すいか
八月の頭まで食い込んだ梅雨が、ようやく過ぎたと思ったら、待ち構えたように猛暑が続いています。夜は急に寝苦しくなりました。けれどもクーラーでは足ばかりが冷えていけません。このごろ私は、目が覚めるまで部屋の窓を開けておくのが、床につく前の習慣になりました。
閉めてあったカーテンを一旦開け、窓の左半分を網戸にした時、細い路地を挟んだ東の向いのお宅が目に入りました。
私達がこの家に越してきたのは、まだ上の息子が幼稚園に入ったばかりの頃でしたから、もう十年以上も前になりますか。東のお向かいさんは、同じ時期に出来た一軒家です。早いもので、息子も春から大学の寮に入りまして。主人は去年から単身赴任で関西へ。同居の義母と下の娘は一階で寝たいというものですから、空いた二階の一部屋は、私が寝室に使うことにしました。我が家の正面と西向かいには、広いスペースを取った駐車場が西の角まで続き、駐車場の奥にはマンションが二つ建っています。景色こそ良くありませんが、大通りの騒音なら遮ってくれるようです。蝉の声に混じって遠くクラクションが鳴っています。窓辺から入って来る夜風が心地よく、私はいつものようにうとうととし始めました。
トントン。
枕元の壁から音がします。隣の部屋には誰もいません。私はてっきり寝ぼけたのだと思い、寝返りをうつと、カーテンが開ききっているのに気付きました。寝入り端を起こされたついでに、カーテンを閉めて横になろうと思い、欠伸をしながらサッシに近寄りました。
それでふと、目の端に映った景色に違和感がよぎったとでも言いましょうか。私はあらためて、外の景色に目を凝らしました。
部屋から軽く見下ろした斜め正面、東のお向かいさんの一階の屋根に、丸い物が乗っています。
一階の屋根から突き出た二階を囲んだかたちで、多少位置がばらついてはいますが、それでもほぼ等間隔に何列か、屋根の端から端まで二十個以上は乗っかっています。
月が煌々と輝き、一個一個に影がかかっているため、あれが一体何なのかがはっきりしません。はっきりしないのですが、その形や大きさから、私はとっさにスーパーの陳列棚に顔を並べた「すいか」を連想しました。
でもこんな夜遅く、しかも屋根の上に何個もすいかを並べておくとは思えません。ただあまり覗き見するのもご近所さんに何ですし、気になったものの蒲団に横になりました。するとすぐに眠気が勝って、私はいつの間にか深く眠っていました。
朝はいつもどおり起きて、部活に行く娘のために弁当を作ります。夏休みなのにとぶつくさ言う娘を見送り、その後義母とご飯を食べ、ようやく着替えをすませに二階へ上がるのですが、ドアを開けた拍子、はたと夜中の出来事を思い出しました。
あれは一体何だったのかな。窓から外を眺めてみましたが、向かいの屋根にはもう何も乗っていません。
このあたり一体は分譲地なんです。道も家も新品ばかりなのはそのためで、またこの十年、大きなマンションの数も増えたと思います。公道を整備する計画が持ち上がったのはいつだったか、古くからあるお宅は、小さくなっても手放さずにいた畑や庭を売る羽目になりました。家と東向かいは少し下がったところにあるから、話はなかったのだけど。でも売ってよかったみたい。みなさん随分綺麗に改築なさいましたから。お陰で路地がますます入り組んでしまいましたが、慣れればどうということもありません。新しくて住みやすい町です。
買い物に出たついでにお向かいさんを覗いてみても、やはりこれといって変わった様子はないようでした。向かいの家には、以前違うご夫婦が住んでおられました。奥さんは人当たりの良い方でしたが引っ越されて、しばらく買い手がなかったのですが、数年前に若いカップルが越して来たのです。今時の流行か何かで、暗くなったらオブジェでも飾って楽しんでいるのかしら。辻褄のあわない想像を巡らせながら家事をこなし、ドタバタとやっているうちに、あっという間に夜がふけていました。
何だか気が落ちつきません。蒲団を敷いてクーラーのスイッチを入れます。今夜は窓を開けないでおこうと思いました。
――どれぐらい時間が経ったでしょう。
肌寒さに目を覚ますと、カーテンが揺れています。
さっと眠気が引きました。窓が開いています。飛び起きた私はカーテンごと閉めてしまおうとしてつい、向かいに目をやってしまいました。
屋根の上に、またあのすいかが並んでいます。
低く掛かった月の光が屋根瓦に反射し、丸い物のひとつひとつを黒く立体的に浮き上がらせています。音を立てないよう注意して網戸を開けて、私は身を乗り出して目を凝らしました。体をじかに外に出すと、さっきまで冷えていた肌に熱帯夜の湿気が絡み、額や首筋に汗を滲ませます。饐えた臭いが鼻を刺すのは何故なのか、この辺りに溝はないはずなのに、生温い微風がきつい臭気を乗せてへばりつきます。私は鼻を摘みつつ首を伸ばして覗き込みましたが、すいかのような物は影になって、やっぱり何なのか分りません。
いい加減馬鹿らしくなったので窓を閉めようとした矢先、はたと気付きました。月の位置とは関係なく、どのすいかもみんなすっぽりと影を被っていることに。
私は急に怖くなって、思わずぴしゃりと音をたててガラス窓を閉めました。
その瞬間、いくつも並んだすいかが一斉に、ぴくりと動いたのです。
「見たらいけない」
けれども私の瞼は開いたまま硬直して体が動きません。耳鳴りでしょうか、たくさん生えた木がざわざわと揺れるような音がします。並んで転がっている丸い物の、その真ん中からやや上のあたりに白っぽい線が二つ割け、ぱちりと開きました。開いたどれもこれもが、まだ生臭さが強く残るこの二階を向いています。そしてぱちぱちと、まるでまばたきでもしているかのように点滅したのです。
――後はよく覚えていません。気がついた時にはいつもどおり、私は蒲団で寝ていたのですから。
あの夜を境に二階を使わないことにしました。ですからもう何も見なくなりましたし、変わったことは何もありません。
しばらくして向かいのご夫婦が出て行かれました。
理由は聞いていないのでわかりません。