後編
その後の知宏の話では。
前々から佳代が気になっていたらしいこと。
しかし、佳代は征生と付き合っていると思っていたため、伝える気はなかったこと。
そして、少しでもそういう関係になることを考えて欲しいこと。
――こんな感じで言う気なかったけど、俺、結構本気やから。
口調は軽かったけれど、真っ赤な耳は坊主頭では隠れなかった。
「わたし、征生くんに告白しようと思ってる。佳代はどう思う?」
だから、そんな時に、由紀から呼び出されたのは、まさに天啓だったのかもしれない。
いつになく、由紀の華やかな顔立ちに浮かぶ表情は真剣そのもので、おそらく焦っている。
高校1年でこちらに入学した時から、由紀は征生一筋で、口には出さなかったが、ずっと佳代を気にしていた。
しかし、征生はどんなにアピールしても男女交際に興味を示さないし、いつまでも子供っぽく幼馴染と登下校を続けている。もう、2年の冬だ。
そろそろ、潮時なのかもしれない、と佳代自身もわかっている。
「……うん。由紀と征生、お似合いやと思う」
ゆっくりと告げると、由紀の大きな瞳に水滴がみるみるうちにたまっていく。
あまりに予想外の事態に、佳代は慌てておろおろしたが、由紀の涙は止まらず、ついにはしゃくりを上げだした。
「か、よ……まさ、くんのこと、好きじゃなかったん? だから、わたし、すごいヤなこと、佳代にいっぱいして……」
佳代は違う違うと由紀の背中をさする。「そんなわけないし。大体、向こうが嫌がるわ」
「で、でも……まさきくんと佳代、すごい、仲良いから……」
「幼馴染やから、そういうのんちゃうねん。あいつがガキっぽいだけやわ」
こんなに、由紀が本気だったとは、思ってもみなかった。
言いながら、佳代は大人になりきれない征生と、それを諌めきれない自分の幼稚さとをようやく知ったのだった。
――カヨちゃん。
初めて会った時の少女じみた征生と、今の征生。
小学4年の時の佳代と、今の佳代。
もう1人で学校にも通えるし、別に親の言うことを大人しく聞いている必要もない。自分たちは、いい加減に大人になるべきだった。
そう思えば、距離を取るのは簡単だった。
むしろ、佳代はずっとこの時を待っていたくらいだった。
ソフト部は夏の大会で2年は引退だったから、先に帰るのも簡単。
登校の時も、1本早いバスに乗って、その分、学校で予習や宿題をするようにした。
メールが来ても適当に返信して無視する。電話があっても手短に話をして、幼馴染に相応しい距離をとる。
あとはどんどん、それを広げていけばいいだけだ。
むしろ、佳代は今まで、どれだけ自分が征生に合わせていたかを知って、驚いてすらいた。
「ワタナベ、最近征生くんとケンカでもしたん?」と貴子だけが直接聞いてきたが、小学校や中学校から一緒の幼馴染たちはたぶん、驚いていた。
ただ、それと同時に周囲の佳代への関心がひどく薄れたのは、至極当然であった。
その間、佳代は知宏への返事を考えて、少しは心がざわつくけれど、それでも言いようもない安堵を感じていた。
人口が少ない、この閉鎖された街で、やはり、葛原征生は特別で、側にいればそれだけで窮屈そのものだった。
離れて見ていればいっそうそれは顕著に感じ取れる紛れもない事実だった。
噂に聞けば、由紀となかなかいい感じになっているらしく、それだけが佳代には心の平穏を保たせていた。
征生も周りが騒がしい分、離れていく者になど、興味が薄れるに決まっている。
今日も貴子と帰るつもりだった。
今週の土曜日に、ちょっと遠出してクレープでも食べに行く計画を立てるつもりで、浮き足立っていた。
「征生くん、来てくれたんだ」
由紀の弾むような声で、佳代はようやく、征生の存在に思い当たった。どうやら、今、この教室にいるらしい。
由紀と一緒に帰る約束でもしてたのかもしれない、と特に気にもせず、帰り支度を整えていた佳代だったが、ふいに隣に立った気配に気がついた。
「……なんで、避けるの?」
ただ、空気の読めないこの男だけは、佳代には到底理解できなかった。
何の気なしに振り返った佳代の目に飛び込んできた美しい幼馴染の表情は、佳代に改めてあの感情を想起させる。
――そういえば、なんで『ニガテ』に、『怖い』が加わったんやっけ。
「俺、カヨちゃんに何かした? 怒ってるなら、言ってよ」
いつもは優しい話し方をする征生が、珍しく詰問するような口調だった。
八方美人な征生が、人目が多い場所で感情を露にするとは。佳代は面食らった。
「別に、避けてへんし。そんなこと言うために、わざわざ呼び止めるん。しょーもな。帰ろ、貴子」
これ以上は、ややこしい。周りの目も気になる。
困ったように佳代と征生を交互に見ていた貴子を伴って、佳代はその場を離れようとしたが、手首を掴まれた。
何すんの、と言いたかったが、あまりの勢いに言わせてもらえない。
「何その憎たらしい言い方。わざと? 佳代、わざと俺を怒らせようとしてんの」
そのまま、佳代はぐいと強く引っ張られて、ほとんど無理やり廊下に引きずり出される。
痛い、と佳代は顔を顰めたが、離してくれる気配など微塵もなさそうだった。
剣道をやっているせいかもしれなかったが、なよなよした見た目とは裏腹に、征生は驚くほど手が大きい上、握力がめちゃくちゃ強い。
そうして、無言で引きずられて、連れこまれたのは、無人の空き教室だった。
かちゃんと後ろ手に鍵をかけた征生も、佳代も、お互いにはあはあと荒い呼吸を繰り返していた。
近頃、雪の降らない日はほとんどない。
降っては止み、降っては止み。降り積もって、少し陽光が照ったかと思えば、またしんしんと高く高く降り積もる。足先や手の先が凍えて、動かせない時だって多い。
そういえば、征生がここまで必死の姿を、見たことがなかったかもしれない、と佳代は今更ながらに珍獣でも見るような気持ちで幼なじみを見ていた。
「カヨちゃん、知宏に告白されたってホント?」
本当もなにも、嘘をついたって仕方がないことだが、佳代は幼なじみの意図がつかめず、曖昧に答えた。
「それは個人的なことやから、あんたには関係ない」
「……関係あるよっ!」
――こいつも、こんな態度するんやなあ。
いつも笑顔を絶やさない、陽気で甘えん坊な征生が、本気で怒っている。ほとんど他人事みたいに、佳代はぼんやりと征生を見ていた。
「あいつより、俺の方が絶対いい男じゃん。カオだって、成績だって! 部活だって、俺、インハイ出れそうだったし! 俺の方が、知宏よりカヨちゃんとの付き合いは長いし! そうでしょ? 俺、間違ってない!」
畳みかけるように言い募る征生に、あんたは子供か、と佳代は笑いたくなった。
長い付き合いの幼馴染を取られて悔しいなんて、小学生レベルだろう。いや、小学生以下。
ガキだガキだと思っていたけれど、ここまでのだだっこぶりは、むしろこれまでの付き合いで初めてだった。これでは由紀も苦労するだろう。佳代はため息をついてみせる。
「……あんたな、ホンマいい加減にしいんと、柏原に言いつけるで?」
「由紀ちゃん? なんで?」
本当にわけがわからないとでも言いたげに、征生は涼しげな目を瞬かせる。
あんたのカノジョの話やろ、どんだけ鈍いねん。
だから、と佳代はイライラしながら続ける。
「例えあんたがその気ちゃうかっても、カノジョでもない女子に、紛らわしいことばっかり言うな、ってことや。相手がわたしやからええけどな、他の子やったら誤解するって言うてんの」
「誤解って?」
「そう。あんた、そんなことばっかりしとったらな、いい加減、由紀に嫌われるで?」
とうとう、言ってやった。
勝ち誇ったような、それでいて、少し奇妙な気分でもあった。白い息が、ゆっくりと広がった。
二重の窓ガラスががたがた、鳴った。
「なるほど、だからかあ……。なあんだ」
心底、安堵したように息を吐いた、征生の表情。
伏せ目がちにすると、長い睫毛が真っ白な頬にかかっている。
特別な、男。
そう、昔から征生は、ずっと特別だった。
佳代は無意識に、後ずさっていた。ガタン、と机に足が当たって、手を下から取られてから、ようやく気がついた。
真っ直ぐに、覗き込まれる、漆黒の熱に。
佳代は、震える。
寒い。しかし、それ以上に熱い。いいや、それよりもっと、――そうだ、恐ろしい。
佳代は、この幼馴染が、恐ろしい。
征生は整った形の唇を、ゆっくり微笑みにする。
「カヨちゃんは、優しいね」
冷たい大きな手が、ふいにじわりと熱くなる。佳代の手も冷たいはずなのに。
心臓が、妙に、嫌な音で。
ぎしぎしと、呻く。
知宏に告白された時は、驚いたけれど、もっと甘い気持ちになった。
しかし、今は、なぜか、居心地の悪さだけがひどく、後を引いている。
「由紀ちゃんのこと、別に気にしなくたっていいんだよ? あの子は綺麗だし、別に俺じゃなくても大丈夫」
「何を――」
何を、言っているのだろう?
佳代の戸惑いに、やはり征生は気がつかない。どうしようもなく、気がつかない。
「でも、佳代は違うよね。佳代には、俺しかいないでしょう?」
そうだ、と征生は首をわずかに傾げる。「俺しかいない。そうだよね?」
頷かなければ、と佳代は反射的に考えていた。佳代は頷かなければ、ならない。
「佳代。俺のカヨちゃん――」
征生の唇が、手の甲にそっと、つけられる。
生暖かい、柔らかさが、冷たい肌に触れる。
それだけなのに、全身が鉛でも巻きつけられたように、重たく、鈍くなっていく。
「……佳代、知宏にはちゃんと断れるよね?」
征生から、離れなければ。そう思っているはずなのに、なぜか体が動かない。
幼馴染が佳代に触れているのは、右手だけ。恭しく、大切なもののように支え持った、右手。佳代の色黒で爪の短い右手を、幼馴染の指が長い優美なそれが包んでいる。
「カヨちゃんは、優しいから。俺から離れていくなんて、そんなこと、しないよね」
その微笑の、なんと眩しいことか。
葛原征生は、誰にとっても、特別な存在だった。佳代は誰よりもそれに気がついていたのに。
――微笑むような、夢見るような、征生の瞳。こんな鄙びた田舎町より、洗練された都会が似合う瞳の中には、静かな、漆黒に燃える雪が見える。
しんしんと、外の白は後から後から、降り積もっていく。
どんどん、しかし微かに。微かに。
降り注いでいくそれは、重たく凍えていく。