生霊
私は怖い話が嫌いです。
中でも苦手でならないのは、熱帯夜のむっと湿った風が網戸の目に絡みつく頃になると、テレビがこぞって取り上げる怪奇特集です。
おどろおどろしい照明や効果音で盛り上げ、大袈裟に脚色した再現VTRまで用意して、それはもう徹底的に怖がらせようとするでしょう。だから一度見てしまうと、話の内容が頭にこびりついてしまって、いつまでも離れなくなります。
だったら見なければいいんです。でもやっぱり、好奇心のほうが勝ってしまう。それに私だって頭のどこかでは、いるのかどうかすら怪しい存在よりも、今生きている人間のほうがずっとたちが悪いんだって、わかっているんです。
勤め先でもね、どうせ腰掛け事務だろうと決め付けられていた頃のほうが、まだ待遇は良くて。今ではスキルの低さを、若さやおべっかで誤魔化した社員の尻拭いをさせられる毎日。デスクワークでは私が一番出来るから、みんな困った時だけ媚びては面倒事を押し付けていくんです。
もっともその点、タナベ君は別なんですよ。今時珍しく礼儀正しい彼は、毎朝の挨拶だって欠かしません。
その笑顔の清清しさと言ったら!
彼が入社したての頃、パソコンの前で見積もりの入力に迷っていたことがありましてね。背の高い体を屈めながら孤軍奮闘していました。あの真剣な横顔を一目見て、「感じの良い子だわ」と気付いた私は(これが他の社員であれば弱りぶりを眺めてやるのですが)、彼に操作の手ほどきをしてあげました。
「有難うございます○○さん」
白い歯を見せて微笑む、彼の照れくさそうな表情が忘れられません。不況だからかはたまた個人主義の弊害か、誰もがあさっての方向を向き、どことなく活気の褪せてしまった職場に、けれどもタナベ君がいてくれるだけで張りが戻ってくる気がするんです。もしかすると彼には天性の勘でもあって、人心掌握術を身に着けているのかもしれません。今年で勤続十七年目を迎える私が思うに、彼は唯一、将来性の見込める若手の男性社員だといっていいでしょう。
私は、同僚達のように依存的な関係に身を寄せず、社会人として自立した日々を送っています。勿論一人暮らしです。ペットですか? 私、小動物は苦手なんですよね。寂しいと感じたことはありません。ええまあ、たまには実家に顔を出そうとも思いますよ、でも帰ったところで気疲れするばかりで……。いくら親心とはいえ、独身女が不幸だなんて考え方、今時偏見にも程があります。そんなに私を馬鹿にしたいならすればいい。自分で選んだ道です。人に何を言われようが相手にしません。
けれど、出口が見えないルーチンワークに埋もれていく感覚だけは辛くて、私よりも出来が悪いくせに愛想だけは長けた同僚達を恨んだ日もありました。
あらいけない。話がそれてしまいましたね。
ともかく私は、怪奇特集が嫌いなんです。
――いつだったか、支社の子が会議資料で手間取ったせいで遅くなった帰りのこと。玄関の鍵を開け、いつもの習慣で私は、居間の電気とテレビをつけました。そうしたら偶然、例の特番にチャンネルがあってしまったらしくて。
真っ暗な画面が切り替わった中央に、一枚の写真が映し出されました。
どこかの観光ホテルでしょうか。夕映えが広がる大きな窓辺の中央、男が、窓ガラスに軽くもたれるようにして立っています。その男の向かって左の肩の後ろから、女が覗いています。正面を向いて腰から上を撮られた男の、感じの良いネルシャツの柄と同様に、女の顔はぼやけていません。軽くすいた黒い前髪の分け目から、手入れが充分でない眉毛がつり上っているのが見えます。鼻筋の途中までくっきりと覗かせています。恐ろしいのは目元です。目尻の端までかっと開けた眼球の、右の黒目は男の顔を見上げていて、もう片方の黒目は、まるで視聴者を睨んでいるかのように、ぎろりと前を見据えています。
いやに血色の良い頬肉の盛り上がり方からして、男の肩に隠した彼女の口元にはきっと、笑みが浮かんでいるに違いありません。
どこでどう視てもらったのか、ナレーションが冷静な口調で、被写体に恋い焦がれてやまない人物の強い念が、生き霊となって背後に写り込んだのだと説明していました。
ええ。わかっていますとも。たかがテレビのバラエティーです。私だってまさか、心霊の存在の真偽にまで興味なんかありませんとも。
けれど、けれどですよ。実際に万が一、あのタナベ君にも、理不尽な誰かの執着が向けられていたとしたなら、あなただったらどうします? 先にお話したように、タナベ君は特別素敵なんです。もしかしたら断りもなく彼に惹かれる女が、どこかに隠れているかもしれない。いるに決まっていますよ、私が見込んだのだから。当たり前じゃないですか。おまけに彼ったら誠実でしょう? 親切心を誤解する性悪の一人や二人、いると考えたほうがおかしくはないんです。
舌なめずりをしながら上手いこと取り入って、あわよくば恋愛だとか結婚だとか、欲深な誘いを持ち掛けたい女が。自分の花道を確保したいがために、人の良い彼を利用しようとする、馬鹿な女が。
私は、仕事熱心な彼の気を散らしたくはありません。そこで、携帯でこっそり撮った彼の横顔をディスプレイごしに見つめながら、今夜も祈っています。いつもいつも私を励ましてくれる彼のため、私が彼に近付くあらゆる邪魔をはねのけ、いつも彼を助けてあげられますよう。私が彼を惹き立て、彼の苦痛を誰よりも最初に、いいえ彼よりも先に私が察知出来ますよう。
どうか、彼の生活の隅々まで私の祈りが行き渡り、願わくは彼がいつまでも、私の会社にいてくれますように。
余計なものは、私が全て摘み取って潰せますよう。
どうかどうか私のタナベ君を、私が陰ながら、いつまでも変わらず見守ってあげられますように。
いつまでも、いつまでも。