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第壱話 水辺の社

綺麗な水辺にある小さな社には、曖昧で不確かな少女が半透明な風に吹かれ、泪を流していた。

少女が此処で何を想い、どんな想いで長い時を過ごしていたか、など誰にもわかるはずなどないのだけれど。

それでも少女は生きていく。生きることしか出来ないのだから。

水面は風に吹かれて緩やかに波打ち、流れ込む山水はさらさらと靜かに波紋を作る。

 水の中は澄んでいて、其処からの景色は正に幻想的だ。揺らめく水の流れに日の光が絶妙に差し込み、水の中全体を生き物のように蠢き照らしていく。

 遠くからは微弱な生物達の呼吸や声がする。生命の音は全てのモノから聞こえる。それは勿論水も例外ではない。

 私は水の中で呼吸が出来る。しかしヒトと同じ様に呼吸をしても気泡は出ない。それでも頑張って出してみると、気泡は其処に留まる。その気泡は浮かび上がったりせず、暫くすると蜃気楼のように揺らめきながら消えていってしまう。

 あぁやはり私は、ヒトならざるモノなのだろう。それは私が何か行動する度に様々な形で思い知らされた事。解りきっている真実であり、事実。

 もうそんな自分の事がわからなくなっていた。今私は泣いているのか、微笑んでいるのかの其れさえも。

 長い間、深い深い水の底のほう。数多の月日を其処で過ごした一つの異形の存在、それが私。

 それは気の遠くなるほどに永久の日々。

 一つ所に留まり、時の流れを只傍観して過ごす毎日。時折足を運ぶ人もいたが、最近は疎らになってきたように感じる。最近といっても普通の感覚では長い年月なのかも知れないけれど。

 感情など元から無かったかのように只淡々と日を重ねていた。此処にいた。


 此処は古くから在る、さほど大きくもないとある池。山の麓にある為、山の水や雪解け水が靜かに流れ込む綺麗な水池だ。近くには神木と柳がさらさらとなびく所にひっそりと佇む社、それが私の住処。

「あぁ。これはもう何回目の太陽なんだろう」

 何時ものようにやってくる朝。此処から臨む朝焼けは神秘的な色合いを見せ、朝日が昇れば段々周りの風景も日の光に照らされ蒸し返すような生命の濃い匂いに満ちてくる。

 とても緑が映えるこの場所は、真上に日が昇ると木々の間から木洩れの光が差し込んでくる。月日の流れや季節で変わる、とても綺麗な光。綺麗な景色。

 夕時になれば空が焼ける。赤橙に染まる空を見るとなんとなく気持ちが落ち着く。優しく穏やかな私になる。

 其れを合図に鳥や動物、蟲や爬虫類など様々な生き物達は私の域に帰ってくる。寝る支度を整える為に、そしてそれは一日の終わりをそっと告げるように。

 此処から見える近くの集落ではぽつぽつと明かりが灯り始め、村は段々落ち着いた雰囲気へと変わっていく。不規則に並ぶ村の暖かな淡い光が、私をどうしようもなく切ない気持ちへと駆り立てる。


―――「私も……」


 夜の帷が辺りを覆い、靜かな月夜が訪れる。星も一つ一つ光り出し、次第に柔らかな黒がこの村を包み込む。

 夜の此処はとても心地良い。草木の馨、清水の音、そして日の落ちた空に現れた幾万の輝く星空は、水辺にも反射して水面にもゆらりふわり星空が浮かぶ。

 私はその水面に浮かぶ。まるで宇宙に浮かんでいるような錯覚に陥る。そして意識を深く、より深くへと沈ませるのだ。

 そしてやがて無心になっていき、水の動きに身を任せる。また日が昇るまで私はそうしていることがよくあった。

 ただ其れだけ。其れだけの事なのだ。

 私は望まない。いや望めない。これ以上も、以下もない。

 そしてまた気付かない内に頬を伝う泪は、水面へと滴り落ちていく。止めようと何度も何度も堪えるんだけれど泪が溢れて止まらない。

 こんなにいつもと変わらない穏やかな夜だというのに。

 いつもと、変わらない独りの夜だった。



 また夜が明けて日が昇り、空が焼ける。段々と色が変わっていき次第に青みが増していく。昨日とはまた違う空の青に自然と視線を奪われる。

 現在、時は正卯の刻。私は池の岸に腰掛けて足をぷらぷらさせて朝焼けが水面に反射している幻想的な景色を只ぼぉっと眺めていた。

―――「綺麗……」

 そういえば最近、数日前から村の集落のヒトが酉の刻になれば何人か現れて屯っていたのを思い出した。その一人は和紙を持っていて、他のヒトと会話をしながら和紙を眺めて思案し、私の域を隈無く散策していた。

 あぁそうか、今年もそんな季節になっていたんだなぁと少し感傷的になった。時の流れに疎いつもりはなかったけれど、気付かなかったことに多少失望感も感じた。

 いつの間にかもう、祭の季節なのだ。

 朝から集まった着物姿の村人よって社の注連縄や、神木の縄などを新しいものに変えられていく。そして張り巡らせた注連縄の中、つまり私の域で年に一度、晩秋に祭は行われる。その祭が今日だった。

 社には村で採れた作物を村の女達が綺麗に並べる。

―――「うわ、美味しそう……」

 このお膳立てを主導しているのは、確か神主の娘だっただろうか。名はー……確か秋、だったと思う。巫女姿がよく似合う娘で何度か行事で見かけた。

 私は聞こえる筈のない声を発する程に、彩り鮮やかで美味しそうな料理に思わず笑みがこぼれた。

 決して食べる事など出来やしないけれど。私は何時もそれが忍びない。

「今年は良く育った作物で作った料理だからきっと水神様も喜んでいるね、秋」

 そう微笑みながら言ったのは秋の母親だろう。私の為に用意してくれたのは勿論嬉しい。

「この実りも水神様の御陰様ですねお母様。感謝の気持ちを込めて私、精一杯お膳立てします」

 違うの。私は何もしていない。何の力も無いの。ただ其処に居る事しか、ただ見ている事しか出来ないの。

 黙って傍観する事しか、なにもかも曖昧な私には只それしか出来ない……。

―――「ご免なさい…でも本当に有り難う」

 私は泣き虫だ。ほら、何かといえば泪が頬を伝う。

 気付けば伝った泪も乾かない内に、触れる事の出来ない此の手で私は夢中になって社のお膳立てをする秋の頭を撫でていた。


 ちらりと水辺の方を見れば着物や浴衣を着ている村の男達が集まっていた。いつも着ている浴衣とは少し違う、所謂あれは祭用の浴衣なのだろう。

 普段の浴衣は藍色だったり鈍色だったりのようだが、今日は綺麗な深緑や蒼色に藍鼠色などの貴重な色の反物に、唐草だったり様々な模様が縫われている。

 着物や浴衣を変えているせいか、村の男達の雰囲気も高揚感に満ちているように見える。作業している表情も活き活きと楽しそうで明るい。

 どうやら彼等は水辺に今日の祭で、本殿とは別で使う祈祷所を用意しているようだ。因みに本殿は、私がよく居る小さな社のことだ。私と崇められている御神体がその小さな社、つまり本殿に祭られている。

 拝殿は年越しの時期にしか基本的に用意されないみたいなので、拝殿は本殿と殆ど同義ということになっている。

 此の祭の度に、水辺のとある一カ所に立派な木材を使って祈祷所を拵える。簡易的な祈祷所ではあるけれど村のヒトの気持ちがこもっているから私はとても嬉しい。

「おーい。祈祷所の準備が整ったぞ。後で神主様に見てもらうべ」

 体格の良い男がそう言えば、疎らだった数人のヒトが水辺にゆっくりと集まってくる。

「おぉ、やるなぁ。今年も立派じゃないか。こりゃ良く出来てる」

「当然さ、この祈祷所造りは家系で受け継いだ職人の腕よ」

「そうね。あなた頑張って御父様に習っていたものね」

「ああ。親父が具合悪くしちまってから仕事受け継いで……まぁ沢山苦労したけれど、漸く此処まで辿り着けたよ」

 集まったヒト達が会話している内にどんどんヒトが集まってくる。

「わ、私も本殿の社の方の拵えは済みました」

「ねぇちょっと、もっと酒はあるのかーい? 此処にある分じゃ今日の宴にゃ足りないよ」

「今日の祭の禊ぎは誰だっけ?」

「なぁ、確かあいつの家にいい干し芋と肉があったよな。準備できたから持参して来いって伝えてくれ」

「わっはっはっは、よーしこりゃ楽しいな。じゃあ、また夕暮れ時にな」

 体格の良い男の「夕暮れ時にな」という言葉でさっきまでの喧騒が落ち着き始め、沢山集まっていたヒトが徐々に疎らになり、誰もいなくなる。

 散り散りになった村人はこの後、また沢山の村人を引き連れて大宴会を開くのだろう。私も何年も見ているけれど本当に楽しそうな宴だ。楽しそうに身を寄せ合い、村で作った清酒や果実酒を飲みながら、狩りなどで捕まえた獣の肉を香ばしく料理して、皆の話を酒の肴に呑めや唄え、騒げや唄えの騒ぎになる。

 参加は事実上出来ていないものと同じだろうけれど私は、毎年其処に居た。

 一度集まっていたヒト達はまた疎らになり、今日の祭の事など談笑しながらそれぞれの家に一旦戻っていく。

 祭場の準備は終わったみたいだから多分、これから宴の為の準備に入るのだろう。各自家から馨のいい地酒と、酒の肴を持ち寄るために。


 そして呻の刻。日は傾き始め、空の青が赤く焼けてくる。

 先程は数人の男女だったが村のヒトほぼ全員来るだろう。傾き始めた太陽に合わせて祭場には灯火が灯り、疎らではあるけれど、次から次へと村人が集まってきた。

 此処の暗がりに、ほんのり火が灯る光景もやはりこの祭位なもので、とても雰囲気が良い。柳も灯りに少し照らされながらさらさらと優しい微風に流されている。

 思い思いの場所に腰を下ろし始めた村人達は持ち寄った果実酒や清酒を、卓袱台や四角の台などに乗せる。料理された香ばしい薬草が効いた肉や様々な燻製、干物が運ばれ、あっという間に宴会の準備が整ってしまった。


 この祭の行事の中で禊ぎ、正確には禊祓(みそぎはらえ)。というものがある。

 禊祓は神道や仏教で自分自身の身に穢れのある時や重大な神事などに従う前、又は最中に、自分自身の身を氷水、滝、川や海で洗い清めることを云う。

 滝打などは水垢離(みずごり)と呼ばれたりするのだが、私の水辺には滝などないので水垢離はできない。

 禊祓は白装束が基本的に原則だが、男は褌で行う場合もあった。その年によって変わっていたので強い縛りはないようだ。

 褌の場合、白の越中褌が原則だったりするのだが、白の六尺褌の場合もある。けれど、今まで見た中で褌の禊祓はあまり居なかったように思える。

 時には袴姿のヒトも居たので、割と自由なのかもしれない。

 この祭の禊祓は、一人前と認められる為に年頃の童がいた場合に儀式として行なわれる。勿論それは今そこで酒を飲んでいる大人たちも、その親、その先祖とずっと私は見てきた。

 そもそも、この通過儀礼とか祭事だとか、禊祓もだけれど村人達は「水神様に一人前と認めてもらう為に必要」とか「祈祷しなければ水神様に祟られる」とか。私は禊祓をしなくてもなんにもしないし、仮に祟ろうとしても私にはヒトに触れることさえ出来ない。それに祟る理由もなければ今使える力もない。

 だから。この晩秋の寒い時期に水の中に入って祈祷するなんて寒そうでいつも毎回忍びないのだ。勿論各々の祈祷は私に届いている。

 私はこの禊祓をいつも祈祷所の対岸に腰を掛けてその様子を視ている。儀式を行うヒトとは丁度向かい合わせの形となり、禊祓を靜かに見守る。

 今年は二人の童が禊祓を行なうみたいで、祭や宴の準備が粗方終わると二人の童が白装束を着て祈祷所やってきた。


「秋、しっかり水神様に祈祷するのよ?」

「お母様、御心配有り難う御座います。今年も少し寒いけれど私は大丈夫ですから」

 祈祷所のそばに来た秋の母は心配そうに秋に寄り添っていた。そういえば秋の母の禊祓もそうやって親が寄り添っていたっけ。

 間もなくもう一人の男の童が現れる。少し長めの黒髪で痩せ型の童だ。どこか不思議な雰囲気がある童だなと、普段あまり感じない事をその姿を見ながら思っていた。

「遅れました。秋、早かったんだな」

 そうふわっとした空気を纏って最初に着いていた親子に話かけた。

 同じく白装束を身にまとった神主の娘の秋と同い年の童の名は確か、(あお)。 

「蒼、とうとう私達にも禊祓の日がやってきたんだね」

 年相応の屈託のない微笑みを浮かべると、母親から離れて蒼の元へ淑やかに歩いていく。

「あぁ。多少距離があるとはいえ、周りに皆いるからちょっと緊張するけれどね」

 隣にやってきた秋の頭を撫でれば、灯りに淡く照らされた蒼の表情が、生まれもった雰囲気と相俟ってなんだか彼が幻想的に見えた。

 実は私は彼、蒼の事をずっと昔から知っている。小さな頃に私の中、というか水池の中に蒼が落ちてきたのだ。バシャバシャと溺れていて私もどうしたらいいのかわからなくて。結局水辺までうまく連れて行った所で、蒼を見つけた親御に抱き締められていた。親御の心配そうで安堵した表情はまだ覚えている。

 その後久々に蒼を見たけれど流石にヒトは成長が早い。大きく育ったなぁと知らず知らず頬が上がり、笑みが零れる。

「じゃあ後の事は神主様にお任せします」

「はい、解りました。私が近くしっかり見守りますので、皆様と一緒に宴場で見守ってあげて下さい」

 秋の側にいた母親にそう言うと神主が微笑を浮かべ、秋の母親を宴の席へと誘う。禊祓中は、近くには来てはならない掟があるからだ。勿論神主はそれに当てはまらないが。


「ねぇ蒼。蒼は今どんな気持ち?」

「ん? んー……水神様と話しが出来る機会を得て、嬉しいかな」

―――「……えっ?」

 私は動揺したのか、思わず懐に仕舞っていた(かんざし)を水辺に落としそうになった。この簪は大切な簪だ。遠い昔にこの森の近くで拾った綺麗な深翠の簪。大事に懐へと落とさないように、仕舞う。


「そうね、この禊祓は水神様に少し近付ける儀式だと父様が言ってましたものね」

「うん。小さい頃に聞いた神主様のその言葉をずっと信じてこの日を待ってたよ」

「……伝わるといいね、蒼。私も気持ちを込めて祈祷する」

「うん。そして禊祓が終わったら僕らも一人前だ」

 驚いた。というのはこの二人の祈祷に興味が湧いた自分の心にだ。

―――「何を伝えてくれるんだろう」

 宴の場から漏れる灯りは祈祷所を淡く照らし、焼けた空は先刻より仄暗くも優しい帝王紫色に変わっていく。変わりゆく空を映し出して染まっている水面を眺めながらそんな風に想った。

「じゃあ、秋、蒼。これを」

 神主が二人に差し出したのは、小さくて綺麗な器。中には、月を映し出した水が波打っている。

「これは、お神酒。水神様との距離を縮めることができるからね」

 二人はお神酒を受け取ると、匂いのきついお神酒にも眉根一つ動かすことなく一口で飲み込んだ。

「それじゃ始めるよ。準備はいいかな? 秋、蒼。」

「はい、大丈夫ですお父様」

「うん、いつでも大丈夫ですよ」


 二人の返事を穏やかな表情で受け取ると、神主は秋と蒼の頭をくしゃっと撫でればゆっくりと祈祷所から離れていく。

「さぁ、行こう。蒼」

 秋が優しく微笑みかけて蒼に手を差し出す。周りの空気までもが秋に影響されたかのようにふんわりと優しさを孕んでいる。

 蒼も頷き、手を握る。二人は目配せをすると手を離して祈祷所で柏手を打ち、礼を何度かするとその先の水辺へと靜かに足を運ぶ。

 二人は柏手を打った瞬間の、儀式が始まってから無言を貫いていた。

 そして一歩一歩私に近付く度に一際大きく感じる生命の濃い匂いに、私の域と心が揺さぶられる。

 緩やかに水面が風波で揺れる。秋と蒼は同時に左脚からの入水。水辺の方はまだ水位が浅いので腰より少し上の辺りになるまで二人は靜かに歩いてくる。向かい合う私は只じっと、その様子を視ていた。

 二人は立ち止まると一度柏手を打ち、しゃがみ込んで頭まで水に浸かった。髪や頬は濡れ、雫が水面に滴り落ちている。

 もう一度二人同時に柏手を打つと、手を合わせ祈祷し始めた。二人の心の声が私に流れ込んでくる。


「水神様。私は秋、水無月秋と申します。現神主の娘に御座います」

―――「うん。秋、知ってるよ」

「禊祓の日がやってきて、水神様に数瞬だとしても近付く事が出来てとても嬉しいです。今まで見守ってくださって有り難う御座いましたと、ずっと伝えたかったのです。こんな未熟な私ですがこの先未来も御守り頂ければ光栄です。……黙祷で祈祷致します」


 そう秋の心の声が流れ込んでくると本当に無心で黙祷しているらしく、私にはもうなにも流れ込んでこない。私が知りうる限り未だかつてそんなヒトはいなかった。何かしらの雑念をヒトは必ず抱いているからだ。

 秋がもつ神職としての素質は以前から気にはなっていたけれどまさか此処までとは思わなかった。

 しかし類い希なる異質故に、視えなくてもいい見えざるモノが視えてしまうのではないか、と心配になりながらも黙祷中の秋を見つめた。そして。


「水神様。僕は古音蒼と申します。一人前にと認められることよりも、水神様に少し近付けるという意味合いで今日の禊祓をずっと待ち焦がれていました」


―――「……」


 何だろう。得体の知れない心のざわつきを感じる。

「以前まだ小さかった頃、僕はよく覚えてないのですがこの水池に落ちてしまったらしいのです。その時の記憶はかなり曖昧になってしまっているのですが、その記憶の中で一つ鮮明に覚えている事があるんです」


―――「えっ、何かな……?」


「僕は水神様の姿を視たような気がするんです。幼い容姿の女の子が綺麗な黒髪を水の中で月光色に染めて、水際まで僕を導いてくれたような気がするんです。どうしても御礼を、どうしても直接云いたかった」


―――「……っっ」


 言葉が出なかった。声を出した所で聞こえはしないのだけれど。蒼に私が一瞬でも私が見えていた? もしかしたら私がその時この世に干渉し過ぎたのかもしれない。この事は良くないなと思いながらも何故だかすごく、すごく嬉しかった。

「……ありがとう、水神様」


―――「……うん」


「僕達村人の色んな想いや願い、不作の責任等の其れらは水神様に対する自分勝手なエゴだ。そうゆう諸々を水神様に全て丸投げする今の村の考え方、思想、雰囲気があまり気に入りません。今まで心の寄り処に水神様を頼り過ぎていたように僕は思うのです」


―――「……私は沢山の願い、想い、忌み、妬み、呪いを聞いてきた。けれど蒼がそんな風に、其処まで思考する必要はないんだよ? 私は大丈夫だから気にしないで欲しいな」


「そうゆう諸々をひっくるめて僕は水神様に祈祷します。それと、思い上がりも甚だしいですが水神様はきっと今まで寂しかったのではないでしょうか。此方からは何も出来ていない事が歯痒い思いをしています……。水神様、何時も有り難う御座います。僕はもっと精進致しますので、もしこの祈祷が水神様に聞こえてましたらどうか末永く御見守り下さいませ……」

 蒼の、あまりに深い考え方や想いを聞いて少しそのまま靜観してしまっていた。蒼、という童は今までのヒトとは何処か違う気がする。其れは雰囲気だけじゃない根本的な説明出来ないなにかが。数分の間に私の心に小さな何かが芽生えた気がした。

 二人が祈祷を始めて数十分経ったか、すっかり空には夜の帷が覆い始め、水面には幾つか星が反射している。

 山からはゆっくりと三日月が昇りはじめ、星と共にゆらりふわりと水面で綺麗に揺らめいている。

 二人の祈祷は、三日月からの月光を浴びながら祈祷所で柏手を打つ事で終わりとなる。もっと色んな手法があるけれどこの村ではこれで一人前と認められる。二人は視線を合わせると、月明かりの下で靜かに微笑み合った。

 水池からざばっと上がり、祈祷所まで歩いていく。土も、草も、木も、空気も灯りの淡い光さえも歓迎しているように二人をふわり包み込む。

 二人揃って柏手を打ち、礼をする。これで今年の禊祓も終わりだ。

「おめでとう、寒かったろう。早く暖をとって、着替えておいで」

 二人が振り向くと神主が微笑んで二人のまだ水が滴り落ち、体温で少し暖かくなった湿気のある髪をくしゃっと撫でた。もう一度、只一言おめでとうと呟いて。

 私は祈祷所から見て向こう側で其れを見ていた。私もたった一言だけ、

―――「……有り難う」と呟いて。


 其れから二人は一度暖をとって蒼は浴衣、秋は着物に着替えて宴場へと向かう。宴場の大人は淡い灯りの中それを待っていたかのように誰かが掛け声をすると酒が入った器をぶつけ合って一気に村人達に笑いが溢れ出して、騒がしい晩秋の宴が賑やかに始まった。


 私も宴場へと向かおうとしたけれど何故か身体が痺れたように足が云うことを効かなかった。それと同時に私は先程の禊祓から生まれた、昔に捨てた筈の感情を抑えるのに必死だった。

―――「……話をしてみたい。私に……気付いてほしい」

 そんな感情などとうの昔に捨て去った筈だ。

 そんな叶うはずのない想いを抱いてどれだけの傷を負ってきたか自分が良く知ってる筈だ、なのに。

 二人の影を追いかけてみる。意識は宴場へと向いているのに身体がもつれて思うように歩く事ができなくてもどかしい。

 とてとてと追いかけて歩いて、手を伸ばしては足が止まる。あんなに淡く灯る暖かい場所が遠く、とても遠く感じた。

―――「お願い、待ってっ……」

 必死に哀願しているとふと何か目に入り気付く。近くの木にもたれかかっている漆黒の髪で碧眼の男。灰色の煙草から煙る紫煙がふわふわと男の周りを包み込む姿は、只々怪しい。

「何処へ行く、等と野暮な事は云わないが…水神、わかっているんだろうな。俺が枷にと落として置き、お前が拾ったその懐の簪がその抑制効果なんだ。簪を身から外せば数分お前の神力は解放されるだろうし今想っている願いは叶うだろうな」

 がしかし、と。其れを実行したなら数年は眠る事になると思う、と男は云った。けれど今の私には迷い等、毛頭無かった。

 そして、碧眼の男が普通に私を視て、私に話し掛けている事に気付く事が出来ない程に私はもう色々と手遅れだった。この時、私の答えはもう既に決まっていた。簪は話を聞いてすぐに碧眼の男に渡したからだ。


 私は軽くなった足であの賑やかな淡い光の空間に走っていく。柳は素知らぬように優雅に揺れていた。宴の場では既に出来上がったヒトもいて、酒が勢いよく無くなっていくので必然的に村人達は盛り上がっていた。

 この晩秋の祭には、狐踊りなるものがある。参加している村人数人が狐の御面を被り、踊る。酒を片手に、思うままに。囃子(はやし)が奏でる音に、幻想の悠久に身を乗せて。

 私が淡い光の中に着いた時には、村人は狐の御面を付け、楽しそうに飲み、唄い、踊っていた。もう私には宴を楽しんでいる時間などない。自分でもそれがよくわかった。迸る抑えられない力を制御できない。簪を碧眼の男に渡したからだろうか。

 数人によって奏でられた音楽に乗って踊るヒト達の中から、秋と蒼を見つけるのに時間は掛からなかった。彼らから発せられる全てが他のヒトの色と違う色をしているから。

 私はゆっくり二人に近づいてゆく。踊る狐の大人達をすり抜けながら、漸くたどり着いて私はまた酷く痛感する。

 知らずの内に泪が頬をゆっくりと伝う。幾度も幾度も蒼の裾を掴もうとするのに、掴める事は一切なく、手には何も残らず空を掴むのみだった。

―――「……蒼、秋っ」

 哀れだな、と自分でも思った。周りの楽しそうに踊る沢山の狐の御面達の中、私は何をしているんだろう、と。数多の時を独りで過ごし、捨て去った沢山の感情。幾ら泣いてもその泪は誰にも見えないし、私の声は誰にも聴こえない事で私は、今まで沢山傷付いてきた。私は未だに其れを望んでいたのか。二人の童に向かって声を発する程に。届くはずのないこの曖昧な声を。

 二人は不意に何かに気付いたかのように此方を振り向く。まるで私を見ているように、だ。

 そして周りの村人達が踊っているままで、私と二人の間だけ時が止まったように二人は動きを止めて振り返っていた。

「あれ……君、は……?」

「蒼……。私達、もしかして酔っ払っているのかな。蒼が昔話してくれた女の子が、目の前に居る気がする……」

 私の体はもう薄くなってきていて殆ど力も残ってはいなかった。心の底から溢れる暖かい感情はもう私には止められないし、なにより伝えたい事があったから、決してこの機会を逃すわけにはいかなかった。どんなにこの身を犠牲にしても。

「水神様、なの……? 水神様っ!」

 秋がこんなに取り乱している所、初めてみたなぁなんて、意外にも私は落ち着いてきた事に気付く。

―――「秋、秋。私はこうしてちゃんと居るよ。こうして曖昧な存在でも存在して居るんだよ。お願い、どうか私を忘れないで、秋……」

 だめだな私、こんな時なのにうまく喋る事が出来ない。私は秋にこんなことを云いたかったんじゃない、いつもありがとうって言いたかったんだ。


「水神様、えっと……えっと! 幼い頃の、あの時お世話になりました、本当に有り難うございました。この命は水神様の加護の御陰です」

―――「蒼、無事育ってくれて良かった。蒼の祈祷、全て聞いていました。私は、そう。寂しかった……凄く寂しかった」

 堪え切れず泪は溢れ、うまく喋れない。今まで口に出すまいと心の奥底に押し込んだ想いが溢れて止まらなかった。私はずっと、寂しかった。

―――「蒼、私はこの感情の事を良く知らないの。貴方を見ていると苦しい。切ない。まるで病気みたい。だけれど、約束する。何も出来ないけれど私は蒼と秋、皆を見守り続けるよ。だって私に出来る事はそれくらいだもの」


 ふわり微笑んだ私の頬にはやはりまだ、泪が伝っていた。身体は宴の喧騒と灯りに照らされながらもどんどん色を失い、次第に私を彩る色彩も薄くなっていく。狭くなっていく視界には、泪を浮かべる泣き顔の秋と蒼の姿があった。

「あぁ、瞼が重いな。どんどん見えなくなってきたし眠く……なってきちゃったな……」

 うっすらと見える淡い灯りに包まれた空間の中楽しげな宴と、狐の御面をした数人の村人の舞とその囃子が、この日私が見た最後の風景だった。



 随分と長い夢を視ていたような気がする。(しがらみ)から解放されたような清々しい気持ちで私は水の中をふわりゆらり。生命の匂いを全身で感じ、差し込んでくる日の光が蠢くのを綺麗だな……と見ていると思えば急に周りがぐにゃっと歪み始めて景色は変わり、見慣れた筈の星空が水の中なのに周りで淡く光っていた。手の届きそうな距離にある星の輝きに手を伸ばしてみるのだけれど届くことはなかった。其の時間はまるで、足が竦む程綺麗な宇宙を漂っているように感じた。



 そして目を覚ました時、満開に咲く桜が目に入った。夢現に思考がうまく廻らない。私が今見ている風景は夢か、現実か。

 ふと気付けばいつかの碧眼の男が側に居た。その男が云うには私は二十七年の間此処で眠っていたらしい。

 不思議だったのだけれど、彼は私が最後に見たときと全く変わらない容姿だった。

 ふと私が碧眼の男が手に持っていた酒に目をやると男は灰色の煙草の煙を身に纏わせながら、

「積もる話もあるだろう、それを酒の肴にまぁ一杯。ほら」

 渡された綺麗な深翠の器に注がれた酒を口に含むと豊潤な悠久の味がした。私の事を何故か勝手に「水姫(みずき)」と呼ぶ碧眼の男に向かい合って、私は器を差し出した。 

 桃色が舞うこの季節に、器をぶつけ合って乾杯したような音が辺りに響いた。

 通りかかった村の男が、小さな社の在る水辺で碧眼の男が一人楽しそうに話しながら、綺麗な深緑の器で酒を飲んでいたのを見た、とその日村中に云って回ったらしい。

 数時間後、村人数人で見に行ってみると其処には深緑の綺麗な器だけが社の前に置かれていたのだという。






伝奇物を書いてみました。

執筆する際に、水姫の気持ちを考えながら執筆したのですが、普通の「ヒト」の私では解るはずもなく、なかなか書くことが出来なかった作品でした。

現代よりも昔、まだ服は洋服ではなく着物や浴衣の時代をイメージしています。

気付いた方もいらっしゃるかもですが、舞台はとある山の麓にしました。

神社を軸に描きたかった作品で、私の好みが全開の短編となり満足できました。

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