同居人
独身貴族のYさんがまだ学生の頃だというから、もう何年も前の出来事だと思った。
「俺は末っ子だったし、恵まれていたと思うんだけど、何しろ反抗期でさ。一人暮らしを始めて、ようやく色んな有難味がわかってきたんだよね」Yさんが、よく片付いたリビングのテーブルに肘をついて喋り出す。
今でこそ洒脱なマンションに暮らしている彼だが、大学の頃は、中古のアパートを借りて住んでいたらしい。追々一人暮らしにも慣れ、いいバイト先にもめぐり合って、Yさんは気ままに自分の生活を楽しんでいた。朝は苦手だが宵っ張りで、何より当時はまだ日本がいくらか裕福だったから、気心の知れた男友達としょっちゅう飲み歩いていたそうだ。同じサークルで知り合った彼女とデートを始めたのも、ちょうどこの時期だったらしい。
焼けた腕に長袖を着ていた覚えがあるというので、季節は秋口だろうか。
キャンパスの休講日を利用し、免許を持っている彼女の運転で、前日から国道沿いのホテルにチェックインした。そのまま彼女と初めて一晩過ごした後、メルヘンチックな遊園地でたっぷりと遊んだ帰りのことだ。時計は五時を過ぎている。一日動いて腹が減っていたYさんは、気分良く彼女を食事に誘った。けれども彼女は両親に、女友達の部屋に泊まるが早めに帰ると説明したという。アリバイに綻びがしょうじても困るから、Yさんは通りの適当な場所で車を降りた。いかにも父親の物らしい彼女のセダンを見送った後、横辻の電信柱に隠れた角を曲がり、彼は自分の部屋までてくてく歩き出した。
住宅街の細い路地を、籠にレジ袋を詰めたオバサンの自転車が通りすがる。青が白んだ茜空に、又明日の挨拶をする子供の声がこだましている。暮れ方の、冷えはじめた風が額や鼻先に当たった。
ふと、いいにおいを嗅いだ。
「カレーのにおいだ」
どこから漂って来るのだろう。Yさんはそう思いながら、灯りが点き始めた家並みを見回した。きっと鍋をぐつぐつ煮たたせている家があるんだろうと想像しつつ、入居者専用の駐車場を横切ろうとする。と、香りがまたふわりと彼の鼻を撫でた。正面の一階から漏れて来る団欒の音を聞きながら、Yさんは部活の試合で遅くなった日や、修学旅行を終えた日の帰り道、ふくらんだリュックを担ぎ担ぎ実家のそばまで来ると決まって、カレーのいい香りが出迎えてくれたのを思い出した。
当時Yさんが住んでいたアパートは二階建てで、2DKの部屋が横に八戸並んでいた。二階の突き当たりがYさんの部屋だ。この角部屋だけは、脇道を挟んだ隣の川から蚊がわくだとか、並木が影になって日当たりを悪くするという理由で安かった。
いいにおいが強くなる。腹が減って仕方ないYさんは階段を早足で駆け上がり、一部屋ぶん通り過ぎてふと、足を止めた。
においは一番奥から風に乗り、アパートの外へと流れている。
「俺の部屋のほうじゃん」
奥の部屋の向こうには、折り重なった木の枝が揺れているばかりだ。自分の部屋からにおいが流れて来るのだろうか。Yさんは、取り留めのない考えをめぐらせながら歩き始める。彼女にはまだ部屋の合鍵を渡していない。おまけに母親は几帳面な性質だから、アパートに押しかける時には前もって「いついつに行く」と連絡をよこすくせがある。何となく違和感を覚えながらもYさんは、自分の部屋の前に立った。
ぴたりと閉じたドアの、細い郵便受けの隙間からか、それとも廊下に面して開いた排気口から染み出すのか、強いにおいが辺りに濃くたち込めている。ドアの内側からは物音ひとつしない。時おり、隣の部屋からテレビ番組の囃し声が、薄暗い廊下にかすかに響いている。木の葉のざわめく音がして、また臭気が鼻を刺した。無性に空腹でたまらないYさんは、ともかく中に入ろうとドアノブを捻った。やっぱり錠が掛かっている。ズボンのポケットに手を突っ込んで鍵を取り出し、ドアノブに差し込もうとした瞬間、
「オカエリ」
――聞き覚えのない女の声が耳元で囁いたと、Yさんは話すのだ。息の生臭さや、自分の前髪に触れて揺らしたのまで覚えているという。
ぞっとして部屋の前から逃げ出した時、廊下に面した台所の磨り硝子に、誰かが中から顔をへばりつけているような肌色の影を見た気もすると、Yさんは付け加えた。気もするだけですかと尋ねると、彼は珈琲のおかわりをすすめつつキッチンへと消えていく。
「どうかなあ。だってその後も、よく似たにおいがしたことがあったからね。まあそれも、俺にしかにおいがわからんのだけど」
ただ一向に相手は姿を現さないし、ましてや悪さをするのでもない。何よりカレーのようなにおいがだんだん心地よくなってきたから、建て替えられた今でも俺はここを離れられずにいるんだよ。
Yさんはそう言って、暗がりから笑った。