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彼方へ  作者: 春野 セイ
16/24

遊女



 昨夜は遅くまで本を読んでいた。

 京介が買ってきてくれた短編集は思っていた以上に難しかったが、面白くて、寝たのが明け方近くだった。

 体を起こすと、少し眩暈がした。

 少し熱っぽいようだ。このまま休んでいようかと思ったが、以前から考えていたことがあったため、無理して起きた。

 というのも、一度でいいから、遊郭にいる京介の相手を見てみたかった。

 朱門が来る日、二人は出かける。だから、俺はこっそりと二人の後をつけて場所を覚えておいたのだ。

 屋敷を出て遊郭へ向かった。

 界隈に入ると、赤提灯やら派手な暖簾、町は華やいでいる。ずっと奥へ入ろうとすると、腕を引っ張られた。


「こんな所で会うなんて、今日はついているぜ」


 俺はびっくりして振り向いた。朱門が立っていた。


「朱門殿」


 なぜ、彼がここにいるのだろう。

 まさか、こんな所で朱門に会うとは。

 予想外だった。

 彼は俺の腕を取って、


「部屋を借りよう」


 と出し抜けに言った。


「朱門殿っ」


 彼の腕を払おうと思った。だが、朱門の力は強く振りほどけない。嫌がる俺を彼は強引に引っ張った。


「お願いです。やめてください」


 俺は自分の無力さに腹が立った。

 同じ男なのに、力では勝てない。しかも、今日は熱っぽいため足元がふらついていた。


「ちょっとやめなさいな」


 そのとき、ごてごてに着飾った女郎が立ちはだかった。

 俺はその女を見て目を見張った。

 背がすらりと高い大柄な女で、薄い唇に真っ赤な毒々しい紅を塗り、豪勢な簪を髪に何本か刺し、白粉を塗ったその女は、夜叉のように美しかった。

 女が朱門の手をぴしゃりと扇子で叩いた。


「イタッ」


 朱門が手を引っ込める。

 自由になった俺はそばを離れた。


「ねえ、あんた、あたしに会いに来たんだよね」


 女が、俺に馴れ馴れしく手を置いて、そう言った。


「え?」


 俺が目をぱちくりさせると、女は俺の着物の襟元を引き寄せてぎゅっと口づけをした。


「あっ」


 女の体から香の匂いがした。


春乙チュンイー、ふざけるな」


 朱門が低い声で言った。


 チュンイー?


 俺は口づけされたことを忘れて、ぽかんとした。


「いいかげんにしろ」


 朱門が言った。

 二人は知り合いらしかったが、お互いを睨みあっているようにしか見えない。


「あたしはここで生きていくと決めたのだから、邪魔をしないでちょうだい。あいつにもそう言っといて。さあ、あんたはあたしと行きましょう」


 チュンイーと呼ばれた遊女は俺の腕を引っ張った。

 朱門は何も言わず、舌打ちしてから去っていった。

 俺には何が何だかさっぱりだった。


 女ひ手をひかれ、強引に連れ込まれた場所は(と言っても女郎部屋に入るのはこれが初めてだが)、赤い着物、布団とまるで血の海に迷い込んだみたいだった。


「赤……」


 俺がつぶやくと、女は俺の手を掴んだ。


「初めてなのかい?」

「え、あ、うん」


 正直に言うと、女はくすくすと笑い出した。

 俺はわけも分からずむっとした。どうやら、馬鹿にされているのだと思った。


「お酒飲むかい?」


 女はお猪口に酒をなみなみと注いだ。


「ま、待ってくれ。俺、金を持っていないんだ」


 慌てて言うと、女の手が止まった。


「無一文?」


 心なしか、女の声に棘がある。俺は頷くと、女はがっくりとした顔をした。


「綺麗な顔をしているくせに貧乏なんだねえ。そのいい着物に騙されたよ」


 俺は紀世彦があつらえてくれた着物を見た。確かにこれは上等の品だ。女が誤解しても仕方がないのかもしれない。俺は膝をついた。


「あの、申し訳ない。助けてもらったのに」


 潔く謝ると、女は自分で酒を飲んでクックと笑った。


「あんた、いい男だね」


 そう言って、もう一杯飲んだ。


「あんた、あの朱門様の知り合い?」

「いや、俺は雪代京介様の家でお世話になっている」

「えっ? あんたが?」


 女はものすごくびっくりして俺をまじまじと見た。


「驚いたわ。そう、あんたが朱門様の片思いの相手ね?」

「え?」


 これには俺の方が驚いた。女は何を言っているのだろうかと思った。

 女はお酒のついた口元をなぞりながら、俺の顔をじっと見た。


「本当、あんた綺麗な顔をしているよ。ここで働けば金になるよ、と言いたいところだけど、あんた雪代様の所に居るんだよね。だったら、そんな必要ないね」


 女は一人で言って、一人で納得した。


「よしっ。決めた」

「え?」


 俺は女が急に立ち上がった。


「さあ、送るから、もう帰りなよ」


 俺ははっとして立ち上がる時、ふらっとして女に支えられた。


「あんた、熱があるんだね」

「平気だから」


 女の手を振りほどいた。それ以上、女は触ってもこなかったし、何も言わなかった。


「本当にありがとう」


 俺は一体何をしに来たのだろうと、自分が心底情けないと思った。

 屋敷に戻ると、京介が心配してくれていた。

 俺は、失敬だがうれしかった。

 やはり、京介が一番だと思った。




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