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押し付けられて

作者: 黒部伊織

 夜の闇に紛れて私は街を歩いていた。まだ終電前だということもあって繁華街は五月蝿く賑わっている。もっとも、一人で歩く私に見向きする人間はなく、街の明かりも私の歩いている部分だけ仄暗い闇を湛えている。

 私はこのあてどない夜をどう過ごそうかと思案しながら行く宛もなく彷徨っていた。そこへ急に人から声をかけられたので、少し歩みを止めた。

 最初は客引きか、酔っ払いの類いが声をかけてきたのだと思ったので無視を決め込んでいたが、何度も呼び声が聞こえたので思わず振り向くと、そこには私と同じくらいの歳と見える、丁度中年に差し掛かったと見える小太りで肉感的な女が立っていた。

 私は思わずその女の頭の天辺から足元までをしげしげと見つめたが、彼女は別段気にするわけでなく、寧ろ私が振り向いたことを喜んでいたようだった。

「ね、佐藤君でしょ?あたしの事分からない?ほら、小学生の時にクラスメイトだった田中よ」

 なるほどそう言われてみればそんな人間がいたかもしれない。元来、私は人間の姿形や名前をあまり憶えることが出来ない性質なのだが、彼女の顔や形は名前を聞いてみればそんな人物と知り合いだったかもしれないと思わせるものだった。

 あるいは、私がそう思い込んだのは彼女がどこにでもいそうな容姿をしているせいであったかもしれない。

「そうだったね」

 私は少し考えた後、何の気なしに田中と名乗る彼女に同意した。

「あのね、あなたに貰って欲しいものがあるの」

 私はそら来たぞ、と内心思った。彼女が小学生の折のクラスメイトだったとして、現在は何をやっているのかは怪しいものだ。当時の彼女の記憶などほとんど無きに等しい上に、金やら宗教やら、そういった怪しげなもののために旧知の人間を利用する事例は事欠かない。

「ね、少しだけでいいの。手間は取らせないから」

 私は彼女の態度が厭に馴れ馴れしいので嫌気がした。しかし、彼女は私の返答を待ってはくれず、私の腕を引っ張り路地裏に連れ込んだ。

 私は大いに怪しいとは思ったが、この夜の街に目的地などなかったし、少々気分が自棄になっていたこともあって、半ば開き直って彼女に引っ張られるがままにされた。

 彼女が私を路地裏に引っ張り込むと、その人気のない空間では、まるで水に潜ったかのように周囲の雑踏が遠のいて聞こえた。その上、私と彼女がたてる足音すらもくぐもって聞こえ、どこかしら異様な雰囲気が漂っている。

 彼女はふと立ち止まった。すると何処からか現れたのか、一目で上等とわかるスーツに身を包み、黒い帽子を被った男が二人立っていた。

「彼について行きなさい。どうせ行き場所がないのでしょう?」

 彼女は急に乱暴な言葉使いになると、二人並んだ黒尽くめの男の片一方を私の前へ乱暴に突き出した。すると、男は帽子を脱いで軽く会釈をした。

 私は男の顔をはっきりと見て、思わずギョッとした。

 男の顔は豚だったのだ。肌はピンクと灰色で、目が隠れるほど肉が垂れ下がり、顔中に薄い毛が生えている。そして黄ばんだ二本の牙が下顎からニョキリと生えており、不気味で醜い姿をしている。

「そいつについて行けば宿が取れるわ」

 女はこのグロテスクな豚男の前に言葉を失っている私を意に介さず、不敵な笑みを浮かべて言い放った。

 豚男は息を荒く吸っては吐き、吸っては吐きしていたが、女が「ほら、行きなさい」と命じると何処へともなく歩き始めた。

「ほら、あなたも早く行きなさい」

 田中と名乗った女は尊大な命令口調で私を急かした。

 私はこの周囲から隔絶された空間から出られるならばと、返事もせず一目散に豚男の後を追い始めた。

 豚男は最前感じた通りにやはり不気味ではあったが、あの得体の知れない女といるよりは幾分マシに思えた。

 そもそもこの化け物は見た感じや行動から察するに殆ど知性を持っていないように見える。そう思えば人間の頭に豚の頭が乗っかった化け物への不安もいくらか和らいだ。

 豚男は繁華街へ出るとあちらへふらついたりこちらへふらついたりしながらも何処かへ向かっているらしかった。私はその姿を怪しみながらもどうせ行く宛もないのだと開き直り、豚男の後をつけて行った。

 私は豚男と行き交う人々を観察していると一つのことに気がついた。驚くべきことに豚男に気がついている人間は誰もいない様子だった。それどころか、私自身すらも周囲の人間に認識されていないかのようだ。

 私の耳には街の雑踏が聞こえているには聞こえているが、先程の路地裏のように周囲の音が膜一枚隔てているかのように感じられた。

 それは私が巻き込まれたこの奇妙な事件のせいなのか、それとも自分に意識が朦朧とした状態にあるせいなのか判然としない。

 豚男は相変わらずあちらへよろめき、こちらへよろめきながら歩いていた。その姿を見ているとこの鼻をフガフガとうるさく鳴らしながら歩いている化け物に知性の欠片を感じることは出来ない。

 ところが、私の思いに反して豚男は遂に目的地を見つけたらしく、このへんのホテル群のなかで一等上等そうなホテルの中へ吸い込まれるように入っていった。

 私はしばし呆然とその姿を見ていたが、遅れをとってはならないと足早に豚男の後に続いた。


 ホテルの中へ入るとひんやりとした心地よい空気に包まれた。ここは何もかもが高級品で設えているようで、その豪奢な景色に私はしばし圧倒された。

「佐藤様でいらっしゃいますか?」

 天井にあるダイヤモンドのような照明を心ここにあらずといった体で眺めていたら、誰かが私に声をかけてきた。

 はっとしてその方向へ視線をやると、これまた身嗜みの整ったボーイがこちらを見ている。そしてその横には豚男がやはり鼻息を荒くして突っ立っている。

「はい。私が佐藤です」

「それではお部屋にご案内いたしますね」

 ボーイは要領の得ない私の返事を気にすることもなく、私と豚男をエレベーターへと連れて行った。

 ボーイがエレベーターの上昇ボタンを押すとすぐに扉が開いた。

「お部屋は8階の807号室になります」

 ボーイの説明を上の空で聞きながら、私はエレベーターから外の景色を眺めていた。エレベーターはこれまた趣向を凝らした作りになっていて、街の方に面した側がガラス張りで外が見えるようになっていた。

 その夜景を眺めるのは、周囲の雰囲気と相まって何かしら自分が特別な地位にいる錯覚に陥ったせいか頗る気分が良かった。

 程無くしてエレベーターが8階に着くとボーイは「こちらです」と言って私達の宿泊する部屋まで案内した。

 その部屋もまた素晴らしく広かった。寝室とリビングのような部屋があって、広い浴室がついている。そして調度品がいちいち高そうな物ときている。私が知っているホテルといえばベッドが部屋の大半を占領してユニットバスが申し訳程度についているものだ。

 私は子供のようにあちこちを歩きまわって見ていたが、豚男の方ではそんなモノには興味がないらしく鼻を鳴らしながら何処から持ってきたのかメニュー表のようなものを手に豚足で何かを指さしているようだった。

「佐藤様もルームサービスをご注文なされますか?」

 豚男の注文に頷いていたボーイが私の方へと尋ねた。あちこちをキョロキョロしていた私は随分子供じみた姿を晒したような気がしてちょっと恥ずかしくなった。

「うーん……要らない、かな」

 思わずそう口走ったものの、言ったそばから喉に渇きを覚えた。

「ビールはあるかい?あと、何か酒の肴になりそうなもの」

 ボーイは謹んで「かしこまりました」というとそろそろと部屋を出て行った。

 私はソファーの上にだらりと腰掛けている豚男を尻目にしばし部屋の中を探索していたが、一通り見て回ったので豚男の向かいに座ることにした。

 そうして私は豚男をしげしげと見つめた。見れば見るほど醜い姿である。この部屋の豪華さから一つだけ浮いているものがあるとすればこの豚男だ。それも、彼が来ているスーツが上等と来たものだから、豚男の体だけがまったくもって異質な存在なのだ。

 そうこうしているうちに部屋のドアをノックする者があった。声を聞くとさっき注文したルームサービスだったので私は「どうぞ」とドアの方へ言った。

 するとキッチンワゴンを押したボーイが入ってきて、豚男の前にずらずらと上等そうな料理を並べ始めた。その後に私の方へビールとチャーシューを切ったものを並べ、それが終わると私達の方へ一礼して去っていった。

 豚男は料理が並べ終わるか終わらないかのうちからガツガツと食べ始めた。不器用そうな豚足でフォークやナイフを器用に使うのには感心したが、グチャグチャを音を立てながら食べるのには閉口した。

 この豚男はこの部屋に似つかわしくない存在だと思いながら私はよく冷えたビールを流し込んだ。そして運ばれてきたチャーシューを頬張った。

 その時、壁際にあった姿鏡に写った自分の姿を見て、私は少々不愉快な気分になった。というのも、そこに写ったのが随分と見窄らしい格好の自分だったからだ。

 ここ数日の放浪生活をしていたとはいえ、鏡に写った姿が自分の目の前にいる豚男と同じくらいこの豪華なホテルに似合わないように見えて、腹立たしくなった。

 そして目の前の豚男が随分と苛立たしく思えてきたのでちょっとした復讐を実行することにした。

 私はチャーシューを一切れ、豚男の前に差し出し「食べるか?」と聞いた。すると豚男はそれをちょっと鼻をフガフガといわせたが、やがてチャーシューを口の中に放り込みうまそうにクチャクチャと食べた。

「うまかったか?」

 私が聞くと豚男は頷いたように見えた。そして再びテーブルの上に並んだ料理を食らい始めた。

「共食いだもんな。は、はは……」

 私はそう笑ってはみたものの、自分の愚かさに嫌気が差し、どことなく罪悪感を感じた。それからグイっと一気にビールを飲み干すと疲れのせいか酔いがいつもより早く回っているのを感じた。そしてひどい眠気を感じたのでよろめきながら寝室に行き、ベッドの上にうつぶせ倒れこんだ。

 布団はとても柔らかく、どこまでも沈んでいくような気がしているうちに、疲れのせいかすぐに眠りについた。


 翌日の朝、目が覚めて起き上がると豚男は既に起きだして、朝食を食べていた。豚男の前にあるテーブルには朝だというのに肉料理が並んでいる。見ただけで胸焼けしそうになったが、この豚男に負けてはいられないと思い、私もルームサービスで食事と酒を注文した。

 それからというもの、私と豚男は昼も夜もなく胃袋の許す限り食べては飲みを繰り返し、眠くなったら床に就くという日々を送った。

 古代ローマ人は美食と快楽の追求のためにものを食べては鳥の羽で喉を突っついて吐き出し、また食べるという芸当をしていたらしいが、私と豚男は食べたものを吐き出さないことが違うだけで、この現代にローマ人の習慣を寸分変りなく再現しているのだった。


 私はこの退廃的な生活のせいで何日が過ぎたなどとうに忘れていた頃に、誰も呼んでいないのにドアをノックする者があった。

 私がちょうどサラダのサニーレタスを頬張りながら「どうぞ」と怒鳴りつけると、男が一人、音もなく部屋に入ってきた。

 その男は背が低く痩せており、目はやけに細長い三角で、口は耳のあたりまで裂けているのかと思うほど大きかった。そしてその裂けた口の端にはちょっとだけニヤけたような笑みを浮かべていた。

「そろそろ、お支払いをお願いいたします」

 小男は私と豚男の前に進み出ると小さな紙片を取り出し、真面目な顔をしてそう言った。その紙片には6日という文字が書いてあるきりで、他は空白があるだけだ。

 私はそれを見てここに来てから6日も経ったという時間感覚を取り戻したが、一文無しなのでどうしたものかと思案した。

 そしてあの路地裏での女の話を思い出し、豚男がどうにかしてくれるだろうと彼の方を見た。すると豚男は小男の差し出した紙片に視線を釘付けにしながら、ガタガタ震えていた。顔面はやはり豚の顔だったが、血の気が引いているようで気色が悪い。

「さあ、お支払いを」

 小男は豚男の方へ急かすようかのように言った。豚男はまだガタガタと震えていたが、やがて意を決したのか立ち上がり、窓際の方へと歩いて行った。そしてまだ小刻みな震えが残る手で窓を開け放つと、いきなり飛び降りた。

 私はその様子をぼんやりと無感動に眺めていた。しばし時が止まったように感じたが、やがて下の方で奇妙な音がすると、急に階下から車の音や人が行き交う雑音が聞こえ始め、再び時間が動き始めた気がした。

「確かに、いただきました」

 ふと小男を見るとより一層ニヤけた顔になっていた。彼は必死にその笑みを隠そうとしているらしく、しきりに口元に手をやっていた。

「何かご注文は御座いますか?」

「酒を頼むよ。なんでもいい」

 私はこの一連の奇怪な出来事は、ただそうあるもの、としか受け取れなかった。人間が生まれて死ぬとか、太陽が東から昇って西に沈むというように、考えるまでもない当たり前のことだと感じたのだった。 

 小男が「かしこまりました」と部屋を出て行くと私は再び暴飲暴食の快楽に耽る生活を送ったのだった。


 それから私は豚男がいた頃と変わらず、時が経つのも忘れて飲んで食べて寝るだけの生活をしていた。

 快楽に身を委ねた生活は飽きることがなく、どこまでも貪り続けることが出来るように思える。豚男が居なくなって変わったことは、ただあの目障りな醜い物体がなくなったことだけで、かえって清々したくらいだ。

 そんな日々を送っていると、ある時、誰も呼んでいないのにドアをノックする音がした。私が乱暴に「どうぞ」と答えると、ドアがギイっと音を立てて開いた。

 そこにはあの時の小男が立っていた。小男はツカツカと私の前に進み出て6日と書かれた紙片を私に見せ「お支払いをお願いいたします」と言った。

「支払い……?」

「はい。お支払いを」

 私が訝しがって聞くと小男は最前の言葉を繰り返した。

「さあ、お支払いを」

 小男は私の目を見て再度言った。口元はニヤけていたが、怜悧な視線は私を震えさせた。私はガタガタと震えだし、何かに操られるように立ち上がった。

 体ではこの先に起こる破滅を予測しているのに、私の意識はこの三角の鋭い目をした小男に操られている。

「さあ」

 小男は急かすように言う。

 私の心は「嫌だ!」と叫び声を上げたが、声が出ない。体が勝手に動く。その上、感情や思考が朦朧としていき、意識が目の前の男に予めプログラムされたかのように動き始める。

 その時、ガシャンという音がした。

 自分の体重を支えるためにテーブルの上についた手が、食器をひっくり返していたのだ。手には冷たくぬめっとした感触があり、思わず私はそれを見た。

 手の甲にはチャーシューが乗っかっていた。

 そのチャーシューがここに初めてきた夜、私が豚男に放った馬鹿馬鹿しい一言を思い出させた。

「共食い、アハ、ハハハハッ……」

 急に涙と笑いが溢れてきて、私は意識と感情を取り戻した。

「畜生ッ!」

 私はテーブルの上にあった皿を小男に投げつけて部屋を駆け出た。小男は予想外のことに驚いて少しの間呆けていたようだが、私の後ろの方で「待てッ!」と怒鳴りつける声がした。

 私は立ち止まること無く一目散に走った。そして非常階段を三段飛ばしで駆け下りた。

 途中を三段飛ばし、最後の五段を飛び下りる要領で進んでいると、4階と3階の間にある踊り場でいつも私の部屋に食事を運んでいたボーイと会った。

 ボーイは少々驚いた様子だったが、やがて彼の目があの小男と寸分違わぬ細い三角の眼に変わったかと思うと「お支払いを……」と口走ったので、私は思い切り腹を蹴飛ばしてやった。

 ボーイは思いきり壁際に打ちつけられるほど吹っ飛んだ。足先に当たった感触はまるで犬か猫のようで人間とは思えない重さだった。

 私はボーイを振り向きもせず、再び一目散に階段を駆け下りた。そして1階のフロントの横を駆け抜け、通りに出た。

 飛び出た道路の上には何やらどす黒い影があった。私はそれを直感的にあの豚男のものだと感じてそこで思わず立ち止まった。

 後ろの方で「お客様……お客様……」という声が聞こえる。振り返ると今度は白髪混じりの老人が追いかけてくる。だが、その老人の目は先程の小男やボーイと違って普通の人間の目であることを確認すると私は安堵した。

 その時、私はホテルのガラスに写った自分の姿を見た。太陽の光が俄に私をこれでもかと照りつける。周囲の景色が極彩色に彩られ、騒々しい車の音が聞こえた。

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