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彼方へ  作者: 春野 セイ
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予感



 その日、夕方から雨が降り出した。

 俺は昼過ぎから春生の行方を探しに出ていて、突然、降り出した雨のおかげでびしょ濡れになってしまった。

 家を出たのは俺のせいなのだ。

 何度も遊郭の方へ足を運んだが、春生は会ってくれなかった。

 びしょ濡れのまま屋敷に戻ると、女中が険しい顔で、すぐに風呂へ入れと言った。

 湯に浸かっていると、女中たちの騒がしい声がした。


 何だろう。何かあったのだろうか。

 汚れを落としてすぐに出ようとしたら、急に戸が開いた。


「旦那様……」


 俺は息を呑んで、目の前に立ちはだかった彼を見つめた。


 いつ、戻られたのだろう。


 紀世彦は不機嫌な顔をしていた。

 俺の嫌な予感は的中した。

 まさかとは思ったが、彼は風呂場に入ってきて、俺を湯船に浸からせた。

 紀世彦の上等の着物がぐっしょりと濡れた。


「何をするつもりです?」

「何をだって? いつもわたしたちがしている事だよ」


 紀世彦がせせら笑った。


「旦那様っ」

「黙れ」


 紀世彦はいきなり俺の首を絞めた。

 俺は息が出来なくなって、湯にあたり過ぎたせいか、ばったりと倒れた。



 気が付くと、布団の上に寝かされていた。

 横を見ると、京介が眠っていた。


「若様……」

「あっ、司くんっ」


 京介がぱっと目を覚ました。


「大丈夫かい? 気分は悪くない?」

「は、はい。平気です」


 声がうまく出なかった。


「ああ、ごめんね。君は平気じゃなくても、我慢するから。ゆっくり休むのだよ」

「俺は……」

「何も考えなくていいんだよ」


 その言葉を聞いて、俺はほっとして目を閉じた。

 それ以上、目を開けていられなかった。

 京介の手が伸びて俺の前髪をかき分けたのが、記憶に残った。


「ごめんね。司くん」


 と京介が言ったような気がした。

 再び目を覚ますと、次は紀世彦が枕元にいた。


「旦那様…」


 彼を呼ぶと、紀世彦は目を上げた。彼は、とても悲しそうな顔をしていた。


「すまなかった。司…」

「いいえ、平気です」


 京介がいたような気がしたが、どれくらい前だったのだろう。

 俺は時間が分からなくて戸惑った。

 紀世彦は俺の額に手を伸ばしかけて、躊躇した。だが、すぐに俺の前髪をかき分けて額に触れた。


「あの時、せっかくお前の命を助けたのに、わたしはこの手でお前を殺すところだった。許してくれ」


 紀世彦は何度も俺の額を撫でた。熱っぽいのか、体がだるかった。


「やっぱり熱があるな」

「旦那様……」


 彼を安心させたかったが、思うように体が動かなかった。


「動かなくていい。全身打撲だそうだ。医者には見てもらったから、時期によくなるよ」

「はい」


 どうりで体がずきずきするわけだ。

 恥ずかしい事に、風呂桶に体を打ちつけたらしい。

 俺は風呂場での事を思い出した。

 あの時、紀世彦に殺意などなかった。

 彼は本当に悲しんでいた。ただ、それだけだった。


「旦那様」

「うん。すまなかったな。なあ、司」

「はい」

「佳代子がね、お金に困っていると言ってきたんだよ」

「え?」


 紀世彦はぽつりぽつりと話し出した。


「彼女は泣きながらね、わたしに言うのだよ」

「旦那様……」


 どう声をかけていいのか分からず、彼の顔ばかり見ていた。


「わたしはすぐに断った。そんな相談をされても自分は関係ないからと。その後、断った自分が情けなくて腹が立った。もう、会いたくないと言って別れてきた。どうして…、どうして私はそんな非情な事が言えたのだろう」


 紀世彦にはもう俺の姿など目に入っていない様子で、虚ろな顔をして話した。


「むしゃくしゃしたから、こっちに戻ってすぐに遊郭に行ったんだよ」

「え」


 急に話が変わり、紀世彦の声が低くなった。


「わたしはそこで春生に会った」


 俺は心臓が止まりそうになった。


「は、春生様にですか?」


 心なしか俺の声も掠れていた。紀世彦はこくりと頷いた。


「名前も中国人に変えて、女装をして体を売っていた」


 俺はかける言葉も見つからず、わなわなと唇を震わせている紀世彦をじっと見つめた。


「あの子が、どうして……」


 紀世彦はそれだけ言って、こめかみを押さえると立ち上がった。


「旦那様、どちらへ行かれるのです」


 俺は焦って彼を引き止めようとした。だが、体が動かない。もどかしく思い、必死で手を伸ばそうとした。


「ちょっと散歩に行って来る」


 紀世彦は振り向きもせずに言った。


「俺も行きます」

「お前は寝ていろ」


 静かに言って、紀世彦は出て行った。


「旦那様っ」


 何も出来ない自分が歯痒かった。

 手を動かしてみたが、どうやら打ち身のおかげで体が思うように動かなかった。




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