アイドルと二次関数(前編)
店のドアが静かに空いて、紺のジャケットを着た男が入って来た。年の頃は二十代半ばだろうか。
いつものようにほとんど客のいない店内を見渡す。待ち合わせだったのだろう、奥のほうの席に相手を見つけて近づきながら、声をかけた。
「よう。急にどうした。お前から飲もうと誘って来るなんて珍しいじゃないか」
振り向いた眼鏡の男は「よう」と言った。
「座れよ」
「ああ。マスター、ビールもらえる?」
マスターが頷いたのを確認して、ジャケットの男は眼鏡の男の前で腰を下ろした。
「……それで、幸広。何か話したいことがあるって言ってたが」
幸広と呼ばれた眼鏡の男はああ、と応じた。
「昔、アイドルの水上ひろみっていたじゃないか」
前置きなしに本題に入るのが二人の習慣だった。
「水上ひろみ? いたっけ」
「いたんだよ。僕たちが高校生の頃」
「またずいぶん前だな。もう10年前か」
「違う。今僕たちは25歳で、僕たちが高校一年の時すなわち16歳の時に彼女は活動していた。つまり9年前だ」
「……あ、ああ」
マスターがグラスを持って来て静かにテーブルに置いた。
「孝夫、お前本当に覚えていないのか? 水上ひろみ」
孝夫は思い出したようにジャケットを脱ぎながら視線をまわす。
「覚えてないよ……。あ、もしかしてあれか、お前がよく熱心に写真を見てたあの?」
「そうだよ」
「ああ、あったなあ。アイドルとかに全然興味を示さない幸広が珍しく写真まで持ち歩いてたからちょっと印象に残ってる。なんだっけ、なんとかいうグループだったっけ? マイナーな。あれ、でも……お前、そんな長いこと追っかけてたっけ。すぐ熱が冷めてたような気がするが」
幸広は深く頷いた。
「その通りだ。冷めたというより、冷まさざるを得なかったんだ。僕が水上ひろみを知ったのが高校一年の秋で、彼女は冬には活動休止したからな」
「あ、そうなの? じゃもう引退してんだ」
「いや」
首を振って、幸広は目の前にあったグラスを持ち上げた。おう、と孝夫もビールのグラスを持ち上げて応じる。
幸広はぐいとグラスの中の液体を喉に流し込んだ。そして座った目で、孝夫を見る。
「彼女は引退したんじゃない。活動休止したんだ」
「……お前、大丈夫か。飲み過ぎじゃ……」
「聞け。活動休止していた彼女は、去年どうやら活動を再開したらしいんだ」
「え?」
「活動再開、だ。アイドルとしての活動をまた始めたんだよ」
幸広は、取り出したスマートフォンの画面を見せる。
「……事務所のホームページか? これ」
「そうだ。僕も去年たまたま気がついたんだけどな」
幸広はまたグラスを傾けた。そして空中にある何かを読み上げるように目線を宙にさまよわせながら語り始めた。
「僕らが16歳の時、水上ひろみというアイドルのプロフィールには16歳と記されていた。つまり、僕らと同い年だった。しかし彼女はその16歳のうちに活動休止した。短い活動期間だった」
「そうだな、16っていったら、まだまだこれからだもんな」
「……それから8年後の去年、たまたま彼女の活動再開のニュースを耳にしてな。正直驚いたよ。なぜ今になってとな。だが驚いたのはそれだけじゃなかった」
幸広は真剣な顔だった。
「ホームページのプロフィール欄を見ると、彼女の年齢はまだ16歳と記載されてたんだ」
「更新してなかっただけだろ」
「いや。違う、活動再開のニュースとともにそう書いてあったんだ」
孝夫は吹き出した。
「サバ読み過ぎだろ。8年経って年齢変わってませんって。永遠の16歳かよ」
とりあえずツッコミを入れる孝夫。だが幸広は苦笑した。
「ところが本当に年齢が変わっていないと、書いてあったんだ。……ホームページにな。「活動休止していた間、彼女はコールドスリープしていたため年をとっていませんでした」と。もちろん事務所側も一種の冗談のつもりだったんだろうけど」
「へえ……変わった話題づくりだな」
「そう、単なる話題づくりなんだろう。ただ……確かにその発表の写真の彼女は8年前と全く変わっていなかったんだ。若いんだよ、見た目が。だから事務所もそういう売り方を思いついたんだろうが」
へえ、と孝夫は興味深げにつぶやいた。
「検索すりゃすぐ出る……これだ、この記事。この写真が去年の水上ひろみで……それからこっちのページにあるのが、16歳の時の、つまり9年前の写真だ」
スマートフォンの画面を操作しながら幸広は指差した。
「おお……。本当だ。全然変わらないな。確かに若い。去年つーと24歳の筈だけど確かに16歳で通るな。まあ、もともと童顔だしな」
幸広はしかし首を振り、ところがな、と言った。
「これを見てみろ。今年になってからのニュースだ」
再びスマートフォンを操作し、別の画面に切り替えた。
「ニュースというか、掲示板で噂になった程度だが」
「……なになに……「水上ひろみが一年で9歳年をとっている件」?」
「そう。公式サイトのプロフィール欄の年齢の記載がな、今年になっていきなり25歳に変わってたんだ。それが噂になった記事だ」
孝夫は手のひらを下に向けて、空中で手を上下させた。
「ははは。まあ実年齢に戻しただけだろう。サバ読むのやめて」
「そう……。たぶんみんなそう思ったんだろうな。コールドスリープのくだりもしれっと消されてたたし。まあ、もともと大した話題になってなかったから、そう騒がれることもなかった」
孝夫は吹き出した。
「話題作りの筈だったのにな。盛り上げ失敗して恥ずかしくなって戻したのかね」
「かもしれない」
孝夫は苦笑した。そしてビールをあおる。しかし幸広は笑っていなかった。
「……だけどな」
「なんだよ」
「先月、僕はライブに行ったんだ」
ビールでできた髭を舐める孝夫。
「ほう……ライブに。え、お前がアイドルのライブに?」
「違う。アイドルの、じゃない。水上ひろみの、だ」
「お、おう」
「それで、気づいたんだよ」
「何に」
「水上ひろみは本当に、この一年で9歳年をとった可能性がある」
「は?」
グラスを中途半端に宙に持ち上げたまま、怪訝な顔の孝夫。
「先月、生で見た彼女は明らかに、この去年の写真とは容姿が違っていたんだ。成長していたんだよ。少女から大人の女へ。16歳から25歳へ」
「……ええと、落ち着け。プロフィール写真と実際が違うってなよくあるだろ。多少容姿が変わってたとしたって、9歳年を取ったはおかしいだろ」
「いや。見ろ。胸だって去年の写真では実に控えめなものだろう。どう見てもB、いやAだ。だが先月生で見た彼女の胸は……D、いやEはあったかもしれない」
「声を小さくしてくれ。頼むから」
静かな店内なのでそれほど大きな声でなくても周りに聞こえてしまう。マスターがちらりとこちらを見た。
「25歳になっていたんだ。まさしく。年相応に。老けてるってわけじゃないが成熟した大人の女になりかけている、そんな感じだった。あどけない少女のおもかげは既になく!」
「……落ち着け落ち着け」
「落ち着いているさ」
とん、と幸広は軽くテーブルを叩いた。
「わ、わかった。とにかく水上ひろみが先月、25歳相応の見た目になってたんだな?」
「そうだ。彼女はたった一年で急成長していたんだ」
「いやいや。あのな、彼女は実際25歳なんだから、25歳の姿に成長していて何がおかしいんだ。……単純な話だろ。間違ってるのは去年の写真なんだよ。お前が去年の写真だと思ってるネット上の写真ってのは全部16歳の頃の古い写真なんだろ。コールドスリープとかいう設定のために、事務所側もそういう嘘の写真を載せたりもしたんじゃないのか」
「いや、それは違う。見たんだよ。……去年、彼女の活動再開発表の時にやった復活ライブのDVDを見たんだ。少数限定生産だったから入手が遅れた。その映像に映る水上ひろみは16歳の頃の彼女そのものなんだ。胸も小さかったしな!」
「胸の話で声を大きくするのはやめてくれ。……ええーと、その映像は本当に去年のものなのか?」
間違いない、と幸広は頷いた。
「同じ事務所の若手、鈴田まいこが一緒に映っている。彼女は去年デビューしたばかりの14歳だからな。過去の映像のわけがない」
「……合成とかでもなく?」
「一緒に踊ったりする場面もある。あれが合成なものか。だとしたらもの凄い技術だ」
「うーん、まあほら、女は化けるっていうし」
「化けすぎだろう。胸があんな一年で成長するものか」
「胸にこだわるな。ほら、パットとかかもしれないだろ」
「背だって少し伸びていたし足も少し太くなっていた」
「あーわかったわかった。じゃ実際変化したのかもしれんが……だったらどうだっていうんだ。いいじゃないか。ずっと幼かった彼女は急成長して俺らと同い年の25歳相応になったというだけだ。サバを読むのもやめた。いいことじゃないか。それともお前、若くないと嫌だとでも言うつもりか」
「いや。そういう話じゃない……」
「……どういう話なんだよ。さっぱり見えんが」
幸広は、心なしか顔が浮かない。そのことには孝夫も最初から気づいていた。
「どうしたんだ幸広。どうしてそんなに元気がないんだ」
「……聞いてくれるか」
「ああ。当たり前だろ。高校以来のつきあいだ」
「つい、一週間前。彼女は引退した」
「え。水上ひろみがか?」
うなずく幸広。
「二回目の休止ではなく、今度は引退だそうだ」
「そ……それは残念だったな。でもまあ、25歳だろ。アイドルを引退するにはけして早くはない。女優とかバラエティに行くとか他の道が開けてない以上、事務所からも厳しいと判断されたんじゃないかな」
「いや、彼女自身の希望だそうだ」
「……本人が限界を感じてってことはあるだろう」
「たった一年でか?」
孝夫が言葉につまると、幸広は少しうつむいて、黙った。
「……」
孝夫も黙った。幸広の言いたいことを言わせてやることにする。
「この引退の知らせを聞いて、ようやくわかったんだ。僕が何にもわかってなかったんだってことが。全く、自分の愚かさにはほとほと嫌になる」
幸広の本題が始まった。
「ことはずっと、深刻で悲しい。……僕だって、自分の仮説がただの妄想ならどんなに良かったかと思ったが、全て辻褄があうんだ」
「……何だ」
「ヒントは、彼女のデビューソング、「恋の二次関数」だ」
「意味不明なタイトルだな」
「一見そうだが、これは……」
幸広は顔を上げて言った。
「彼女の年齢のことなんだ。そう考えれば謎が解ける」
孝夫は頷いた。
「すまん。全然わからん」
幸広はさらにもったいぶった調子で。
「彼女は、二次関数的に年をとっているんだ」
孝夫は、もう一度頷いた。
「すまん。全然わからん」
「9年前の彼女は確かに16歳で、そして去年も間違いなく16歳で、今年は25歳になった。この3点は直線では結べないが、二次関数曲線なら結べる。この三点を結ぶ二次関数曲線を描くと……こう年をとったということになるんだ」
幸広は胸元から手帳とペンを取り出すと、すっとアルファベットのUのような曲線を書いてみせ、さらにそのそばを通るように十字に線を引いた。
「……えっと……これがX軸とY軸で……? このカーブが二次関数の曲線ってこと?」
酔った頭で必死に中学時代に見切りをつけた数学を思い出す孝夫。
幸広は頷いて、そこにさらに斜めに直線をひいた。
「通常の人間の年齢は当たり前だが、年に一つずつ、このように線形に増えていく。僕らが16、17、18と順に年をとっていく間、彼女はこの二次関数曲線のように、16、9、4、1、0、1、4、9、16、25と年をとったんだ」
「なるほど。何を言ってるのかさっぱりわからん」
「だから。ー4の2乗、ー3の2乗、ー2の2乗、ー1の2乗、0の2乗、1の2乗、2の2乗、3の2乗、4の2乗、5の2乗、だよ。ああ、2乗ってのはつまり……」
「2乗はわかるさ。2かける2とか、3かける3ってことだろ」
「それなら何がわからないんだ。歌の歌詞にもこうある。「あなたと私の関係は~恋の二次関数曲線~」つまり、僕らの年齢と彼女の年齢の関係が二次関数になっているという意味と解釈できる」
「日本語で言え、日本語で」
「y=(xー20)^2」
「数式で言うなよ」
「とにかくそう考えると、活動休止期間も、9年前と1年前が同じ16歳だったことも、全て辻褄があうんだ。早すぎる引退の謎も解ける」
「なんで引退の謎が解けるんだよ」
「なぜなら、彼女は来年、36歳になるんだからな。6の二乗だ」
何の辻褄があったのか孝夫にはわからなかった。
「お前頭大丈夫か」
「いたって正常だ。いいか、彼女は来年はさらに急激に年をとり、一年で11歳年をとってしまうんだよ。引退する理由は明白だ。36歳でアイドルはきついという判断だろう」
「なるほどな。お前病院いけ」
呆れたように幸広は言う。
「まだわからないのか。8年間の休止期間の謎もそれで解けるんだよ。さすがに9歳の子供がアイドルをやるわけにはいかないし、5年前には0歳になってしまうわけだからな。さすがにその期間は人前に出られないという判断だろう」
孝夫は三回ほど瞬きをした。
「えーと。何だ、つまり。……お前の考えでは、去年、彼女は4×4=16で16歳だったと。24歳じゃなく」
「ああ」
「サバを読んでたわけでもなく、正真正銘16歳だったと言うんだな」
「そうだ」
「そして一昨年は、3×3で、9歳だったと」
「そういうことだ」
「その前の年は、2×2で、4歳だった」
「イエス」
「その前の年は、1×1で1歳」
「ああ」
「そんで、その前……5年前は0×0=0歳だったと。つまり、生まれたのが5年前ってことか?」
「いや、生まれたわけじゃないが、生まれる直前まで行った筈だ」
「……そこまではまだ百万歩くらい譲ってわかるとして。いや、わからんが、まあ急激に年を取る体質の人間だったという話を一旦飲み込んだとしても、だな」
「百万歩か。そんなに歩いたら西日本までいけるぞ」
幸広のツッコミを孝夫は流す。
「……でだ。全く言ってることがわからんのがそっからだ。六年前はー1×ー1=1でまた1歳になるのか」
「そうだ」
「七年前はー2×ー2=4歳。八年前はー3×ー3=9歳。そして九年前がー4×ー4=16歳」
「そう。……僕らが16歳だった時、彼女も16歳だった」
「若返ってる最中だったと」
「そういうことだ。ゆるやかに若返る速度を緩めながら、5年前に向かって若返っていく最中だった」
「なんで若返るんだよ」
幸広は首をふる。
「それは本人に聞かないとわからない」
「いやでもお前、その仮説で行くと、10年前はどうなるんだ?」
「当然、ー5×ー5=25歳だ」
「じゃ、さらにその5年前、つまり今から15年前はどうなる?」
「……いいところに気がついたな」
なぜか悲しそうに幸広は笑った。
「ー10×ー10=100歳だ」
「阿呆。白寿じゃんか」
「白寿は99歳だろ。100歳は確か、上寿とかいう筈だ」
「祝ってる場合じゃないだろ。俺らが10歳の時、彼女は戦前から生きてるお婆ちゃんだったってのか」
首をふる幸広。
「生きてない。これは彼女の年の取り方だけの話なんだから、戦前から生きてるわけじゃない。それどころか、16年前にはたぶん生きてはいなかったんじゃないか。ー11×ー11=121歳。ほとんど人間の寿命を超えてしまう」
「そうだなギネス記録なみだな。生きてなかったってどういう意味だよ。じゃ彼女は15年前に生まれたのか? 生まれた時に既に100歳のお婆ちゃんとして?」
「そういうことになるが、正直わからない。その頃までは普通の年の取り方をしていたのかもしれないし、人間のような老化の過程を経ているとも限らない。どのみち人間じゃないんだろうし」
「人間じゃないって……いやお前自分の好きなアイドルをよくそんなこと言えるな」
「勘違いするな。人間じゃないのは悪いことじゃないし、アイドルを好きになる理由は人間だからでもない。だが、だからこそ……これは深刻で、悲しいと言ったんだ」
「……というと」
わからないか、と幸広は肘をカウンターに置いた。
「あと何年彼女に会えるか、という話だよ」
「……おう」
「意味わかるか?」
「わかるよ。つまり彼女は来年には一気に年をとって36歳。再来年は49歳。加速度的に年をとって五年後には100歳だ。六年後は……121歳」
幸広は大きく頷いた。真剣な表情だった。
「そう。いわゆる大還暦を越える。要するに、そのあたりが寿命の恐れがある。121歳より長く生きる人間なんてまずいないからな」
「つまり彼女に会えるのはあと六年だと。いや、というかもう来年には30代後半のオバさんなわけだから、若いうちという意味だと今年が限界か」
幸広は目を釣り上げた。
「くだらないことを言うな。それに水上ひろみは年をとっても永遠に美しい」
「あ、そうですかすいません」
孝夫はそれ以上つっこむのはよした。
「とにかく、わかったさ。お前が言いたいことは」
「わかってくれたか」
「ああ。面白い話だ」
「面白い?」
「お前の、いきなりそういう変わった仮説を繰り広げるところは嫌いじゃない」
「……仮説か」
幸広は孝夫がそう言ったのに怒った様子はなく、手元の腕時計を見た。
「そうだな。実際、本人に聞かないことには僕にだってこれは仮説に過ぎない。……だから呼んである」
「呼んである? 誰を」
その時、静かに店の入口の扉が開いた。
店の扉は音もなく閉じていく。
そこには、女性が立っていた。サングラスをかけて帽子をかぶっている。
「いらっしゃった」
幸広が立ち上がった。孝夫はその背に問う。
「え、お前が呼んだの? だ、誰だよ?」
幸広がすっと歩いて、その、店に入ってきた女性に近づいた。そして手を差し出す。
「初めまして。僕が伊達幸広です」
「あら、初めまして」
女性はサングラスを外すと、微笑んだ。
「初めまして。水上ひろみです」