いつか消える金色の思い出
◆
あれは災害の四年前。俺がまだ6歳のガキだったころの夏で、夕方だった。
確かに覚えている。あれは父さんに連れられて参加した、防災訓練の帰りだった。
俺と父さんは、公園に寄ったんだ。
父さんは、その時俺に少年団に入りたいかどうか尋ねていたのだと思うけど、記憶が定かじゃない。そのとき俺の意識のほとんどは、公園で涼む車椅子の少女に注がれていたのだから。
天使だと思った。彼女の笑顔は、本当にキラキラと輝いていた。思春期の門をくぐるどころか、ほとんど物心のついていないガキをして、溜息をつかせる程に眩しかった。
「どうしたの?」
車椅子の少女は、口を半開きにしながら自分を見つめるバカに気がつくと、首を傾げた。柔らい、かわいらしい声。黒い髪は肩にかかっていた。
「ううん、なんでも」
気を紛らわすように、そっぽを向いた。視界に入った父はこちらの思いを見透かしていたようで、肩をすくめ次の踏み込みを促していた。
「俺、ハヤト。6歳」
「私はハルカ」
夕暮れは金色に光っていた。もう殆ど記憶の残っていない大昔の話だけど、その時のやさしい空気や、柔らかい輝きはハッキリと記憶に刻まれている。
ボーイミーツガールなんて表現できるほど、きらびやかな出会いじゃない。たぶん誰もが経験したことのある、ありふれた初恋なんだろう。
情報の海〈サリャーリス〉は、思想も経験も、あらゆるものを可視化して繋げてゆく。人のこころに土足で踏み込んできては『特別』を否定してくる。きっと探せば、俺よりもっと劇的な出会いから始まる体験談が、数えきれないほど出てくることだろう。
そう、俺とハルの出会いも関係も、決して特別なものではない。
それでも、あの時感じた、世界の全てが祝福に包まれたかのような輝きだけは、誰にも否定できないものだと信じたい。
そんなささやかな祈りくらいは、抱いていても許されるだろう。
◆
人は絶望すると、アナフェマになる。そして、魔法少女がアナフェマを殺す。
魔法少女は一つの独立した生命ではなく、どちらかというとソフトウェアのようなものだ。有事の際に少女というハードウェアを憑代にして、この世に受肉するソフトウェアだ。
魔法少女の憑代となった少女は有事の際に自我を真っ白に塗りつぶされ、無意識の中へ落とし込まれる。戦闘が終われば意識を取り戻し、アナフェマが出現すればまた意識を失うというサイクルを、たいてい死ぬまで繰り返す。
肉の器を選ぶのはその地域にいる魔法少女であり、選択も時期も、基準はまちまちらしい。
俺の妹は八年前に数合わせの魔法少女に選定され、五分と待たずに殺された。
そして昨日、ハルが魔法少女が魔法少女の器になった。そのことを、彼女はまだ知らない。
「先生ね、昨日のキューバ戦本当に感動したの。九回の裏、絶体絶命の危機、もうね、私ダメかと思ったよ。でもさ、打ってくれたでしょ?里中が。先生ね、もう泣いちゃったよ」
ポッカリと胸に穴が空いた俺を他所に、民族史の女性教師が随分と興奮した様子で語る。根っからの野球少年である柴田が、うんうん頷きながら聞いているのが見える。奴は最前列だから顔は見えないけど、絶対に目をピカピカさせているだろう。幼馴染だからわかる。
「でもさ、その後だよ。昨日の夜、爆破テロルあったでしょ?白船で。小規模だし大したケガ人も出なかったみたいだけど。先生さ、本当に残念に思ったし、不安になったよ」
今日は朝から白船の爆破テロルの話題で持ちきりだった。柴田はその場に居合わせていたらしく、朝会うなり興奮した様子で語ってきた。なんでも、車が突然爆発したそうだ。
「爆破テロル、これはヤバい。本当にヤバい。反動もいいところだよ」
日本共和国の民族史の先生は、『解放』直後に生まれたいわゆる団塊の世代の、そのまた子供の世代だ。
技術的特異点突破直後の、異常に熱のあった時代に育った彼らは、生まれてからずっとイケイケどんどんな空気を吸い込み続けたせいなのか、往々にして明るいし暑苦しい。
先生は太い眉をへの字にして、自分の心中を熱く語る。外見は可愛いけれど、暑苦しすぎる。
「だってさ、爆破テロルだよ?はい柴田!爆破テロルのヤバさ、言ってみて!」
「は、はい!人が死ぬからでしょうか!」
「それだけじゃないんだなあこれがっ!」
急に指されて焦った柴田の答えに、先生は机を叩く。
「泥沼の本土決戦の時に、軍部は民間人にさ、爆弾の作り方や扱い方を教えたでしょ?これはこないだ授業でやったばっかね。それで『解放』期に、……まあこう表現したらアレだけど、当時のノウハウを活かして爆弾でアメリカ人を殺しまくったの。目についた米帝の施設は全部吹き飛ばしたの。そしてとうとう私たちは米帝から『解放』された!」
先生はそう語りながらも、眉をひそめる。たぶん誰かに社会評価点を下げられたんだろう。それでも先生は拳を握りしめて熱弁する。
「それでね、問題はこっから。ようするにね、『解放』期に完成されちゃったわけなのよ。爆弾の製造と流通を含めて爆破テロルを大々的にやらかすノウハウが」
「今の法律から言えば、三次元印刷機で銃を作った方がお手軽なはずなの。それなのに爆破テロルを選択してるってことは、もうわかるでしょ?敵は『解放』期からずっと続いている反政府勢力!つまり反動右翼!敵は連合離脱派よ!連合離脱派がとうとう鎌浦に拠点を置いたってことなの!爆破テロルの真のヤバさはこれ。手段として選択している時点で、組織のデカさと練度の高さを誇示できちゃうの!下手な銃の乱射よりも、ずっと政治的なわけ」
でも先生は絶対屈しない!と先生は締めくくった。先生がさっきよりもずっと興奮しているようだったから、ためしに先生の個人情報を見てみると、大学時代の専門がまさに『解放』期の
爆破テロルに関するものだったということがわかった。
そんな先生の話、を周りのみんなは感心したように聞いている。なんだか取り残されたような気分になってハルの方を見ると、視線があった。
ハルが魔法少女の器に選ばれたということへの怒りとも悲しみともつかない感情が、こころの一番深い所で渦巻く。
泣きそうになっている俺を見たハルは酷く心配してしまったらしく、困ったように眉尻を下げた。
ハルからの手紙が携帯端末〈メガネ〉に飛んでくる。
[どうかしたの?]
そうとだけ書かれた短い手紙に、頭が真っ白になった。どうして俺はよりにもよってハルに心配をかけさせているのか。どうしてあんな一大事が起きた次の日に、俺はこんないつも通りの日常を送っているのか。情けなくなると同時に、わけがわからなくなる。俺は今、何をするべきなんだろうか。
懊悩する俺を視界にとらえた先生が、眉間にシワを寄せる。
「あ、篠原さっき速水に手紙飛ばしたでしょう!こっちからも見えるんだからね!送受信だけは!」
「す、すいま……」
「いやいやいや、みなまで言わなくていい。先生わかる。あったよ、そういうことが私にも。手紙、どんな時でも送りたいよね。むしろ授業中だからこそ送りたくなるもんだよね。先生分かる。とってもよくわかる」
「でもごめんね、これ民族史の授業なの。青春は放課後にだってできるんだから、ちょっとだけ我慢してね。というかさっきまでなんの話やってたんだっけ。柴田!」
「はい!大杉栄が殺されたところです」
ありがとう。と頷いた先生は、またまくし立てるような口調で授業を始める。教室のあちらこちらからチラチラと寄越される冷やかしの視線には、いつもなら照れくささを感じたけれど、今はただ鬱陶しさと悲しさを覚えてしまう。
やるせない気分に押しつぶされそうな俺は、どうあっても目を瞑るしかなかった。
廃墟。死体。怪物。鋼鉄の人形。霧江さん。ゲオルギイ。そして、アナスタシヤと名乗るハル。視界を真っ暗にすると、昨晩見た光景が浮かび上がってくる。
『不朽なる聖大致命女解繋者アナスタシヤ』。忌々しい魔法少女の名前は、だけれどハルの声で発音されたものだから、脳にこびり付いて離れてくれない。
彼女の衣から滴る水を浴びたアナフェマは、間違いなくその部分を生身の人間のそれに戻していた。きっと、あの水に触れたらアナフェマにかけられた呪いがある程度癒えるのだろう。そしてアナスタシヤは、癒えた部分を優先して杭で打ち抜く。鎚で叩きつぶす。
近接戦闘に依存する戦い方は、それだけ死亡する危険性が高い。もしもゲオルギイの言うとおりこの街でアナフェマテロルが連続したら、きっと憑代であるハルは死んでしまう。そうでなくても、あの戦い方には見ていられないものがある。
魔法少女の憑代であることを辞めさせたい。これは完全なエゴだ。機能の総体としての神〈サリャーリス〉も、その願望に正当な理由は無いし、叶えるためのまっとうな手段も無いと囁いている。
彼女の言っていることは絶対だ。彼女の言葉に強制力はなくても、巨大知によって計算されるその福音にちっぽけな知性しか持たない人間が背くことは、遠回りな自傷行為や通り魔の類でしかない。
だとしたら、俺はこの無力感をどうすればいいのか。
目を開き、窓越しに外を見る。外の眩しさに対して少し教室は暗い。教室の真ん中にいる俺はまだまだ梅雨に取り残されているようで、窓際で日に当たるリュウジは、もう夏にいるようだった。
俺たちの学校のある本鎌浦地区は、山がちな土地だ。黄昏るために窓の向こうを見つめても、青々とした山と大昔からある寺しか視界に入らないから恰好がつかない。それでも俺は、この土地を愛していた。もしここでアナフェマが暴れたら、風にさやめく山々も、大昔からある神社仏閣も、きっと全て消えてしまう。
校舎の中で小さく響く、各教室の先生たちの声や生徒たちがもぞもぞと動く音。校庭の方から聞こえる声や、道路を行く全自動車の駆動音。そうした、愛おしいさざめきがこの街から消えてしまうのだとしたら、接近して戦う魔法少女は絶対に必要なんだろう。
「震災後の復興でね、連合の支援を受け入れたでしょ?その時に……」
革命精神に溢れる民族史の先生は、後の『解放』の布石になった事柄は殊更強調して熱弁する。それは彼女だけの話ではなく、機能の総体としての神〈サリャーリス〉が弾き出す職業適性診断に依るものでもあるから、たぶんどの学校でも民族史は熱い授業になっている。
ハルは落書きを止めてボンヤリとしていた。柴田はうんうん頷きながら聞いている。窓際で日に当たるリュウジは、本を読んでいた。例の如く、時代に反して紙媒体の本。読んでいるのはツルゲーニェフの父と子だった。
◆
「どうしたの?一日中暗い顔しちゃって」
放課後の帰り支度の途中、車椅子のハルが俺を見上げて微笑む。快活な、どこまでも明るい笑顔だ。陽が少し傾いた教室は、いつかの午後のように、金色の光に満ちていた。
「いや、昨日白船の方で爆破テロルがあったろ?随分物騒になったなって」
「そう……」
ハルの表情が一瞬固まった。答えた俺の目を見て、またいつもの笑顔に戻る。
みんなは当たり障りのない話をしながら帰っていく。教室はだんだんと静かになっていく。
「本当に、物騒だよね」
数秒の間をおいてハルは口を開いた。そして彼女は何事もなかったかのように、話題を変える。
今日のお弁当は美味しかった。国語の授業が楽しい。反抗期の弟と仲良くできた。今度公開される映画を見たい。蝉が鳴き始めたのが嬉しい。いつもより落ち着いた口調。だけれど、発する言葉に満ちる輝きは決して褪せていない。ハルは俺が黙っている間も、だんだんと陽が沈んでいく間も、夢を見るような表情で、鈴を転がすような声で、嬉しかったことや楽しかったこと、やりたいと思っていることをポツポツと語る。
そうして彼女がやさしく話すうちに、いつの間にか教室には俺とハルしかいなくなっていた。
「随分日が長くなったよね」
「おう、そうだな」
「何か、悩み事でもあるの?」
虚を突かれた。温かい視線に目を逸らしたくなった。けれなんと答えてやればいいかわからない。
機能の総体の神〈サリャーリス〉の計算では、正直に話さない方が彼女のためになるという結果になっている。俺よりも多くの時間を寄り添い、俺よりも多くハルを知っているサリャーリスの言葉を無碍にして真実を伝えるのは、ただのエゴだ。
「いや、大丈夫。ありがとう」
いつも悩み事があれば早々に相談してきた。隠し事もあまりしてこなかった。そういう付き合いをしてきた俺があえてはぐらかすことに、ハルも何かを感じたのだろう。少し表情をこわばらせ、俯き、またすぐに顔を上げると、ぎこちなく口角を上げた。
「そう。私に言えるようになったら相談してね」
「うん。そうするよ」
「帰ろっか」
しばし沈黙が流れると、いつものようにハルが笑った。ほら行くよ、と促されるまま、カバンを肩にかけて教室を出る。ハルに気を遣わせた。そのことにどうしようもない無力感を覚えた。
廊下には柴田とリュウジがいた。二人は俺たちを待ち構えていたようで、ニヤニヤと笑ってこちらを見ている。
「放課後に二人きりとは。お熱いね」
「隅におけないねえお前らは」
無邪気に笑うこいつらも、自分の友人が魔法少女になったことをまだ知らない。機能の総体としての神〈サリャーリス〉は、絶対に教えるなと警告を発し続けている。
このことに関して何もするな、何も口を挟むなと、彼女は言っている。
「でしょう?」
片眉を上げて二人の冷やかしに答えるハルが、俺に視線を送った。私に相談できなくても、友達になら言えるでしょうと、そう語る目は少し寂しげだった。
「どうしたハヤト、今日は元気ないな」
柴田が近づいてきて、俺の肩をひっぱたく。そういえばこいつは、ハルに負けず劣らず昔から俺が落ち込んでるときは目ざとく気が付いたなと、思い返す。救いようのない阿呆だけど、意外と気が利いて、意外と優しい男なんだ。
「落ち込んでるっちゃあ、落ち込んでるけど、お前に心配されてるようじゃダメだな」
「あんだとてめー!せっかく俺が心配してやってるっていうのに!こちとら部活サボってんだぞ!」
そう喚いて柴田は俺に跳びかかり、髪をわしわしとメチャクチャにした。体格的に振り払うことはできるけど、今日のところはされるがままにしておいてやる。もみくちゃにされながらも確かに感じるのは、暑苦しさと汗臭さだ。やっぱりウザったいし振り払おう。
俺が柴田の日焼けした腕をひっつかんで身体から引きはがすと、奴はふぎゃっと、みっともない声を出して尻もちをついた。
「ええい鬱陶しい!ただでさえも夏が近づいてるってのにベタついてくれるなこの野郎!」
「ちくしょうこのナイーヴ脳筋ゴリラ!図体がデカいからって調子にのるなっつーの!」
そう言う柴田の口元は笑っていた。俺の方も少し体を動かしたせいか、思考の悪循環のゆなものから抜け出して、いかにしてハルを助けるかを考えるようになっていた。まんまと柴田の励ましに乗せられたわけだ。
「柴田、ありがとな」
そう言う俺に、柴田はただはにかんだように鼻の下を指でこするだけだった。
[昨日テロルに出くわしたシバケンだって、不安だろうにね。彼は本当にいい奴だよ」
俺がのんきに笑っていると、リュウジからの手紙が飛んできた。自分だけが悩んでいるように思っていた自分の傲慢さに、少し恥ずかしくなる。この街に住むほとんど全ての人間が今、忍び寄る連合離脱派の影に不安を感じているんだ。
[アストライア]
アストライアに、こっそりと連絡を送る。
[ようやくお呼びですかハヤト様]
返信は一秒と待たずに来た。
[この街を守りたい。協力してくれ]
アストライアは愉快な奴だけど、その胸の内はまだ得体が知れない。それでも、今俺が持っている唯一の武器はこの得体の知れない機械だ。だとしたら、利用し尽す他ない。
[私が全力を尽くした場合、サリャーリスの計算した貴方の人生計画は大いに狂います。貴方の発生させたズレによって、多くの人に用意された『最適な人生』がズレてしまいます。それでも貴方はこの街を能動的に守りますか?]
吹奏楽部が練習する音やバットが球を打ちかえす音が耳に入ってくる。こうした愛おしい音に溢れたこの街を守るためなら、機能の総体としての神〈サリャーリス〉が敷いた道から逸れるのも、悪くないのかもしれない。
少し目を瞑り、また開く。視界ではハルが微笑んでいて、柴田が騒ぎ、リュウジがスカしている。自分の中で何かが切り替わるのを、ハッキリと感じた。
[俺は構わない。協力してくれ]
[わかりました。わたしは全ての願いを叶えますよ。それが貴方の欲望なら]
何か途方もなく大きな決断をしたせいか、不思議な爽快感が胸の内に吹き込んでくる。
順風満帆な生活と決別することになるのかもしれない。だけれど、どうしてか不安はなかった。ただ前に進もうとする気概だけが、こころにある。
「なあ、この後赤虎屋行かないか?お礼にチャーシュー乗っけてやるよ」
だからこそ、今日はいつも通りの放課後を過ごそうと思った。この先俺に何が待っているのかはわからないけれど、後で自分の決断が正しかったのだと思えるように、こいつらとの記憶を脳に刻むんだ。
「お、いいねえ。ハルカ、リュウジ、お前らもどうだ?」
柴田に促された二人は、二つ返事で頷いた。
ハルがじっと見つめる。この期に及んで俺を気遣う、優しい彼女が傷つかないで済むのなら。自分たちだって不安なのに、俺を励ましてくれる気のいいこいつらが幸せになれるのなら。俺は自分の未来を切り崩す価値があるんじゃないかと、そう思えた。
それくらいは期待してもいいんじゃないかと、そう思った。




