隣り
「行ってらっしゃいませ」
紀世彦は出かけて行った。
彼は俺の顔を何度か見たが、やがて、何かを振り払うようにして出かけた。
女中たちが中に入っていく。俺は最後に中に入った。
「司くん」
京介が、俺を呼び止めた。
「はい」
「午後から春生が来るから紹介しよう」
と言った。
春生、というのか、京介の従兄弟の名は。
どんな人なのだろうと思ったが、結局、春生は現れなかった。
京介は心配した様子もなく、深いため息をついた。
「いいのですか? 迎えに行かなくて」
「春生は難しい年頃でね。いいんだよ。そのうち自分から現れるだろう」
「はあ…」
しかし、次の日も春生は来なかった。
そして、京介と朱門は遊郭へ出かけた。
俺はそれらを考えないように、ひたすら勉強した。
近頃ではだいぶ漢字を覚えて、辞書がなくても読めるようになった。
紀世彦が、書斎を使っていいと言ってくれたから、毎日そこに入り浸った。
女達の噂話を聞くのを避けるためもあったかもしれない。
この間、偶然耳に入ってきた女達の話。陰でこんな事を言っていた。
「息子はまともでよかったわね」
俺の中傷などは平気だったが、もし、京介の悪口を言うものなら、女であろうと張り倒しているところだ。
俺は本を片手に廊下を歩いていると、遊びに来ていた朱門と玄関でばったりと会った。
彼は、俺をじろじろと見た。
そして、中へ上がってきて、俺の耳元に囁いた。
「なあ、俺にもお前を抱かせてくれないか?」
ぞっとするような冷たい声だった。動けずにいると、彼は俺の手首を掴んだ。
「細い腰だ。体の線もほっそりしているんだろうな」
そう言って、引き寄せようとする。抵抗したが、彼の力は強かった。
悔しくて睨みつけると、そこへ京介が歩いてきた。
「朱門? 何をしているの?」
朱門はちっと舌打ちをして、俺の手を離した。
「司くん」
京介が玄関で下駄を履きながら俺を見た。
「僕たちは出かけるから、留守を頼んだよ」
「いってらっしゃいませ」
外へ出て行く二人に深々と頭を下げたとき、
「だいぶ、本を読めるようになったね」
と京介が言った。
「あ、はい」
「じゃあ、一冊何か本を買ってこよう。何がいいかな?」
「俺……」
お任せします、と言おうとしたが、隣りに朱門がいたので黙っていた。すると、
「じゃあ、僕が選んできてあげるね」
そう言って、京介たちは出て行った。
俺は、京介の後ろ姿をいつまでも見つめていた。隣りを歩くのが俺であればいいのにと思った。




