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Dannoura Fantasia

 

 ここから海は見えません。無用に眩しい午後の太陽光に(あぶ)られた、隣のマンションも階下のアスファルトも、まるで溶けかかった砂糖菓子やチョコのように揺れています。私は生活する機能のみ整った盆地に住んでいます。買い物帰りの四辻の端に、茹った(すずめ)が落ちていました。ただすれ違うどの人もよそに目をやって、視界に入っていないのですから、私も急いでその場を立ち去りました。ようやく日が沈みます。いけないことをするほかなかった訳を知るために、私は電器を点ける間も惜しんで本を読み始めました。

 ふと急に、名前を呼ばれた気がしました。

 紙面から顔を上げると、逢魔が時を映した窓硝子(がらす)を背後に、誰かが立っています。胴体は太く盛り上がり、幅の広い肩から山を描いて乗っている頭部には、とがった角が生えているようです。青白く二つ光っているのは眼光に違いありません。とっさに私は得体の知れない影だと思いました。

 サッシの鍵をかけず、カーテンごと開け放しておいたのは、ほかでもない私自身です。ただ網戸だけは閉めていました。息を呑んで身構えている私めがけて影が一歩、一歩、近付くたび、重い金属のぶつかる音がします。


「それ以上来ないで」


 持っていた本を投げたもののた易く叩き落とされ、怖いと思った途端に腕をつかまれました。その手がはじめは熱い気がして、驚く間もなく押し倒された私は、せめてもの抵抗に歯を食いしばり、正面から影を睨みました。

 いっそう濃くなった宵闇に隠されているものの、角がある気がしたのは私の見誤りで、彼は甲冑(かっちゅう)を着ているだけだとわかりました。息苦しい圧迫を感じさせるのも、この立派な甲冑ごと私に覆いかぶさっているせいです。左右の草摺(くさずり)からすらりと足が伸び、眉庇(まびさし)鍬形(くわがた)におさまった顔は小さく、夜の中空にいつしか灯った弓張り月の灯篭(とうろう)が、彼の凛々しい眉と高い鼻梁(びりょう)の輪郭を浮かび上がらせています。伏目がちにした目元は(かげ)って判別出来ないのが悔しくて、


「鍵を開けたのはあやまちだった」


 そう思いそうになった矢先、咆哮(ほうこう)をあげた彼が片手で私の両腕をねじ上げたまま、もう片手でブラウスを引き裂きました。そして人差し指を私の肌にさし込み、力任せに皮膚のホックをはずしたのです。胸からへそまで一直線に弾けたような音が響きます。微動だにできない私の中を彼は覗き込むと、脈打つ肉の奥めがけてまさぐり始めました。呼吸が警告音を発し、私の奥歯が砕けます。けれども彼はやめないどころか、私を形成する主要な器官をかき分けてしこりをひとつ掴みほぐし、そうして戻った血の流れをたどって、まだ誰も見抜いたことのない私の球根のありかを察知しました。彼は亡者の獰猛(どうもう)な嗅覚だけで何もかもを透過し、私が埋もれさせた根をまっすぐに指したのです。そのくせためらいながら、彼のしなやかな指の爪が秘所を()いた瞬間、稲妻がはしったかのように私の背骨が反って足がつり、汗ばんだ下腹が収縮しました。体液は歓喜に沸き立ち、血管は自分の意思でのたうって頭をもたげ、屈強な装甲と立派な革の装飾の隙間を目指して伸びていきます。

 ひるんだのは彼のほうで、私は対等だと思いました。

 私の貪欲な赤色(おどし)は鎧の下を縫って這い、彼の素肌に刻まれた歴戦の証を突き破った手ごたえを感じると、むき出しの心臓が膨らんで新鮮な血を分かち合おうとします。彼が喘いで、潮の香りがしました。震える彼の肩を私はすかさず支えようとした瞬間、重々しい影がとぐろを巻いて再び猛り、彼は私を乱暴に払いのけると「なぜ」と言いかけた口を強く掴みました。

 押さえつけられた唇が痛みます。何も知らない馬鹿な奴だと、きっと忌々しく思ったのでしょう。けれどそれよりも私は、熱いはずの彼の手が、本当はひどく冷えていたことのほうが衝撃で、辛いのでした。ぱっくりと開いたまま放り出された体は、まだてらてらとしています。触れさせてもくれず、もう触れないつもりなら、また閉じてしまえばすむことです。仰向けの私はただ前を見ていました。涙が流れていたかどうかわかりません。彼は私を覗き込み、瞳の澄んだ青白い光に長い睫毛を落として、さようならを告げた気がしました。けれども同時に彼は私の両耳を引きちぎったので聞こえません。ぶつりと大きな音をさせたくせに、今度は痛くしませんでした。


 それきりです。

 私は起き上がり、電器とテレビをつけて服を着替えました。何の変哲もない暮らしの再開です。思い出そうがどうしようがご飯は食べたくなりますし、作らなくてはなりません。耳がなくなったことも、髪の毛で軽く覆ってさえいれば何事も起こりません。さいわい道端の死骸にすら誰も気付かないのですから。

 私の生活は元通り前へ前へと続きます。けれど私の耳は、彼のもとにあります。私は彼の言葉をあまさず拾い、きっと送ったであろう血液の脈打つ、彼の鼓動を捉えます。


「なぜあなたはそんなに悲しい目をしているの」


 私は忙しく本をしまい、犠牲めいた気持ちを許さないあなたが帰るときを、待ちわびています。

 月の灯る晩にのみ鍵を開けて。私は待っています。

 

 

 

 

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