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♠ 14時30分 馬南小学校、体育館


 四時間目の終わりを知らせるチャイムが学校中に響き渡る。

 決まった時間に流れる予鈴、誰かを呼び出す際は、放送係が放送室から全校へと伝える。


 今まで直接的な呼び出しというのが無かったアンナだが、この学校の生徒である寧音なんかはちょくちょく校長室に呼び出されている。どんな要件だったのかを訊くと、体操服の試着、ということで呼ばれたらしい……なんとも桃色な雰囲気だが、その時の狭川はいたってマジメだったという。


 バレーボールをレシーブで返すエルツはぴたっと手を止めて、床の上をバウンドする球体を目で追った。


「……終わっちまった」

「はい、そこで試合終了ね。三十一対四で、エルツくんの勝ち」


 ネット越しでボールを拾う寧音は、不服そうな表情だ。


「うーん。納得いきません。ていうか、どうして二人でバレーボールの試合をしないといけないんでしょうか?」


 授業が始まってすぐに準備体操をし、最初の二十分はレイアップの時間だ。後半は即試合に入ったが、出席していない信也、そして微動だにしないひとみのおかげで、エルツの一方的な展開で幕を閉じてしまう。


「いつもは相馬先生と信也がいるから、一対一でやるってことはまずないんだけど……」


 寧音の恵まれた身体と、眼鏡をまじまじと見つめるエルツ。


「ど、どうせ私は運動に向いてませんよーだ。それに最近、眼鏡の度が視力と合っていないんです。だから、ボールの距離感がつかめなくて……」

「はいはい。言い訳は教室で聞きますよ」


 エルツはちらりと体育館の隅でぬいぐるみと戯れるひとみの姿を一瞥する。体育の授業どころか、座学でさえも不真面目な態度を見せる彼女にはウンザリしていた。アンナが指名しても、立って回答すらできないのだ。


「ったく……親の躾がなってない、な」


 まるで、飲食店を駆けまわる子供に向けて放つ、クレームのように。

 エルツは完全に予鈴が鳴り終わると、片付けも手伝わずに教室へと戻って行った。


「も~エルツくんったら。でも、ひとみちゃんも参加すればいいのに、どうして体育の授業は座ったままなの?」


 アンナは体育館の中央に設置された、バレーボール用のネットを外し、畳んでゆく。一方で胸の発達が群を抜いている寧音は、ネットを支えていたポールの金具を外し、二つの棒を両腕で担いだ。


「さあ……。やっぱり、彼女のお母さんが原因ではないでしょうか?」


 ひとみの母親という人物像を、アンナは目をつむって思い浮かべる。髪の毛が長く、目つきが鋭いあの女……。喋ると脳がキンとする、金切声。こんな状況下でもみてくれだけは注意していて、とにかく濃い化粧に、多種の香水を洋服に染み渡らせている。

 それが……江藤ひとみの実母である、江藤眼実(まなみ)である。


「あの人――本当にひとみちゃんのお母さんなのかしら? こんなこと言ったら、アレだけど……」

「家庭の事情ですし、私たちがあれこれと水を差すのは、どうかと思います」


 寧音は眼鏡の端をくいっと上げて、淡々とした表情で言った。

 桑原寧音の両親はこのパンデミックによって亡くなってしまった……。その言葉には、自分の家庭は自分、他人は他人と言った、トラブルにならないための対策という意味だけでなく、ただ単純に『興味がない』と加味しているようにも思えた。



「ただ……偶然、最悪な環境に生まれただけですよ。それを呪ったところで、現状は変わりませんし。それを受け入れるしかないんです」



 熊のぬいぐるみと、延々喋り続ける少女。「今日の晩御飯はなにかな?」とか、「流行のネイルはね」とか……実にその内容も、近年頻繁に続出する若い少女たちのする、柑橘系のように甘酸っぱい会話だ。


「だから、このパンデミックが起きようが起きまいが、結果は変わりません」


 眼鏡の奥の瞳は寂しく、色を失いかけ、今にもブラック・アウトしそうだ。桑原寧音という名の少女は褒められたいがためにマジメを演じるタイプだったから、自分のことを贔屓してくれた大人たちが次々いなくなったのが、不満だったのだ。


 なのに、この(ひとみ)は……親がいる。他の人と違って、寧音は親族がいないから、見捨てられやすい。


「さ、さあ。戻りましょ、次の授業が始まっちゃう」


 不満の色を隠せない寧音を後目に、ネットを体育倉庫へとしまい込んだアンナは、体育館の隅で丸くなっていたひとみに手を伸ばした。その手を握り返すひとみは――最大限の皮肉を込めて、寧音の顔を半笑いで一瞥する。



「――――ッ」



 込み上げる怒り。どうして、私だけ。

 怒られたくないから宿題をやっていたのではなくて、褒められたいから勉強を進んでやったし、だからクラスでもトップの成績を誇っていた。

 だが――功を奏したことは少なかった。

 結局、ひとみのような、捨てられにくい存在が生き残る。

 それは将来的に見ても、そして現状でさえも……

 寧音はギュッと拳を握って、下唇を噛んだ。



「桑原さん」



 背後に立っていた男に声を掛けられた。

 寧音は驚いた。背中を舐めまわすかのような、ゾクリとした感覚……。そこには、禿げ頭に眼鏡、今のご時世では考えられないほどの脂ぎった体形の、狭川校長の姿があった。


「こ、こここ、校長先生!!」

「どうしたんだい、そんなに狼狽して……。何か、悩みごとでもあるのかい?」


 狭川の目には少女の姿が、自分の性欲を処理するための粘膜孔にしか見えていない……。だが、そんなことに気づくワケもなく、


「す、すみません……。なんだか、調子が悪くて」


 寧音の声は震えていた。臆病な性格を隠す場所もなく、浮き彫りになってしまう。


「ブふふ……可哀想に。周囲から認められなくって、イライラしていたんじゃないのかなぁ?」


 ねっとりとした視線、声。だが、不思議と不快感はない。自分のことを視界に捉えてくれる大人の存在は、桑原寧音にとっては久しぶりだったのだ。


「大丈夫だ。ボクはちゃんと、キミのことを見ている」


 だから、心配しなくていい。肩に乗せられた手のひらは、するりと背中に回る。男の大人の身体が、獲物を絞め殺すタコのようにまとわりついてきた。むせるほどに濃い、加齢臭。

 そして、寧音の腹には固い棒状のモノが当たる。捌け口。それに気づかない、まだ未開発の身体。甘い、甘い香りをした少女の元へと迫る毒牙にも似た肉欲……。


「だから、自信を持ちなさい。悩みがあったらいつでも、校長室においで」


 あと一歩のところで、踏みとどまる。今は昼だ……だから、では無いが、狭川校長はトドメの文句を刺して、その場から消え去った。


「校長室は、いつだって開いている」



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