火の海
物凄い揺れが襲い、地面が波打っている。
その揺れはどんどん激しくなり、方々の家の瓦がばらばらと降って来て、老朽化した建物がぐしゃっと崩れたかと思うと、その隣りの家からもくもくと煙が上がり、ガス管が爆発する音がした。
女の悲鳴が上がり、家の中から転がり出てきた女の髪には火が燃え移っていた。しばらくすると、落ちた瓦礫から土埃が舞い上がって、辺りが見えなくなった。
「助けてくれえっ。誰かっ」
火にくるまれた男が俺の方に向かって走って来た。俺はギョッとしたが、身動きすら取れないでいると、悲鳴と家の中から硝子が顔に突き刺さった男だとか、血だらけの子供だとかが飛び出してきた。電柱がめきめきと音を立てて折れた。
一体、何が起こったのだろうか。
そのとき、誰かが、
「逃げろ、逃げろっ」
と叫んだ。叫んだ男はばたりと倒れて、生き絶えたようだった。
俺は顔を上げると、土埃の中を走った。
逃げなくてはと、がむしゃらに走った。
なるべく火のない方へ走り何度も躓いて、ぐにゃりと幾つか踏んだが、それが何であるかを考える前に、とにかく無我夢中で走った。
誰かが、俺の着物の袖を引っ張った。
「この子も一緒に、一緒に連れて行ってください」
悲鳴のような女の声がして、振り向くと腕だけになった小さな子供の腕をぐいっと押し付けられた。
俺は女の手を振りほどいて逃げた。
真っ直ぐ走ると、その先に池が現れた。そして俺はその池の前に立ち尽くした。
池には無数の死体が浮いていた。水を求めて飛び込んだ人達だろう。襲ってきた炎に追い詰められて焼け死んだ人達が浮かんでいた。
俺はたまらなくなって、嘔吐した。朝は何も食っていなかったから何も出なかったが、とにかく胃液まで吐いた。
俺はそこにうずくまって泣いた。
残暑の厳しい夏の終わりだった。
気を失いそうになると、池の中から子供が這い出てきた。俺は無意識のうちに手を伸ばして子供の手を握った。
子供は俺の手を取ると、はあっと息を吐いて、力尽きた。
大正十二年、九月一日、十一時五十八分。
残暑の厳しい夏の終わり、箱根、横須賀、横浜、東京の関東地方をマグニチュード七、九の大地震が起こった。のち、関東大震災と呼ばれる。
子供の手を離すと、ぶくぶくと沈んでいった。
このままでは俺の命も危ない。どこか隠れる場所はないかときょろきょろした。だが、周りは火の海で逃げ場はないと思った。