疲れ
その後、戒厳令が布かれて、どうやら朝鮮人達がこの地震の首謀者と思われていたらしい。戒厳令が解かれる様子はなかったが、その頃、俺たちは船の上に居た。
男は広島から来ていた。家は呉服屋で、東京の老舗の店に着物の仕立てに来ていた。
男の名は、雪代紀世彦。今年で三十八歳だそうだが、とても若く見える。
彫りの深い顔で、穏やかな目が印象的だ。
紀世彦が顏の汚れを落とした時、思わず見惚れた。
広島行きの船は人で溢れていた。皆疲れた顔をしていて無口だった。
俺は船に乗るのは初めてで、すぐ船酔いをした。海が荒れていたせいもあったが、気分の悪い俺を紀世彦は介抱してくれた。
俺はなるべく揺れている波を見ないように、紀世彦の膝枕で横になって、目を閉じていた。
「もうちょっとの我慢だから」
紀世彦の声を聞くと、何だか安心できた。
いつの間にか眠っていたらしい、目を覚ますと広島についていた。
電車を乗り継いで、市内から離れた場所に紀世彦の家はあった。店に着くと、女中が飛び出して来た。
「旦那様っ。御無事で」
「心配をかけたね。わたしは大丈夫だよ。それより、彼を休ませてあげてくれないか」
女中は、ぐったりとしている俺を見てギョッとした。
「こちらの方は……?」
「いいから、わたしも疲れた」
紀世彦はそう言ってすたすたと中に入って行った。
俺は女中に支えられて、風呂場へ連れて行かれた。
「貴方様がどなたかは存じませんが、まずその汚れを落としましょう」
ずっと年上の女中は、俺の体をごしごしこすった。俺は疲れていたが、女中の迫力に気圧されて、何も言えず黙っていた。
着物を与えられて部屋に案内される途中、すれ違った若い女中たちが俺を見て、ひそひそと何か言った。
俺は決まり悪くて俯いた。
「女の陰口など気にすることはございませぬ」
年配の女中が言った。
布団を敷いてもらい、俺はすぐに横になった。
「あの…、どうもありがとうございました」
弱気な口調に、女中はつんと横を向いた。その時、襖の向こうから数人の女の声がした。
「凄い、別嬪よ」
「旦那様がお連れしたらしいわ」
「私も見たかったわ」
どうやら俺の噂をしているらしい。
気まずくて布団を頭からかぶった。すぐ後、出て行った女中の怒鳴り声が外から聞こえた。
女がいなくなってほっとしたのか、急にぐらぐらと視界が揺れたかと思うと、極度の疲れに、俺は目を閉じた。
もう何も耳に入らなかった。