第弐話 夜を連れた白い月
山と山に挟まれた小さな村。村人は只平凡に生活を送っているが、ある日異変が村を襲う。
夜の闇は人の心を容易く支配し、浮かぶ月は素知らぬように淡い光で村を包み込む。月灯りの物語の和風ファンタジー。
空は平等に上に在る。空は様々な色で世界を包み込んでくれる。優しく、厳しく。
空を彩る黒色の中にふわり浮かぶ月は何時も変わらず其処にあって、日を重ねる毎に形を変えていく。
今宵は満月が闇夜に浮かんでいる。月が浮かんだ空の其処だけ、穴がぽっかりと開いているように見えた。
闇を照らす満月の月光が世界の半分を照らす中、とある村も月は同様に淡く包み込む。山の生命達も月灯りの下、噎せ返る匂いを発して、仄かな灯りを浴びて蠢いている。
木々は靜かに風の流れに身を任せ、緑の匂いを放ちながらさらさらと音がする。吸い込んだ雨水や雪解け水が山から渓谷へと流れ落ちる滝は村の近くに流れ落ち、淡い月の灯りをきらきらと綺麗に反射して、宝石のような金色の水となって流れていく。
そんな金色の滝の近辺、大きく聳え立つ山と山の渓谷にひっそりと在る仄暗い村は一見して見れば寂れた風、とまではいかないけれどどこか哀愁を漂わせていて、聳え立つ木々は素知らぬ様に靜かに揺れている。村を照らしつける淡い月灯りが其れを更に助長させ、印象的にしていた。
そんなに大きくない村だけれど、集落もいくつかある。他の村同様に畑や田圃が耕されていて実り豊かだし、旅人が山を越える時によく立ち寄る為、地理的にも評判だった。
そんな村には元来昔から呼ばれていた名前があるのだけれど、今は訳あって夜闇村、と呼ばれている。そうとしか呼ばれていない。
そんな夜闇村に関する、とある噺がある。近頃この辺りを通る旅人達もよく知っている、お伽のような噺だ。
曰く、夜闇村には太陽が昇ってこないのだと云う。奇妙な事に月が沈むと太陽は昇らず、また月が昇り始め、微かに形を変えて浮かんでいるのだと云う。
曰く、白い死神が山に住んでいるのだと云う。村人が云うには太陽が昇らないのはその白い死神の呪なのだと云う。
そんな噺が近くの山を越えた村や、その隣村にまで広がっているという。
夜闇村の隣の村から仕入れた、一枚の和紙に書かれているその噺を眺めながら、男は遺憾に思っていた。
「何故こんな目に……」
そんな呟きは夜闇村のとある小さな集会所に靜かに響く。歩くとぎしぎしと軋む床の音も、灯火が揺らめいて薄暗く照らされた部屋の中では只々酷く不気味な音である。
集まっている浴衣姿の男達の中の一人に、山吹という男がいる。歳は二十一くらいで、容姿は臙脂色の浴衣に、短髪で整った顔立ちをしている。村の中でも有数の刀持ちであり、日本刀が腰に治まっている。その日本刀は見事な拵えで、かの有名な、妖刀村正と同時期に作られた日本刀と云われ、名を桜華と云う。
どんな日本刀でも持てるのを許可されているのは現時点でこの村では村長の他に山吹だけである。
そんな山吹が渋い表情で目を通す和紙にはこう書かれている。
―――以下、夜闇村の奇譚を記す。
山に挟まれしその村には数年前から太陽が昇らないのだという。太陽と云うのはそう、比喩ではなく空に浮かぶあの太陽である。様々な方法でその原因を探ってみても皆首を傾げるばかり。時折寄っていく旅人達に尋ねてみても解らなかったそうだ。
日が当たらない事で当然作物は育たなくなり、村人は飢餓に困り果てたと云う。
夜闇村ではその変化に対応して、今では月灯りで育つ奇妙な作物が採れるのだと云う。細長い果物や、蛍光色の野菜等様々。一見とても気味が悪そうだが。
亦、この夜闇村には白い死神が出ると云う。山で月灯りに照らされて佇んでいる姿を村人が目撃したのだと云う。其れは其れは恐ろしいと村人は怯えて暮らしているらしい。
亦、夜闇村では一部流行り病に苦しんでいて、その病がまた異種らしく医者も首を傾げる程。死神が連れて来たか流行らせた新種の伝染病なのではと恐怖で嘶いているようだ。
村人達は白い死神の祟りだと祈祷師が日々祈りを捧げながらも、討伐隊も結成された。白い死神を討伐出来るか否かは正直判断しかねるが、討伐隊は死神と呼ばれる存在を討ち消す事で太陽を取り戻せると信じているし、流行り病も落ち着くと信じて行動しているようだ―――
和紙を眺めながら嘆息すると山吹は周りの男達を一瞥する。薄暗い集会所が静寂と気味悪さに支配されそうになっていた。
「もうこんなにまで噂が広まってしまっては、村の評判も右肩下がりの一方じゃないか。それに病も流行ってきているし」
山吹の隣に胡座をかいてそう呟いた男の名前は宗時と云う。歳は山吹と同じ二十一。
京紫色の浴衣姿に黒くて長い髪を後ろで束ねていて、宗時の前には小刀が置かれている。
小刀に関しても村では規制があり、刀持ちの人間の指揮する団体の中で選ばれた者が持てるもの。基本的に物資不足で貴重品な為、全員に持たすことが出来ないのだ。
「其れを俺に言われても困るんだよ宗時。それに、評判が悪くなっているのは既に分かりきった事だ」
困惑顔を浮かべる山吹は、少し離れた所に座る歳は十六の少年、海に話し掛ける。薄い蒼色の浴衣を着ていて、幼さの残る顔立ちをしている。
「最後に白い死神を見たのは確か、海の所の妹だったか?」
突然振られた話に海はたじろいで緊張で身体が硬直した。海にとって山吹は憧れの存在であると同時に恩人であるからだ。
前に冬の山で海が遭難した時の事。吹き荒れる暴風雪で、降り積もった雪も激しく舞い上がっていた。
そんな過酷な状況の中、足を怪我して動けなくなり死を覚悟した。薄れゆく視界と、麻痺した神経。激しい眠気に加えて走馬灯を体験した。思い出すかつて太陽が昇っていた活気のある優しい村、今も尚続く悠久の月夜、家族の団欒、友人の笑顔。
あまりの寒さと過酷さに意識を手放して放棄した時の事だった。突然の事で理解するのに時間がかかった。
目の前に人が立っていたからだ。そしてその人の名前を海は知っていた。
「海、無事で良かった、探したよ。さあ……帰ろう」
動かなくなって役に立たない身体を背負って歩いていく山吹さんの背中は優しい暖かさで満ちていた。泪が絶えず頬を濡らした。寒さで泪が伝った跡が凍ってもまた、泪が其れを溶かすほど、海は泣いた。
あの日程自分の生命の馨を濃く感じた事はなかった。
海はそんな事を思い出していると幾らか遅れて返事をする。
「は、はい。もう一ヶ月くらい前になるでしょうか、妹の渚と僕とで山へ山菜と薬草を探しに出掛けた時なんですが、渚が見たと云っておりました。僕は全く気付けなかったのですが、ゆらりふわり此方を見て佇んでいたそうなんです」
山吹は海の話を聞くと口元に手をあてがい、深く思考する。
「そう……か。明日にでも渚に会って詳しい話を聞くとしようかな。細かい場所等も聞いておきたい」
「了解しました」と頭を下げ会釈をすると海は軽い緊張状態から解放されて、安堵の息を吐くも、羨望の眼差しで山吹に視線を送ったのだった。
「しかしよ、山吹。かれこれ数年死神を追い掛けてるが、一度も見つけられないってのは一体なんなんだろうな?」
そう発言した男は、手元に置かれた酒をグイッと喉に通し、飲み干すと満足そうに器を床に置く。髭を生やして体格がいい男の名は佐久美。歳は三十で、灰色の浴衣を着ている。佐久美は村で狩猟をしているために火縄銃を所持していて、討伐隊としても貴重な存在となっている。
「確かに。佐久美さん、俺も恥ずかしながら今まで一度もその姿を見た事がないんだ。時々死神なんていないのでは、なんて思ってしまうんだよ」
「おいおい、そりゃあ山吹が言っちゃあ駄目だろう。一応お前が指揮してんだから」
隣で宗時が髪を掻きながらぼやく。「……そうだな」と山吹は哀愁ともとれる微妙な表情をした。
酒を呑みながらの集会は、討伐の話題から畑や田圃、新種の作物等、仕事の話や雑談へと変わっていく。佐久美が空になった酒瓶を端っこに持って行くと更に数本の酒を新たに持ってきて機嫌良さそうに半ば強引に注いで回る。まるで村に漂う不安や不穏、陰気な雰囲気を払拭するように注がれた酒を呑み、またいつか日が昇る事を祈って唄った。静寂などまるで無かったかのように男達は笑うのだった。
そうしている内に現在時刻は十時を回り、集会も御開きとなった。
「山吹」
片付けが終わり、帰宅しようとしていた山吹に宗時が心配そうな表情で話し掛ける。
「山吹の親父さん、大丈夫か? さっきの和紙にもちらっと書いてあったが、祈祷師なんだろ? やっぱりまだあんまり死神を討ち取る事にはいい顔しないんじゃないか?」
山吹は村長より白い死神調査と、討伐を命じられた。祈祷師である父親はその時村長に激しく異議を申し立てたが、村人は皆この異常事態に恐怖し、山吹も受け入れたのでやむなく計画は進んだけれど、今も祈祷師として死を司っている神を鎮める為に祈っているのだ。
「そうだな。けれど祈祷だけで済むならもうこの騒動は終わっているはずだしな。勿論親父は尊敬してるけれど俺は俺で動くよ。この現状を打破する為に」
宗時は山吹の言葉を聞くと靜かに微笑んで「そうだな」と安堵して呟けば横に並び、集会所を後にして互いに帰路へとついた。
空の黒は依然変わらず天を染め上げ、足が眩む程の存在感を放つ月は山に隠れだし、ゆっくりとゆっくりと沈んでいく。完全な闇に包まれて村は微睡み、一日が終わっていく。金色の滝も、今は無色透明の滝となり、無数の水滴は谷底へと激しく落ちていった。
程なくして淡い半透明の灯りが村を仄かに照らされる。先程とは違う、鮮やかな三日月が昇ってきたのだ。悠久と錯覚する程に繰り返される夜はまた月の灯りに照らされて、村ではまた夕闇の朝を迎える。生き物は日の出もとい、月の出を感じると蠢きだす。まるで太陽の光の下活動しているかのように。滝の色もきらきらと金色に照らされている。
村からもれる灯りは月が沈んだほんの少しの時間に消せるわけも無く。朝まで灯り続け、ずっと消える事はなかった―――
「ほぉー、確かに夜だ。噂通りだねしかし。……本当に朝かぁ? そこのあんた、何か時計か何か持ってるか?」
時刻は朝八時過ぎ。夜闇村の入口には商人と旅人と思しき男が村と三日月の灯りに照らされて二人、立ち止まっていた。一人は髭を生やした痩せ型の商人風の男で、紫色の浴衣を着ている。軽荷物を地面の上に置くと、隣にいる旅人に話し掛けていた。
「ん? ああ。ちょっとまってくれるか。えー……っと、ほら」
黒髪で碧眼の男が深緑色した浴衣の袖から古めかしい懐中時計を取り出すと、髭の男に渡す。
「おぉ、なんだか珍しい懐中時計じゃないか。どれどれ? うーん、やっぱり朝なんだねぇ……。朝なのに月がでているなんて不思議な事もあるもんだな。あ、そうだー……なぁ碧眼の兄ちゃん。山道で何か荷物を見なかったか? 野宿した時忘れたみたいでな。急いで戻ったが見当たらないんだ。中に商売品入ってたんだよな」
くそっと毒吐けばさっきまで下山していた山を商人は恨めしそうにみる。しかし端から見ても誰もがこの髭の男が悪いと言うだろう。山での野宿で熟睡でもしたのだろう、山で荷物を手放しにしていると野生の獣にさっさと奪われてしまう。旅人ならば誰もが知っている知識だ。
碧眼の男が袖から灰色の煙草を取り出して火を付け、紫煙を深く吸い込むと吐き出す。煙は三日月に照らされてゆらりふわり踊っている。
「お察しします。因みに何が入っていたんですか?」
「着物や浴衣さ。上質で綺麗な反物が遠くの村で仕入れれたんでな。雪のように繊細で白い浴衣と、桜のように淡く染められた着物さ。此処で高く売ろうと思ったんだがなぁ」
商人として辟易するよと呟けば決まり悪そうに頭を掻きながら苦笑いする。
「あんたは? よく見れば珍しい瞳の色だが……そうだな。商人って感じでもないし、旅人か? 粗方、この村の奇妙な噺でも耳にしてわざわざやって来たんだろう」
興味津々に髭の商人は碧眼の男に問い掛ける。商人の云う奇妙な噺とは、太陽が昇らない村とか死神の噺だろう。
「まぁ、そんなものかな。様子を見に来たんだけれど、こりゃ……」
成程ね……と呟けば灰色の煙草の紫煙がふわふわと揺れた。そして商人が何が成程なんだ? と聞こうとした時。
「ようこそ。商人様と旅人様でよろしいですかね?」
村から、門番などと仰々しいものではないが、男が足早にやってきた。
異変が起きてからというもの、商人や旅人が村に入る前に軽く質問をする習慣ができたらしい。入村した人を把握する為らしいのだが、それは何かがあった時の為の予防線なのだろう。
出身や目的等簡単な質問を受けると「やれやれ……」と呟けば髭の商人が置いていた荷物を持ち上げ、振り向く。
「じゃあな。また何か縁があったら商売させてくれな兄ちゃん。此処で俺は何かめぼしい物を探しにいくよ」
荷物で塞がってない方の手を挙げると商人はずんずん村の中へと入っていく。
「あ、門番さん。すみませんが、この村の村長さんの住処は何処らへんです?」
碧眼の男は商人を見送った後、吸い終わった灰色の煙草の火を消しながら門番に話し掛ける。
「えっ? あー……此処から少し離れた所ですが、この道を真っ直ぐ行けば次第に大きな柳の木が見えてきますので、そこの屋敷が村長さんの住処ですよ。ただー……」
「ん? ただ?」
「ただ、今は御存知の通り村はこの様な状態なので、村長さんも毎日非常に忙しそうにしています。はっきりいってちゃんと話が出来るかは保証しかねるんですよ」
申し訳無さそうに門番の男は呟く。村長は村長で調べ物をしたり、討伐隊の報告を纏めたりと忙しいようだ。
「わかった。忠告有り難う」
碧眼の男は一度振り返って月夜の淡い灯りに照らされた山を目を細めて見る。そうして門番に手を挙げると、流れ落ちる金色の滝を背に村の中をゆっくりと歩いて、闇夜に揺れる大きな柳のほうへと向かって行ったのだった―――
同刻朝八時。村人は朝日を浴びる事無く目を覚ます。空に浮かぶ月は村に朝を拙い灯りで伝えるのだ。外では、闇夜の空に同化した真っ黒い鴉が群れて鳴いていた。初めてこの村で宿をとった者は、解っていながらこの常軌を逸した状況に戸惑い、呆けてしまうのだという。
山吹も昇月と共に起床し、月明かりの下支度を整えていると父親も起床したのか部屋にやってきて、一緒に朝食をとっていた。
「山吹」
渋い声で山吹の父親の山土が山吹に話し掛ける。機嫌が悪そうなのは単に朝だからという訳ではないのだろう。朝早く外で月光を浴びながら黙祷した後にも関わらず山土の思念は全く落ち着く事はなく、歪み、激しくぶれてしまっていた。
「なんだ、親父」
初めから父親が何を言ってくるのか分かっていた山吹は軽くあしらう様に空返事をしつつ、白米を貪っている。
「父さんはやはり思うんだよ。討伐や祈祷等ではない、なにか解決する方法が。なにか別の原因が。死神などと畏怖を煽るような事は戯言なんじゃないのか?」
見たこともないし証拠も何もないだろう、と呟くと山土は味噌汁を啜る。本来なら朝日が差し込み、眩しさを覚えつつも太陽に祈りを捧げ、一日の始まりを喜びつつ明るい部屋で朝食を摂るはずだろうけれど、今は真夜中のような雰囲気が陰鬱さを醸し出して、暗くない話題さえも暗くさせていた。
「じゃあ何だ、親父。この村がこうなっているのは手掛かりも何もない、原因も分からないって言うのか。不安でも何かせずにはいられないからこうして些細な手掛かりでも頼りに動いているんじゃないか! それも無駄だって言うのか?」
俺だって……。と小さく呟くと腰に差した日本刀の桜華を掴み、山吹は部屋を飛び出していく。ぎしぎしと音を鳴らす廊下はいつもより険悪な音となり、後からじわじわやってくる虚無感と罪悪感に山吹は苦い表情をしていた。
山土はすっかり冷めていた朝食を摂り終えると、さっきまで山吹が座っていた所に視線を送る。
「お前の母さんは、本当は祟りや死神の呪なんかで亡くなってなんかいないんだよ。元々身体が弱かったんだ。母さんが居ない事の現実と真実に目を背けちゃ駄目なんだよ、山吹」
卓袱台にある二人分の朝食。綺麗に食べ終えた食器と名残の残る食器を片付け、台所で洗い終えると山土はゆるり哀愁を纏わせて祈祷場へと、三日月の灯りに照らされた廊下をゆっくりと歩いて向かったのだった。
それから山吹は家を出た後、考え事をしながら少しゆっくり歩いて海の家に来ていた。昨日の集会で言った通り、海の妹の渚に会う為にだ。海の住む屋敷の戸を靜かに叩くと中から海の声が響いた。
「御待ちしておりました、山吹様」
海は月光に包まれる山吹を屋敷の中に促した。小さな屋敷だけれど、住み心地の良さそうな造りで、玄関から部屋へと上がると居間が広がっており、其処に渚が居た。薄い黄色の着物を着た、少女だ。
「海、渚。朝から悪かったな」
山吹は海に持ってきた手土産を渡す。中身を見た海は「わぁ、有難う御座います」と深々と頭を下げた。中身は今ではすっかり貴重になった野菜類だった。
「山吹さんっ」
黙って座っていた渚が山吹に駆け寄り、抱き着いた。海が渚を注意しようとしたが、山吹は笑顔で海を宥めた。
「山吹さんは、えっと……白い何かを、その、やっつけちゃうんですか?」
山吹は最初、いつも応援してくれる渚が何を言っているのか解らなかった。なにか躊躇している様子の渚は薄らと涙さえ浮かべている。
「あ、あぁ。そのつもりで今日も渚に詳しい目撃の話を聞いて、それから支度をして出掛けるつもりだったよ」
だから、よかったら詳しく聞かせてくれないかな? と渚の頭を優しく撫でながら囁いた。
「えっとね。お兄ちゃんと山菜を採りに行ったの。その時、空を見たらなんか、雲が月に照らされた大海原の波みたいに蠢いていて、恐かったけれどなんとなくその蠢きが綺麗だなぁって思って眺めてて、ふと金色の滝の方を見たの。そしたら真っ白の……うん。私にはね、その姿は死神とかそんな禍々しいものには見えなかった。むしろ寂しそうだったの……」
ふいっと山吹から視線を外すと渚は悲しそうに顔を歪めた。山吹はそんな渚の様子をみるとまた決意がぶれた気がした。朝の父親の事があったから余計に。
山吹は渚の話してくれた事をよく心に刻み込んだ。この娘の言う事に偽りはないだろうから、繰り返し反芻しながら大切に深く深く刻み込んだ。
「ごめん、渚。山吹お兄さんはね、この村が大好きなんだ。海も渚の笑顔も俺は守りたいんだよ。其の為に必要ならその死神の討伐も躊躇しない」
言い切った山吹は「でもね……」と続けた。それは今まで溜め込んできた不安や感じ続けていた畏怖、弱音を吐き出す様だった。相手が小さな女の子だからか、張っていた気持ちがゆるりと解けていくように山吹は感じていた。
「俺はその姿を実際見たことがないし、実体の無いモノを何年も追いかけているんじゃないか、とかさ。父親の言う事の方が実は正しいんじゃないか、とかね。なぁ渚、海。正義ってのは一体なんだろうな?俺の中にずっとあった正義の定義なんてのはさ、実はもうとっくに崩壊しているんだよ」
そう言い残すと、いつの間にか用意されていたお茶を飲む。海がきっと用意してくれたのだろう。ぬるくなってしまったけれど一気に飲み干せば立ち上がり、玄関に向かっていく。
「海、渚。有難うな。渚、渚の言いたかった事は山吹お兄ちゃんに伝わったからな。ちゃんと、正しく伝わったと思うから、そんな悲しそうな顔はもう止めな?」
見送りに玄関までちょこちょこ付いて来ていた渚の頭を再度撫でる。渚は安心したのか可愛らしい微笑みを見せた。
「じゃあまた。村長の所まで行って来るよ。海、山に入る時は何時もの合図をするから。渚、海兄さんを良い子で待っているんだよ。じゃあ、行ってきます」
履物を履きながら海と渚にそう言葉を紡いだ。言葉は月灯りに乗って小さな渚にも優しく届いただろう。渚もいつもの様に「お気を付けて行ってらっしゃいませ」と微笑み、その隣で海も柔らかな微笑みを送ってくれていた。二人が妙に大人びて見えたのはきっと柔らかな月灯りのせいではないんだろうなと山吹は思いながら海の屋敷を後にし、さらさらと音をたてて、風に流されながら気持ち良さそうに月灯りに淡く包まれた大きな柳の木のある村長の屋敷へと向かって歩いて行ったのだった―――
ゆっくりと歩を進める。そして村長の屋敷を確認すれば、碧眼の男は辺りを見渡すと、月夜の朝という異様な状況を肌で感じていた。村人は当たり前のように農作業しているし、夜行性の生物に限らず犬等の動物も活発に生活していた。しかし空には漆黒が広がっているし、当たり前のように三日月が浮かんでいる。
「御免下さい」
玄関まで行って碧眼の男は声をあげる。程なくして中から使い古したような、渋声が返ってきた。
「誰かのう? 今行くでよ、ちょっと待っとれ」
玄関の戸がぎしぎしと唸る。徐々に開いていく中からは綺麗な青の着物姿が垣間見えた。髪も薄くなり、所々白髪混じりの貫禄あるお年寄りがゆっくりと出て来た。彼が村長で間違いないな、と碧眼の男はなんとなく雰囲気で思った。
「いきなりの訪問、申し訳無いです。私、今浮き草をしていまして……。今時間宜しいですかね? この村で起こっている異変、詳しく聞かせて頂きたくて」
村長は旅人と名乗る碧眼の男をまじまじと見る。瞳の色、深緑のしっかりした浴衣。と、村長はそこで男に対して微かな違和感を抱いたのだった。
「そうかい。旅人のあんた、まぁゆっくりしていくといい。今は丁度休んでた所なんでな」
年寄り独特の柔らかい物腰で旅人を中へ導く。碧眼の男も村長の御言葉甘える事にし、玄関から中へと入っていく。
中へ入ると立派な日本家屋で、一番最初に目に入るのは洒落た関節照明と、それに照らされた植物だった。それは豪華な旅館を思わせ、碧眼の男は感嘆の息を漏らした。
村長が招いたのは、畳が敷き詰められた客間だ。若い藺草の匂いが気分を落ち着かせ、薄暗い部屋の中と差し込む月灯りが部屋のそんな雰囲気を助長していた。
「まぁ、お座りよ、旅人さん」
座布団を用意してくれたので、碧眼の男は遠慮がちに座る。それを見て村長が重苦しそうに口を開いた。
「儂もたまには誰かに話を聞いてもらいたい時も、あるさね。それで旅人さん、何が聞きたいのかね?」
「主にこの月夜の事と白い神の噺、ですな。間違ってなければ其れは私の力になれる領域なので」
碧眼の男がそう云うと村長は目を見開き、口が自然と開いていく。
「な、な……本当なのかね? 一体……」
村長は焦るように急かすように言葉を紡ごうとするけれど、老いた身体の心の臓が激しく鼓動を刻み込む。そうやって齷齪していると、「村長ー、入りますよ」と、山吹の声が玄関から聞こえてきた。
「村長、今日の報告なんだが……っと。なんだ珍しい。客かい?」
山吹は客間に座っている碧眼の男に視線を送ると怪訝そうな表情を作った。
「どうも。旅をしている者です。この村で起こっている異常の噺を聞いて立ち寄ったんだが、もしかして君が噂の討伐隊なのかな?」
へぇ…と火の点いていない灰色の煙草をくわえながら妖艶な微笑を浮かべる。
「いかにも討伐隊だが……村長、何故」
「何故村の長である我が家にただの旅人を招いたのか……か?」
小さな子供に問題を出すように村長は山吹を見つめると諭し始める。山吹の怪訝な表情は変わらない。
「旅人さんの知恵に頼るほど儂の体力や知識ももう、使い果てたのだよ山吹。旅人さんが云うには、この異常事態は自分の解決できる範疇みたいものだ、と言うのだ」
それはどんなに甘い言葉なのか分からないわけではあるまい? と村長は柔らかく微笑んだ。
「そ、そうでしたか……失礼しました」
納得いかないような浮かない表情で村長の隣に正座で座り込むと、ちらりと碧眼の男を見つめると押し黙ってしまった。
「さて……どこから話せばよいか。太陽が昇らなくなったのはもう何年も前だの。急に太陽が消えてしまったのではなくてじゃな、消えたというよりも太陽が沈んだっきりといいますかの……? ある時、朝に月が昇ってきたのですな。そりゃあもう驚きました。今じゃ皮肉にもなれちまいましたがね」
村長は苦笑いすると小さく笑った。まるで孫にでも聞かせる為の御伽噺を、紡ぐようにゆっくりと語りだす。
「丁度その頃からですかな。山に白い何かが……何かいるんですよ。死神なんて誰が云ったのか、今ではその呼び名がそのまま定着してしまいましたがの」
話を聞いていた碧眼の男は一瞬眉間に皺を寄せると村長に視線を向け、足を崩すと畳の擦れる音が客間に響いた。
「村長は、その白いモノってのをどの位ちゃんと見ました?」
「あぁ、その初めて月が朝に昇った日のことだがな、山で見たんだよ。霧や霞がすごかった、そんな中でね……ゆらり、ふわり、佇んでたよ。あの時はなんとも云えず怖かった」
話を聞き終わると、早々に御馳走様と言わんばかりに立ち上がり、浴衣の裾を直すと山吹と村長を一瞥する。
「話は大体わかりました。解決出来るかは期待はしないで下さい。この噺がどんな形で終焉を迎えるか、私にも正直わからないです」
失礼します、と呟くとどことなく機嫌悪そうに客間から出て行く。
「ちょ、ちょっと……待たれよ旅人。いきなり如何したというのだ? 何処へ行く」
村長が焦燥しつつ足が震えるのを我慢しながら立ち上がる。
「ちょっと山へ様子を行ってきます。あぁ、それと……その匂いはどんなに洗っても消えやしませんよ村長」
そう云い残すと足早に屋敷を出て行ってしまった。恐らく、というか間違いなく山へと向かったのだろう。そんな碧眼の男の態度に山吹は話についていけなそうにしていたが、村長に対する無礼に気付くと怒りを隠すことはなかった。
「あの男……次にあったら叩き切ってやろうか……村長大丈夫ですか?」
心配そうに村長に寄り添うと村長は山吹に気付かない程に顔は青ざめていた。歯をがたがた鳴らし、手を見つめていた。漸く山吹に気付くと無理して微笑んでいるのが傍からみてもわかるくらいぎこちのない表情だった。
「あ、あ……あぁ。大丈夫さ。山吹。山へ行ったあの旅人じゃがの、旅人と自称しておったがな。あんな荷物の無い軽装の旅人何ぞ何処探してもおらんのじゃよ。用心して追うがいい。山の精気に当てられておったら保護してやれな……」
そう促すと村長は奥の部屋へと向かって弱々しく歩いていってしまった。
村長の命令が出たときに山へ探しに行くこととなっている。それ以外は村での仕事だ。だから山に行く事よりは村の仕事の方がどちらかというと多い。今日は山吹達にとって一週間ぶりの山となった。
「そうと決まれば、集合かけねばな」
村長に了解の返事をすれば、独り言のように呟いて村長の屋敷から道を挟んで反対側へと向かう。そこには、火事などの非常時に鳴らす鐘があり、こじんまりとはしているものの、高い位置まで伸びた建物は軽く村を見渡せる程だ。山吹は上にゆらゆら浮かぶ三日月を見れば決心したように、鐘を一定の間隔で鳴らし続ける。朝の夜月の灯りに包まれる村に、心地よい鐘の音が鳴り響いた。これは討伐隊集合の合図である。
数分後、仲間達が集まってきた。その様子を見るといつもよりちょっと少ないなと山吹は思ったがとりあえず点呼を始める。
「各自並べ。そして自分の名前を言え」
「海」
「宗時」
「佐久美、えーと、すまん以上だ」
他の者はどうしたんだ? と山吹が尋ねると、殆どが畑や田圃の仕事の手を放せないのだそうだ。其の中でも数人は体調不良を訴えているらしい。
「体調不良? まさか、目から痛みが全身に巡るあの奇病じゃないだろうな?」
山吹は心配そうに尋ねる。奇病、と云うのも丁度太陽が昇ってこなくなってから流行った病の中の、一つの症状で、村人達はこぞって死神の呪だと騒いでいる。
「そのまさかです山吹様。今日は診療所の患者達も収まりかけた痛みが疼くのだそうなんです」
大事をとって休んでもらったほうが懸命でしょうね、と海が暗い表情で呟く。
「なぁ、山吹。俺もなんだか妙に胸騒ぎがするんだよな。別に満月って訳でもないんだけれどな」
そう宗時が山吹に話しかけると隣から佐久美が乗り出してくる。
「あぁ、俺もだぜ宗時。狩人の腕がこんなに唸るなんざ、あのばかみたいに巨大な猪を撃った時以来だぜ」
がしゃん、っと音を立てる佐久美の火縄銃はしっかりと肩に担がれている。
「実は俺も妙な感覚になっている。正直胸騒ぎというより山のあまりに強い生命の匂いに吐き気がする……。あぁそうだ、今日は山に旅人が入ってしまっている。この異常事態を解決できるかもとか村長に言っていたらしいが、どうだろうな。まぁ月も陰ってきていて危険だから見つけたら保護するように」
仲間の粋な声を浴びた山吹は、雲で陰りだした三日月がふわりと浮かび、金色の水をひたすらに流れ落とす山に向き合った。患者たちや、仲間の事が心配で不安になりながらも山吹達は山へと向かうことにした―――
月。月夜。闇夜。山に照らしつける三日月の淡い灯り、昼の月光を浴びようと動植物は蠢く。
丁度月は真上、昼近くはなっただろう時間に、登山に疲れたのか、碧眼の男は金色の滝が近くに見える小さな池の畔に座っていた。
「流石にこの噎せ返る山の生命力の匂いと、沢山の吐息は目が眩む。異常事態……ねぇ」
どこか辟易そうにしつつ片足を池に突っ込んでいる。
山道は、地元の村人でも簡単には進めない程激しい坂や、泥濘、斜面を這うようにしてここまできた。しかし歩きながらの景色や月はやはり珍しいし綺麗だったなと碧眼の男は靜かに微笑んだ。
「其処に居るんだろう? 何もしないから、警戒しないで出て来てみないか? 話がしたいんだ」
唐突に碧眼の男は、依然金色の滝から視線を外さないでどこかへ向けて声をあげた。
男の周りには綺麗な深緑の器が幾つか置かれていて、中に盛られた様々な混合粉末に火を付けているのか、御香のようにゆらゆらと月へ向かって煙が上がっていた。其の時ふと、煙が蛇行した。
「……よくきたな」
碧眼の男はゆっくり振り返る。深緑の浴衣の袖から灰色の煙草を取り出して火を付ける。吐き出した紫煙と御香の煙が混ざり合って漂い、徐々に薄れていく。
三日月の灯りに照らされているとはいえ、薄暗い山の中なので視界は良くない。それでも碧眼の男は、その姿を捉えると目を見開いた。
目の前の光景に理解するのに時間が掛かった。天使が目の前に居る、とさえ思った程だ。どう表現したらいいのか、男は解らずにいた。
碧眼の男が視線を送る先には、有り体に言えば人間がいた。死神などではなく年端も行かない少女だった。闇に、闇夜に包まれた世界に其処だけが異様に白かった。
艶やかな白い髪、瞳の色は鮮やかな紅蓮の赤。それに雪を思わせる儚げな色の浴衣を着ていて、あどけない表情で此方を見ている。少女の綺麗な足はぼろぼろに傷ついていて、裸足だった。男はあまりに痛々しい姿に見ていられなくなった。
「言葉、解るか?」
男の問い掛けに少女は小さく頷く。怯えたような、警戒心が空気を伝ってくる。
「辛く、寒かっただろう……よく来てくれたな。こっちにくるか? 君の痛みの全てを癒やせはしないけれど」
立ち上がり、手を軽く差し出すと男は微笑んだ。少女の顔が悲痛や悲しみ、哀愁感にと様々に染まっていき、歪んでいく。長いこと自分を隠し、嘘を付き、消し去っていた堪えきれない程の儚い想いはやがて溢れ、泪となって少女の頬を伝う。
「……っ」
少女はこうして何度独りで泪を流したのだろう。何度独りで堪えて我慢してきたのだろう。次第に泣きじゃくり喘ぐ少女に歩み寄り、硝子細工を扱うように碧眼の男は少女を優しく抱き締めた。長い間張っていた気が緩んだのか、声をあげて深緑に顔を埋め、幼い少女は泣き出したのだった。
孤独の闇。恐怖の夜。年端も行かない少女を支配した黒い感情は次第に心を蝕んでいった。
少女の名前は白雪と云う。先天的に髪は正に雪の如く白く、その瞳は燃え盛る炎の如し灼眼だった。
生まれつきに神力と呼ばれる異形の中の異形の力が流れていて、少女に司っている力の影響によって先天的に身体の色素が抜け落ちてしまっていた。
劣性遺伝や突然変異によって発現するアルビノとは違ったものの、白雪の生まれた村ではすぐに差別の対象になってしまい、次第に扱いが酷くなっていく差別にこのままでは白雪の命に関わると判断した親が、泣く泣く遠くへと白雪を逃したのだそうだ。
白き者や物はしばしば神聖なもの、あるいは逆に凶兆とされ、信仰の対象として畏れられてきた。その影響をこの少女は幼い内に、それも生まれてからずっと迫害という形で受けてしまっていたのだ。
なんども立ち止まり、振り返り、独りで逃げ惑って辿り着いたこの山で白雪は暫く暮らした。故郷を思いながら人目を避け、凶器を持った狂気に満ちた近辺の村人に追われながらもずっと、幾年も。
孤独に一人、闇夜の中で耐えながら。
碧眼の男は泣きじゃくる白雪の口から感情的に紡がれる、凄惨な過去を只黙って聞くと抱き締め続けた。陰る三日月の灯りの下、優しい月光に包まれてもう大丈夫だと、白雪にそう言い聞かせるように―――
一方山吹達は山を登り、散策していた。時には獣道でさえ構わず進んでいく。今日は人数も少なかったので全員纏まって進んでいた。
「山吹、昨日の晩は満月だったのに今日の明け方昇った月は三日月なんて、こんな事今まであったか?」
宗時は左手を小刀の柄に手を置きながら月を見上げつつ山吹に問い掛けた。
「そうだな。数年の月欠けの記録はないから曖昧だけれど、確か前の晩が鮮やかな満月で、初めて朝に月が昇った時は三日月だった気がする」
宗時は「そうだったっけか」と呟けば三日月を見上げつつ歩を進める。
「でもよ、皆感じてるだろ? 今日の山はなんか様子がおかしいってよ」
佐久美が妖艶な笑みを浮かべると肩に背負った火縄銃を背負い直した。
「はい、僕も正直胸騒ぎが山に入ってから更に強くなりました」
海も佐久美に続いて呟いた。景色や月は何も変わらないのに、山吹達は確かな異変を肌で感じていた。薄暗い山中は不気味さを増して尚其処に在り続ける。
「これ、皆さん奥歯に挟んでいて下さい」
海は唐突に持ってきていた巾着袋から小さな木の実を取り出した。
「それは…苦蟲か、海」
苦蟲とは、夜闇村で採れる薬草の一種で、村では漢方にも使われる。
「かなり気が遠くなりそうになった時や、意識が朦朧としたときに奥歯で噛んで下さい」
海はそれぞれに渡す。各自奥歯に挟むと宗時が早速「うわっ、苦っっ」と喚いた。山吹は苦笑いしながら首を傾げる。
「海が、意識朦朧としたらと言ってただろ、馬鹿かお前は」
宗時は渋い顔をしてる中、小さな笑いが山吹達を包み込んだ。入山した時から付きまとっていた不安な気持ちが宗時の御陰で、風と一緒に消えていった気がした。
「もう少し進んだ所に池があって綺麗な場所があるから、其処まで散策したら一旦休憩にしよう」
山吹がそう声を掛けると皆嬉しそうに喜んだ。嶮しい登山は、容易に山吹達の体力を奪っていく。休憩という言葉は蜜の味だった。
「そういえばよ、山吹」
佐久美が泥濘に気をとられつつ問う。いつもどこかおどけている印象の佐久美とは雰囲気が少し違った声色だった。
「よく思っていたんだけれどよ、何時も村長ってなにをしてんだ?」
山吹は知ってるのか、と何の気なしに聞いてきた。山吹は返答に困った。じつは山吹自身村長が普段から何をしているか何も知らなかったからだ。
「いえ、そういえば何も知らないですね」
「山吹ですら、か? まぁ別にいいけどよ」
聞いてきた割に佐久美は素っ気無く話を終わらせた。全員意味が分からずに首を傾げるばかりだった。
そうしている内に目的地の池がある場所が見えてきた。一歩一歩踏みしめる大地は妙に湿っぽかったけれど目前にすると俄然足が進む。
そして到着したその時。
「……えっ?」
思考が止まった。山吹は今自分の状況を把握する脳の演算能力さえも麻痺していた。目の前の光景は其れに陥るのに十分だった。
只々白い。闇夜に浮かぶ、逸脱した白さ。そして灼熱の紅蓮瞳。その異形の姿は周りの景色から浮いている。
靜かに脳の中のシナプスが回路を繋ぎ始めた。少しずつ自分が今理解が追いつかない程のモノに遭遇してしまった事を理解し始めてきてしまっていた。
恐怖。畏怖。ヒトは理解出来ない物をいつだって恐怖して勝手に怪異としてきた。其れをいつだってヒトは神、悪魔、死神と評してきたのだ。今ままでも、今でさえ。
「ひっ……死、死神……っ」
海も膝が笑い、尻餅をつく。宗時ですら顔を引きつらせている。山吹は混乱する頭のまま言葉を紡ぐ。
「おい、た、旅人。これはどういう事なんだ……なぜお前がソレの側に居るんだよ!」
山吹は震える腕で日本刀に手をかけるその手つきは恐怖で、初めて刀を持つ素人を思わせる程に出鱈目なものだった。すると碧眼の男がゆっくりと口を開き紡ぐ。
「皮肉なもんだな」
山吹達は怪訝な表情で碧眼の男を睨み付ける。三日月を覆っていた雲は晴れて、月灯りが降り注ぐ。
「御前様方が村の為にとずっと人の命を救おうとしているあんたらが躍起になって追ってきたのは、何の罪もない年端も行かないこんな幼い少女だったんだからな」
山吹ははっとした。そして自然と、その言葉が耳に引っかかった。
「なんの罪もない……だと?」
「あぁ、まるっきり無実だ」
「しかし、その、死神が――」
その時激しく翡翠の瞳が空気が歪めてしまう程に鋭くなった。山吹達の気のせいかも知れないが、一瞬強い風が吹いた。池には波紋が生まれ、木々は何かの力に煽られて、揺れた。
「二度とその言葉を紡いでくれるなよ、小僧」
そのあまりの迫力に山吹は言葉を飲み込んだ。人間にできる芸当とは到底思えなかった。薄らと滲む額に浮かんだ油汗が気持ち悪かった。
「悠久の夜。終わらない夜。昇らない太陽。これは確かにこの少女の異質の力が引き起こしている。けれど、その原因を引き起こして作ったのはあんた方の村長で間違いないんだよ」
「な、んだって?」
山吹は口を半開きにして聞き返した。海も漸く落ち着いてきたのかちゃんと碧眼の男の話を聞いている。少女は碧眼の男の後ろに回りこみ、強く目を瞑りながらしがみ付いて震えていた。
「よく聞いてくれ。これは嘘などではない真実の話だ」
男は落ち着いた口調で少女の過去を分かりやすく説明した上で数年前の物語を紡ぎ始めた。
「白雪はこの山に辿り着いて追い詰められつつも生活を始めた。そんな時だ。村長がどこで仕入れたのか知らないが、その時手にした日本刀が恐らく強く呪われていたんだろう。妖刀は汚い心を増幅させるからな。ま、村長が抱いていた悪意は妖刀の特性など必要ではなかったかも知れないがな。そして、年老いた男が狂気に満ちた形相で綺麗に月光の反射する日本刀を其処に偶々いた少女の背中に突き立て、切り付けた。酷い傷だった。今でも背中にはその痣が残っている。其の時に、押さえ込めていた異形なる神の力が暴走した」
今も続く闇夜はその力の影響なんだよ、と碧眼の男は続けた。
混乱する山吹達は一応その事を理解をした。あまりの事に目を背けたくなったが、それがどうやら事実らしく、山吹の身体はがたがたと震えていた。
「で、では本当に俺は……なんの罪もないこんなに幼い少女を……?」
歯を食い縛りながら耐えたけれど溢れる涙は頬伝う。山吹は自責の念に押しつぶされそうになりながらも必死に頭を下げた。
「謝って済むことではないが、すまない……すまなかった。長い間すまなかったっ……」
山吹は声を上げて泣いた。今までの溜まりに溜まった感情が流れ出して止まらなかった。其の時だった。
辺りにふと焦げたような、そんな匂いが立ち込めた。山吹がその匂いを火薬の匂いだと気付いた時にはもう既に遅かった。
「うわぁぁぁぁぁっ……」
佐久美が額に脂汗を浮かばせながら酷く錯乱していたのだ。そして噛み潰された苦蟲の殻が側に落ちていた。無意識に、ずっと撃ってやると気構えていた積年の感情が暴走したのだった。佐久美は、泣いていた。靜かに、されど激しく泣いていた。点火してしまっていた。
「佐久美さんっ、やめ……」
海の叫びも虚しく、弾丸が少女に向かって空気を切り、火薬の爆発の加速で突き進んだ。一瞬の出来事だった。辺りに鮮血が飛び散った。
「うあ……あぁぁぁぁぁっ……」
白雪と名を持つ少女は碧眼の男に寄り添い、撫でた。泪を流しながら必死に血だらけの手を握っていた。
白雪を咄嗟に庇った碧眼の男の左手を、火縄銃から放たれた弾丸が貫通していた。男は苦痛で顔を歪める。
「真実から目を背けちゃ駄目なんだ……小僧。山吹、だったか。それは自分でも痛い程よく解っているんだろう?」
痛みに耐えながら言葉を紡ぐ。袖から灰色の煙草を取り出すと火をつけ、ゆっくりと紫煙を吐くと佐久美に寄り添い宥める海に身体を向ける。
「終わらない夜はとりあえず俺がなんとかしてやる。お前らはお前らでする事があるだろう……行けっ……」
早く戻れ、と声をあげた碧眼の男の指示通りに、山吹達は動いた。何度も何度も頭を下げ、涙を流しながら下山していった。村長の日本刀を見つけ、元凶を破壊すべく。
碧眼の男はふと力が抜けたように白雪に凭れ掛かった。そして独り事のように靜かに呟きながら目を瞑る。
「こうゆうの、改めて思うが、全然がらじゃないな本当……」
溜息交じりに微笑んでいた男を見て、白雪はその意味を良く解らずに首を傾げていた。
「白雪、先程説明した通り……出来るか?」
まだ泣きじゃくる白雪の頭を優しく撫でる。安心したのか、男に対して初めて微笑んで、ゆっくりと浴衣をはだけさせ、背中を向けた。三日月の灯りが闇夜を切り裂き、辺りをふわふわと優しい灯りで包み込んだ。
「そうやって笑えるんだな、白雪。笑えるのなら笑っていたほうがずっといい」
碧眼の男は身体を起こし、白雪の背中に傷のない右手を翳すと靜かに目を閉じて背中に触れ、月の灯りを浴びながらゆっくりと言葉を紡いだ―――
村に着いた討伐隊は、休む間もなくすぐさま村長の屋敷に向かった。戸を叩いても返事がなかったので、今まで誰も立ち入ることのなかった奥の部屋にいるのだろうと山吹の推測によって、全員警戒しつつ向かった。
部屋の戸を無理やり開くと、呪われた日本刀に縋っていた村長が居た。息は薄く、心の臓は動くのを躊躇っていた。
「山吹……村長は多分あの例の夜以降、というかこの日本刀を手にした時にはもう、心を奪われ乗っ取られていたのかもしれないな」
ぐったりしていた村長を佐久美と宗時が布団の敷かれた部屋へと運び、安静にさせる。その間に、山吹
と海は呪われたと云う日本刀を山土に祓ってもらい、その後桜華で滅して、埋葬していた。徐々に顔色がよくなる村長を見て、山吹達はほっと胸を撫で下ろした。
それから時間が流れ、村を照らす月は沈んで、また半欠けの月が昇り、沈む。そうして何時もと変わらなく一日が終わる。
其の時だった。村を眩い光が照らしつけた。山から顔を出す光の塊は無条件に暖かみを孕んだ色を撒き散らす。
太陽が昇ってきていた。辺りは月夜の暗闇の中では見えなかった色彩で溢れかえり、色濃く村を彩っていく。
起きてきた村人は数年ぶりの太陽に涙し、拝んだ。山土も黙祷を中断し、太陽を見上げ手を合わせる。其の隣に疲れ果てながらも太陽に拝む山吹の姿もあった。
数十分後、程なくして山吹は宗時と海に会った。
「あの時の旅人と少女は無事なのだろうか。太陽が昇ったと云う事はやはり解決してくれたのだな、あの翡翠の瞳をした旅人は」
数年ぶりの朝日を浴びながら宗時と海に問いかける。
「ですね。あの方の手の傷も心配ですし、なにより女の子にきちんと謝りたかったな」
「まさかこのまま立ち寄らないなんてないよな? 俺は村を救った人をもてなしたいし、感謝に気持ちを伝えたい」
山吹はなんとなく感じていた。もう碧眼の旅人は立ち寄らないだろうな、と。しかし待ち続けたいと思う。やはり村を救った、解決してくれた恩人の事を忘れるなど、到底無理な話だ。
「いつかまたふらっと来るといいな。其の時まで夜闇村、いや…日之出村をもっといい村にしよう」
様々な柵や悩みから開放された山吹達は心の底から笑顔になった。眩しすぎて目が眩む程に太陽の光を全身で感じながら。
「背中の入墨の痛みは収まってきたか?」
隣に居る透き通る白髪の少女、白雪はこくんと小さく頷く。
「あ、ありがとう……」
碧眼の男が白雪の背中に彫った鮮やかな入墨模様は、傷によって暴走した神力を抑える為に必要だった。依然傷の残る背中を、靜かに、撫でた。桜色の着物を着た白雪の頬が桃色に染まった。
「……私、毎日がすごく怖かった。どうにかしていい方向にもっていこうとしたんだけれど……やっぱりどうしようもなくて、どうにもならなくって」
物憂げな視線が碧眼の男に向かって注がれる。男は太陽に照らされながら目を細め、黙って聞いている。
「もういっそ、このまま果てのない闇を彷徨う影になってもいいとさえ、私は思ってた……」
「なら一緒にくるか」
「えっ?」
白雪は目をぱちぱちとさせて、碧眼の男の言葉の甘い、白雪にとって毒になり得ないほどに甘すぎて脳が痺れるその意味を反芻していた。
「でも、でも……私が一緒だと、迷惑になる……んだよ?」
「此処じゃない、遠い所のとある噺だがな白雪。長い間、何百年も孤独だった水神がいた。小さな社の神だったけれどな、その神の強い想いは自らを犠牲にする形でだが積年の願いをとうとう自分のものにした。まぁ今はゆっくり眠っているんだがな」
白雪はいきなりされた話を理解できずにいた。きょとんと首を傾げた。
「望みを捨てるな。白雪がもう大丈夫と云う其の時まで、一緒に過ごそう」
「……っ。あーん…」
一緒に居たい……と泣きながら小さく呟いた白雪の頭を撫でると包帯を巻いた手で灰色の煙草を深く吸い込んだ。
「雪」
白雪を呼ぶその声は、白雪にとって空に浮かぶ太陽よりも明るく暖かくて、望みに満ち溢れていた。闇夜を照らす月を懐かしみつつ、白雪のように真っ白い髪をなびかせると桜色の着物を着た少女は泪を拭って、碧眼の男の元へと可愛らしく微笑みながら小走りで向かった。
月によって金色になっていた滝は、今は太陽を反射して白銀色に光り輝き、歩き出した少女の目の前の世界を真っ白く、雪花火のような光景に包んでいく。其の中で、碧眼の優しい微笑みが少女を月のように淡く包みこんでくれていたのだった。
水域です。
本当はこの半分位で終えるはずだったのに長くなってしまいました。
今回はシリアスといいますか、ちょっぴり息を呑む展開となりました。山吹達の、討伐に対する不信感と現状の不安感。
そして白雪の想い。
ヒトの暖かみを知った白雪の心は春のように色鮮やかになっている事を願います。
夜闇村、行ってみたいです。朝に昇る月と金色の滝はさぞ幻想的なのでしょうね。