学び
しばらく泣いた後、俺はぶらりと立ち、紀世彦の書斎に行った。
熱がある間、紀世彦とは会っていない。
久しぶりに彼の姿を見ると、何となく心が温かくなった。
少なくとも彼は、自分にまだ興味を持ってくれている。
紀世彦は椅子に座って本を読んでいた。眼鏡を外して、目を瞬かせた。
「熱は下がったのか?」
「はい」
頷く俺を見て、紀世彦は眉をひそめた。
「何かあったのか? お前がここに来るなんて」
「いえ」
俺は短く言って、彼のそばに寄った。
「何を見ているのですか?」
俺は字が読めない。彼が何を読んでいるのか理解できなかった。
紀世彦は薄っぺらい本を掲げて、
「雑誌だよ。俺は横光利一が好きなんだ」
と言った。
「ヨコミツリイチ」
聞いたことのある名前だった。だが、何を書いている人かは分からなかった。
「小説家だ」
本には、小説、随筆、伝記などといろいろな分野がある事を知った。
紀世彦は小説を読んでいた。
商いの本というのもあるらしく、俺はそれを見たいと思った。
紀世彦は一冊の本を選んで渡してくれた。ページを開くと、細々した文字が並んでいる。
思わず、すぐにそれを閉じた。
「実は字が読めないんです」
「なんだ。だったら、早くそう言えよ」
紀世彦はなぜだか嬉しそうな顔をした。
「字を教えてあげよう」
そう言うなり、女中を呼んで、紙と筆と硯を用意させた。
「まず、筆の持ち方からだな」
紀世彦は俺の背後に立つと、抱くようにして筆の持ち方を教えてくれた。
はじめは平仮名を。
平仮名はすんなりと俺の頭に入ってきた。道の看板などで、よく目にしている字だったからだ。
学校に行けなかった俺は字が読めない事を恥じていた。だから、学べることが嬉しかった。
部屋に文机を用意してもらい、夢中で勉強をした。
俺の熱心さに呆れて、紀世彦も布団に入ってくるという事はなかった。
俺はすぐ平仮名を暗記した。紀世彦に言うと、薄い本を一冊くれた。
「難しいだろうが、子供向けの童話だ。読んでみろ」
手渡された本は、勉強した平仮名がずらりと並んでいた。
俺は、一文字ずつ指でなぞって、文を組み立てた。
「むかしむかしあるところにおじいさんとおばあさんがいました」
最初はすんなりと読み、ああ、これは昔の事を話そうとしているのだなと思った。
次を読もうとして、本を投げ出したい衝動に駆られた。
あるところにという文章は、ちんぷんかんぷんだったからだ。
紀世彦に、地名の事をいっているのだと、教えてもらい理解した。
その夜、眠らずに本を読み続けた。
「何だ、お前、眠らなかったんだな」
明け方、紀世彦が様子を見に来た。
俺は文机にもたれかかっていたが、体を起こすとふらっと体が傾いた。
すぐに、紀世彦が抱きとめて、
「ほら、布団を敷いてやるから、少しは仮眠するんだな」
と薄く笑った。
「はい」
女中に布団を敷いてもらい、横になった。
眠る時、今、寝てしまったらせっかく覚えた平仮名を忘れてしまうのじゃないかと思って不安になった。しかし、眠気は襲ってきて、俺はぐったりとして目をつむった。
心地よい眠りに陥っていった。




