アサガオの模型と、タイムトラベル(後)
「ズレたら補正してしまえばいいんですよ」
「……なんだと?」
「例えば毎晩毎晩、スタッフが部屋に入って、部屋の状態をチェックするんです」
「スタッフなんているのか」
「いてもいいじゃないですか。スタッフたちは、朝顔の育ち具合、家具の耐久性や傷つき具合、赤ん坊の育ち具合や健康状態なんかを細かく細かくチェックします。最初にスタートさせた、オリジナルの部屋とそっくり同じように変化が訪れているか、をね。そして違いが出てきたら補正するんです。朝顔の育ちが悪かったら栄養補給をしたり、育ちすぎていたら葉を落としたり。枯れてしまった場合は最悪、代わりに育った朝顔をどっかから見つけてきて交換します」
「家具もか?」
「ええ、家具もです。傷を見つけたら修理する。逆に最初の部屋ではついた傷がついてなかったらスタッフが代わりにつける。そうやって、無理矢理にでも最初の部屋と同じ時間の経過を演出するんです」
「……人間もか」
「もちろんです。人間の場合、交換ってのは無理だから、矯正するんです。最初の部屋にはなかった病気や怪我なら治療するし、言葉の覚え方が遅けりゃ教育を強化する。そうやって、最初の部屋とそっくり同じ赤ん坊が育つようにし向けていく」
「そうそううまくいくかな」
「わかりません。でも朝顔よりも人間のほうがうまくいくような気もしますよ。同じ遺伝子を持っていて同じ環境で育つんですよ? 細かい部分で差が出ても、全体としては極めて良く似た人間が育つと思いませんか?」
「さっきと言っていることが逆じゃないか」
「いえ、違うんです。人間の場合、補正が楽なんじゃないかってことです。もう少し正確に言えば、「同じに見える」ように補正することが容易なんだと思うんです。人間が何を「同じ」だと思うかは人間が一番よくわかってますから」
「君が言いたいのは……人間のように複雑な存在を、人間は簡略化して捉えている。だから細部を見ればてんで同じではないとしても、細部の違いが相殺しあって総合的には同じ人間に見えるように、仕向けやすい……と。わかりにくいな。まあつまり例えば、ある部屋ではチェスを先に覚えて後から将棋の魅力にとりつかれるが、別の部屋では先に将棋に出会って後からチェスに手を広げる。でも結果的には将棋とチェスを両方やる人間になることに変わりはない。その意味で、区別がつかない、ということか」
さすが教授は理解が早い。
「そうですそうです。特に人間は言葉が使えますからね。言葉とは細部を切り落として記号化したものです。後から付け加えたり方向を修正したりして形を揃えてやるのがやりやすい」
「ブロック遊びのようなものか。大きさ形が規格化され揃えられたパーツならば、微細な傷や凹みがあってもその差は組み立てるのに影響はしない」
頷く私。
「言葉の理解に差があったって、結局は同じ言葉を話せば同じことを考えているように見えます。本当は頭の中では微妙に違うことを考えているかもしれないけど、同じ台詞を話していたらその差は区別はつかないです」
「同じ言葉を話させてしまえばいい、ということか。ふむ……。まあ君の言うことも一理ある。補正するというアプローチは乱暴だが無理筋ではないのかもしれないな」
「もちろんそれでもどうしても、補正しようもないことも起こってしまうでしょう。朝顔の植木鉢を割ってしまう部屋もあるかもしれない。治療しても傷跡が残るような怪我をしてしまう部屋もあるかもしれない。極端な話……誰かが死んでしまう部屋もあるかもしれない」
教授が顔をしかめた。私はどうもデリカシーというやつがない。
「死もそうだが、特にさっきのアダムとイブみたいな、夫婦の場合もな……。男女の間のことは端から見ていてもなかなかわからんぞ。特に女はな……理屈が通じないからな、さっきの君の言っていた補正がうまくいくかどうか」
私も女性だというのを教授は忘れているらしい。
「ええ。……そう、時々は破綻してしまう部屋があるとは思います。でも、大半は、いろんなズレを起こしながらも、存続はしていくでしょう。そうしたら……実はタイムトラベルとしては十分かもしれないんですよ」
私は指を立てた。
「過去は、過去っぽければいいんです。十年前のことを思いだそうとしても、日毎の細かい記憶なんてないですよね。四年と三ヶ月と十日前に、朝ご飯が何で昼に妻と何を話して何の本の何ページを読んで何時何分に寝たかなんて、そんなの覚えてる人いないでしょう? ということは、そんな細部はズレていても問題ない。大筋があっていれば、タイムトラベル体験としては十分なんですよ」
「思い出なんて自分で都合よく書き換えてしまうものだしな」
「そう。それを皆わかってる。だから「そこが過去だ」と信じ込めさえすれば、実際の自分の過去と少々違っていても、「自分の記憶違いだ」と思うものなんです。だから全部を全部あわせる必要はない。記念日とか、印象に残る出来事だけ、合わせるような注意が必要かもしれないですけどね」
「確かにな。結婚記念日とか赤ん坊の誕生日とかはきっちり合わせておかないと、その日にタイムトラベルした瞬間に辻褄があわなくなる」
「ええ。だから結婚はきっちりプロポーズから日取りまで合うように仕組んでおく必要がありますし、出産日のコントロールをどうするかはかなり難しいですよね」
「難しいな……。やはりその辺がネックか」
私はくすくすと笑う。教授が真剣に考えてくれるのが嬉しい。
「でも教授。意外に何とかできると思いますよ。たとえばこんなことも考えられます。ある部屋の夫婦が本来の歴史よりも一日早く赤ん坊を出産してしまったとしましょう。そうしたら、夜中のチェックの時にですね、その部屋のカレンダーを一日進めてしまうんです」
「なんだと?」
「ばかばかしいと思わないでください。赤ん坊の誕生日が本来四月一日だとしたら、赤ん坊が生まれた日にカレンダーを四月一日に合わせてしまうんです」
「そりゃさすがに気づくだろう」
「カレンダーだけじゃない。時計や、パソコン、家電製品なんかの日付も全部一日ずらします。一斉にね。もちろん最初は混乱するでしょう。あれ、なんで日付が自分の記憶と一致しないんだ、そう思うでしょう」
「それこそ、スタッフの存在がバレてしまうぞ」
「ところが案外、人間ってのは自分の記憶を信用しないものなんです。教授だって、そうでしょう? ある日起きたら、テレビのニュースで言っている日付が、一日進んでいたらどう思います?」
「まる一日寝てたのか、と思うだろうな」
「ところが、周りの人間に聞いてみても、昨日一日寝ていたわけではなさそうなんです。昨日も会ったぞと言われたりする。おかしいなと思って、日記をめくってみると、昨日書いた日記の日付が、自分の記憶とは違っている。ネットの利用履歴を見ても、日付が記憶とは一致せず、一日ズレている……。そしたら教授、こう思うんじゃないですか? 自分の記憶のほうがおかしいんだろう……って」
「そりゃそうかもしれんが……。だが周りの人間が皆そう言っていたら確かにそうかもしれんが、その部屋では、少なくともそのアダムとイブの二人は二人ともズレてると思うわけだろう」
「そうですね……。でも時間が経てば、二人して変な夢を見ていたんだ、と思うんじゃありませんか?」
「都合が良すぎないかね」
「仕上げに、少々強引ですが、二人に眠り薬をかがせて数日間寝込ませてしまうという手もあります。そうすると記憶があやしくなり日付の感覚が無くなり、もう自分らの記憶よりも外部の情報を信じることになります」
「無理矢理眠らせるって……またその夜中のメンテナンス・スタッフかね。干渉しすぎるとどんどん本来の歴史からズレるぞ」
「ですね。多用は禁物です」
「それにだ。そんな歴史改変をやってる間によその部屋からタイムトラベルしてこられたらどうする」
「もちろんそういう時は部屋をロックしとくわけですよ。タイムトラベルを受け入れるのは十分落ち着いてから、ですね」
「ロックか」
「ええ。もしどうしても修復しきれなかったらもうロックをかけっぱなしにして、その時間には戻れない、というようにしておくしかないでしょうね」
「鍵をかけっぱなし……か」
「ええ。タイムトラベルの対象から外すんです。他の部屋から誰も来ない代わりに、他の部屋へも行けない」
「ふむ……」
教授は咳払いをした。
「そもそも、そのタイムトラベルだが」
私は姿勢を正す。
「一度タイムトラベルをするまではいいだろう。だがその後はどうなる? それこそ補正なんか効かないくらいに歴史が変わってしまうんだぞ」
「タイム・パラドックスの話題ですか」
「それもある」
私もさすがにそこは考えてはいる。
「考えてますよ。そうですね。例えば……父親殺しのパラドックスにしましょうか」
「ああ。……いやもちろん、このシステムでなら矛盾はない。過去のある部屋に行って息子が父親を殺す。するとその部屋ではもちろん息子は生まれないが……それは別の自分だから自分が消えるわけじゃない。元の部屋に戻ればちゃんと無事な父親がいる、ということになるからな」
「ええ」
そういうことだ。
「つまりパラレルワールド的な世界観ですね。異なる時間の流れ、異なる世界線の父親を殺しただけだから、自分には影響はない、という立場ということになります」
「だが、つまりその部屋……その過去には二度と戻ることはできなくなるということなんだぞ。一度、三年前へ行って歴史を変えてしまったら、元の時代に戻って、何日経とうと何ヶ月経とうと、三年戻った世界はもう無いんだ。二度と、三年という過去には行けないということになる」
「そうですね。いつタイムトラベルをしても三年きっかり前には行けない、そういうことになりますが、でも三年と十日前や三年と二十日前は行けるんです。そこでは父親はピンピンしている、改変前の歴史がただ淡々と続いていく」
「そういう意味では……過去へ行って何かしても、それはその過去の線だけが変わるだけであって、そこ以外の過去は変わらないということだな。過去は、変えられない……そういう立場のモデルだということか」
私はふと、思いついたことを言ってみた。
「もちろんそうでない立場、過去を変えれば未来が変わるというモデルを採ることもできますよ」
「それは無理だ」
「過去へ行って息子が父親を殺した瞬間に、スタッフがそれより未来にある部屋の全てで父親を殺せばいいんです」
教授は私の答えがわかっていたのだろう。
「無理だね。その方法では、父親の死に方が部屋ごとに違う。死に方というか、死ぬ時期が、だがな。オリジナルの部屋では一番長生きしたことになる。次の部屋では十日早く死に、その次の部屋では二十日早く死に……というようにな」
「まあでも、過去を変えたら未来が変わるわけじゃないですか」
「変わるは変わるが、変わり方が変なのだよ。三十年前の、父親が十歳の時にタイムトラベルをして父親を殺し、元の時代に戻ってみると、父親は確かに死んでいるが享年十歳ではなく享年四十歳なんだ。死んでいるのは父親の子供時代ではなく四十の父親なのだ。だから自分も消えはしない」
「……ああなるほど。確かに変えた過去の続き、というわけではないんですね」
「そうだ」
「だったら……過去へ行って父親を殺したら、その息子もスタッフが殺してしまうしかないですね」
教授は顔をしかめた。
「殺す殺すと気軽に言うな君は。あくまでパラドックスの例え話だぞこれは」
「だから気軽なんじゃないですか。……別に殺さなくとも、その息子を拘束して元の部屋に戻らせないようにすればいいだけです。元の時代では、両親は帰ってこない息子を待ち続けることになるのは可哀想ですが、余計な犠牲を出さずに済みます」
「なぜ戻さないんだね」
「タイム・パラドックスとしての出題に対する回答としては、父親を殺した瞬間に自分が生まれたという事実が消えてしまい自分も消滅した、という考え方ですね。その自分が消滅したことにより父親が死ななかった、とはならないんです」
「歴史を改変するとそこから先の未来が消滅し、元の時代へは戻れない……というモデルか」
「息子にとってはそうなります。もっとも両親は健在ですから、未来が消滅するというよりは、未来への接続が切れる、と言うべきかもしれませんが」
「なるほどな……」
私は微笑む。
「教授。……もしかしたら、その接続が切れてしまった世界なのじゃありませんか、ここは」
「ふむ……?」
私が発した問いに、教授はなんだか妙な声を、聞きようによっては可愛らしい台詞を発した。
「過去へも未来へも、私達は行けやしません。タイムマシンは原理的に不可能だというのは知られてますけど、その根拠の一つである因果律。それってつまり、我々の世界が横の世界のどこにも繋がっていないということなのでは」
「ふむ」
解釈の問題だね、と教授は言った。構わず私は続ける。
「私達はこの世界を糸だと思っている。過去から未来へと伸びる一本の、糸。でも本当は、布だったのかもしれないじゃないですか。横の世界があって、本当はその横の世界と密接に絡み合っていたのかもしれないじゃないですか。でもどこかで私達の世界は、あるべき姿から外れてしまった。だから接続が断ち切られたんです。他の世界とはつながらなくなった。布からほつれてしまった糸なんですよ、この世界は」
「面白いな」
「そうですか? 私は寂しいですけどね」
私たちは、過去へも未来へも行けない。理由は簡単だ。私達の世界には、過去も未来も、存在しないからなのだ。