この世の春
君は「ハル」というものを知っているだろうか。もし知らないのであれば、何よりも先に説明しなくちゃいけない。ハルとは、この世界を理解するのに欠かせない一番重要な要素。小説ならまずは書き出しからその意味を説明されるであろうこの世の鍵。ハルを知らずして共和国の、ひいてはこの世界の全貌を明らかにすることは不可能だろう。少なくとも、鎌浦市滝乃入町内会の若者事情を理解することだけはできない。
ハル。篠崎ハルカ。俺の幼馴染。かわいいかわいいランキング俺調べで第一位。今一番熱い国民的美少女。ショートカットが似合う子王決定戦17年連続一位。少し垂れた目がなんとも困らせたくなるけれど、笑った時のえくぼがとってもかわいい女子高生。いつも笑顔であって欲しいし、今も俺の真横で微笑んでいて最高にかわいい女の子。
この俺、速水ハヤトを語るのに一番重要なものは、ハルだ。
「ハヤト。何ぼーっとしてるの」
口を半開きにしながら惚けてる俺に、呆れたような視線を寄越してくのがもうかわいい。
「それで、右腕の調子はどうなのって聞いてるの」
はなしを聞いてよと非難がましく口をすぼめるハル。そんな彼女を見て俺はああ、これが青春なのかと勝手に得心する。
「で、なんだって?」
「調子。新しい右腕の」
「右腕?ああ。もう超バッチリよ。最の高。片手でちょうちょ結びだってできる」
真新しくなった右腕をヒラヒラと振って見せると、ハルは困ったように笑う。
「それホント?」
「まあ、本当だ」
俺の右肩からは現在白い義腕がぶら下がっている。それも、最新式でとんでもなく性能の高い奴だ。元々俺がぶら下げていた本物の腕は俺がまだ小さかったころに特災、つまりは特定人為災害のせいで千切れ、こないだまで着けていた義腕は小田原駅前のアナフェマがぶっ放したらしい攻撃に巻き込まれてお釈迦になった。
今回の義腕は人間のかたちに似せる気なんてハナからないようで、筋肉のように収縮するいくつかの曲線状の滑らかな板と、関節部分の球体で作られている。素材が何でできているのかはよくわからない。
「でもほんとうに、ハヤトが無事でよかった」
「またその話題か。俺もう飽きてきたぞ」
「なに言ってんの」
ハルが眉をひそめる。
「ハヤトが特災に巻き込まれたってサリャーリスが言ってきたときは本気で心配したし、無事で嬉しかったんだから」
特災指定区域から抜け出した時、「キミは本当に幸運だった」と軍のおじさんに言われた。
たまたま海沿いを自転車で走っていたところ偶然巻き込まれたことを不運と呼ぶか、被害が元から機械だった右腕と、一口も飲んでいない緑茶だけで済んだのを幸運と呼ぶか、そこは意見の分かれるところだろう。
「……そう正面切って言われるとなんだか恥ずかしいな」
「別に心配したっていいじゃん。幼馴染なんだし」
幸か不幸かはさておいて、とにかくハルがかわいいことだけは確かだろう。ああもうなんなんだこの聖女。結婚したい。
さて、そろそろ俺の自己紹介をしておかなくちゃならない。俺の名前は速水ハヤト。いわゆるどこにでもいるごく普通の高校生というやつだ。生活様式の多様化によって『普通』が拡散した今の世の中で、何をもって普通の高校生とするのかは議論の余地があるけれど、俺はきっと平凡な人間なんだろうなと自分で勝手に決めつけている。
少なくとも、特別な高校生なんかじゃあない。
情報の海が世界を繋いでくれたおかげで、少なくとも自分が凡人であることは十分可視化できているのだ。
世界中のありとあらゆる人間の生き様が否応なく頭の中に流れ込んでくるこの世界で、高校生のうちから「自分はこうこうこういう理由で普通でない何々な高校生です」と言い切れるだけの個性や信条、実力をもった人間なんてなかなかいないだろう。いたとしたら、そいつはとんでもなく幸福が、それとも地獄のどん底にいるかのどちらかだ。
きっと何者にもなれないまま、ダラダラと凡人としての生を謳歌するんだろうなあ、だなんてことを、時折漫然と思う。そして、ハルがかわいいからそれでいいやとも。
そういう意味では、俺は「ハルが大好きなだけのごく普通の高校生」なのかもしれない。
「ハルが大好きなだけのごく普通の高校生」。阿呆っぽくて、俺らしいじゃないか。
夕日の差した空を見上げると、入道雲が見えた。夏めいた空をとりあえず携帯端末で写す。
凡人の、凡人らしい感性に見合った行動。空の写真を撮っては情報の海〈サリャーリス〉の共有空間に上げることは、自分が凡人であることの告白に他ならない。上げるのが猫の写真だったら……もっと悲惨かもしれない。
「なんだかんだでまだジメジメしてるよねえ」
ハルが鬱陶しそうにポロシャツの首元をパタパタと引っ張り、空気を送り込む。
下着が見えやしないかと一応念のため礼儀として熱い視線を送ってみるも、0.5秒で気づかれムッとされた。困ったことに、ハルはかわいいから怒った顔を見ても「かわいい」としか思えない。
「サリャーリスが言うには、そろそろ梅雨も終わるみたいだけどな」
「今終わって欲しい。湿度、つらい。マスクヴァに移住したい」
「冬寒いじゃないか」
「あ~、だったら冬は日本に移動する」
「お前は白鳥か何かか」
「そのツッコミ全然悪い気しないけどいいの?」
「あ、確かに」
中身もクソもない会話をダラダラと続けていると、中年のおばさんとすれ違った。機械人形に荷物を持たせていたその人は、俺たち二人を見るなり深刻気な顔をして携帯端末を操作しだした。
[あなたの社会評価点が向上しました]
そんな表示が目の前にパッと現れる。
「あ~、こりゃもうけもんだね」
ハルの方にも通知がきたようだ。口端をニンマリと吊り上げて笑っている。
「ハルは不謹慎だなあ」
「何をいまさら」
ニヤリと微笑むハルは、俺の右腕を肘で小突いてきた。呆れた俺は、ハルを乗せる車椅子の背もたれに手をかける。
ハルは生まれつき脚が不自由だ。そして魔法の特性のせいで電動補助器の類が使えないらしく、そのせいで今日び車椅子生活を強いられている。
とはいえ、薄幸の美少女といった雰囲気を垂れ流しているわけではなく、万事が万事ゆるい。あと少し不謹慎だしずる賢い。
「これで町内会の手伝い一回サボれるんじゃない?」
「そういう問題じゃないだろう」
「もうハヤトったら真面目ぶっちゃって。いっつも地域清掃の時手を抜いてるくせに」
「ゲ、バレてたのかよ」
「私には全てお見通しなのだよハヤト君」
名探偵の真似でもしているのか、車椅子にふんぞり返りながら目を閉じて両腕を組むハル。すごくかわいい。
そんな小芝居を終わらせると、ハルは素の表情に戻ってすぐコロコロと笑いだした。それを見ていると頬の辺りがなんだかムズムズとしてきて、口角がとんでもなく吊り上る。
たぶん今の俺はおよそ人の取りうる表情中で一気持ち悪い表情を浮かべているだろうだろう。
けど、仕方ないだろう。誰だっておそろしくブヒれる絵を見れば、変に泣きたい気分にかられながら異常な笑い声を絞り出すものだ。かわいいハルのかわいい姿を見た場合も、また然りじゃないだろうか。
「ハル。喉が乾かないか」
「おお、凄い。それアタシが今思ったこと」
灼熱、とは言わないまでも、夏の近づきに応じて暑さも厳しくなってきている。電動式の車椅子とはいえ、このまま坂をえっちらおっちら上ったり下ったりしなから水分補給なしで帰るのもツラかろう。徒歩で移動する俺なんて論外だ。
というわけでペンキの剥げた土産屋の前に置いてある自販機に近づく。古ぼけた軒先のベンチには、拡張現実上で星が四つ貼り付けられていた。
昔ながらの観光地であるここ鎌浦には、錆びた階段やら苔むして崩れかかった大昔の民家、廃棄されたまま放置されて自然と一体化した電車の車両、といったあざといモノが多く残されている。というのも、観光客は便利さよりも眺めのよさで拡張現実に星を貼り付けるし、評価の高いモノはオンボロだろうが廃墟だろうが保存されるからだ。そして、えてして凡人はこういうわかりやすい「味わい深さ」をこころから愛するものだ。
だから、観光地には廃墟だとかアンティーク化した小道具だとかが大量に転がっているし、実際鎌浦もそんなことになっている。
世の観光地がみんな同じかたちに収斂していくというのは、なんんだかゾッとする話のような気もするけれど、かくいう俺もそういう凡庸な感性の持ち主だから、現状は楽園としか言いようがない。ビバ平凡、ビバ多数派。世の人民に幸あれ。
「ハヤトー、なにボーっとしてんのー」
「おわっ、悪い悪い」
真横から、いつのまにか近づいていたハルの声。慌てて指先で自販機に触れ、支払いを済ませる。ハルはいつも通りサイダーで、俺は緑茶。
「またくだらないこと考えてたでしょ」
口が開いていたよと、屈んだ俺の真横でハルが見透かしたように微笑んだ。少し得意気な笑顔がとてもかわいらしくて大変よろしい。
少しいじわるで、少しずぼらな俺の幼馴染。内ハネしたミディアムショートの黒髪が快活で可愛らしい、どこにでもいるごく普通の女子高生。個人的にはわずかに下がった目じりとちょっぴり膨らんだ涙袋をこいつの最大の魅力として力強く推したいところ。
携帯端末でハルのプラフィーリを見れば、好きな食べ物やら音楽やらお気に入りの写真やらおおまかな居住地やらが表示されるだろうけど、とくにやる意味もないので実行はしない。ありがちな趣味に「はい私も好きです」と肯定を重ねれば、ハルはほとんど完成するだろう。足りないものと言ったら多量の毒と、どうしようもない腹黒さくらいだ。
正味な話ハルはとんでもない美人というわけではないし、高嶺の花というわけでもない。教室で三、四番目くらいに可愛いお調子者ポジションだ。左手を自販機に突っ込んだまま阿呆面をさらすようなしょうもない野郎が、なんだかんだで一番モテる立ち位置にいる彼女のために自販機で飲み物を買えるのだから、幼馴染とは非常にうまみのある役割じゃないか。
両手のペットボトルをハルに渡すと彼女は礼を言い、緑茶のボトルのフタを外してこちらに寄越してきた。
「はいどーぞ。で、何を考えてたの?」
そう聞きながら、今度は自分のボトルのフタを開けるハル。炭酸水はぷしゅりと軽快な音を立てて外気に触れる。それはごくごくと音が出んばかりに元気に飲むものだから、ハルの白い喉もよく動く。かわいい。
「いや、とくに何か考えてたってわけじゃないよ」
「あら意外」
世間の温かみのおかげなのかそれとももとの性格のせいなのか、俺たちは悲哀や困難なんて糞くらえと言わんばかりにまったり気ままに暮らしている。校門から坂を下った自販機で、あまり屈むことのできないハルの代わり俺がペットボトルを取り出し、お返しにハルがフタを開けてくれるといった具合に助け合いながら。
俺、速水ハヤトは義腕ながら日頃筋肉鍛錬に勤しみ、やれムエタイ、やれシステマ、やれ古代ローマ空手と洋の東西を問わずやたらめったら格闘技に手を出す脳筋野郎で、いつも口をへの字にして難しいことを考えているふりをしながら、その実ハルがかわいい、ハルはいい匂いがするだのと能天気に阿呆なことばかりを考えている。そんな男といつも笑顔な女の子の二人だから、悲劇のヒーローとヒロインにはどうあったって成りきれないのかもしれない。無知も力だが、阿呆もまた力なのだ。
「おーーーーーい!」
炭酸水のペットボトルを握るハルの白い指をまじまじと見て、ありもしない日頃のストレスを晴らしていると、山間を縫う坂の上から野郎がなにやら滑稽な鳴き声を撒き散らしながら駆け寄ってきた
「おいハヤト!よくもトイレで苦しむ俺をおいて篠崎さんと帰ってくれたな!この薄情者!」
来るなり騒ぎ立てるのは我が愛すべき阿呆、柴田ケンイチ。放課後しょっちゅうウンコするせいでいつも俺に置いてかれている可愛そうな子。一応こいつも俺の幼馴染なんだけど、野郎の幼馴染ほどありがたみのないものはない。野球部所属で成績は下の下。得意科目の日本共和国民族史(校内偏差値五十二)を除けば、全ての科目が平均点をぶっちぎって赤点を突き抜ける真正の阿呆。坊主頭とひょうきんな面は古き良き日本の野球少年を思わせるが、勉強があまりにも悲惨な上にやたらめったら騒がしく、しかも下品なものだから部活補正を完全に打ち消している。このように何一つとして褒めるべきところのないこいつをあえて褒めるとしたら、実家が肉屋のおかげでこいつとつるんでいるとお袋さんがメンチカツをまけてくれるところが有用。ありがとう柴田。ありがとう肉のシバタ。
「おい。残念なものを見る目でこっちを見るな」
「柴田。これからも仲良くしような」
「うるせえ」
気色悪いこと言うな。と、柴田が身震いする。俺たちのやり取りを見てくすくすと笑っていたハルを一瞥すると、柴田は坊主頭を一かきして口を開いた。
「そういやハヤト、お前帰りがけにリュウジ見たか?」
「見てないな」
「そっかー。ハルカは?」
「いや、アタシも見てない」
ハルは肩をすくめて否定する。
「お前ら一緒に帰ってたんだからそらそうか」
ポンと手をつき勝手に得心する柴田。リュウジは俺たちの友達で、だけども奇跡的に阿呆じゃない。俺と同い年ながらも自前の価値観でもって生きていて、今いる座標を情報の海上に表示することや電話をひどく嫌う。
「会いたいなら資源でも使ったら?」
「いや、そんな大事な用ってわけでもないんだ」
だからだろう。柴田は話題を切り上げて口を半開きにして、桜の無くなって久しい中空を見つめた。
「しっかしジメジメしてんなあ」
「似たような会話をもうハルとしたから話題を変えるぞ」
「はあ?ひどくね?俺も混ぜてくれたっていいじゃねえかハヤトー」
「うわっ、鬱陶しい!抱き着くなよ汗臭え!」
「お前はなんかいい匂いするな。色気づきやがって」
「しょうがないだろ姉ちゃん柔軟剤の量とか無視していっぱいぶち込むんだから」
飛びついてきた柴田を引きはがす。ちょっと手のひらが湿った気がした。気持ちが悪い。ここはハルの車椅子に少しばかり助けてもらおうか。
「ハヤト、アタシの背もたれで手拭いたら怒るからね」
「のわっ!なぜバレた……」
「ハヤトの事はお見通しよお見通し」
どうだとばかりに車椅子にふんぞり返るハル。
「よっ!お熱いねえ」
「ま、付き合い長いしねー」
柴田の冷やかしにハルがさらりと答えた。その視線は一瞬俺の右腕を捉えたように見えたが、笑顔のハルはピアノでも弾くかのように、肘掛の上で指を躍らせている。
「わたしたちらぶらぶなのよ、らぶらぶ」
ね、そうでしょう?と微笑みかける彼女に思わず赤面してしまうと同時に、ぎょっとして辺りに人がいないか見渡す。柴田は横で口笛を吹いていた。
ハルは英語を使うのが好きだ。俺たちが学校で習う言葉は、第一母国語のロシア語と第二母国語の日本語だけれども、戦中から戦後にかけてしばらくアメリカに占領されていたこともあってか、『解放』から何十年たった今でも英語由来の語彙はわりかし残っている。しかし、英語を使うのは頭や文章の中だけであって、公の場でどうどうと発音するとなると最近じゃちょっとしたタブーだ。こないだ戦没者追悼式で党員が英語を使った時は、ちょっとした騒ぎにもなった。
だけど、ハルは日本語発音で読み上げられる英語の可愛らしさと、歴史が英語に孕ませた不謹慎さとの不調和が好きなのだそうだ。その感覚はいまいちわからない。
ともかく、まだまだ民間レベルに浸透している決まり事ではないけれど、どこにどんな人が見ているかわかったもんじゃないから、英語を使うのは少し自重していただきたい。
「ラブラ……ねえ。俺らん組って、付き合ってるやつ多いよなあ」
「突然どうした柴田。発情期か」
「日頃は神無月の神様でもないのにせっせせっせとお手伝いをしている俺でも、自分の彼女が欲しくなるときくらいあるんだよ」
「シバケン、面倒見いいから大学行ったら彼女できるんじゃない? バカだけど」
シバケンとは柴田のあだ名だ。女子連中からはそう呼ばれて半ば下僕扱いされている。まあ、下僕扱いされているのは俺含めてなんだけど。
「はあ、お前ら何にもわかっちゃいねえ」
見せつけるようにうんざりと溜息をつい柴田はこちらをじっとり見る。
「いいか、俺らは来年から受験生だ。ハヤトはバカだからわかんないかもしんねえけど、普通は受験生がお付き合いなんざ、命知らずにもほどがあるんだよ。んでもって大学に進学したならもう俺らは制服を脱いだただの青年だ。俺はよ、制服少女と付き合いたいのよ……って、ハヤト、白目なんて剥いてどうした」
「真正のバカにバカと言われて気を失っている」
「ぶっ殺すぞ」
「それは俺のセリフだ」
睨みあう俺ら。ちなみにこないだの化学の試験では俺は柴田の8倍の点をとっている。柴田が3点で俺が24点だ。勝ったのに頬から涙が流れるのは何故だろうか。
「でもよ柴田。お前の、というか俺らの今の扱い的に、鎌学じゃもう彼女できないぞ」
「うーん。この調子じゃハヤトは大学行っても無理だろうけどね」
「サラリとひどいこと言わないでくれ」
ハルがヘヘヘと笑ってペットボトルを握る。
「隼人の言うことはごもっとも。だからこそ、俺らにはボーイミーツガールが必要なんだ」
お、英語じゃん。とハルが悪人顔でニヤリと笑う。俺はとっさに辺りを見渡したけど、制服の女の子が坂を登ってきているだけだった。組の連中が見ていなくて一安心。危うく傷つく人がいるかもしれないからと、社会評価点を下げられるところだった。
「あのさあ」
「まあそう怖い顔すんな。ハヤトはいちいち模範的すぎるぜ」
ハルの視線を横から感じる。
「隼人は、『ちゃんとした人』だからね」
その声はいつもより柔らかったように思えた。そのせいで思わずハルを見つめてしまう。
「おいゴリラ。図体デカいんだから乙女タイムに入るな。ムサい」
なお俺の身長は183センチである。体脂肪率は一桁代。そんな巨漢がほっぺたを桃色にしていたんじゃ、なるほど、殺してやりたくなるのも道理だ。俺が柴田なら絶対に殺す。
「いやでもハルが可愛いからしょうがないだろう」
「お前は硬派なのか軟派なのかたまにわからなくなるな……」
「『こういう属性だから一貫してこう』と言い切れないのが現実のつらい所だ。俺に属性を求めるくらいなら、黒髪の乙女にわかりやすい萌えどころを持ってもらった方がよっぽど健康にいいぞ」
「隼人。お前は黒髪の乙女っつったら清楚派?それとも病んでる派?」
「黒髪の乙女が気だるげにラーメンとかすすってたら凄い嬉しくなっちゃう派」
「おお。さすが隼人。我らが理論的教導者!」
柴田が昔のプロパガンダポスターのように大げさな表情と身振りをとる。いや、どちらかというと小さなときやっていた『解放』期もののアニメの真似か。
「いっぱい食べる女の子はたいへん可愛いということをみんなもっと認めた方がいいんだ。健康的だし、なんかロいし」
「いっぱい食べることとエロになんの関係が」
ハルが小首をかしげて口を挟む。
「それがわからないとはハル、お前には失望したよ」
「そうだぞハルカ。ハヤトが日頃劣情を催しながらお前の食事風景を見ているのか無自覚だったなんてそんなのひどすぎるぜ」
「ちょっと待ってどういうことハヤト」
「そうか……、夏祭りでお前さんにかき氷をあーんするたびに半ば勃起しかけていることを告白する時がとうとうきたのか……」
「はっ!?え!?」
「ちなみにお前さんに少し口より高い所に食べ物を差し出して食べさせるとすげえエロい。ムチャクチャエロい。これ豆な」
日頃とまったく変わらない口調でたんたんと放たれる俺の言葉にみるみるうちに紅潮していくハル。まったくハルはかわいいなあ!
「ほら、口より少し高い位置に食べ物があると舌を少し伸ばすだろ。その時の表情がなんとも……」
「うるさい!最低!変態!黙って!」
「ぐふっ」
もう少しいたずらしてやろうと思ったのに、ハルからペットボトルを投げつけていただけたので停止。ご褒美を求める時は慎ましくあらねばならない。
[暴力行為に対して警告を出すとともに、彼女の社会評価点を下げますか?]
という機能の総体としての神の物騒な質問を無視して転がってったボトルを柴田から受け取ってハルに手渡す。
その時だった。
「あ……」
トンと肩に何かがぶつかるとともに、透き通った声が聞こえた。
「おお……」
柴田が息を飲んだのが聞こえた。無理もない。
「申し訳ございません。夕陽があまりに綺麗だったもので」
俺にぶつかったのが女の子で、ついでに言うとその子がとても美しかったのだから。
心臓の動きが一瞬大きくなったのを感じた。
濡れたような黒の長髪に、白磁よりもなお白い肌、とでも表現すればいいのだろうか。触れれば壊れてしまいそうな危うさ、とでも形容すればいいのだろうか。おそろしく使い古された表現しかできない自分の感性の乏しさに嫌気がさす。
セーラー服の少女は、彫刻よりもずっと均整のとれた目鼻立ちで、そして彫刻よりもずっと生気が無く、現実から乖離した空気を纏ってもいた。
三文小説でいくらでも語り尽くされた『儚げな美少女』の像をなぞるその容貌は、それでも息を詰まらせるだけの説得力がある。ガラスを彷彿とさせる彼女の美しさを形容する方法ならいくらでもあるのだけれど、 あえて一言で言い表すのならば、彼女は『黒髪の乙女』だった。
「ああいや、べつに大丈夫」
見入ってしまいたい欲求を振りほどき、言葉をなんとか紡ぎながら、髪を掻き分ける振りをしてすぐさまメガネを情報の海に接続。プラフィーリの在り処を探す。しかし、彼女の個人情報は一向に表示されない。どれだけ表示領域を増やしても、煎餅屋の広告やら自販機のオススメ品、情報の海が推奨する消費活動といった情報ばかりを拾って、彼女が何者なのかは示してくれない。
「……あれ」
そこで、なんとも言えない気味悪さに血の気が少し引く。よく見ると、彼女は携帯端末を身に着けていなかったのだ。なるほど、いつまでも個人情報が表示されないわけだ。
「どうかなさったのですか?」
少女は首を傾げる。その動きは一昔前の機械人形みたいにどこか偽物の臭いがした。
「ああいや、どうしてメガネを着けていないのかなあ、なんて、ハハハ」
身元の知れない人間との会話だなんて、いつ以来かもわからない。趣味も所属もわからない相手と話すのは物心がついてからはじめてで、だからどうやって会話を進めていけばいいモノか見当もつかない。
「ああ、今日は水泳の授業で……」
「なるほど、水泳。今日みたいな日にはもってこいだね」
「ええ」
どうやったらこの子と間を持たせつつ楽しいお喋りができるのか、そればっかりに頭がいって自然な会話がおろそかになる。
「あー。あー。あー」
「……って、水泳で外したまんま学校に忘れてきちまったってことか?」
柴田、ナイスフォロー。
「はい。だらしがないというか、抜けているというか……、けっこうこういうドジを踏んでしまうんですよ」
困ったように笑う彼女はどこか人形のようだけれどとても上品で、可愛らしかった。笑顔に緊張が少しほぐれると、制服の方にも目が行くようになった。
「その制服は……白女?」
目白山下女学校。男子校の光耀学園、共学である我らが鎌浦学館と並ぶ、ここらの進学校御三家の一角だ。お嬢様校として戦前から有名だった白女は、身分制度が解体された一方で教育支援が充実された現代でも、『名家』然とした家庭のお嬢様たちが通う学校だ。
「ええ、目白山下に通っています。そちらは……学館の方ですね」
「ヘヘッ、まあこんなナリだけど一応、な」
柴田が満更でもなさそうに俺と肩を組む。進学校に通って阿呆をやらかしているうちに見事に落ちこぼれになった俺と柴田は、こういう時と親戚の集まりにしかお利口さんアピールをする機会が無い。
「俺は柴田ケンイチ、野球部で右翼を守ってる。こいつは速水ハヤト。みためはゴツイし趣味で身体も鍛えちゃいるけど、中身は乙女なもんだから天文部でお星さまを見ている」
「あら、そうなんですか?」
「今月の計算資源もほとんどそっちに使っちゃって……」
彼女がくすくすと笑う。柴田の野郎も笑っていた。なんだか餌にされたような気分だけれど、俺にはハルがいるからここで花を持たせてやるのも友情か。
「えっと……あなたは……」
柴田のバカに連絡方法を残してやるために、一応名前を聞いておく。
「ワタシは……」
セーラー服の彼女は、あまり生気のない瞳でチラリと俺の右腕を一瞥した後、こちらをじっと見据えた。
「霧江レイコです」
それでは。と透き通った声で言い残すと、霧さんは江再びおぼつかない足取りで坂を登って行った。
「うわああすげえもん見た」
霧江さんが山をぶち抜くトンネルに消えると、柴田は隠す気もなく感嘆を漏らした。
「肌真っ白。髪むっちゃサラサラ。お人形さんみたい」
「な、すごかったな。ほんとすごかったな」
興奮している様子で柴田が語る。俺もあまりに浮世離れした霧江さんの美人ぶりに、非日常が転がり込んできたような心地がして浮き足立っていた。
「いやあ、本当に可愛かったなあ霧江さん」
「おう。すんごい可愛かった」
「よかったねえ、憧れの黒髪の乙女と出会えて」
ただ、一言も会話に混ざらなかったハルは、シラケきっていた。俺を横目で見ると少し尖った声で釘を刺した。こちらも思わず苦笑してしまう。嘲りだとかそんな意味じゃなくて、ただたんにたじたじになってだ。
「それで、あの子とラーメンでも食べてきたらどうなの?」
ハルが俺の腰の辺りを親の仇を見るような目で睨み付ける。死ね、このクズ豚と言わんばかりの熱烈かつ個人的にたいへん気持ちのよい視線にちょっと頬が熱くなる。
「そんなに俺の股間を見つめるなよ恥ずかしい」
「恥ずかしいのはハヤトの脳みその方でしょ変態。うじ虫。筋肉お化け」
「えふっ」
ハルのお言葉に、我ながら気色の悪い笑い声が漏れた。
柴田は顔をひきつらせて俺の肩に手を置く。
「今のお前、最高に輝いてるぜ」
「おうよ、お前も最高に輝いてるぜ兄弟」
「だろうな。なんたって来週あたりに新型のスライサーが届くんだ。これで肉のシバタは安全・安心な肉屋になるぜ」
「糞の役にも立たない情報をくれてありがとう柴田君」
「あれ?いきなりひどくね?」
くすくすとハルが笑う。その横顔を見ると、身体がカッと熱くなるような心地がした。霧江さんは美人だったけれど、ハルの笑顔の方がずっと尊く思えた。
湿った風がまた俺たちの頬を撫でる。少し上気した頬がことさら意識されるのは、風のせいなのか、夏への浮き立つ心のせいなのか、それとも口に出すのもためらわれる気恥ずかしい感情のせいなのか。
たぶん答えは一番最後のそれだ。
ハルのどこか寂しそうな視線が俺の右腕をなぞる。
ハルには自由に動く脚が無い。俺には本物の右腕が無い。お互いがお互いを助けて、お互いがお互いを独占しながら暮らしてきた。でも、そんな日常もそろそろ終わり。日常と非日常が交差して急転直下の大活劇が開始するだとか、そんな理由ではない。たんに、俺の右肩からぶら下がっている義腕が誰の助けもいらないほどの性能のそれに代わったからだ。
ハルの左肩に偽の右手を乗せる。そっと手を重ねたハルの手のひらから、柔らかい感触と少し冷たい体温が伝わってきた。