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第参話 雪、芽吹く春

冬の山は寒くて厳しく、其れでいて山の光景は言葉を失う程に美しく儚い。

ふわりと降る雪は集落を包み込み、全てを真っ白に彩る。

そんな厳かで靜かな山にはとある噺がある。

「神隠し」と「美しき奇跡」だ。


これはそんな山の中で暮らす姉妹の噺。


雪が踊るように舞う。深々と、靜寂の中仄かな音が緩やかに流れる水のように染み渡り、辺りを包み込む。

 周りに生えている緑鮮やかな木々達の葉はもう既に枯れ落ちていて、物憂げな景色を彷彿させる晩秋はあっという間に過ぎ去り、何時しか雪がふわふわと辺り一面に降り積もっていた。

 雪が降りかかるその風景は、何もかもが真っ白に染められ、穢れの無い浄化された世界を思わせた。

 土、草、木。山に、川も全て。雪が其れらを砂糖菓子の様に真っ白く彩り、道行く人々が見蕩れて思わず綺麗と呟いてしまうそんな言葉は、この果て無き白の幻想的な雪景色を目の前にした人なら無意識に紡いでしまう。

 無数の雪が優しくも、ふわり風に吹かれて舞っている影響からか、日の光は満足に届かずに雪に遮られていて、太陽が真上に昇っているというのにほんの少し薄暗い景色となっていた。

 光が遮られているのが影響してか気温は酷く低く、そんな寒空の中で肌を出そうものなら寒さの感覚を通り過ぎて痛みとなって感じる。そして長く外気に晒していると神経的に麻痺を起こして凍傷になってしまう。そんな寒さの中、着物姿に布を被っただけの容姿の娘は、吐息を白く染めながら山道を足早に歩を進めていた。

「何度みても綺麗な景色……けれど、うぅぅー……やっぱり寒いなぁ」

 そう心底寒そうに身体を擦りながら呟くその女の名前は(まゆ)という。歳は十六で、胸にかかる位の長さの薄茶色の髪は一つに束ねられていて、耳の辺りから胸の方へ流れるように結ってある。その綺麗な髪質は雪国特有の芯の強い、艶やかな髪だ。

 繭は山の小さな集落で、まだ七つの小さな妹の(ゆう)と今は二人で生活をしている。

 繭の両親は、夕が三歳になった頃に雪山での仕事の途中で雪崩に巻き込まれてしまい、無念にも繭と夕を残してこの世を去ってしまっていた。

 繭の家は財産はあまり有しているほうとはいえず、両親を失った事は精神的にも体力面でも辛かったのだが、必然的に繭は夕を養っていく形となる。春から秋口にかけて畑や田圃で野良仕事に精を出し、夜は機織(はたおり)で自分達の衣類や売却の為に遮二無二働いていた。

 そして冬の間は、蓄えた農作物や米で餓えを凌ぐ。繭と夕が住むこの山の集落の辺りは昔から降雪量が非常に多く、一日で膝が隠れてしまう程積もる事も儘ある為、この集落の人々は冬の間は極力外には出ない様にする。

 それでもやはり外出しなければならない用事もあるし、内職した物も売りに出掛けなければならない人もいる。その為、建物にとある仕掛けが施してある。この辺りの住居は雪圧の関係上大体一階建ての家なのだが、屋根から外へ出る為の扉がある。冬用の隠し扉みたいなものだ。通常の玄関が雪で埋まった時に使うその扉は、雪山に住まう人々の昔ながらの知恵だった。


 繭は冬の間も継続して機織で織る反物や着物を売りに、山を降りた麓から一番近い村に出向いた帰りだった。そこで稼いだ金を懐に大切にしまい、その村で調達した食料や機織に必要な物を大きな風呂敷に包み、背中に背負っていた。

 その荷物は華奢な身体には辛い荷物と過酷な雪道だったけれど、家で待っている幼い妹を思うと自然と疲労で重くなった足は前へと進んでくれたのだった。

「此れなら今年はもう春まで外に出なくっても、大丈夫かも」

 空を仰いだ顔にふわふわと降り注ぐ細かい雪は繭の体温を容易く奪っていくけれど、繭は靜かに微笑み荷物を背負い直す。

 暫く歩いて漸く見えてきた繭の家は雪の色に彩られ、少し埋まってしまっている。屋根からは重みに耐えられなくなった雪が雪崩のように地に落ちていき、部屋の中の暖房による熱気で樋に氷柱が出来ている。氷柱の先端から一定の間隔で滴り落ちる水滴は太陽の光に反射して眩しい程だ。窓には木の棒を引っ掛ける細工が施してあって、そこには干した大根や柿等が吊るされている。保存も利くようになる上に味に深みがでたり、渋みが抜けたりと良い事づくしなこの地方の知恵だった。

 そんな見慣れた光景の其処には大事な妹の夕が待ってくれている。ふと訪れた安堵感は疲労をも一緒に連れてきて、今更ながら流石に疲労を感じ、繭は息を整えようと真上に上った太陽を手を翳しながら眺めながら靜かに深く呼吸したのだった――――



「今日は一段と寒えるなぁ、繭お姉ちゃん大丈夫かなぁ」

 囲炉裏の中で揺らめく火の暖かみは、夕に些細ながらも安堵感を(もたら)していた。姉の居ない冬山での孤独にはまだ慣れていない幼い夕は、やはりどこか落ち着かない様子だった。

 この姉妹の住む家の間取りはとても簡素なものだ。玄関を開けるとすぐ目の前には居間が広がる。床は歩くとぎしぎしと鳴る程には年季が入っているので、何人もこの部屋に集まったらもしかしたら床が抜けてしまうかもしれない。しかしよく手入れされているのか程よく艶があって、古さを良い意味で主張している。

 部屋の中心には床を四角く切って開けた所に灰を敷き詰め、薪や炭火などを熾すために設けられた囲炉裏がある。先端が鉤状の自在鉤(じかいかぎ)が天井から吊るされていて、鍋料理する際囲炉裏の火からの距離を調節する為にこれは必要不可欠だ。近くには五徳(ごとく)や火箸、十能、火消し壷など、綺麗に手入れされた状態で整頓されていた。

 他にも両親と一緒に使っていた家具が昔と変わらないまま設置されていて、板張りの壁には母の形見の綺麗な装飾の手作りの布が掛けられている。そして両親と繭、産まれたばかりの夕の写真が大切そうに額に入れられて飾られていた。

 二人は殆どの時間をこの居間で過ごしていた。後は寝室や物置部屋、浴室と便所があるだけの至って普通か、他の家屋の其れよりも少し劣る家屋だったが姉妹は今の暮らしに満足していたし、何より実家と云う存在は心にゆとりや和みを生むものだ。まだ幼い二人にとって、心の底から落ち着ける大切な場所だった。

「きっともうすぐ帰ってくるよね。そうだ、繭お姉ちゃん寒くって凍えてるだろうから、夕が何か暖かい物作ったげよーっと」

 夕は、囲炉裏からくる離れがたい温もりを名残惜しそうに眺めるも元気良く立ち上がり、にこっと微笑んだ。雪が降る山道を荷物を背負って歩いてくる姉を想うと、いてもたってもいられなくなったのだ。

 ふと台所に視線を送る。なんの材料が残っていたかな、何を作ろうかなと考えていると知らず知らずの内に涎が垂れてきて慌てて拭う。誰も居ないと解ってるけれど、見られていないか辺りを確認し顔を赤らめて、とてとてと台所へと歩いていく。ぎしぎしと音を立てる床は寒さのせいか痛々しく鳴り響き、冬の厳しさを感じさせる乾いた音は居間に響いた。

 台所には綺麗に整理整頓された料理道具が並んでいた。姉がいつも料理を作る時に使っていて大切にしている為か、錆びもなく良く手入れされていた。

 台所の傍らには、野菜が入った籠が置いてある。物置にもまだ沢山あるのだが、使う分等幾らかは台所に置いておく習慣がある。並べられた野菜を見ると、どうやらスープを作るのに十分な種類と量があるようだった。

「うん、よし。夕が美味しい野菜のスープを作って、繭お姉ちゃんに暖まってもらうんだーっ」

 慣れない手付きで色とりどりの野菜を籠から取り出す。橙が鮮やかな人参、しっかりした馬鈴薯(じゃがいも)に、ぎっしり黄身が実った玉蜀黍(とうもろこし)。その野菜達を並べると夕の無垢な笑顔が台所にふわり咲いた。凍えるような温度の室内は依然として低いままだけれど、其処だけはほんのり暖かかった。

 野菜を切る。これだけでも小さな夕には凄い事なのだった。姉の繭の御飯の支度の時には夕も手伝いはするが、包丁はまだ危ないからと持たせてもらえなかったから、これが実質初めての調理である。

「確かね、繭お姉ちゃんはね……こう、こうやって切ってたんだよね?」

 人参を手頃な大きさに切る。たったそれだけの作業だけれど危うい手つきで調理する幼い夕の姿は、見守る保護者がいたならば止めに入っていたかもしれない。あまりにも手付きが覚束無くて切り方が危なく、指を切る寸前で包丁がまな板を乾いた音で小気味よく鳴らしていた。

 何とか切ることが出来た野菜を眺めると、夕は得意げに微笑む。自分にだって誰かの為に何かを出来るんだと思うと自然と笑みがこぼれるのだった。

「これは出来る……火をこうやって、こう……あちっ! あぅー……」 

 調理を始めて二十分と少し。歪に切られた野菜達はまな板の上。居間の真ん中に器用に組まれた薪の上部に吊るされた鍋には湯気が立ち始めている。薪を組み上げ方は繭に教えてもらってよく手伝っていた為、夕はそつ無くこなして火を付けていた。言うまでも無く、軽く火傷してしまうくらいにはその着火も実に危なっかしかったのだが。

 沸騰する少し手前で投入した野菜達は、お湯の中で色とりどりに舞う。夕はそれを眺めると満足げに微笑んでいた。

「えへへへ、なんとかできそうかも……」

 寒い思いをしている姉の繭の事を思い浮かべて、暖かく湯気が昇る鍋に味付けをしていく。料理は、食べて欲しい相手の事を想えば想った分だけ美味しくなるんだよ、と繭から教わった事があった。だからこの野菜のスープはきっと美味しいはず、と夕は信じている。姉の事を考えながら丁寧に味付けをしていた、其の時だった。

「……?」

 居間の窓から差し込む太陽の光はもう直に真上に昇りきる頃。天井にある、冬用の扉も雪溶けの雫に太陽が反射していてきらきらと眩しい。ふと見上げたその天井の扉に夕は微かに違和感を感じた。

 それはほんの些細な、それでいて妙に気になる違和感だった。例えば今迄そこにあった物が無くなっているようにふと気になった時。でも何が無くなったのか、それが思い出せなかったり。

 例えば、其れとしか認識していなかったモノがよく見てみると実際には違って見えたモノだったり、とか。現実的ではないなにかが起こっていたとしたならば。

 夕はその些細な違和感を確かめずにはいられなくなった。料理の火もそのままに覚束無い手付きで徐に天井へと梯子を掛け、ゆっくり昇っていき、扉を開けて入ってくる色彩情報に目を凝らす。

「……えっ―――?」

 ぱきっと、乾いた小さな音は部屋に響いた。



 窓からは、真上に昇った太陽の光が遠慮も無く差し込んでいる。隙間風に揺られて緩やかに湯気が踊り、ことこと美味しそうに煮込まれている野菜のスープと、散らかった野菜の皮、調理道具。そして天井にかかったままの梯子があるこの空間だけが、不変である筈の時間の流れの中から取り残されたかのように只其処に存在していた。



「夕、待ちくたびれているだろうな」

 我が家の玄関の前に立つと繭は一仕事終えた充実感でいっぱいだった。待ってくれていた妹の為に美味しい料理を作ってあげなきゃと、雪で少し重くなった玄関を靜かに開けた。

「夕、ただいまー……夕ー? …?」

 繭は目の前の光景に言葉を失い、首を傾げていた。立ち尽くした繭の背中からは、大事に背負っていた荷物がずるりと落ち、木の床からは乾いた音をたてて部屋に響いた。

 居るはずの、繭の帰りを待つ妹の姿が何処を探しても見つからなかったのだ。

 家の中は全て探した。驚いてしまったけれど最初は悪戯して隠れているんだろうなぁなんて、大した危機感も無しに探してた繭だったが、探す箇所が減っていく内に顔が蒼白していくのが自分でもわかった。

「料理……? ついさっきまで夕が料理してたの……?」

 丁度いい火加減で鍋から湯気が昇っている。夕が外から帰ってきた自分の為にこさえてくれたのかと思うと、つぶらな繭の瞳に泪がうっすらと浮かんだ。夕の優しさが嬉しかった。けれど今は不安や心配で泪が溢れてる事に気付くと、身体の力が抜けて無くなっていき、ぺたんっと床に座り込んでしまった。

「一体何処へ行ってしまったの……」

 繭はそう小さく呟くと、虚ろに惑う瞳に梯子が映った。というか、家を探している時に何故此れに気付かなかったのかと気付いた刹那心臓が激しく波打った。

「嘘……まさか一人で梯子を使って外に……?」

 力の抜けてしまった身体で梯子まで這いずっていく。ひんやりとした冷たい床でさえ気にならない程に繭は動揺していた。

 そして嫌な予感の其れはとうとう確信へと変わってしまった。

 外へ通じる扉が、開いているはずの無い扉が少し開いていたのだ。冬の間、一人で梯子を登ってはいけないと夕には口を酸っぱくして教えていて、今までそれを守っていたというのに、だ。

 途端に扉へと向かう。少し錆びの匂いがする梯子から落ち掛けるのも気にしない勢いで駆け上り、ぎしっと音をたてる扉を開く。目が眩むほどの光は雪に反射して更に眩く網膜を激しく刺激する。身体半分を冷たい雪が降る外へ晒す。吹き付ける風はさっきまで歩いていた時よりも寒く感じて、容易く繭の体温を奪っていく。

「嘘……でしょ」

 そう呟けば繭は言葉を失った。

 目の前に広がる景色は雪に包まれて真っ白、他の色など見当たらない鮮やかな白だった。そして、あるはずだと思っていた小さな足跡はどこを見渡してもなかったのだ。


 あれから繭は茫然となりながらも、梯子を降りて程よく暖まった部屋に戻り、掻き乱れた脳の整理をしていた。

 この厳しい寒さの真冬に妹の夕の姿が見えない。その事実は繭の思考を容易く鈍らせる。

「まさか、神隠し……」

 どのくらいの時間をこうしていたのだろうか。脱力感、無力感を繭は華奢な身体で受け続けていた。後にやってきたのは虚無感、不安。気付けば時間は無情にも過ぎ去っていく。

「私がこうしている場合じゃない、のに……」

 その間に夕は一人でこの酷い寒さの中泣いているかもしれない。幼い妹はとても甘えん坊で泣き虫だ。突如焦燥感に苛まれると立ち上がり、外に冬の間は除雪を生業とする人達が今さっき近くにいた事を思い出すと、繭は泣き出しそうになる気持ちを無理矢理抑えつけて玄関から勢いよく飛び出した。




 雪山に住むにあたって懸念される降雪量と、その除雪。冬以外は他の仕事をしている男連中は、大概雪が降る季節になると集まって除雪をして働く。何人かの集団を作ってそれぞれ散らばり、集落に積もった雪を除雪する。雪匙(ゆさじ)と呼ばれる道具を使って、雪を削ったり抉り出したりするのだ。

 寒い雪の中での作業はかなり体力がいるし筋肉も使う為、基本的に丈夫な男が集まる。

 今、登山して家につくまでの道中、丁度繭の住む家の辺りで雪匙を使って作業している男達の姿があった。

 そこで集団を統括していた男の名前は(たか)という。歳はまだ若くて二十四。仕事柄やはり筋肉質で、髪は短く爽やかである。日焼けにも似た、雪焼けした顔は腕白で健康的な印象を受ける。

 手際良く効率的に雪を抉り出していき、仲間達にも的確な指示を飛ばす鷹の姿が目に入った繭は途中何度も雪に足を滑らせても、我を忘れて鷹に走り寄った。

「た、鷹さんっ!」

 鷹は、雪の中を薄着で駆け抜けてきた女の子のあまりに険しい表情に、ただならぬ何かを感じた。

「おお、どうしたんだ? そんなに慌てて、何があった」

「鷹さんっ、あ……あの、妹が、梯子で! 消えてて、料理があって、それで……それで……」

「繭、一旦ちょっと落ち着こか」

 繭が必死に紡ぐ言葉は支離滅裂、起こっている現状をきちんと伝えたいのに気持ちだけが先走って上手く言葉に出来ていなかった。鷹はまず落ち着くように繭の頭をそっと撫でると、幾らか落ち着きを取り戻した。

「私、山を降りて生活物資の調達をしてきたんです。それで帰ってきたら、さっきまで居た形跡はあるのに妹の姿が……無くって、何処を捜してもいなくって……」

「な、まさかこの辺の古くから語られている神隠しか……? そりゃ大変だ」

 鷹が声をかけると周りの男達が集まってくる。事情を説明すると、ざわざわとお互いの顔を見てはしきりに首を傾げている。

「今日はずっと此処で仕事してたけど見なかったけどなぁ」

「あぁ、見なかった」

「でも繭ちゃんと夕ちゃんの家からは薪の煙昇ってたから、てっきり夕ちゃん居ると思っていたけれど」

 数人の男達は口々にそう言うと繭は酷く悲しそうに、顔を歪ませた。そんな繭を心配そうに鷹は見つめ、今日の事を落ち着いて反芻した。

「繭、俺は今日本当に此処のあたりで仕事してたからこれは断言出来るんだけれど……屋根の扉からも玄関からも、夕の姿は見ていないんだ」

「じゃあ夕は、私の妹は一体何処に行ってしまったんですか!」

 鷹が呟いた言葉を聞くや否や繭は声を荒げた。不安からか、息も荒く肩で息をしている。そして理不尽に怒鳴っていた事に気付くと「ご免なさい……」と小さく呟き俯いた。

 鷹は繭の事も夕の事ももよく知っていて、親が亡くなってしまってからも兄弟のように接してきた為、夕が居ないという事実は鷹自身も酷く胸が痛くなっていた。段々と現実を理解すると皆焦燥感に駆られはじめる。

「おい皆、今日の仕事は一旦止めだ。この集落に住む人に伝えて兎に角全員で捜そう」

 小さな集落なので、一人が困ったら全員で助け合い、一人が不安に打ちひしがれているなら全員で何とかする。一人が幸せそうに笑っていればつられて皆が微笑む。此処はそんな暖かい集落なのだった。改めてその暖かさに触れた繭は、何度拭っても頬を伝う泪を止める事など出来なかった。



 幾らかの時が経ち、傾いた太陽が空を橙色に彩り始めた頃には既に集落中に広まり、集落皆での捜索が行われていた。

 繭達姉妹の家は勿論、近辺に埋まってしまっていないか。最悪の場合を想定しつつ広範囲で丁寧に慎重に捜しても、夕の姿どころか手掛かりさえも見つからなかった。たったの一つも。

 そうしている内に、橙色の空に薄く雲が包みこみ、止んでいた雪もまた靜かに降り始めた。

 冬の夕方は言うまでも無く早い時間に暗くなる。ましてや山の天気が曇りなら尚更だ。冬山の夜は大変危険だということは全員が承知だった。

「繭、俺はもう少し捜してみるけれど、このまま夜になると二次災害も懸念されるとかで一旦解散になっちまった……すまない」

 周りを見れば疎らだった人達も申し訳なさそうに退散していくのが見える。繭は悲しそうに見れば捜索してくれた事に感謝し、そして祈るように俯いた。

「夕……」

「繭、俺の他にも体力的にもまだ大丈夫そうな奴を連れてもうちょっと捜すわ。繭はもう寒いし暗いから家に入ってな」

「そんな! 私も捜します、どうか捜させて下さい! 御願いします……何かしてないと不安に押し潰されちゃう……」

 段々と黒味を増して、暗くなりだした空は悲壮感を助長させ、焦りや不安が心を支配してしまう。

 泣き出しそうな表情の顔で鷹を見据えると繭はそう訴えた。正に悲痛の表情そのものだった。

「繭、その気持ちは痛いほど解る。でももし、暗い中で夕が帰ってきたとき家に繭が居なかったら寂しいに決まってるだろう?」

 頭を優しく撫で、諭すように繭を説得すると渋々だけれど小さく首を縦に振った。鷹の本心から心配してくれている気持ちも、痛いほど解るからだった。

 そうして繭は一旦自宅へと戻り、段々と夜の帷が山を包み込んでいく。それでも鷹を含む一部の人間で夕捜しは続けられる事になったのだった。


 あれから数時間。家には繭が、暖をとりながらゆらゆらと揺れる囲炉裏の火を見つめていた。時々捜しに行こうかと思って立ち上がるけれど、鷹の気持ちを考えるとどうしても無茶出来ないと考え直してまた座るの繰り返しだった。

「夕……」

 それに妹がひょっこり帰ってきたときに私が居なかったら幼い妹は寂しいだろうな、と鷹の言葉を反芻していた。

 時刻はもう既に十時を過ぎていた。夕が作ったと思わしき料理の他に、調達してきた食材を使って夕の為にもう一品料理したのだが、繭は手をつけていなかった。とても食べるような気分にはならなかったからだ。

 肌寒い部屋には小さな火が薪をぱちぱちと鳴らす音と、古びた時計の時を刻む音、繭の靜かでか細い呼吸の音しかなかった。只々夜の静寂が繭をどろっと包み込んでいた。妹の夕が居ないとこんなに靜かなのかと辛そうに微笑していた。

 その時だった。玄関から戸を靜かに叩く音が聞こえたのだ。俯いていた顔も瞬時に玄関の方に向き、立ち上がる。

「夕……夕!」

 鼓動が高鳴る。(つまづ)きながらも焦る気持ちを何とか抑え、繭は手持ち台に乗せた蝋燭の灯りを手に持って玄関へと小走りする。

「……御免下さい」

 聞こえてきたのは若い男性の声だった。期待した夕の可愛い声ではなかったからか、悲しそうに顔を歪めてしまった。しかし考えてもみれば、夕は実家の玄関を軽く叩くということをするわけが無かった。

 しかし鷹の声という訳でもないし、ましてや知っている声でもない。兎に角繭は玄関の戸を開けてあげることにした。

「どちら様でしょうか」

 玄関を開けると雪が風に舞い、入ってきた冷気に身を震わせる。夜の冬山はもう暗闇と雪で視界も利かないし気温も相当に低く過酷になっている。その雪中に二人の人間が立っていた。なんとも不思議な雰囲気を纏っていたのが凄く印象的な二人だった。

 向かって左側に立っている男は黒髪で、蝋燭の灯りで優しく照らされた疲れの見え隠れする瞳は、綺麗な翡翠色だった。見つめれば見つめるほど惹き込まれるような気がする優しい瞳だった。そして深緑色した着物、上に厚手の布を羽織っているものの寒さで所々凍ってしまっている。

 向かって右側には碧眼の男の着物をぎゅっと掴んでいる小さな女の子。淡い桜色した着物の上に男の物であろう衣を羽織っていた。そして目を奪われる程に真っ白な長い髪は、早朝の綺麗な真っ白な雪を彷彿とさせる。瞳は紅蓮の鮮やかな紅。その対照的な容姿はこの場の時間の流れを忘れてしまう程に幻想的で不思議な二人だった。

「夜分遅くに申し訳ない。この山を越える途中だったんだが、この通り吹雪で、何とか一晩宿を御願いできないだろうか。せめて連れの小さな娘だけでも」

 申し訳なさそうに微笑む碧眼の男と女の子はもう既に疲労困憊な様子で、最初は夕が居ない精神的状況では満足に持て成すことが出来ないから断ろうと思ったのだけれど、繭の両親は旅人へは優しく持て成しなさい、という教えを思い出した。

「勿論です、ささ御上がり下さいな。寒かったでしょう、囲炉裏に火が灯ってますので暖まってください」

 繭は玄関に立つ二人を家内へと招き入れた。男は安堵からかほっと胸を撫で下ろすと会釈をして、繭に習って暖かい部屋の中へと入っていく。今までの酷い寒さから一転、まさに天国のような暖かさだった。二人の凍っていた着物や髪から溶け出した雫が、靜かに滴り落ちていく。

「あの、本当にこんな夜分にすみません。感謝します」

 碧眼の男は凄く安堵した表情で、ずっと男の浴衣の裾を掴んでいる幼い女の子の頭を撫でていた。

「そこの座布団に座って暖をとっていて下さいね」

 台所へと向かいながら繭がそう促す途中、碧眼の男の左手に巻かれた包帯の赤が目に入った。一目で解る程の出血だった。その赤い液体を吸った包帯には既に白い箇所が全く無く、凍ってしまっていた。恐らく傷口が閉じきってないままに。

「ちょっと、貴男それ……」

 繭が明らかに動揺した口振りで碧眼の男に戸惑いの視線を向けると、幼い女の子が無表情だった顔を初めて歪ませ、心配そうに裾を引っ張り男を見上げている。

「ああっと、止血が甘かった。包帯が凍った辺りから痛みを感じなかったから放って置いたのを忘れてた。いやすまない」

 靜かに微笑むと庇うように左手を押さえる。隣の幼い女の子は「痛いの黙ってたの……?」と小さな消えるような声でそう呟くと碧眼の男の裾を握っていた。

 繭は家に常備してある薬箱から新しい包帯を取り出して碧眼の男へ心配そうに渡す。あまり血の生々しい赤は得意ではないのか、繭は時折視線をずらしていた。

「有り難う、助かるよ」

 側に寄り添う女の子の頭を撫でて「大丈夫だ」と呟くと、碧眼の男は外へと席を外した。繭の戸惑いの視線に気付いていたからだろう。残された幼い女の子はどこか寂しそうにその姿を見つめていた。

 繭は、玄関から出て行く碧眼の男を心配そうにして見ていると、ふと視線を感じた。白い髪の幼い女の子がちらちらと時折繭に視線を送っていたからだ。

 こうして淡い灯りの下よく見ると本当に綺麗な髪で、紅蓮の瞳は透き通るように美しい。有り体に言えば儚げな美少女だった。

「えっと……寒かったでしょ? 今から何か温かいもの作るからね」

 繭も妹がいるから、幼い娘の扱いには慣れているつもりだったのだが、何故か緊張してしまっていた。

「……」

 言葉は発してはくれなかった。けれど靜かに首を小さく縦に振ったのを見て、繭は微笑みながら台所へと向かっていく。

 夕の分はちゃんと寄せてある。今日は夕が野菜を使った美味しそうな鍋を作ってくれているので、それを二人の為によそう。それに貴重な米でつくった暖かい握り飯。凍えた身体にはこの料理は暖かく染み渡るはずだ。外から帰ってきた時の暖かい料理は何にも変えられない程の味なのだと、繭は身をもってよく思うのだ。

 料理をよそって、幼い女の子に持っていこうと向かっている途中に玄関から碧眼の男がやってきた。その左手には真新しい真っ白の包帯が巻かれていた。

「包帯どうも有難う、助かりました。外はやっぱりまだまだ冷えますね」

「いえいえ、丁度料理も拵えましたのでどうぞおあがり下さい」

 目の前に用意された料理を見て、寒さに震えながらも碧眼の男は驚いた表情で中へ入っていく。

「なんと……まさかこんな御馳走まで用意してもらえるなんて」

 碧眼の男は嬉しそうに女の子の隣に腰を落とすと目の前の料理に目を輝かせる。二人にとって久々の温かい料理だったからだ。

「本当に頂いていいんですか?」

「勿論ですよ、さぁ、冷めない内に食べちゃって下さい」

 丁寧に手を合わせると、碧眼の男は小さく祈るように「頂きます」と呟いた。それを隣で見ていた女の子も真似して手を合わせて、「い…いただきます」と、まるでこうゆう食事に慣れていないように靜かに呟いていた。

「美味い……あぁこりゃまるで桃源郷にいるようだ」

 久々の温かい食事なのか、碧眼の男は微笑みながら頬を緩ます。隣の女の子は夢中で食べている。そんな姿を見て繭はふと、妹の夕を思い出した。忘れかけた焦燥感は未だに繭の心臓を激しく鼓動させる。

 暫く二人の食事に見とれてしまっていた。あまりに美味しそうに食べる姿は拵えた方からは見てて嬉しくなるものだからだ。

 気付くと男は既に料理を平らげてしまっていて、いつからそうだったのか繭は気が付かなかったけれど繭のほうを靜かにじっと見つめていた。

「あの……なにか?」

「凄く美味しかったです。ご馳走様でした」

「お粗末様でした。満足頂けましたか?」

「はい、本当にご馳走様でした。それとー……いや、気のせいならばこれは聞き流して下さい。今日貴女に逢ってからずっと……とても悲しそうな顔をしている気がして」

 どくんっと心臓が波打つ。繭は自分の顔に手をやり、動揺を隠せずにいた。

「一晩世話になっていることですし、こうして御馳走まで振る舞って頂いた。あつかましいかも知れませんがもし力になれることならば」

 刹那、繭の中に張り詰めていた何かが音をたてて壊れた。必死に取り繕った嘘の平静はそんな些細な一言で崩壊してしまった。気付けば繭は頬に伝う泪を止められずにいた。

 嗚咽は小さな部屋に靜かに響き、繭の華奢な身体は震えていた。幾らかの時が過ぎ、落ち着いてきた所で碧眼の男に全てを伝えたのだった。

「うーん、成程……それでだったのか」

 神妙な顔付きで話を聞いていた碧眼の男は、口元に手を添えるとなにか、分厚い辞書などをぱらぱらと検索をかけているように深く、深く思慮していた。

「な、なにか心辺りがあるのですか? ここまでの道中で何か気付いた事とか」

 口早に質問を繰り返す繭に対して、目を開けた碧眼の男は繭の後ろの方を視るように目を細めた。

「どうしたらいいかな。あまり気が進まないけれど、もう此は話すより視せたほうが早いのかな……」

 そう呟いて碧眼の男はゆっくりと立ち上がると、着物を簡単に直すと、隣に座る幼い女の子の頭を優しく撫でた。繭は先程からの話の流れから、男が言った視せたほうがいいという言い方が理解出来ずにいた。

「あ、あの……一体何を?」

 訳も判らない内に碧眼の男は繭の隣に腰を降ろすと諭すように微笑んで左手で頭を撫でた。

「この世界には、様々な生命が存在している。我々人間を含めた動物や植物、微生物や細菌。その中にはヒトに感じる事の出来ない生命も、いる。其れらは俺らが生きるこの儚い世界に、ずっとずっと昔から実は満ち溢れていたんだ」

 突然の御伽噺のような話に繭は戸惑いを隠せずにいると、碧眼の男は繭の背中に手を添えた。

「……力を抜いてくれるか。少しだけ、今から視える世界から目を逸らさないでほしい」

 繭の背中にそっと手の平が優しく触れる。ふわっとした感覚が包んだと思うと暖かいような、少し背筋が凍るような寒気がしたりと、有り体にいえば感じた事のない感覚が繭を包んでいた。

 そばにいる碧眼の男を繭は、覚束無い表情で見る。男の諭すような表情には碧眼がゆらりと泳ぎどこか戸惑いを感じているようにも見えた。

「繭、向こう。台所のほう」

 そう呟く優しい碧眼の男。しかし繭は目を離せなかった。男の顔、ではなくその後ろ。視えてしまっていた。自身の感覚が壊れてしまったのかと目を疑った。

 碧眼の男に纏わりつくような淡い光を放つ幾つかの球体。男の瞳のような翡翠の色や、薄い蒼。安定しない其れは細長く線のようになったかと思えばゆらゆらと浮かんでいる。よく凝らして視ると想像もつかないような其れは当たり前のように部屋中にいた。綺麗な白髪の女の子の周りにも、其れは漂っていた。

「あ……、あ……えっ……? あの……」

 いきなり知らない異世界に飛び込んでしまったのではないかと、繭は思わずにはいられなかった。目の前に広がっている想像を遥かに外れている光景は、神秘的であり幻想的で、繭の心臓は激しく鼓動を刻む。

「御免。あまり関係ない人に視せるのは禁忌だったりするんだけれど……」

 ゆらゆらと碧眼が揺れる。ふと視線がぶれる。繭はその視線を追う様に台所のほうに顔を向ける。

「夕……」

 とくんっと弾んだ心臓。見開いたままの瞳。半開きの口からは微弱な呼吸。言葉を失った人とは、こんな表情をするのかと碧眼の男は繭を見つめていた。

「夕……!」

 幻想の中、繭は正気に戻ると同時に台所へと小走りしていくその表情は、依然不安の色そのものだった。そこには明らかに普通ではない妹の姿があった為である。

 夕と思われる其れは、二重三重幾重にもだぶって見え、半透明に透けてしまっている。小さな身体は時折淡い翡翠の色になったかと思えばほぼ透明にまで薄くなったりしていた。

 恐る恐る手を伸ばしてみるけれど、無情にもすり抜けてしまう。繭はそんな姿に妹だというのに遠い、余りにも遠い存在に感じてしまっていた。果たしてこの状態を人と呼べるのかと。

「繭……」

 後ろから囁くように呼ぶ自分の名前の響きが繭の鼓膜を揺らした。一気に涙が溢れた。

「何故……何故こんなことに、一体どうしたらいいの……?」

 繭は振り返ると碧眼の男に縋るように問い掛ける。まだ幼さが残る顔が涙で濡れてしまっているのを見ると男は優しい表情を浮かべ、繭の前にしゃがんだ。

「確かに今は人とは呼べる状態では、ない。繭の妹、夕は酷く曖昧な存在になってしまっている。でもこうなってしまったからにはなにか原因があるはずだし、正直微かだけれど心当たりもある」

 大丈夫、と。だから大丈夫だと諭すように呟くと頭を撫でた。

 不安を拭い去れない繭は、今まで視ていた幻想的な世界が薄くなっていき、次第に視えなくなると再び涙を流し、何もかも包みこむような空気を纏う碧眼の男に抱きつく形で、暫く泣いていたのだった。


「外で捜索をしてる久々には一旦家に戻るように繭から伝えてもらえるか? それとちょっと調べたい事があるからからこの場所少し借りる」

「あ、はい。分かりました」

 あれからどの位時間がたっただろうか。落ち着きを取り戻した繭に、碧眼の男はそう指示すると、白い髪の女の子を呼ぶと何やら準備を始めていた。

 繭は準備しているのを眺めていると、指示された事を思い出し駆け足で玄関を開け、外へと向かう。深々と降る雪は月明かりに照らされ淡く仄かに光を放っていた。

 冷たい雪の中少し歩くと、ちょっと中休みしていた除雪隊の姿があった。

「た、鷹さんは、居ますか?」

 吐息が白く空に消える。繭は近くにいた除雪隊の一人に聞くと、すぐ近くに案内された。そこには鷹の姿があった。

「おう、繭。すまない、未だ見つかってなくて……皆今少し休憩させたらまた探すから、お前は家で待ってな。風邪ひいちまう」

 明るい表情で安心させようと優しく話す鷹は、雪で衣服は濡れて所々凍っている。疲れているはずなのに、疲れきっているはずなのにそれを悟られないようにする鷹の優しさに繭は思わずまた泣いてしまいそうになっていた。

「どうした? 繭」

「あの、今さっき旅人さんがきて、宿を探していたので私の家に泊めてあげる事にしたんです。そしたら、その旅人さんが御礼に力を貸してくれるっていってて、それで外で捜索してくれてる人を一旦引き揚げるように言われたんです」

「ほ、本当か」

 差し込んできた希望の光に二人は顔を緩める。鷹は周りにいた連中に事情を説明すると、「良かった……」と感嘆の声が聞こえた。

「しかし、その二人組の旅人ってのは信用出来るのか? もしかしたら、物盗かも知れないんじゃ」

 鷹が気付いた事をそのまま繭に問う。つられて疑念を抱き始めた鷹の仲間達が心配そうに繭を見つめる。その姿も、今まで一生懸命捜索してくれた事で、疲れきっていた。

「私は……信じてみます。無闇に旅人を疑うものじゃないと、父が言っていたので」

 それにすごくいい人達ですし、と微笑んでみせる。その表情も、また疲れで微妙な顔付きだった。

「とはいえ、一応気を付けておきます」

「そうだな、なにかあったらすぐに向かうから、今日はもう休もう。心配だろうけれど、夕の為にも体調崩さないようにな。繭」

 そう言うと鷹は手伝ってくれていた仕事仲間達にも今日は一旦帰るように指揮をとっていた。その力強さに繭は頭を深く下げた。

「今日はどうもありがとう御座いました」

「いやいや、心配だろうけれどもう少し頑張るべ、なっ皆」

「おう。明日また、探してみるから」

「繭ちゃんも今日はゆっくり体を休めてね」

 除雪隊の暖かい言葉と笑顔が、凝り固まっていた繭の心を優しくほぐしてくれたのだった。



 それから家に戻る途中、玄関の近くで何かしてる碧眼の男と女の子が繭の目に入った。

「ただいま帰りました。……えと、なにしてるんですか?」

 よく見ると数本の細長い硝子の容器に雪を入れているようだった。

「お疲れ様。あぁ、これは雪を採取してた所だ。この辺りの生命の流れと色を調べてみたくてな」

 寒空の下、硝子容器を見つめる碧眼の男の側で女の子は雪の詰まった数本の容器を持っていた。

「雪、ですか。でも風邪をひかない内に家に入って下さいね」

「ありがとう、もう採取終わったから上がらせてもらうよ」

 玄関を開けると居間の片隅に小さな作業台があった。いつの間にどこから? と繭は少し不思議に思ったのだが、二人は直ぐにその作業場で何か調べ物が始まったので、そんな違和感は気にならなくなっていた。

「えっと……私なにか手伝える事、ありますか?」

 見たことのない古めかしい本や、得体の知れない道具を横目でみつつ、なにか手伝いたい気持ちを伝える。

「そうだな、うーん……じゃあ今日はもう休んでもらっていいかな? すごく気を張っていただろうし、休めるときに休んだほうがいいよ。あ、明日晴れるように祈っててくれると助かる」

 思っていた手伝いとは程遠い返答に繭は少し拍子抜けしたけれど、実際体は正直だった。下山登山した影響で膝も笑っているし、身体のあちこちが痛い。隠していた疲れきった体の状態を容易く見透かされた気がして、繭は頬を染めると少し恥ずかしくなった。

「はい、では御言葉に甘えて先に休みますね。お気持ちは嬉しいのですがどうかあまり夜更かしして体調を崩さないよう、お願いします。ではおやすみなさい」

「うん、ありがとう。ちょっとしたら俺も休ませてもらうよ。今日は本当にありがとう、おやすみ」

 ぺこっと頭を下げると繭は眠そうに寝室へと向かっていく。その足取りはふらふらと危ういものだった。

 寝室に入った繭は鉛のように重く感じる身体を休めながら今日の事をそっと反芻する。下山して売りに行った着物や反物が思いの他高く売れたこと。美味しそうな食材や、乾物、保存食が沢山手に入ったこと。相も変わらず山は眼も眩む程に壮大で綺麗だったこと、山道は厳しかったこと。そして。

 妹の夕が居なくなり、ヒトとは呼べない状態になっていたこと。その夕に色んな話をしたかったこと。

 そして視た事の無い不思議な世界を視て、其処に夕がいると教えてくれた碧眼の男と、幼い女の子。

 どうか……。どうか夕が戻ってきますように、皆が笑える結末が来ますようにと、神様に祈ってる内に何時の間にか眠りの世界に旅立っていったのだった。



 繭が眠りに誘われた頃、碧眼の男と白雪は寄り添いながら囲炉裏の暖かみですっかり溶けた雪を眺めていた。

「これって……」

「あぁ、まぁ間違いないかな。こいつは羽雪(はねゆき)だな」

「羽、雪……?」

「前も教えたように、この今も俺や白雪の周りを翡翠色とか淡い光を放って形を変えながらふわふわしてるようなこれらを総して色鬼(しき)と呼んでいる。生命そのものの姿と言われている。今よりずっと昔、太古から蠢いているとされていて、その色鬼ってのは途方もないような種類があると云われているってのはこないだ話したな?」

「それでこれが、羽雪と云う色鬼……」

 白雪が覗き込む硝子容器の中には、他の雪はとっくに溶けて水になっているというのに一本だけ全く溶けてない雪が詰まっていた。

「よくみてみると解るんだけれど、結晶の形がまるで違うんだ。ほら、これが雪の結晶の絵でこっちが羽雪の絵だ」

 碧眼の男は古めかしい本を開いて白雪に見せる。先人から何代にも何人にも受け継がれてきた古書である。興味があるのか受け取ると宝物を触るように大切そうに扱いながら、まじまじと見つめていた。

「本当だ……この雪の結晶のほうがなんだか綺麗」

「羽雪になる色鬼が、雪に似せようとして上手く似せられなかったのかもしれないな」

 白雪は古書に描かれている羽雪の絵と実物を興味深そうに見比べている。

「あ、羽雪を直接触るなよ雪。夕があの状態、半分色鬼になってしまっている原因は羽雪で間違いないから」

 碧眼の男の説明を受けると白雪は靜かにゆっくりと羽雪の入った硝子容器を台に置く。

「そ、そうゆうことは早く言って頂戴」

 明らかに動揺しながら碧眼の男の二の腕をぱちんっと軽く叩く。白雪は動揺こそしてはいるものの、こうした何気ない時間の大切さや愛しさに改めて気付くと頬を赤らめて俯いた。

「いや、ごめんごめん。でも一応治療する術は運良く知っていたから大丈夫」

「そういう事じゃない」

 貴方に感謝しているの。と小声で呟くとほんの少し不機嫌にそっぽ向く白雪を見て碧眼の男はよく聞こえず、意味が解らずにただただ首を捻るだけだった。

「えっと、じゃああの半透明の子の治療も出来るということでいいの?」

「うーん、まぁ一か八か、かな。実際に試したことはないから。明日晴れたら治療してみる」

 そう言うと少し眠そうに浴衣の裾で眼を擦る。時刻は既に夜中の二時半を過ぎていて、あまりに夢中だったのか二人は全く気付かなかった。

「もう時刻も遅い。あちらの繭が物置に寝床を用意してくれていたみたいだから、先にいって休みな雪」

「うん……でも貴方は?」

 と、問いかけると碧眼の男は灰色の煙草を咥えて玄関に向かっていた。

「流石に泊まらせてもらう家の中ではこの嗜好は楽しめないしね。それにもう少し調べたい事もあるから」

 確かに、と小さく微笑めばおやすみなさいと呟き、白雪は寝床へと向かっていった。

 

 

 深々と降る雪は月明かりに照らされて淡く光り、碧眼の男の口から吐息と共に紫煙がゆらりふわり冬の空で踊る。山の深夜は只々静寂で、無音に鼓膜がつぶされる感覚は寒さと相俟って冬山の中に居るんだと認識させるに十分だった。

「雪、だいぶ喋るようになったし表情も豊かになってきたな」

 出会い頭、旅を始めた頃は心もまだ開ききってなくてとっつきにくく、感情そのものの表現の仕方がわからなかったのかと男は煙草を吸いながら思っていた。

「明日、晴れるといいな。なぁ色鬼よ」

 煙草を深く吸い込むと男の周りに色とりどりの色鬼が纏わり付いていた。淡く光る其れは気付けば周りに集まって美しい冬景色を更に幻想的に彩り、碧眼の男はそれを眺めると靜かに微笑み、眼を閉じて煙草を深く吸い込んだ。



 そして夜が明けて翌日。温かい日差しが山に朝を告げる太陽がゆっくりと昇り、雲一つ無い晴天となった。つがいの鳥が屋根の上で朝の到来を喜び、少しずつ暖かくなっていく空気は綺麗に澄んでいて、吸い込むと肺が冷たくて清々しい。

 繭の家の前にはもう既に碧眼の男と白雪、そして繭が朝の太陽を一身に浴びていた。

「えっと、昨日言ってた通りの晴天になりましたけれど、これで本当に夕は元に戻るのでしょうか?」

 心配そうに問う繭は、昨日みた夕の状態を思い出していた。半透明で不確かな、淡い光を帯びた大切な妹を。

「あぁ、天気は完璧だ。とにかくやってみるから、少し離れててもらえるか」

 そう呟くと碧眼の男はその綺麗な瞳を閉じた。

「此方へ」

 女の子は繭から少し離れた何も無い所を見つめ、儀式めいたようにそう呟く。さらさらと太陽の光を浴びた白い髪が風になびく。見える筈のない綺麗な粒子がふわり舞ったように見え、桜が描かれた着物姿が異様に綺麗で繭は思わず見蕩れてしまった。


 そして碧眼の男は何かを書き始める。地面でもなく紙にでもなく、何も書く物がない空中に。繭にはなんにも見えないけれど、白雪には何が書いてあるのか、どんな意味があるのか理解出来ているのだろう、男の其の様子をじっと見つめていた。

 指先で書き終わると太陽に向かって何かを引っ張るような仕草をした。その刹那。


 其処にはゆっくりと身体の色が戻っていく夕の姿があった。碧眼の男の向かいにちょこんと座っている夕は段々と血の気を取り戻していく。繭にももうしっかりとその姿が見えている。

「夕……夕!」

 眩い朝日の下、寝呆け眼の夕は繭が泣きながら抱き着いてきたのを不思議そうに首を傾げている。

「お、おねえちゃ、いつの間に? 帰ってたんだ繭お姉ちゃん」

 あれ、でもなんで夕、お外にいるんだろう? と何がなんだか解らないようで、何度も首を捻りつつも姉の繭があまりにも嬉しそうに泪を流しながら抱き着いてくるのが、なんとなく心配かけてしまったんだなぁと幼い夕にもわかった。

「繭お姉ちゃんおかえり。おつかれさま。家に帰ろう? 今日は夕、野菜の鍋を作ったんだよ。寒かったでしょ? 早く暖まって欲しいな」

「うんっ……そうだね……うん」

 そう頷くと出会ってから一番の微笑みを碧眼の男に向けて「本当に有り難う御座いました……」と何度も何度も感謝の言葉を紡いだのだった。



 あれから近所の鷹やその仲間、仲良くしてくれている近所のおばちゃん等徐々に集まってきた。繭は夕や鷹達等、心配してくれた人達に碧眼の男と白雪のことを簡単に紹介した。

 「それにしても本当に見つかって良かったよ、夕」

 嬉しそうにはにかみながら夕を抱きしめる鷹。本当に心配だったのだろう、目には薄らと泪が浮かんでいた。その周りには鷹と一緒に夕を探していた仕事仲間、近所のおばちゃん。夕の周りはもう春が来たように暖かで幸せで、笑顔と泪で溢れていた。


「もっとゆっくりしていってくだされば良かったのに。もっとお話も聞きたかったし何よりちゃんと御礼もしたかったです」

 落ち着いた頃、碧眼の男はもうこの山を後にする旨を皆に伝えていた。これからまた下山するので、天気がいい内に旅立ちたかったのだ。荷物は昨日の内にまとめておいている。

「すみません、急ですがもう旅立つ事にします。昨晩は有り難う、本当に助かったよ」

 朝日に照らされ風に揺れる黒髪、白髪。碧眼に紅蓮の灼眼。集落の人々はそのあまりの奇異、怪異、畏怖的で相対してて不思議な二人を見ても、変に騒ぎ立てたり厭な視線を向けることは無かった。いやむしろ。

「旅の人、道中気を付けて。この恩は忘れないよ、なぁみんな? 繭?」

 おおおおおーっと朝から元気な村人に、碧眼の男も、白雪も、そこにいる皆が微笑んだ。

 もうすぐ春が来る。



「行っちゃった」

 夕とぎゅっと手を繋いで、二人が歩いていった方を見つめる。大きな足跡と小さな足跡が違う歩幅で、されど隣同士寄り添って残っていた。

「さっきの人達が、その…夕のこと助けてくれたんだよね? また来てくれるといいなぁ」

 無邪気な笑顔は小春模様。つられて繭も綻び微笑む。

「うん、また寄ってくれるといいね……って、あっ……」

「うわぁ……」

 繭と夕の目の前、というより周りでなにかきらきらと光っている。

 これはこの辺りの山特有の自然現象と云われ、数多いなんらかの条件が揃わないと見れないという春を告げる美しい、それはあまりに美しい現象。

「繭お姉ちゃん、見て、光が舞ってるーっ」

 ダイヤモンドダスト、と呼ばれる現象がある。空気内の水蒸気が昇華して冷えて凍る事で、細氷が太陽の光をきらきらと虹色や金色に反射する現象。其れとはまた違う、もっと色が鮮やかで量も多い。そして何より地面から天に向かって舞い上がるように光の粒が流れているのだ。

「わ、私も初めてみたかも……なにこれ、凄く綺麗……」

 足元から溢れる光りの粒が、なんとなく碧眼の男から視せてもらった世界を連想させた。其れほどまでに圧倒的な自然の幻想現象だった。数少ない文献によるとこの現象を見たものは言葉を失い、暫くその幻想的な世界に酔いしれるのだとゆう。

「これはね、天雪(あまゆき)と昔から言われておるよ、この山に、春を告げる綺麗な現象」

 近所の物知りなおばちゃんが教えてくれた。ほんとに滅多に見られない現象なのだという。

「じゃあ、天雪に祝福されているみたいだね、私達と、旅人さんっ」

 天に舞い上がる光の粒子の中微笑む夕は、まるで天使なのではないかと思うくらい、皆が見蕩れてしまっていた。

「どうか幸多からんことを御祈り申しあげます」

 舞い上がる幻想的な光の粒子の中、繭はそう恩人の二人の事を強く想い、感謝しきれない思いを祈りに変えて、そっと目をとじたのだった。



「こりゃ……流石にすごいな」

「うわ……綺麗」

 丁度碧眼の男が煙草に火をつけた頃、幻想的な現象天雪が舞い上がった。

「ねぇ、これってもしかして」

「そう、羽雪。きっと濃い春の匂いに誘われて雪の中から追い出されて、空に還ってるんだろうな」

 それにしても……と。深く紫煙を吸い込み吐き出すとその光景に目を奪われて「こりゃ見事だな」と呟かずにはいられなかった様で、白雪と共に歩いていた足を止めて暫く舞い上がる天雪に見蕩れていたのだった。







水域です。


私は冬は凄く雪が降る地域に住んでいて、近くには山もありますので雪と山のお話を書きたいなぁと、冬の間ゆっくりと執筆しました。

冬の山は凄く靜かで、それでいて非常に寒いです。でも独特の空気はどこか汚い部分を綺麗にしてくれるような気がします。


今回登場した「色鬼」は、このシリーズに関り深いものになる予定なので、いつ頃碧眼の彼に説明してもらおうか思考した結果今回説明してもらいました。

これからまたちょっとずつ物語の進行と共に語っていこうと想います。


それにしても、天雪。見てみたい。

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