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彼方へ  作者: 春野 セイ
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家の主



 ようやく動けるようになったのは、それから数日立ってからだった。

 あれから紀世彦の姿は見ていない。

 彼も俺を避けているように思えた。


「司さん、お客様ですよ」


 だいぶ動けるようになった俺は、出かけようと着替えをしていた時だった。

 女中が襖越しに声をかけてきた。


「はい」


 返事をすると、


「失礼」


 と言って入って来たのは、朱門だった。


「よお、元気か?」


 朱門は学校の帰りらしく制服を着ていた。


「お帰りなさいませ」


 俺は着物の帯をきちんと締めてから、正座をした。


「お茶でもお持ちいたしましょうか」

「いいよ」


 朱門はぶっきらぼうに言った。

 俺の前に腰をおろす男を見て、俺は頭を下げた。

 俺はこの男が嫌いだった。

 嫌いな理由は特にないのだが、一体何をしにここへ来たのか。

 彼がそばにいるだけで不安に駆られた。


「お前」


 と朱門が言った。


「お前、いつまでこの屋敷にいるつもりなんだ」


 鋭い口調が、俺の胸に突き刺さった。


「お前は最初、奉公人だったのだろう。だが、今じゃこの家の主みたいな顔をして、ここに居座っている。女中達がお前の事をなんと呼んでいるのか知っているのか」


 俺はこぶしを握りしめた。

 女達が何か言っているのは分かっている。だが、そんな事を気にしていられるか。


「下司野郎」


 朱門が吐くように言った。

 俺は唇をかみしめて黙っていた。


「何とか言えよ」

「……あなたは若様の大切なご友人でございます」

「何すました顔をしているんだよ。気に食わない」


 朱門は喧嘩を売りに来たのだろうか。

 彼の顔を見るのも苦痛で、俺はじっとうつむいていた。

 その時だった。朱門が俺の肩を荒々しく掴んだ。


「俺を無視するなっ」


 大きな声で叫んで、俺は押し倒された。


「何をなさるのです。人を呼びますよ」


 朱門は俺の肩をぎゅっと掴んで言った。


「お前を見ていると、腹が立つ」

 

 喉から搾り出すように言った。

 俺は朱門を睨みつけた。

 だったら、俺を無視すればいいのに――、と心の中で毒づいた。

 睨み合っていると、目を吊り上げていた朱門が目を閉じた。そして、


「お前が好きなんだ……」


 と聞こえないくらいの小声でぽつりと言った。


「お前がほしいんだよ、司」


 朱門は急にぐったりとして、体を投げ出すようにべたりと手を床についた。


「お前が紀世彦殿に抱かれていると想像しただけで体が熱くなる。腹が立って、腹が立って自分を押さえられなくなる。なあ、司」


 朱門は顔を上げた。


「俺の所へ来いよ。お前を他の女よりもっと大事にするから」


 朱門は訴えかける目で訴えた。

 俺は何が起きているのか、全く理解できないでいた。

 人にひどい言葉を言われたかと思うと、女より大事にするから、と言われた。

 何なのだこの人は。

 俺は女でもないし、人形でもない。


 意外な事だが、朱門の言葉で俺の目は覚めた。

 朱門の腕を振り払うと、彼はの着物をつかんだ。


「司、愛している」

「朱門殿、おやめください」

「どうして、俺はお前が欲しいのに」


 俺はどうにかして離れようとした。そのとき、朱門が力いっぱい俺を押し倒した。

 噛み付くようなキスをしてくる。激しいキスで、まるで殴られたみたいな衝撃を感じた。

 そして、声を上げる間もなく、俺の着物を派手に破いた。


「朱門殿っ」


 朱門は暴れる俺を殴った。

 一瞬、くらっとする。

 俺は体の自由が利かなくなって、腕を掴み上げられた。腕をねじ上げられて、俺はうめいた。


 どうして、こんな目に合わなくてはならないのか。

 悔しくてたまらなかった。


 朱門は何か叫んでいたようだったが、俺には何も聞こえなかった。

 何とかして逃げなければ、と思っていた時だった。

 突然、朱門の体が宙に浮いた。

 急に体から離れ、朱門は倒れて気を失った。

 俺は目の前に呆然と立ち尽くす京介を見た。

 彼は手をぎゅっと握り締めて、ぶるぶると震えていた。


「若様……」


 声をかけたが、彼は手を握りしめたまま、俺の声など聞こえていなかった。


「早くどこかへ行ってくれ」


 その声を聞いて俺は体が震えた。

 逃げ出すようにそこを飛び出した。

 涙が溢れそうだった。

 京介に嫌われたと思った。

 どうすればいいのか、分からなかった。




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