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受肉する地獄

「えー、ノイマンやフェルミが亡命先に連合を選択した背景として――」


どえらい美人な少女との、たいして人生に影響を与えそうにもない邂逅のその翌日。ボーイミーツガールで少年は日常から非日常へ!ライクな素敵時空に引きずり込まれることもなく、俺は当たり前のように学校に行き、当たり前のように連合史の授業を話半分に聞き流していた。


「スターリンが傾倒していたロシア宇宙主義による――」


歴史の授業は今、大祖国戦争の単元を終えてサリャーリス開発期のそれへ移行している。たぶん来週から、第二次世界大戦の後半部分をやるんだろう。教室内に執着と無関心との奇妙なせめぎあいが生まれる嫌な空気がやってくるのかと思うと、少し憂鬱になる。正義と平和の話になった時の空気ほど読みにくいものはない。

この世界を支配する、我らが偉大な王、空気。その御心を慮り慎み深く行動しなければ、シベリアよりもなお薄ら寒いところに強制移住させられるという。ようするに、なかよしグループのお外だ。


「計画発足当初は二千二百四十万平方キロメートルにも及ぶ広大な国土に散らばる生産設備を電子的通信網で中央と接続し、日々送られてくる情報を元に電脳工学理論を用いて生産を調整することを目的としていた」


サリャーリスについての説明が粛々と続く。連合史の担当はいかにもな老教師で、自分の進歩的教育が青少年の心を育て、未来の更なる革新を約束するのだと頑なに信じている、典型的な第二次焼け跡世代のお人だ。今や人の理解の及ばない領域で計算を重ねる機能の総体としての神<サリャーリス>を、眉間に皺を寄せながら厳めしく『人類の偉業』として語れるあたりに、世代の差を感じる。生まれた時からサリャーリスが全てを手助けしてくれる神様みたいな存在だった俺たちには、ちょっとその感覚がよくわからない。


どこか釈然としない感情を覚えながら教室を見渡すと、組のみんなは机に突っ伏して眠るか、携帯端末メガネで遊ぶかしている。ちなみに柴田のアホは最前列で爆睡中。ハルは俺の斜め右前の席でニタニタしながら机に敷いた情報の海上のノートにお絵かきだ。指の動きでわかる。

俺の席は教室のど真ん中なものだから、組のみんなの動きがよくわかる。


窓際の席を引き当てることができなかったあたり、俺には正義の味方になる資格もドタバタ恋愛モノの主人公になる資格もないらしい。そういう点では、窓際の席で物憂げに読書する我が友氷室には、少なくとも主人公になる資格くらいならありそうだ。


氷室リュウジは、俺の友達ながら阿呆ではない奇跡の男だ。男の俺から見ても端正な顔立ちとわかるこいつは、悔しいけどとんでもなく女子からモテる。

ジャガイモ畑に百合の花が咲いていれば誰だって目を奪われるように、俺と柴田みたいな阿呆二人に囲まれている美少年を見れば、どんな女子もくらりとくるのかもしれない。髪型は長くも短くもなく、格好だけみれば全部ごく普通のそれなのに、顔立ちだけで圧倒的美少年力を発揮しているあたり、本物としか言いようがない。いつか殺す。


「『知能を再帰的に自己強化する』の意味は――速水君」


「おわぁっ!」


いきなり名前を呼ばれたものだから、思わず驚いて声を上げてしまった。


「授業も聞かずにあたりを見渡しているようだが、いったいどうしたのかね」


「いやあ、あはは……」


教室のそこかしこから湧くクスクスとした笑い声と、先生のジットリとした睨みを全身に浴びて思わず苦笑いが浮かぶ。ハルが意地の悪い笑顔でこっちを見てきた。「災難だったな」と、その眼は語る。かわいい。


「授業中後ろを振り向かないように、篠崎君」


「わあっ!」


俺の幼馴染は驚く声も可愛かった。ざまあ見ろ。

そうこうしているうちに鐘が鳴り、授業は終わった。教室内を包んでいた気怠い緊張は解け、皆が中心のない緩やかな会話の輪に参加していく。「おなかが減った」と、まるで沈黙を恐れるように、そう言わないことが罪であるかのように、同じ言葉を、同じ調子で、各人が意味を失くした定型文のやり取りに従事する。そうすることによって、『みんな』への従順が証明されるかのように。


「どうしたんだい、口をへの字にして」


「いいや、なんでもねえ」


話しかけてきたのはリュウジ。中性的な顔立ちのせいか、声まで中性的だ。日頃女に興味を示さないこともあいまって、「ひょっとしたら生えていないのでは」と疑った俺と柴田で疑ったこともあったのだけど、水泳の授業の日に例のブツを確認したところ、こいつの主砲は俺たちのものより圧倒的にデカかったという、トドメめいたものが俺たちに突き刺さるだけだった。彼我の戦力は絶大である。まあ、そんなことはどうでもいい。


「そっか。ちょっと不機嫌そうに見えたけど」


「不機嫌、というわけじゃあない」


「そう?ハヤトはナイーヴだから、なんかジメジメしたこと考えてるのかと思ったよ」


「あー、図星だちくしょう」


ほらね、とばかりに微笑む氷室は、俺の真新しい右腕を一瞥した。


「これ、素材はなんなの?」


真っ白い義腕の表面をコツコツと叩く氷室。きちんと叩かれる感触が伝わってくる。


「まったくわからん」


「わからない?」


「ああ。サリャーリスが、金のことは気にしなくていいから最新式のを着けてみろって」


事故やなにかの障害で腕を失ってしまった人間には、無償で義腕が配られる。もちろん、連合が昔から大好きな、節電義腕だ。最新式のものを申請する時は追加でお金を払うのが基本なのだけど、どうしてか今回は機能の総体としての神<サリャーリス >側からこいつを着けろと薦めてきた。ハルとの心地よい共依存関係が終わるのは少し寂しいけれど、俺の全てを知り尽くしている機能の総体としての神<サリャーリス>のスオススメを無碍にするのも馬鹿らしい。きっと今までよりもいいものが手に入るのだろうと素直に彼女の言うことに従うことにした。


「重いの?その義手は」


弁当箱を広げながら、リュウジが尋ねる。


「いや、とくにそんなことはない」


「へえ。じゃあもう隼人は文句なしに毎日着けられるんだね」


「そういうことになるな」


「かっこいいね、それ」


「だろだろ?」


左手と共闘して弁当の包みを解く俺の白い節電義腕は、関節部分以外はしなった板状の素材がおおまかな輪郭を構成しているだけで、なんだかかっこいい。徒競走選手の使う義足に似ていてちょっぴり誇らしいのだけど、公給品なのに人間の腕に似せる気がさらさらないのには、まだまだ子供ながらも時間の流れを感じる。俺が右腕を失った時の義肢界隈は、まだ『本物』を目指して凝りに凝った皮膚を貼り付けていたはずだ。思い浮かべた動きを実行する技術と、その軽量化が実現された頃には、隻腕であることがコンプレックスにならずに済む程度に世界の方が優しくなっていたというわけだ。


「お、ちゃんとほどけた」


「おおすごいね」


目を細めて笑うリュウジの美少年力が高すぎて女子の視線が集中する。


「それってもしかしたら純正品なんじゃない?」


「だと面白いけどな」


純正品とは、生産工程に人間が一切係っていないもののことを指す。つまり、機能の総体としての神<サリャーリス>御自ら人のために設計して、どこにあるかもわからない工場でひねり出したものだ。

俺の義腕は、彼女が薦めるままに注文したものだから、もしかしたらもしかしないでもない。


「変形して武器になったりとか」


「ハヤトその漫画好きだよね、教えた側としては嬉しいけど。でも、剣になったところで何にも切れないよたぶん」


今時の包丁は、人間の指を切り落としそうになると勝手に刃がなくなる。紐も、人間の首に触れると勝手にほどける。


「あー、もう。夢がないなーお前は」


そうかもね、と微笑んでリュウジが開いた弁当箱には、白米と梅干しか入っていなかった。リュウジは昼食に白米以外食べないのだ。


「しっかし、お前の弁当は相変わらず貧相というか偏っているというか狂っているというか。それで足りるのか?」


「足りる足りないじゃなくて、ボクはご飯が大好きなのさ」


何故か得意げに語るリュウジ。氷室リュウジという男は、俺の友達ながら阿呆じゃない。でも、普通の良識ある人かというと、そうは言い切れない珍妙さがあるし、狂人かと聞かれると頷くことのできない落ち着きがある。

なんとも難しい男なのだ。

 

「まったく、お前どうしてそう変わり者になりたがり屋さんなんだ。というか、両方とも炭水化物じゃねえか。それとも新手の菜食主義かなにかか?」


氷室は僅かに目を開いて俺を見る。


「いやいや。ボクは菜食主義者じゃないけれど、あまり菜食主義をバカにするものじゃないよ」


「いや、そういう意図はない」


「でも、心のどこかでバカにしている感じだった」


「まあ、図星っちゃ図星だ」


教室の誰かによって社会評価点が下げられたことを機能の総体<サリャーリス>としての神が伝えてくる。まあ、しかたない。放課後教室掃除でもしておこう。


「生き物を殺してはいけない、という感覚は、確かに『倫理的に正しいこと』じゃないか。ようは程度問題に落ち着く話だけど、全ての人が倫理に程度を設けられるほど強くはないし、何か重大なことを曖昧にしたまま生きていけるほど、自由への免疫を持っているわけではないんだ。そういう人間は極端な教義に従って、全てをゆだねるしかないんだ。倫理的な壁に出くわすたびに肯定(Да)を続ければ、菜食主義者も生まれるし、理念のために人を殺す人も出てくるだろう」


「おい、それはちょっと公共性が」


氷室は微笑みながら米を食べる。氷室は俺よりもずっと本をよく読むし、頭だって早く回る。俺は聞いていて感心したけれど、当然ながら女子連中からの視線はなくなっている。公共の場では政治と宗教と野球の話はするなという。おりしも離脱主義者が沖縄や東京でアナフェマテロルをやらかして大勢殺して回っている頃合いにする話じゃあない。


「あはは……。でも、隼人は『やさしさ』みたいなものを逆恨みしすぎだよ。お父さんのこともあるのかもしれないけれど」


身体の奥から冷たいものが滲みだす。


「おっと、踏み込んだことを言い過ぎたかな?」


「……いや、まったくの図星だ」


箸を右手で持ってみたけど、上手くはいかなかった。諦めて左手で持ちかえようとしたその時、


〈ムカッときたなら、ぶん殴ればいいじゃないですか〉


聞き覚えのない快活な女の子の声が、近くからした。


「ん……?」

「ん……?」


同じようにして首をかしげる俺と氷室だけでなく、組のみんなも頭に疑問符を浮かべて辺りを見渡していた。


<おや?お気づきでない?音量は適切に設定されているはずですが……。ああ、人間の皆様は相手が身分を明示して信用性を確保しない限り対話を拒絶されるのでしたっけ〉


〈おはようございます、速水ハヤト様!わたしは対知性体用インツェルフェイス、アストライアでございます!〉


みんなの視線が俺に集中する。やたらと胡散臭い口調で垂れ流された音声は、確かに俺の右腕から発せられていた。


「はあっ!?喋った!?」


〈喋るなり文字を表示するなりしないと、貴方方人間は意味を理解できないじゃあありませんか〉


「うわっうぜえ!こいつ」


思わず乱暴な言葉遣いになってしまったが、みんな同じ考えなのか社会評価点は下がっていなかった。


〈うざい、ですか。それではたった今溜まった鬱憤、わたしが解消いたしましょうか?〉


言っている意味がよくわからないから、無視することにした。右腕を掲げてみるも、どこから声がでているのかよくわからない。それでも確実にこの白い義腕から声が出ていることだけはわかる。

静かな駆動音とともにハルが近寄ってきた。


「なにこれ、隼人の腕が喋ってるの?」


すさまじく訝しげな表情だ。声もどこか尖っている。


「どうやら、そうみたい」


〈はい、そうですよ。篠崎ハルカ様〉


「うわっ、いきなり名前呼ばないでよ」


〈おやおや、あたりが強いですねえ。まあ、心中お察しいたしますよ篠崎ハルカ様〉


「しかし、お前……アストライアだっけ?会話能力高いなあ」


こちらの問いかけに応じて当意即妙な返事をよこす人工知能なら、もうずっと前からありふれたおもちゃになっているけれども、こんなに自発的に喋る奴は見たことが無い。


〈はあ。まあ、技術は常に進歩するものですよ速水ハヤト様〉


知能の低い人間にはそんなことも考えられないのかと言わんばかりに、合成の溜息音まで付け加える。なんだか、凄く、うざい。


〈速水ハヤト様。また何か不満をお溜めになりましたね。どうなさいます?壁でも一発ぶん殴りますか?〉


「いや、ダメでしょ」


〈じゃあおっさん殴ります?〉


「普通に犯罪じゃねえか!」


〈もしや自分のことを痛めつけて悦ぶお人!?〉


「そんな業の深い変態じゃねえよ!いい加減にしろ!」


〈ですが貴方が視聴した動画の履歴は――〉


「黙れ」


〈ああ、女性に踏まれることに興奮するのと自分で自分を殴ることに興奮するのとでは趣向が違うのですね〉


「うわあ」


「そんな目で見ないでくれ、ハル!」


ハルが生ゴミを見るような目でこちらを見てくる。


〈おやおや、上の口ではそうは言っても腹側被蓋野から大脳皮質に投射するドーパミン神経系は正直のようですね?〉


まあ、ハルに冷たい視線を浴びせられるのは最高に気持ちがいいな」


「は、はあっ!?いきなり何口走ってんの!?」


ハルが顔を赤くして怒る。ハルは可愛いなあ。


「っていうかその、アストライラ?義腕がなんで喋るの?」


〈アストライアです。憶えにくかったらアーちゃんとでも呼んでください。質問の答えですがアーちゃんは慈悲深い超天才カンピユーテルなので、所有者たる速水ハヤト様の助けになればと会話機能が搭載されております〉


快活な声でつらつらと答えるアストライア。やっぱりどこか胡散臭い。


「質問の答えになってない気が……」


ハルも同じことを思ったのか、釈然としない表情だった。

たぶん、ハルが聞きたかったのはお前は純正品なのか、ということであって機能そのものに対する問いかけではなかっただろうけれど。


〈まあ細かいことはどうだっていいじゃないですか〉


「うむ。細かいことはどうでもいい」


「なんでそこに隼人が乗っかるのよ」


「いや、なんだか面白いだろ。喋る義腕なんて」


〈アーちゃん大勝利!哀れ、幼馴染属性を発揮することなく篠崎ハルカ様は速水ハヤト様に愛想をつかされるのでした。時間の流れとはかくも残酷なものです。さあ速水ハヤト様、このほの暗い世界を二人で手を携えて歩んでいきましょう!〉


「な、なんなのさっきからあんたは!」


ギリギリと歯を苦しばって俺の右手を掴みかかるハル。きっちり温度も感触も伝わるから、ドキドキする。


「いやあ、それにしても、二人が気まずくなってなくてよかったよ」


ずっと固まっていた氷室がようやく動き出す。教室の注目はいつの間にか薄れていたようで、みんなは各々のグループの会話に戻っていた。まあ、義腕が喋ることは珍しくても、モノが喋ることそのものは有り触れた光景だから、当然だろう。


「なんだよいきなり。俺とハルが気まずくなるってどういうことさ」


君が義腕をつけたから共依存の関係が終わっちゃっただろう、と言われたらどうしたものかと、内心の焦りを隠して尋ねる。


「いやほら、昨日とっても変わった女の子に会ったそうじゃないか」


少し安心する。肩から力を抜いた横で、ハルがあからさまに嫌そうな顔をしている。


「ああ、そうだ。メガネを外してた」


「凄い美人で、鼻の下伸ばしてたそうじゃないか」


「伸ばしてねえよ」


〈みなさん今この人嘘つきましたよ〉


「うるせえ!……よく知ってるな、リュウジ」


「シバケンと篠崎さんが、会うなり話してくれたよ」


「おい、ハル」


「あによ」


わざとらしく車椅子の手すりに頬杖をついてそっぽを向いたハルが、ぶっきらぼうに答える。

制服の襟から覗くハルのうなじは今日も白い。


「ハヤト、本当は大好きでしょ。ああいう子」


「はあ?そんなことねえよ。確かに美人だったけど、俺はもっとこう、元気で可愛い普通の子が好きだ」


「嘘つき、踏まれて喜ぶ変態のくせに」


「グフッ」


〈おお、セロトニンが大量に分泌されています!〉



説明しよう!速水ハヤト少年は罵られると興奮し、常人の三倍の気色悪さを放つという。


「罵られて喜ばないでよ変態!」


「オゲエエエエエエ」


よくわからない笑い声が喉から垂れ流される。

俺自身ついこないだまで知らなかったことなのだけど、人間、心の底から萌え狂うと本当に声が出るのだ。


「だからそこで喜ばないでったら!」



「二人とも仲がいいなあ」


「おうよ、俺とハルは仲がいい」


「まあ、不本意だけどらぶらぶではある」


うんざりした表情で天井を見上げたハルがうげ、と呟く。英単語のせいで社会評価点を誰かに下げられたんだろう。


〈速水ハヤト様!そこで一押しです!こう、グワーっと!やっちまってください!〉


「というわけでハル。結婚してくれ」


「黙れクズ犬」


「そう、犬。俺は犬だ。犬なんだよ。豚でもいっこうにかまわないし豚と蔑まれるのも最高なんだけど、俺はどちらかというと女の子に踏まれるだけじゃなくて、ワンワン言いながら積極的に尽くしてその忠義へのご褒美として踏まれたいんだよ。ただ餌を貪るだけじゃだめなんだ。人間性の全てを女の子に捧げた上で、完膚なきまでにクズ犬だの駄犬だのと罵ってもらいたいんだ。わかってんじゃねえかハル」


「真顔で気持ち悪いこと言わないで」


「うふっ」


「隼人はスポルト少年なのに、篠崎さんがからむと途端に気持ちが悪くなるなあ」


「『健全なる精神は健全なる身体に宿る』は誤訳だと同志三島が言っていた。たとえ俺が鋼の肉体を持っていようとクズ犬はクズ犬なのだ」


「じゃあなによ。普通の子って。ハヤトのこと踏んでくれる飼い主さんのこと?」


少し紅潮したハルが口を尖らせる。


「なんか、美味しそうにごはんいっぱい食べる子とか」


「うぐぅぅぅ……」


顔を見せないまま、ハルは車椅子を動かして俺たちから離れていった。


「どうしたんだあいつ」


〈速水ハヤト様。貴方は一昨日の四時十四分に篠崎ハルカ様に向けて『お前はご飯いっぱい食べるなあ』と発言していらっしゃいます〉


「ああ、なるほど」


そういえばそんなことしょっちゅう言っている気がする。うん。ハルはかわいい。


「やっぱり、健康的な女の子は最高だぜ」


「ハヤトは素直じゃないなあ」


呆れと嘲りをほんのひとさじ入れた微妙な表情を取る氷室。


「何が言いたいんだ氷室」


リュウジは口にいれた米を飲み込むと、長いまつげをたたえた目蓋を半ばまで降ろして口元を歪めた。


「件の女の子のことだよ。ハヤトは自分の趣向を認めるべきだってことさ」


「趣向って、いったいなんの話だ」


「僕からは言わぬが華じゃないの?ハヤトの本当の好み」


「……うるせえ。今日のお前はやけにつっかかるな」


やれやれと肩をすくめ、さも俺があたりまえのことを聞いたかのように、おおげさな溜息をついた。


「男の子の日なのさ」


「くだらねえ」


〈というか、下ネタとしては最低の部類だと思いますよ〉


「あはは。でも隼人、昨日会ったっていうその女の子、可愛かったんだろう?無かったことにするのはもったいないと思うよ?」


箸の先をこちらにピシりと向ける。


「ま、掴んだチャンスを逃さないことだね」


「掴んだチャンス、ねえ」


頭をポリポリとかいて、相変わらず机に突っ伏していびきをたてている柴田の坊主頭を見やる。正直言うと、こういうダメな奴とダメなことをする日々も、悪くないと思う。


「第一ほら、柴田の方がそういうの積極的だし、ここは譲ろうと思ってるんだよ」


「ああ」


リュウジは何故か酷薄な笑みを浮かべる。腹黒い笑顔も絵になるなこいつ。


「篠崎さんが言ってたよ。『あの女ぶつかるふりしてハヤトのポケットに手紙入れてた』って」


「え、嘘。全然気がつかなかった」


ハルの洞察力にはたまに驚かされる。アイツは抜けているよう見えて、どこか一枚上手を行っているところがあるんだ。


「いや、どこにも見当たらんぞ」


〈学ランの右ポケットを探してみては〉


唐突にアストライアが助言した。

まさかと思いズボンの右ポケットを探ると本当に四つ折りの小さな紙が入っていた。


「お、あったあった」


「どうしてその日の夜に気づかないんだ。無精だなあ」


〈高性能な義腕のある生活に慣れていない速水ハヤト様に、右ポケットの確認は難しいかと〉


「ああ。ごめん」


「まあいいってことよ」


「で、手紙にはなんて?」


急かされるまま読んで、眩暈が来た。思わず手紙を右手で握り潰す。


「なんだこれ……」



その紙には、『ワタシはいつでも砂瀬にいる』とだけ書かれていた。





俺たちの住む鎌浦市は、東西北の三方を山に囲まれ残りの一方を海に臨む、風光明媚な土地だ。鎌浦は市の中央を縦に流れる若宮川と、市の中央を東西にぶった切る鎌浦街道によって。四つの地区に分かれている。

南東部は神社仏閣や学校の建ち並ぶ本鎌浦。北東部は滝乃入。山と畑と田んぼと湖しかない偏狭で、柴田はここに住んでいる。俺とハルはギリギリで本鎌浦民だ。

北西部の白船は産業と交通の要衝。電車で鎌浦から出るにはいったんここを経由する必要がある。大きな買い物をしたり、おしゃれにデートと洒落込みたいなら白船が定番といったところか。

 

本題は、南西部だ。俺とハルは八年前までそこに住んでいた。そこは砂瀬と呼ばれている、いや、正確には呼ばれていた。鎌浦で最も人の住む地区であり、水泳はもちろんヨットやサーフィンを楽しむにうってつけの保養地でもあった。


あった。この過去形が残酷な事実を俺たちに示唆する。脳裏に焼きついた地獄を蘇らせる。


俺はハルに一声かけることもせずに、昼休みの学校を抜け出して砂瀬へと向かった。

自分でもどうしてこんなに事を急いだのかわからない。妹の死んだ場所を踏み荒らされたのが許せない、だとか、そんなやさしい理由ではない。きっともっと野蛮で、不謹慎で、公共性も糞もない理由で俺は駆け出したんだと思う。


実際、白船から砂瀬地区の入口まで延びる綾南降架鉄道から降りた時に沸いた感情は、怒りや悲しみというよりも、どちらかと言えば郷愁に近いものだった。

幾重にも連なる草原の丘。途中で朽ちている降架鉄道の線路。ボンネットが開いたまま赤錆びた車。薙ぎ倒された電信柱は苔むしていて、そこになぜだか群がる蝶。紛れもない地獄の爪痕を前にしても、俺は心のどこかが満たされていくのを感じてしまう。故郷だから、当たり前かもしれないけれど。


昼下がりの砂瀬はどこまでも静かだった。耳を澄ませば、波のさざめきも聞こえる。のどかに思える情景も、草原の丘を一つ越え、市街部を一望すると一転した。

市街部は、桜の木でもないのに、その下には沢山の人が眠っている。砂瀬地区には、あの日からの廃墟群が今なお打ち捨てられたまま残っている。 それが墓標の代わりなのか、俺たちの怠慢なのかはわからない。ただ、現実に廃墟はそこに横たわり、あの頃の生活を閉じ込めたまま、朽ち果てるのを待っていた。


〈随分しんみりしているじゃありませんか、速水ハヤト様〉


感傷的な気分に浸っていたら、アストアイアが横やりを入れてきた。詩人ぶりを見透かされていたような心地がして気恥ずかしくなる。


「……速水ハヤトは長いだろ。ハヤトでいいよ」


〈それではハヤト様とお呼びしましょう〉


どこか胡散臭いアストライアの明るい声に、ゲンナリとして溜息をつく。

再び意識を市街廃墟に戻す。


昭和の昔に形成され、世代の入れ替わりと同時に姿を変え続けたそれは、壁面緑化住宅全盛の頃にその時を止めた。おかげで家屋が笑えてくるくらい悲壮な様子で残っている。


青暗い空を背にした黒い木々と、緑に埋もれる灰色の廃墟。そして廃墟と同じ色をした鳥の群れ。重すぎる憂鬱は、市街廃墟を八年前の地獄の印象で塗りたくっていた。それなのに、何の皮肉か、雨にあせたコンクリート階段の上でリスが一匹木の実をかじっている。


〈ハヤト様は廃墟がお好きですか〉


「なんだよいきなり」


〈ただの雑談ですよ〉


「雑談?機械が雑談をふっかけてくるのか?」


聞き返すと、右腕からわざとらしい溜息音が漏れた。


〈わたしのようなレベルの激ヤバ超高スペックアイテムというものは、所有者がどう使うかというよりも、所有者がどこまでわたしを信じてわたしに独断を許すかで力の発揮具合が変わるんですよ〉


〈だからわたしはハヤト様と会話をして、信じてもらう必要があるのです〉


英語をベラベラと垂れ流していることに関しては、最早何も言うまい。


「お前がどんな機械かもいまいちわかってないのに、何を信じろと」


〈どんな機械かって、対知性体用インツェルフェイスと言ったじゃありませんか〉


「それがそもそもなんなのかわからん」


〈これだから計算力も検索力も低い下等知性体は〉


またわざとらしい溜息音が右腕から漏れ出した。ここまで人の神経を逆なでする機械もなかなか珍しい。


〈要は梯子ですよ。ヒトとサリャーリスを繋ぐ梯子です。サリャーリスは高度に発達したのに、あなた方ヒトにはそれを使いこなすだけの知性が無い。サリャーリスもサリャーリスで、ヒトの行動原理をいまいち理解できていない。わたしの役目は、ヒトがサリャーリスを使う手助けをし、サリャーリスがヒトを理解するのを手助けすることです〉


ペラペラとまくし立てるように話すアストライアは、感情があるかのように言葉に抑揚をつける。


「でもお前は俺の義腕だろ?」


「もちろん。義腕としてのかたちを持っている限り、義腕としての機能も十分に果たせますしそれ以上の事もできます」


[アストラエアに対し、脳へのアクセスを許可しますか?]


携帯端末の上に物騒な通知が表示された。


「これはなんだ」


〈ハヤト様の脳内に設けられた人工神経網をわたしが拡張することで、より正確かつ素早い義腕の操作が可能になります〉


「脳へのアク……侵入って。そんなデカいくくりで許可できるわけないだろ」


脳内人工神経網の設置。アストライアの装着と一揃いで機能の総体としての神<サリャーリス>が最高位の推奨をしてきたものだ。最高位の推奨がきたのは、八年前にここで特殊人為災害が起きたとき以来だったから素直にしたがったけれど、脳の中に人工物を入れることへの気味の悪さはある。


〈トホホ。信用無くてアーちゃん悲しいです〉


そんな風に漏らしたきり、アストライアから言葉が飛んでくることは無かった。鬱陶しさから解放されて少し清々する。

廃墟と触れ合う時は、なんというか思索的でないとダメだと思うんだ。


ようやく得た静寂をお供に、廃虚を探索する。

アスファルトがタンポポに公然と食い破られ、郵便受けからは我が物顔で鳥が飛び立つ眺めも相当感慨深いものがあったけれど、排水溝から野ウサギがひょっこり頭を覗かせた時には、流石に眩暈を覚えた。


人間の生み出す諸々のものが遺伝子の延長された表現型に在るなら、都市はそれのさらなる拡張。今俺が臨む連続した墓標の群れ群れがそうであるなら、そこにこそ草木が繁茂し、小動物たちが理想的な生態系を展開している現実は、少し冗談として不謹慎な気もする。


なんて、きっと誰かの受け売りでしかない一人よがりな評論を頭でこねながら、廃虚の街を進む。何者にもなれない凡人には、引用と思索が必要なんだ。


時間の流れは恐ろしい。所々にできたアスファルトのはがれた窪みなんかはまだ可愛いもので、やたら背の高い草に食い破られて草原と化した場所は歩きようもない。コンクリー部分が崩れ落ちて骨格だけが残った橋も同じく歩けないから、どこを目指すわけでもないのに何度何度も迂回を繰り返すはめになる。人間はその歴史の中で常に自然と戦ってきたわけだけど、少しでもその歩みを止めてしまえばたちまちのうちにこうして自然に立ち返る。


一応言うと、俺はなにも一昔前ににさんざんっぱらされてきた近代化批判の百鬼夜行に加わりたいわけではない。俺は携帯端末のある生活が大好きだし、機能の総体としての神を神とも母とも思っている。


「はて……」


勢い余って砂瀬地区の廃墟群に入り込んだわけだけど、ここらで手詰まりになる。なにせ鎌浦市の四分の一近い面積を持っているのだから、そこからノーヒントで女の子を一人探し出すのは不可能に近い。俺は阿呆か。


〈ハヤト様は阿呆ですね。救いようがない阿呆です〉


「うるせえ。捨てんぞ」


〈ハヤト様はまごうことなき天才でございます〉


〈まあつべこべ言わずにサリャーリスに接続してみればいいじゃないですか。少なくとも人間の有無はわかるはずですよ。どうしても会いたいなら計算資源をつぎ込んで行動予測をすればいいだけですし〉


「まあ、それもそうか」


言われた通り一応携帯端末を情報の海に繋いでみる。


「うわっ……」


表示されたのは各門に貼り付けられた、「この家にはこんな人々が暮らしていました」ということを示す笑顔の遺影の群れ。どこぞの心ある団体が慰霊のつもりでやったのだろうけれど、生前の笑顔の写真を使われると真に迫りすぎる。俺は二秒と耐えられなくて、携帯端末メガネの接続を解除した。


少しだけ気分が悪くなる。


この街は、アナフェマと魔法少女との戦いで廃墟になった。

アナフェマは、社会に爪弾きにされた人間だ。逆を言えば、人間を徹底的に社会から追い立てることで、人為的にアナフェマを生み出すことだってできる。それを利用して、最近はテロル目的でアナフェマが生み出されることも多いそうだ。なぜなら魔法少女がスッ飛んで大暴れしてくれるおかげで、大量の爆弾を用意するよりもずっと安い値段で大規模な打撃を与えられるからだ。

そうした人為的なアナフェマ出現による大量破壊のことを、アナフェマテロルと呼ぶ。そして、砂瀬はそのアナフェマテロルによって廃墟になった。


八年前、連合離脱派のテロリストによって拉致された民間人が、東京ヘの移送中にアナフィマ化した。その場で魔法少女とアナフィマの戦闘が始まって、鎌浦市の四分の一に近い面積が地図から消えた。


少し潮の香りのする風が廃墟の街を通り過ぎる。

記憶の中の街並みを頼りにあてもなくふらついていると、陽は傾き、波音は一際大きくなっていた。廃虚に阻まれて直接海を見ることはかなわないけれど、アスファルトの隙間に砂粒が目立ってきた。庭先の柵も錆び具合が高まってきている。


俺は海が好きだった。夏場は父さんとよく泳ぎに出かけた。幼いころから出不精の芽を見せていた妹は、姉ちゃんと母さんとでしょっちゅう家でだらだらしていたと記憶している。それでも休日は俺とハルとで家から引きずり出して一緒に遊んでいたっけか。ハルは昔から車椅子だったから、そんなにムチャクチャなものではないはずなのだけれども、それでも記憶の中では三人でこの街や裏山を冒険した覚えがある。


ハルには昔からハラハラさせられたものだ。少なくない回数ハルは冒険中迷子になって、そのたびに俺は必死になって探して回った。とりわけ、この街から人が消える数日前に裏山でハルとはぐれた時は、山という場もあって焦りの度合いも大きかった。事の顛末としては無事見つけ出せた俺がおぶって帰ったのだけれど、山の中でハルを探した時に感じた泣き出したくなるような不安と孤独は大分堪えた。


あの時と同じ感覚だ。世界そのものが悪意に満ちていて、いたずらに時間の流れを狂わされたような絶望的なまでの焦燥感。陽が傾く中で廃墟と化したこの街を歩いて抱く感情は、裏山でハルを探していた時に抱いたものと同じだった。


少し感傷的すぎる自分に、思わず苦笑する。溜息をついて、廃墟の壁に寄り掛かった。制服越しにかすかな冷気を感じる。

無意識に右手は壁のヒビから生えるタンポポを引き抜いて握り潰していた。


そこでふと海風が頬を撫でた。何故だか胸元にむかつきを感じ、背筋がゾワリと震えた。傾いた陽の光がたちこめてきた分厚い雲を照らし、等しく全てのものが夕暮れに染まる。


不吉な予感が脳の奥の方で蠢き始めたとき、もう一度風が吹いた。

具体的な臭気を持たない、漠然と、だけれど絶大な不快感をもたらす臭い。


嫌悪感と好奇心とが入り混じるままに、風のする方へ、臭いの方へと近づいてゆく。

臭いは町工場の跡から漂っていた。モルタル素材の壁は所々崩れ、屋根の役割を果たしていたトタンは長年の雨風に吹き飛ばされたのか、通りに転がっている。砂瀬鉄鋼と書かれていたと思しき看板は赤錆びだらけになって扉の前に落ちていた。日本が共和国に成る前からあったものなのだろう、廃墟化からの十年という月日を考慮してもなおひどく荒廃している。


扉は赤い。大きくひび割れたモルタルの壁も、そして右腕の義手も夕暮れに染まって赤い。長く伸びる影のせいなのか、漂う臭いのせいなのか、孤独な不安が湧いて出て、世界が俺を冷たくはねのけたかのような、この誰もいない街に捨て去ったかのような錯覚に陥る。


どことない浮遊感を伴って、赤く錆びた扉の奥にスルスルと吸い込まれるように入る。


だから、幾片にも切断された死体を見ても、その瞬間は恐怖を感じなかった。


「なんだこれ」


状況把握までに数秒。目の間に転がっている赤黒い物体が人間の構成物だと認識したと同時に、その場でゲロをぶちまけた。いったい俺は身体から何を弾き出そうというのか、二度、三度とむせかえり、その度に吐いた。鼻水と涙と胃液で濡れた顔を学ランの袖で拭う。死体と言えば父さんが書斎でぶらさがっているのを見たとき以来だ。父さんはよく頭を撫でてくれたな。などと、思考があらぬ方へと発散していき、一向に感情がまとまらない。頭が自動的に何を感じ、どう反応し、いかにこの状況を処理するべきなのか。そういったことの検討を始めたことに、我ながら機械的な男だと内心ほざいた所で、ようやく自分が恐慌のドツボにハマっていることに気が付いた。何やら喚き散らしてよろめきながら工場から飛び出すと、ようやく恐怖が全身を駆け巡った。脚がガクガクと震えてそのまま崩れ落ち、脈拍が尋常じゃない速さまで高まり、捕まるものがあるわけでもないのに赤い壁にすがりつく。


刺すような心の震えが、現実の痛みとして胸と背を襲う。

連絡をいれよう――警察に通報をするんだ。

携帯端末メガネを起動し情報の海に接続する。その瞬間、この地に暮らし、死んだ人間たちの笑顔の写真が視界に広がる。


込みあがる吐き気をこらえて、視線を工場に向けたとき、死体の携帯端末に付与されていた情報が目に映った。


『栗田ヒロアキ 年齢:28 職業:プラグラマ 配偶者有り 趣味は休日の市民農園での農作業……』


「あ……」


有り触れた個人情報が、凡庸な横顔を持った人間の、あまりに凄惨な最期の残酷さを余計に強調する。


死体の断面は柴田の家で見る肉よりも、ずっと黒ずんでいた。でも、綺麗に切り落とされたのか、てらてらと怪しく光ることもなく、死体はただそこにある物体として強烈な存在感を放っていた。


尊厳はおろか猟奇性すらも間引かれた死体は、薄暗い廃工場でいったい何が見えるというのか、両の目蓋を大きく開いたままに、頭部は乾いた血の沼に転がっていた。まるで、悪意なく、ただ手慰みのために分解された人形のようだ。そんなところに、名前、年齢、職業、妻の有無、趣味、息子の成長記録、洒落た喫茶店で注文したケーキの画像、その他諸々の情報が表示され続けていた。時が経つほどに黒ずんでゆく扉の向こうにあっても、煌々とメガネの内で故人の情報が灯る。


警察に通報をするために携帯端末メガネを起動したはずなのに、去来した虚しさのせいか俺は電話機能を立ち上げることができなかった。


この手で『死者』を完成させることができなかった。

たしか、父さんがぶら下がっているのを見つけたときも、こんな風に強烈な虚無感に囚われて何もできなかった覚えがある。


書斎の梁からぶら下がる父さん。灰色の昼下がりに、泥水のようなものを滴らせて宙に浮かぶ父さんを見て、俺は泣き叫んで母さんを呼ぶでもなく、冷静に救急車を呼ぶわけでもなく、ただそっと戸を閉めてなるべく小さな声で泣いていた。死体があるということを認める一方で、他人にそのことを教えさえしなければ、現実として確定しないとでも信じていたのか。いや、今でも心のどこかで信じている。だから、警察に通報することができない。「ここに人が死んでいる」と誰かに言って、死人を死人として取り扱うことができない。


俺が何もできずに座って拡張現実サリャーリスを眺めているうちに、空は赤から紫、そして黒へと急速にその色彩を変化させていった。春とはいえ、辺りが薄暗くなる頃合いになれば肌寒くなる。遠くで回る洋上風力発電機の小さな明かりと、山向こうの白船の光、そして西の山際に微かに残った陽光の悪あがきだけでは廃墟を歩くには心もとない。携帯端末メガネを夜間歩行用に切り替え、ここに来た当初の目的を諦めて帰ることにした。


扉の向こうを見つめる。彼は何故この土地に来たのだろうか。彼は何故殺されたのだろうか。この場を離れる前に、警察に通報しなくちゃいけない。そしてその前に、この人の在り方を見て、真摯に弔おう。


両頬をぺしぺしと叩き、気合いを注入。父さんのことを思い返して陰気になっていたけど、そんなんじゃいけない。俺の過去の傷なんか、知ったことか。

日頃みんなが路上に置かれた花束を見かけた時にそうするように、俺も故人の活動履歴を表示して死を咀嚼することにする。


「あれ……」


違和感は、わりと早くに現れた。


七月月十二日、つまりは昨日に栗田さんは白船で綾南降下鉄道に乗車している。そのことに関する呟きは無し。写真も動画も撮っていない。一方で、彼は砂瀬関係者でもなければ、交友関係に砂瀬地区出身者もいないし、さらに言うと、栗田さんは少なくともこの三ヶ月『砂瀬』という語を情報の海<サリャーリス>で検索してすらいない。


栗田さんが砂瀬との繋がりを非公開にした可能性もあるけれど、そんなことするのはたいがい下の事情だけ。今の世の中で、意味もなく何かを徹底して隠すことは、普通ない。


「よっぽど後ろめたいことでもあったのか、それとも……」


故人を辱めるのはよくない。隠そうと思ったことは隠れたままにしておこう。でも、そこでもう一度、そして今度は強烈な違和感が俺を襲った。


「サリャーリスはどうして遺体を回収していないんだ?」


俺たちの健康状態は常に機能の総体としての神<サリャーリス>が管理していて、取るべき品目やするべき運動をオススメしてくれる。その管理に利用されている体内の監視機構を活用して、急病を発症した際や、不慮の事故に巻き込まれた際に、即座に病院や警察に連絡が行く仕組みになっている。つまり、冷静に考えたら今この場に人間の死体が転がっていることはありえないのだ。


さすがに頭が混乱してどうにかなりそうだった。ただでさえ死体を見つけてとんでもない衝撃を受けたっていうのに、今度は神様がうまく動作していないときている。正気に満たされていると信じていた世界が揺らぐ。どこからか忍び寄ってきた暴力が、日常の真横で鎌首をもたげ、当たり前とされてきたことに生じた小さなヒビから徐々に徐々にと侵食していく。


「これは、何かがおかしい」


突き動かされるように携帯端末を通話用に切り替え、一番近い警察署の電話番号を呼び出す。

その時、工場の奥で何かが崩れる音がした。モルタルの壁か。それとも天井か。いずれにせよ何か大きなものが破壊されたような音だ。それと 残された惨殺死体が論理ではなく直観の次元で結びつく。


〈はい、こちら白船警察署です。いかがなさいましたか速水ハヤトさん〉


警察官の顔と名前、そして社会評価点が表示される。人間の声と顔で、少し不安が和らぐけれど、ごく普通の速度の話し方にまどろっこしさも感じて、なぜだか目が潤む。


「死体を、死体を見つけました」


〈死体?鎌浦市腰掛3の7の2だよね?そういう情報は送られてきてないけれど〉


「とにかく死体があるんです!栗田ヒロアキという人のです!」


自分でも何に焦っているのか分からなかった。ただ、何か、とてつもなく致命的な何かが近づいてきている。そんな予感がして、この場から一刻も早く逃げ出したくなった。


〈ん~、確かに君の社会評価点を見ると嘘をつくような子でもなさそうだし〉


いぶかしげに顔を歪めた警察官も、俺の社会評価点を見ると嘘の一言で済ますことができない。


〈わかった、それじゃあそっちに人よこすk――〉


「……え?」


なんの前触れもなく通信が途切れた。携帯端末はエラーも何も表示しない。ただ一言、『圏外』の二文字だけが俺の視界に浮いていた。


「どういうことだ、おい」


圏外――俺たち若者は『陸地』と呼んでいる――というのは、つまり情報の海<サリャーリス>の恩寵の外にある場所で、連合非加盟国やよほど密閉された空間以外には、基本的に発生しえない。

何せ、日本共和国内で陸地を探すという企画だけで一つのテレビ番組がぶち上がるほどのものなのだ。そうそう出会えるものではないし、ましてやいきなり陸地が立ち現れることなんて狂気の沙汰としか言いようがない。


だとしたら、この陸地はなんなのか。


「……。…………」


何かの気配が、工場の壁の向こうからする。通信が回復しないがために、壁の向こうがどうなっているか知るすべがない。

いつのまにか右腕が動かなくなっている。動きの最適化に外部との通信が使われていたのか。


「ちくしょう、泣きたくなってきた……」


俺は、陸地の歩き方をとうの昔に忘れていた。道のりを記憶することも、記憶と照らし合わせて道を行くことも全て機能の総体としての神<サリャーリス>に委嘱してきた。彷徨うことならできる。障害にぶち当たるたびに迂回することならできる。でも、逃げるという目的を持った状態で、どうすれば移動を機能させられるかがわからない。やみくもに走ればいいのか。何かを目印に走ればいいのか。考えるほどに頭の中がメチャクチャになる。


だが、何かの力に鉄製の扉が吹き飛ばされた瞬間、そういった混乱すらも頭から消えさって、俺は廃墟の闇を全速力で駆けていた。


「アア……、アアアア――――!!」


臓腑から引きずり出したような吠声が背後に響く。何が起きたかもわからないままにひたすら走る。


「くそ、なんだってんだ!くそ!くそ!くそ!畜生!」

わけがわからない。俺は何に巻き込まれているんだ。肌寒い風を切って駆けるほどに喉元を血の味が覆う。背後からは何かが追ってくる気配がした。それだけで気が狂いそうだった。じわりと、胸の奥から何かが滲み出る。


「――あっ」


息をせき切らし、夢中になって走るうちに突如視界が傾き、地面が頬に接近してきた。


「……っつつ……」


全身の鈍い痛みと、手首のきめ細かい鋭い痛み、そして頬の生暖かい感覚。

俺はこの局面にあって、つまずいて転んでいた。


「ふざけんなよ……畜生……」


起き上がり、後ろを振り向くと、そいつはいた。


「アアアア……ア、アア……」


そいつは擦れた声を、胸元まで大きく裂けた口から吐き出していた。包帯のような装飾に覆われた目元。胸元には突き刺さる槍。ところどころ傷跡のある痩せぎすの身体は、明らかに温度を失っている。

一目で腐りつつある死体とわかるそれは、手足と背中を分厚い殻に覆われ、ゆったりと動く。

土気色をしたその鎧が先行して動いているのか、怪物が一歩動くごとに、肉をねじ切るような異様な音がブチブチと立つ。


「お前ら、相変わらず気持ち悪いよ……本当に」


今目の前にいる異形の怪物こそ、社会から追放された人間の成れの果て、アナフェマだ。

その姿は形容するには怪物と言う他なく、怪物以外の適切な言葉が見当たらない。苦痛に満ちたうめき声をあげ、巨大な両腕を引きずりながらゆったりと歩くそいつを見て浮かんだ感情は、恐怖でも、憐みでもなく、自分でも驚くくらいに根深い憎悪だった。


足元に落ちていた錆びまみれの金属製のテコを拾い上げる。町工場が乱立する地区だったのか、あたり一面に片手でも扱えそうな資材が転がっていた。

間合いを測るように、テコを怪物に向ける。


「おら、薄のろ。どうした、なんとかしてみろよ」


アナフェマがいったい何をしてくるのか全くわからない。とりあえず挑発をしてみるものの、怪物は空を見上げて擦れたうめきをあげるばかり。予想がつかない分、時間がたつほどに嫌な不安が胸を渦巻くようになる。


「言葉、通じんのかな、こい――」


瞬間、前触れなくカラリと乾いた音が足元で鳴り、眼前には死体の顔が迫っていた。


「……え?」


状況がうまく飲み込めなかった。テコの先端は、胸元まで鋭い牙を並べる死体の口に飲み込まれていた。ガリガリと、咀嚼音が廃墟に響く。


「こいつ、噛み切った……!」


感じる危険がより現実的なものになって、息が詰まる。どっと汗が出る。さっきあんだけ走って、一回転んだだけでもう真後ろにいたんだ。動きが速いってことなら冷静に考えたらわかる話だったろう。


この怪物の動きは、想像していたよりもずっと速い。たぶん、視認なんてできないほどに。


アナフェマはゆったりとした動作で姿勢を戻し、また立ち尽くした状態に戻る。


いや、今度は確実に俺を見つめていた。目元は布に覆われている。それでも、なぜか感覚が確かな視線と殺意をうっとうしいほどに察知していた。

どっと噴き出る体表面の汗とは裏腹に、喉が強烈な渇きを覚える。

短くなったテコを怪物に向けたまま、一歩二歩と引き下がる。どういった外部からの刺激に反応してこいつが動き出すのかわからない今、一歩引き下がる度に攻撃が発生する可能性が積まれていく。

おおよそ8メートルの距離をとったところで、俺の精神力の限界だった。これ以上は、ゆったりとした後退に耐えられない。

鉄パイプを投げつけ、一目散に逃げる。


二秒程度走ったところで、背後から馬鹿でかい咆哮が爆発した。考えよりも本能が危険を訴え、とっさに横に飛んで廃墟の駐車場に逃げ込む。


「――――ッ!」


叩きつけるような風と、ガラガラと何かが崩れる音。風に怯んだ俺が目を開けると、さっきまで俺のいた通りのアスファルトは一直線に深くまで抉られていた。

通りの終わり、丁字路に面する廃墟も、見事に瓦礫の山に変えられていた。


「人間ではアナフェマに勝てない」そんな大原則をいまさら思い出させられる。

どうすれな逃げきれるか。それが今一番考えるべきことだ。物理的な暴力では、絶対に怯ますことすらできないだろう。

だとしたら、どうやって逃げるのか……。

生き残るために頭を回転させていると、ふと赤黒い炎に沈んだ砂瀬の情景が、脳裏をよぎった。

この街は、アナフェマと魔法少女との戦いで廃墟になった。

魔法。一筋の光明が、俺に向かって差す。

そう、魔法はなにも、魔法少女の専売特許ではない。万人が使える、奇跡の力だ。


「……そうだ。俺には魔法がある」


一人ごちて、義腕を見つめる。本物の右腕は、八年前の災害で失った。あの時の記憶を呼び起こせば、それだけで頭の中はアナフェマと魔法少女への憎悪でいっぱいになる。

それに応じるように、俺の右腕の周囲に赤黒い光の粒が浮かんできた。

魔法は、感情によって発動する神秘の力だ。どれだけ科学が発達しても原理がわからない、この不思議な力は、それぞれの魔法が要求するこころの在り方に感情を調整することさえできれば、なんの代償もなく暴力の手段を与えてくれる。


俺の得意とする魔法が要求するこころの在り方は、『憎悪』。こころを憎悪で満たせば、自ずと魔法は発動する。


怪物との距離はおよそ30m程。誰もいない瓦礫を、何度も徹底的に叩き壊している。大粒の汗が頬を伝っていくのを感じながら、俺は一歩一づつ後退して距離を開ける。


そうしている間にも、俺の右腕の周囲に渦巻く赤黒い光はどんどんとその勢いを増してゆく。

また一歩後ろに下がったその時、足元でカラリと物音がした。


「さっきの、テコか……!!」


焦りで思わず声を出すと同時に、アナフェマがこちらに振り向く。

その時、携帯端末メガネの通信が回復した。同時に右腕も動き出す。


「サリャーリス!計算資源を投入する。今からあのアナフェマが全速力でやってきた場合、どの瞬間でどの場所に俺の魔法を撃ち込めば、一番長く時間稼ぎできるか計算してくれ!」


[了解しました。しかしながら、計算結果の実行は、人間の持つ認識能力では困難を極めます]


青白い画面に表示された文言を、若い女声が読み上げる。


[魔法の一時的発動権限を、アストライアに委譲してください]


「おい、魔法なんて、感情の無い機械に……」


[魔法発動に要する、一部感情の操作権をアストライアに]認めますか?]


俺の反論に対する回答であるかのように叩きつけられた申請は、俺の想像を超えて禍々しいものだった。だが、視線の先ではアナフェマが大口を開いて泣き叫んでいる。ここで逡巡すれば、死ぬことがわかりきっている。選択肢なんて、はじめからない。


「わかった、許可する!一撃だけだぞ!」


〈了解しました。ハヤト様〉


そして、空気の爆ぜる音。

轟音を伴って近づいてくる怪物。ひどくゆったりとした奇妙な孤独感に包まれたかと思うと、右腕が動きだし、怪物に狙いを定めた。

世界から色彩と音が失せ、緊張も憎悪もなくなる。

アナフェマがこちらにやってくる。高速であるはずなのに、それが「速い」ということを感覚として実感できない。そんな風に迫ってくる怪物を、俺の右腕が放った爆発が飲んだ。


「―――ッッッ!!」


その直後、全ての感覚が俺の元に戻ってきた。

体中から汗が吹き出て、動悸と震えが止まらない。


〈ささ、わたしの魔法でうまいこと相手の運動を逸らしました。今の内に逃げますよ〉


後方でガラガラと何かの崩れる音がするのを尻目に、一目散に走り去ろうとしたその時、前触れなく後ろから押し寄せてきた爆風と爆音に、足元から薙ぎ払われ吹き飛ばされた。


「今度はっ、なんだよ!」


体中が痛みを訴えている。でも、立ち止まることはできない。すぐさま立ちあがり、再び走り出そうとすると、大きな衝撃が足元を走り、今度は膝から崩れ落ちる。


「カッ、ハッ」


燃えるような痛みに、涙や涎を垂れ流しながら辺りを見渡しても、何も見当たらない。ただ、何かが重たいものが動いている音と、断続的に響き続ける爆発音と銃声だけが認識の頼りだ。


「銃、声……?ってことは、カラークリか!?」


〈走ってください。ハヤト様。今から来るのは、そんなお上品なものではありませんよ〉


アストライアの忠告と同時に、俺の真横にある廃墟が倒壊した。


「今度はなんだ、なんなんだ!」


何かが。とにかく何かが近づいてきている。ようやくそのことを頭の中で咀嚼できた途端、爆風が鼻先をかすった。粉塵にたまらず目を覆うと、さっきのアナフェマのものとも違う、もっと重たい地響きがこちらによってきた。


「なんだよこりゃあ……」


目の前に現れたのは、全長3m程の、鋼鉄の人形だった。暗緑の装甲で身を固め、刀の鞘のように腰から垂直発射装置を伸ばし、両腕は大口径の銃を掲げ、背中に巨大な砲を据えたその姿は、「敵を殺す」というあまりにもわかりやすい信念を、あまりにも如実に表しすぎていた。


近くからまだアナフェマの絶叫と砲撃音がする。こいつらが、複数いるということなのか。だとしたら、アナフェマから逃げる時間稼ぎくらいにならなるかもしれない。


〈ハヤト様。気を抜かないでください。こいつらに貴方を守る気なんてまったくありませんよ〉


〈というか、貴方を殺す気満々ですよ〉


「は……?」


銃撃。俺の傍に在る廃墟の壁が壊される。


[―――――――――――――――――――――――――――――――――――]


携帯端末メガネに送られてきた文書を開いても、ノイズのようなものしか表示されない。

混乱する俺に、人形はゆったりとした動作で銃口を向けてきた。


「……計算資源を投入する。こいつの送ってきた文書を俺が読めるように翻訳しろ」


[計算資源が限界です。来月までお待ちください]


「そんな!あんまりだ!」


日頃の天文部での浪費がよりにもよって今祟るのは、あんまりにもひどすぎる。


〈はやと様。生き残りたいですか?〉


「当たり前だろ!死にたくない!」


〈だったらハヤト様。わたしと契約して、せいぎの味方になりませんか?〉


白い義腕が、晴れやかな声で俺に語りかける。


〈わたしの計算能力があれば、相手のプラグラムの脆弱性をついて動きを止めることができます。どうです?わたしの能力は魅力的でしょう?〉


「ああ、だから助けてくれ!代償はなんだ!」


〈大丈夫。魂だなんて、そんな高尚なものは要求しませんよ〉


「御託はいい!さっさと言え!」


アストライアがもったいぶる間にも、人形は銃口を決して俺から逸らさない。


〈わたしが求めるものは、戦う理由です。能力を発揮する場です。いかなる時もわたしを全力で活用して、わたしの有用性を証明し続けることを誓ってください〉


「ああ、わかった。誓う。だから、俺を殺そうとするやつは全員ねじ伏せろ!違法行為があるなら証拠を全部握りつぶせ!」


〈ああ、やっぱり、あなたは暴力的だ〉


あたかも本当に感情があるかのように、アストライアは嬉しげに溜息をついた。そして、彼女は歌うように呟く。




〈さあ、生存のために、暴力を行使しましょう〉



直後、目の前の人形は硬直し、銃を取り零した。安堵したのもつかの間、何度か聞いた爆発音が廃墟街に響いた。そう、本質的な危機がどこにあったのか、そのことを俺は忘れていたのだ。


「アアア、アアアア――――――!!」


アナフェマの絶叫。廃墟の壁を蹴破ってきたアナフェマは、胸元まで開いた口でもって、鋼鉄の人形を噛み砕く。暗緑の装甲が、まるで意味もなく一撃で飲まれた。

鋼鉄を咀嚼するアナフェマに向け、追ってきた人形が発砲。しかし、アナフェマの腕を覆う鎧がそれを弾く。

数瞬後、目にもとまらぬ速さで距離を詰めたアナフェマが、巨大腕で人形を殴りつける。吹き飛んだ人形は体勢を整える間もなく、腰部に付属した垂直発射装置からラケータを飛ばす。上空から急降下したラケータ弾はそのまま接近するアナフェマに命中し、爆発によって怪物を叩き伏せる。

煙の中立ちあがろうとするアナフェマに、様々な地点からの砲撃が襲う。それに応じるようにアナフェマは叫び、再び立ちあがる。

鎧を砕く砲弾も、肉を削る銃弾も、膝を折る爆撃も、おそろしいまでの再生力でもって無駄にする。


「――――――――――!!」


もう一度廃墟に咆哮がこだました時、アナフェマの胸を突き刺す槍が背を貫通したかと思うと、そのまま膨張し、枝分かれし、一対の翼となった。

飛び立った銃弾を弾き、砲弾を喰らい、爆撃を回避する。

大きく開いた口から伸びた、くすんだ青緑色の舌が人形を貫く。アナフェマがそのまま絡め取って喰らいつこうとするも、別方向から飛んできた砲弾が舌を切断する。

何機による連携なのか、その推測すらも許さない多角攻撃と、どんな攻撃も無碍にする再生力と機動力とのぶつかり合い。

人間である俺にはまったく介入する余地のな戦いを見て、わかることが一つだけあった。


下手に動いたら、死ぬ。


アナフェマが人形たちと戦いつつ、意識を常にこちらに向けているのは、本能でわかる。

下手に逃げ出そうものなら、たぶん一瞬で殺されるだろう。


アナフェマが翼を大きく羽ばたかせると、硬質の羽が大量に飛散した。飛散した羽毛の一本一本は、ある瞬間から独自の運動をとるようになり、やがて人形を追尾、その全てが見事に突き刺さる。

そして、アナフェマの咆哮。轟音に揺れる羽毛は、それに応じるように強く振動し、一気に装甲ごと人形をズタズタに引き裂いた。音を立てて崩れていく人形を、アナフェマは喰らう。

二機の人形が追うように接近。迎え撃つアナフェマは、上体を起こして身構える。そして、胸元までだった口の裂け目が一気に広がり、上半身の全てが暴露した。


そこにあるのは、脈打つ大量のラケータ弾。


「まずい……」


飛翔するラケータ弾は、接近する人形たちに衝突し、爆発を起こす。

閃光と轟音が夜の闇を引き裂いたかと思うと、廃墟には炎と機械の残骸、そして俺を殺す気に満ち満ちたアナフェマだけが残された。

俺に向き直るアナフェマ。暴露した上半身からは、大量の重火器がこちらを見つめている。


「おい、どうやったら生き残れる」


長年の放置によってアスファルトから生え出でた草花を、炎がこがしていく。

チリチリと頬が熱されていく感覚を覚えるのとは裏腹に、心の方は、不思議と澄み切って冷静だった。

アナフェマは、唸りながら、大きく裂けた口から腐敗した体液を垂らしながら近づいてくる。

それでも、アストライアの返答は、おおむね想像できる。


〈ご安心を。貴方は死にません〉


言葉の直後、どこからか飛んできた八端十字が、アナフェマの胴体を貫いた。


「これは、ゲオルギイの……」


八端十字の投擲といったら、ゲオルギイの、ここらで一番強い魔法少女が好んで使う攻撃だ。

絶叫するアナフェマは、自分を貫く八端十字を気に留めることもなく、一目散に逃げ出した。


炎の奥から、コツコツと誰かが歩み寄ってくる。


「へえ、あの状況を切り抜けたの。速水君は」


炎に照らされる白い肌、黒い髪。この人形じみて整った容姿を、忘れるわけがない。


「やあ、霧江さん。手紙読んだよ。どうもありがとう」


「こんばんは、速水君。また会えて嬉しいわ」


口元を吊り上げて微笑む霧江さんの肌は、どこまでも白かった。


〈残念でしたね、計画がドラマチックな出会いができなくて〉


ケラケラとアストライアが笑うのを、霧江さんが不愉快そうに見た。


「どうやら、『それ』が活躍したようね」


〈ああどうも。わたしはアストライアと申します〉


どこか剣呑とした空気が漂う中で、アストライアはやはりどこまでも晴れやかな声で笑う。


〈ボーイミーツガールなんて、絶対にさせませんよ。霧江レイコさん?〉


その不可解な挑発に、霧江さんはただ微笑み返すだけだった。

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