おわり
なんとなく身体の異変には気付いていた。でも、いつも通り我慢していればいいと思っていた。我慢するのには慣れていた。欲に気付かない振りをすれば余裕でやり過ごせた。痛みには慣れていた。喉元を過ぎれば熱さは忘れていた。
だから、今回だって大丈夫だと信じていた。
「あ、ああ……」
ネロ・アフィニティーは自分のしてしまったことに気付いた。両手の震えは止まらず、吐き気が込み上げて、何より全てが信じられない。
「……ね…………ろ、君…………」
今にも消えてしまいそうな、とてもか細い声がした。その声は目の前の少女から発せられている。
少女は床に倒れており、顔面は蒼白だ。目も虚ろで、首筋には深い二つの穴が開けられていた。そこには真っ赤な血がべっとりとついている。それと同じ血が、ネロの手と口許にもついていた。
「違う、俺は、俺は…………違う、違うんだ、俺は……うあ、あ、あぁ……」
信じられない。信じたくもない。
しかし身体はハッキリと覚えていた。
ついさっきまで、ネロは目の前の少女、ナディア・ベルトリーニとその横に倒れている青年、スメールチ・ザガートカ・アジヴィーニエを襲い、その血を心行くまで啜っていたのだ。その感触を、味を、身体はしっかりと覚えている。
「……だい……じょーぶ、だよ…………ネロ君……。あたし、も……ル、ッチーさん、も…………ネ、ロ君……を、責めたり……しな、い、から…………」
ネロ君が元に戻って良かった。とナディアは微笑んだ。そして目を閉じ、それ以上動かなかった。
「あ……いやだ、いやだいやだいやだいやだ……ごめん……ごめん、なさい……謝る、謝るから、俺、あ、いやだ、ああああああああッ!」
ネロは大粒の涙を溢しながら、膝から崩れ落ちた。そして這うようにナディアの元へ行きその体を抱く。しかしナディアは動かない。
「……自分がぁ……何をしたのかぁ……やっとわかってくれたんですねー……?」
今度は背後から声がする。恐る恐る振り向いてみると、そこには立っているのもやっとな様子のロレーナ・フォルトゥナーテが居た。
背中に生えた真っ白な翼は羽がもげ、歪な形になってしまっているほどボロボロで、もう飛ぶことはできないだろう。左手にはもう力が入らないのかただ肩にくっついているからぶら下げているといった状態だ。右手はまだ動くようだが、それは脇腹に当てられている。その手の下からは真っ赤な血が滲んでいて、止まっているようすはなかった。
全部、全部ネロがやった傷だ。
「……残念、ですけどぉ……私はぁ、ここまで、ですー……。だからぁ、ネロ君。あと、は……自分でちゃーんと…………」
最後まで言い切らずにロレーナは糸が切れたように倒れてしまう。そして、ナディアやスメールチ同様動かなくなる。
「う、あ、ああああああああッ!!」
耐えきれなくなったネロは、たまらず建物の中から飛び出した。そして外の景色を見て初めて自分が今までロドルフォの店にいたことを知る。
自分が殺した。欲望に負けて、自分が三人を殺してしまった。その現実から必死に目を背けて、ネロは自分の家まで駆けていった。
「……遅かったですね、主」
家に帰ると出迎えたのはビアンコただ一人だった。別に、家の中にビアンコしか居なかったというわけではない。意識があると思われるのが、ビアンコだけだったのだ。
「トリパエーゼを滅ぼした気分はどうですか」
ビアンコは淡々と、しかしネロの方は一切見ずに訊く。その腕にはクリム・ブルジェオンが抱かれていた。
「全部、主がやったんですよ」
思い出す。
「みんな、主が殺したんです」
思い出す。
「なのに、みんな許すんです」
思い出す。
「ねえ、今、主はどんな気分ですか?」
そのとき、初めてビアンコがネロの方を見た。その顔は、心の底からネロを恨んでいた。憎しみに満ちていた。
「や、やめろ……やめ、ろ……俺を、そんな、そんな目で……」
「そうだ、主にクリムさんの最期の言葉を伝えておきますね」涙を流し、首を振って、現実を拒否するネロにビアンコは淡々と告げる。
「『ネロ、大好きだったよ』」
その声はクリムのものそのものだった。
「あ……あ、ああ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
頭をがしがしとかきながら、狂ったように、壊れたようにネロは叫ぶ。しかし時は戻らない。クリムは永遠に戻ってこない。
「さようなら、主。あとは一人で勝手にどうぞ」
そんなネロにビアンコは興味無さげな目で冷たく言い放ち、そして消えていった。
ネロは完全に一人になる。
血の臭いが充満したこの町に、ネロは一人取り残される。