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「崩す」と反対語

 ここはバーだ。棒ではないほうのバーだ。僕こと坂上良司はソファ席に座っていた。

「崩す、の反対は何だと思う?」

 突然、英子さんの声がした。彼女は僕のことなんか全く気に止めていない様子だったので、不意に発したその言葉が僕に向けられたものだと理解するのに時間がかかった。

「え、崩すの反対……ですか。再建する、ですか」

 英子さんは座面の高いカウンター席のスツールの上で、Y字のグラスを顔の前に掲げてしげしげと見つめていた。そうしていると虫眼鏡のようだ。

「建物の話じゃないんだなあ」

 英子さんはこの春に二十歳になったばかりだが、その二年前からこのバーに顔を出している。僕は来年の春に二十歳になるが、その二年前からこのバーに顔を出している。

「何の話なんですか?」

 その結い上げられた長い髪が何色なのか、ここでは暗くてよくわからない。

「小銭の話かい」

 そう言ったのは、伊達さんだった。バーの常連客の伊達幸広さん。この春に二十八歳になったと言っていた。見た目はもっと若く見えるのだが。

「正解です」

 英子さんが親指を立てた。指が長いなといつも思う。腕が細く指が長く……それを指して体積のわりに表面積が大きいですよね、と以前言ったら、だから冷え性なのかなと返された。

「なんでわかったんですか伊達さん」

 伊達さんは目が細くあまり表情の変わらない人だが、それでいて不思議と人に不安を抱かせない口調で話す。無口な人であまり人と話さないが、よく来る僕達とは顔見知りなのでたまにこうして会話に混ざることがある。

「さっき帰ったお客さんが、一万円札を出したんだよ」

 ああ、なるほど、と僕は頷く。

「お金を崩すの反対……なんだろう、固める、ですかね」

 考えながら言う。英子さんは指を二本立てた。

「20点」

 採点されるのかよ。しかも、低い。採点基準がわからない。

「低いっすね」

 英子さんは白いブラウスの胸元のブローチを撫でてから言った。

「ありきたりだからよ」

 奇抜さが求められるのか。僕は席を立って、カウンターに移動する。マスターにレッドアイを、と注文する

「えっとそれじゃあ……統合する。連結する。合体させる」

 英子さんは、卓上でグラスをちょっと傾けて、斜めに力を加える。グラスはくわんくわんと小さく音を立てながら回転を始めた。

「5点、3点、12点」

 さらに成績が悪くなった。普通以下か。

「合わせる」

「24点」

「圧縮する」

「17点」

「集約する」

「26点」

「……採点基準は何なんですか?」

 英子さんは僕のほうを見て目をつり上げた。

「直球で聞いてどうするの。それを探るのがこのゲームじゃない」

 そうなのか。初耳だ。

「作る。……置き換える。育てる」

「ん、最後のいいね。40点」

 なぜか好感触だった。採点基準はわからないままだが、手応えを感じた僕は同じ路線で行くことにする。

「活かす。伸ばす。肥やす」

「あはっ。最後のは面白いね。でも30点」

 ……採点基準が探れたかと思ったが……難しいな。

 マスターが出してくれていたレッドアイにようやく口を付ける。

 ……あ、そうだ。

「……建てる? ……あ、建築のほうの」

 英子さんがふっと笑った。そしてにやりと口元を歪める。

「45点」

 おお。新記録。……なんだろう、少し方向性が見えてきた気がする。

「築く。建築の築です」

「50点」

 思わずガッツポーズ。やっとこさ、半分だ。

「ついに半分ですね」

「まだ半分よ」

 ……。

 なるほど、確かに。ようやく半分。根拠は無いが……この50点は、実際のところ、プラスマイナスゼロ、なのではないかという気がした。可も無く不可も無く。そういう点数。

「後半戦ですね」

「というより、やっと本戦、かな」

 これは手厳しい。


 *


 その時だった。

 ゲームは思わぬ展開を迎えることになる。

 僕が築く、より高得点を狙うべく考えを巡らせていたその時だった。


「畳む、なんてどうかな」


「おーっ。75点!」


 ……何だって。


 今のは……伊達さんだ。伊達さんが横から急に口を挟んだのだ。

 ななじゅうごてん……?

 その時の僕は……どんな顔をしていたのだろう。悔しさを隠しきれていなかったに違いない。顔に気持ちが出てしまう質なのだ。

 そんな僕を、英子さんは意地悪そうに(そう思ったのは僕の主観かもしれないが)眺めていた。

 伊達さんはちょっと申し訳なさそうに僕のほうに目で謝っていた。僕は目でいいですよと告げる。……告げたつもりが多少恨むような目になってしまったのかもしれない。伊達さんは離れるように席を移った。

 さてしかし。いきなり最高得点を塗り替えられてしまったのは(それも大幅に)多少ショックだったが、すぐに気を取り直す。そして……考え込む。

 そっちの方向だったのか。僕は間違っていた?

 僕の向かった方向では、これだけ答えて至れたのが、どうにかこうにか50点。伊達さんの一歩目は、あっさりそれを抜き去って75点。これが、歴然とした事実だ。

 ……だとすると、英子さんの採点基準にはそちらのほうが近い……? そちらの方向……。

「直す……とか、整える……とか」

 呟くように小さな声になってしまったのは、僕がこの回答の恥ずかしさ……すなわち「二番煎じ」であることを知っていたからだ。それを見透かしたように、英子さんはその目に軽蔑を浮かべて(そう思ったのは僕の主観なのだろうが)言う。

「30点。45点」

 くっ。……屈辱だった。自己最高記録を上回りさえしない。

「……収める。織る」

「オル、はおりたたむほう? なら52てーん」

「あ、いや、布を織るほうです」

「じゃあ58点かな」

 今度は僅かに自己最高記録を塗り替えはした。高得点は高得点なのだ。……だが、今ひとつ至らない。至れない。

「つなぐ。くっつける」

「あはは。煮詰まってきちゃった? それは駄目かな。23点。12点」

 ……どうでもいいが、なんで一の位までそんな細かく点がつくのだ?

「正す」

 ……どうだ。僕は懇願するような目で英子さんを見ていたのだと思う。するとそんな僕を少しの間不思議そうな目で見て、それから英子さんはふっと息を漏らした。

「まあいいでしょう。65点」

 ……。

 自己最高記録は更新したが……嬉しくはなかった。


 *


 少し捨て鉢になってしまう。

「かたす。重ねる」

 とにかく思いついた言葉を端から言っていく。

「適当? よくないなあ」

「思考を経由しないのも一つの手段かと思いまして」

「25点。14点」

「……予想外に低いですね」

 英子さんは答える代わりに、マスターに私も水、と言った。

 おや、と思った。英子さんがここで水を頼むのは珍しい。

「意外ですね。本気になったんですか」

 アルコールを抜いて思考に集中しようというのかなと思ったが、違った。

「逆よ逆。あのね、私はお酒に負けるほど弱い頭はしてないの」

 僕はむっとした。

「悪かったですね。酒に弱くて。こればっかりは体質なもんで」

 英子さんは首を横に振った。

「体質じゃないよ。良司くんは、酒に対する、頭の鍛え方が足りないんだよ」

「何馬鹿なこと言ってるんですか。アルコールの分解能力の強弱は、体質によるところが大きい。鍛えれば酒に強くなるなんてのは迷信ですよ」

 ふわああと欠伸をするその口を押さえた手を、そのまま頭まで持っていき、指差す英子さん。

「頭だって言ってるでしょ。アルコールの分解は肝臓か何かでしょ。分解なんてどうでもいいの。酔うなって言ってるんじゃないのよ。酔った時の頭の使い方を知らないのが問題なのよ」

 ……。駄目だ。

 酔っぱらいにまともに取り合ってもしょうがない。僕は舌打ちをしてそっぽを向いた。

「ところで、もう諦めたの?」

 くっ。心底腹が立つ人だ。


 *


「諦めてませんよ!」

 そう言ってから、自問する。

 諦めてないって……何をだろう? 高得点を狙うこと……?

 僕は今のところ、「正す」で65点。これが自己最高記録だ。一方で、伊達さんが「畳む」で75点。この場での歴代最高記録を出している。……なんとか、せめてそれを上回る答えを探したい。

 でも何点取ればいいんだ?

「……ところで英子さん」

「何?」

「これ、合格点、いくつなんですか? 100点ですか? というか、そもそも100点満点なんでしょうね」

 まずそこを確認しとかないと。

「……へ?」

 お、英子さんが虚をつかれた顔をするのはとても珍しい。

「1000点満点とか、言わないですよね」

「あはは。満点を狙うつもりなんだ。凄いね。大胆不敵」

 英子さんがそう言って笑う。

「狙おうにも、1000点満点だったら狙いようがないですからね」

 狙いようが……という意味では100点満点だとしても大して変わらないけれど。

 英子さんは手で頭の後ろをかきながら舌をぺろりと出すという演出過剰気味なポーズをした。

「いやあ……減点主義じゃない英子さんは、別に満点は決めてなかったのでした。合格点も決めてないし」

 まあ、そうかもしれないとは思ったけど。

「……。じゃあ採点基準も無いんですか」

「ん? 採点基準? あるよ?」

 語尾をことごとく上げて英子さんはそう答えた。

「本当ですね? 納得いく基準なんでしょうね」

 僕はとっくにわかっている。基準は英子さんのセンスだ。何ら客観性はない。

「そんなの保証できないよ。だって、何が基準でも良司くんが納得するかは良司くん次第でしょ」

 まあ……それはその通り。

 そこで不意に英子さんが言った。

「ヒントあげる」

 ヒント?

「何のヒントですか? 聞かせて下さい」

「採点基準だよ。言うまでもなく採点基準は私の主観だけど、私のセンスという一貫した基準ではある。だから、これまでの得点傾向をよく思い出してみること」

 ……そう。わかっている。たとえば「固める」。これは20点だったが、普通に考えたらこれが正解なのだ。辞書にこそ載ってなどいないが、崩すの逆の意味で巷では最も使われる言葉だ。もっと正しい言い方があるのかはわからないが、少なくともある程度浸透している反対語はこれであり、これが20点というのはいかにも低い。だが僕が最初にこの言葉を言った時に、低い理由は聞いた。「ありきたりだから」だ。

 つまり、巷で浸透しているとか、そんなことは関係ないのだ。

 僕は挑戦的に言う。

「そんなことはわかってますよ。その証拠に……「「逆両替ぎゃくりょうがえする」の得点だって低いんでしょう」

「ん?」

「逆両替、です。銀行なんかでは使う言葉らしいですよ。大きい額面のお金に両替することをそう言うんです。でも英子さんの基準では「崩す」の反対語として「逆両替する」じゃあ高得点にはならない。……ですよね?」

「おぉお。やるね、良治くん。うん低いよ。聞きたい? 何点か」

 英子さんは、心底楽しそうな顔をした。そう、そういう顔が僕は見たいのだ。

「いいえ。不要です」

 その僕と英子さんのやり取りに、近くに来た伊達さんが不思議そうに尋ねた。

「今の聞こえたけど、逆両替って言葉があるのかい? でもそれが正解じゃないんだ?」

「じゃないんですよー」

 そう、違う。それは英子さんが求めてる答えじゃない。


 *


「マスター、ドライ・マティーニ」

 僕は深呼吸をした。心を落ち着ける。マスターからグラスを受け取って、一気に流し込んだ。一瞬頭が沸き立つような感覚。

「あらあら。無理しないの」

「心配しなくても、アルコールの分解能力だけで言えば、英子さんより僕、お酒は強いですよ。英子さんみたいな酔い方しませんから」

 かと言って、英子さんの言うような「酔った時ほど頭が良くなる」ということはないのだが。だが、この場は英子さんに敬意を払って飲むことにする。

 さてこのクイズの採点基準は……英子さん自身も認めるように結局のところ英子さんのセンスなのだが、それでも全く予想がつかないようなものではない筈だ。

 それは何か。

 小銭を崩す……の反対語。僕はこれまでの高得点を得た答えの中で、三つの言葉に注目する。

 今のところ最も高得点だった、伊達さんの「畳む」の75点。僕の導き出した答えの中では最高得点の、「正す」の65点……。それに伊達さんが口を挟む前の最高得点である、「築く」の50点だ。

 築く、は確かに、崩す、の対義語ではあるが、それは建築物などに対してであって、お金に関しての「崩す」には素直に当てはまらない。

 百円玉10枚を千円札に両替することを「千円札を築く」という言い方をする人は聞いたことがないが、英子さん的には50点らしい。

 そもそも普段、この逆両替をして欲しいと思ったら、僕なら何と言うだろうか。千円札に……千円札に……。

「替える」

「2点」

 独り言のつもりだったが聞こえていたらしく、採点されてしまった。評価はこれまでの最低点だった。

「あ、今のは回答と違いますよ。でもやっぱり低いですか」

「低いよ、そりゃあ」

 そりゃあ……そうだろうな、と僕も思う。

 そもそも、致命的なのは「替える」は「崩す」の意味でも使うということだ。すなわち反対語ではない。

 わかっていたことだが、確認にはなった。すなわち英子さんの採点基準は、その表現が実際に使われているかどうかは全く関係ない。「千円札に替える」より「千円札を築く」のほうがふさわしいと言っているのだ。「誰もそんな言い方しないだろう」というツッコミは無意味。

 英子さんは新語を作ろうとしているのだ。しっくりくる新語を。

 かといって耳慣れない言い方なら何でもいいわけじゃない。例えば……そうだな。

「変身させる」

「面白いけど、7点」

 そう、これも低い。崩すの「反対」の言葉ではないからだ。一言で言えば、しっくり来ない。

 しっくり来ない……具体的には、例えば他動詞でないし、名詞に「する」をつけた形なのもいけない、のかもしれない。「崩す」と並べた時にしっくりくるには、そうした部分を揃えなくてはならないのだろう。

「化かす」

 例えばこれも、そう高い得点は得られない筈だ。

「16点」

 ほら。形を揃えるだけでは駄目。「崩す」に対してふさわしくない。意味がまるで対になっていない。

 どちらかと言うと高得点を狙えそうな言葉は……そう、例えばこんな言葉だろう。

「組む」

 英子さんが目を見開いた。

「70点。……なんか考えてるね」

 よし。やはり、見えてきた。さらにもう一声。

「編む」

「80点!」

 よし!

 伊達さんの得点を越えた。

 再び、ガッツポーズをしてしまった。

「やるじゃん良司くん」

 英子さんに褒められた。


 *


「あと20点か……でも、僕にはもう遠そうです」

「何よ諦めたの? もっと来てよ」

 英子さんが聞きようによってはドキドキするような言葉で僕を誘う。

 僕は苦笑して、一気に大放出することにした。

「色々と考えはしたんですよ……。盛る、造る、興す、打つ、鋳る、叩く、任せる、まとめる、成らせる……」

「わっわっ」

 英子さんが何か気に止まったらしく、人差し指を目の前三十センチくらいの空中に向かって伸ばしながら声を上げた。

「どうしたんです?」

「今の。今の、もっかい言って」

「……採点するんですか? いいですけど。盛る」

「……64点」

「造る」

「34点」

「興す」

「22点」

「打つ」

「44点」

「鋳る。あ、鋳造の鋳です」

「68点」

「叩く」

「17点」

 ……わかりかけていた採点基準だが、やっぱりよくわからない気がする……。

「任せる」

「任せる? ……面白いけど、49点かな」

「まとめる」

「30点」

「成らせる」

「15点」

「……これで全部ですよ」

 さっき大放出したのはこれで終わりだ。採点結果は一考に値するが、最高記録を更新したわけじゃない。

 すると英子さんは、肩をすくめた。

「そっか。ごめん、聞き間違いだった」

「え? ……何を何と聞き間違えたんです?」

 何の気なしにそう尋ねたのだが、英子さんは口元をひん曲げて笑った。

「それを言うほどサービスはしないよ」

「……というと……」

 というと、つまりさっきの何かを聞き間違えて高得点の言葉と誤解したということだ。

 僕は頭をフル回転させる。なんだ? 何と聞き間違えたんだ? 英子さんの反応からして……あの言葉を聞き間違えたのだろう、という推測はついた。だが、どう聞き間違えたのかがわからない。考える。考える。考える。

「……さ……」

 英子さんが、ぴくっと反応した。……これか。

「咲かせる」

「ピンポーン!」

 英子さんが拍手をした。

「90……いや、95点!」

「よっしゃ!」

 思わず叫んでしまった。

 高い。文句なしの最高記録だ。

「それだわ……お見事。やったわね、良治君」

「え……はあ……まあ」

 英子さんがうっとりした顔をしていたので思わず照れてしまったが、ちょっと冷静になってきた。

「そ、そんなに良かったですか」

「ええ。90点より上は、神の領域」

 え。神の。マジか。

「つまり私の主観の奥の奥の部分に触れたということよ」

 おう……。だとしたら。

 だとしたら、とても嬉しい気がした。

「良治くん」

 英子さんが、グラスを持ち上げた。

「おめでとう」

「あ……ありがとうございます」

 僕もグラスを持ち上げる。

 キン。

 静かにグラスを鳴らした。

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