた。彼女の特徴は、今年で十七とまだまだ発達途中でありながら、制服越しでも男の目を惹いてしまうような、大きな胸。手を上げるだけの動作でたゆんと揺れてしまう。根っからの良い子ちゃんだったので、あの誰もが嫌な顔を向ける校長にも先生を付けて呼んでしまうのだ。
「はやく、ご飯食べたい」
その隣に座っていたひとみは、小さな熊のぬいぐるみを片時も離さず握りながら、不満そうな声を上げる。床まで付きそうなほど長い黒髪で、馬南小学校で授業を受ける人間の中では最年少の、十四歳。
「そうだな。寧音、早く食堂に行かないと、配給されないかもしれないぞ?」
僕は寧音にそう言うと、一際大きな腹の虫が教室内に鳴り響いた。寧音は顔を真っ赤にして、俯いた。
「わ、解りました。じゃあ、質問は後回しにします……」
「遅れないでくれよ」
すでに教科書とノートを机の中にしまい込んだ少年、エルツ。彼は名前が異国風味だが、それもそのはず、国籍はアメリカだったという。こちらには異文化交流として派遣されたワケだが、滞在期間中の真っただ中で、パンデミックによる崩壊が起きた。米国への疫病の感染は日本の三日後に起きたというが……ご両親の安否もいまだ掴めず、かわいそうな子だ。年は、十八歳。
「ていうか、信也はどうしたんだよ、先生」
エルツは茶色の長髪を払って、空席を一瞥した。
「さあ、さっきすれ違ったんだけど、ずいぶんとやさぐれてた。エルツ、また余計なこと言ったんじゃないだろうな?」
「心外だねえ。あいつは協調性がないから、おれが何を言ったって聞きゃあしない」
「仲良くしてやってくれよ……。あいつは、その――」
アンナは少し顔色を変えて、「これ以上はダメ」そんなことを訴えて来るような気がした。
僕はしばらくアンナの顔を見詰めながら、
「いや、なんでも」
ため息を零す。僕と信也は、三か月ほど前までいろんな場所を転々としてきたから、彼の素性も知っていたのだ。
「で? 今日のご飯はなんだと思う? おれは、昨日と同じくジャガイモだと思うがな」
「正解。さっき見て来たんだ。ほくほくのポテトに醤油を和えて、それに串を付けて頬張るんだ」
「ったく。そろそろ脂ぎった、豚や牛の肉が食いたいんだけどねえ」