4.幸せな結末(完)
……なのに今、結婚を申し込まれている。いくらでも浮気し放題という条件付きで。
アスラは地獄を前にしたかのように目を据わらせていった。
「あなたに好きな人ができたらどうするの。相手の女性は、名目上だろうと妻がいる男は嫌だと思うけど?」
そのときは離婚だろうか。あぁ、それならこの話を受けてもいいかもしれない。
アスラの心はわずかに揺れた。この人に恋が訪れるまでの期限付きだというなら、それまでの短い時間を夫婦として過ごすのも悪くないのかもしれない。自分にとっては愛する人と結婚式を挙げることもできる。一生に一度の甘い夢だ。そしていつか終わりが来たら潔く彼の元を去る。
……そのときに、ようやくこの恋も終わるのかもしれない。
アスラが思い悩んでいると、生真面目な男は大真面目にいった。
「名目上とはいえ君の夫になるんだ。浮気はしない」
「こっちには勧めておいて!?」
「勧めたわけじゃないが……、いつか君に恋人ができて、君がその男と結婚したいというなら、そのときは可能な限り力になると約束しよう。だが幸いなことに、君には恋人がいない」
「なにも幸いじゃないんだけど?」
「俺には君を守るための権力がある。ひとまず俺で妥協しないか」
「絶対にいや」
アスラはまなじりを釣り上げた。
それは確かに、この男のことをもう何とも思っていないというふりをし続けてきたのは自分だ。吹っ切った振りをしていたのも自分だ。だけどかつては恋心がだだ漏れだったのだし、己に思いを寄せていた女に対してもう少し気遣いがあってもいいんじゃないだろうか。妥協ってなによ。
今も昔も変わらずに一番大好きですけどね!?
アスラは胸の内でバーカバーカと子供のような罵りを吐き出した。悔し紛れである。
男は困り果てたように眉を下げていった。
「確かに俺は平凡な男だ。それは自覚している」
「昔から自覚ないでしょ」
「しかしこう見えても俺は大国の№2だ」
「知ってるけど?」
「その辺りに魅力を感じてくれないだろうか? 権力はあって悪いものじゃないぞ。これは俺の体感だが、権力の需要は非常に高い。その辺りに惹かれてくれないか?」
「全然」
「そうか……。しかしこう見えて俺は莫大な財産も所有している」
「でしょうね」
「君に不自由はさせない。君が望むものは何でも購入できる。美しいドレスや輝く宝石、それに城なども」
「城は今すぐ返品してほしい。……というかね、その話で頷いたら、わたしは権力と財力狙いの女だってことになるけど、それでいいの?」
「君がそれらに興味がないことは知っている。君の本質は自由を愛する森の魔女だ。しかし戦いの日々の中で俗世に馴染んでくれたことを期待したい。率直にいうと権力や財力に誘惑されて欲しい」
えぇ……とアスラは思わず引いた。
一応は求婚の口説き文句だろうに、それでいいのか? こういうときは例え建前だけであっても、優しさとか誠実さとか、そういう人間性に惹かれたといって欲しいものではないだろうか。
アスラがそう尋ねると、ポンコツな皇弟はふっと不敵に笑っていった。
「俺は人間性に自信はない。だが権力は確実に有しているといえる」
「胸を張っていうことじゃなくない?」
「今や権力こそが君を守る最強の盾だ。さあアスラ、いい加減諦めてこの書面にサインしろ。君だって俺の執念深さは知っているだろう。抗ったところで無駄だ。君が首を縦に振るまで俺は攻めの手を緩めない。必ずや君を陥落させてみせる」
「わたし城じゃないんだけど!?」
「大丈夫だ、サインさえしてくれたら悪いようにはしない。君を手に入れたがっているすべての勢力を叩き潰すと約束する。安心して俺に身を委ねなさい」
「悪人顔でいわないでよ、絶対にいやだからね」
だいたい、と、アスラはつんと澄ました顔をしていった。
「大魔女は施しは受けないの。その契約結婚のどこに、あなたにとっての得があるっていうのよ。一方的なものは契約とはいわないわよ」
「得しかないが?」
不思議そうに首を傾げられて、アスラのほうが面食らった。
救国の大魔女とはいえ、大国の皇弟である彼にとって、結婚になにか利益があっただろうか? 彼は皇位を欲しがっているわけでもない。今のアスラに神秘の力はないこともよくわかっているはずだ。
戸惑うアスラに、男は事実だけを述べるように淡々といった。
「名目上だけであっても、愛する君と結婚できるんだ。俺にとっては得しかないだろう」
「…………はっ?」
「無論、君にとっては幸いとはいえないことは承知している。しかし、君を守るためにはこれが最善だ。俺で手を打ってほしい。先ほどもいった通り、君を女性として求めるような真似は決してしないと誓う。君には安心して暮らしてほしいんだ」
「え……?」
「血だまりの中に倒れている君を見つけたとき、俺は自分の無力さを呪った。頼ってくれなどといっておきながら、俺は君に重荷を背負わせてばかりだった。……それでも、君はいま生きていてくれる。これ以上の喜びはない」
男は微笑んだ。
とうとう絶句したアスラに向かって、男はなおも真摯に告げた。
「俺は君を愛している。しかし君はそんなことは気にしなくていい。忘れてくれて構わない。君に必要なものは休息だ。傷ついた身体をゆっくりと休めてほしい。そのための場所と時間を俺は提供できる。なんといっても俺には権力があるからな」
「なんで最後だけ自信満々なのよ!?」
アスラは思わずツッコミを入れてしまった。
しかし、一番気にするべきはそこではない。さすがにそこではないということにアスラも気づいていた。
旅の仲間たちが見たら「遅すぎるのう」「ヘタレな石頭が全部悪い」「双方等しく有罪です」「鈍い女と鈍い男の戦いだったな」などと口々に呟いていたことだろう。
アスラは無意味に自分の頬を手でこすった。たぶんこれは夢じゃない。現実だ。
かあっと全身が真っ赤に染まってしまった気がした。でも目の前の男は平然としているので違うのかもしれない。わからない。自分がこんなにうろたえているのに、どうしてこのポンコツヒューマンは動揺一つ見せないのだ。いま凄いことをいったのはそっちなのに。そっちだよね!?
「あ……、愛してるって、わたしを……?」
「そうだが?」
なぜ不思議そうに返してくるんだ。今のは愛の告白だよね? そうだよね!?
「それって、その、友達としてとか、仲間としてとかじゃなくて、恋愛の意味で……?」
「そうだが?」
ポンコツヒューマンが『なぜそんなことを尋ねるんだ?』といわんばかりの顔をした。
アスラの理性はたやすくぶちっと切れた。
「そんなこと一度もいったことなかったじゃない! わたしが頑張って迫ったときだって無反応で!」
「なにをいい出すんだ、アスラ。君に迫られたことなどないぞ」
「身体を寄せてじっと瞳を見つめました!」
「…………? もしかして、君が腹痛を隠していたときの話か?」
「腹痛じゃない! 迫ってたの! それに焼肉パーティーをしたこともあったし!」
「まさか森の魔女の風習では、焼肉パーティーは求愛を意味していたのか……!?」
「ちがうけど!?」
「なんだ、驚かせないでくれ」
「でも薄着で踊ってみせたことだってあったじゃない!! あれは迫られている感じがしたでしょ!?」
「あの下半身賢者が君に詐欺行為を働いたときの話か? 俺は今でもあの男を牢獄へぶち込みたい気持ちがあるんだが。それを可能にする権力も持っている」
「突然の仲間割れはやめて。そうじゃなくて、迫られているって、……もしかして、思ってなかった?」
「君があの金に汚い下半身男になにか騙されていることはわかっていた。しかしあれで迫っているというのは……、どういう意味で迫っていたんだ? もしや、なにかひっ迫した状況だったのか? ああ、気づかなくてすまなかった」
「ちがっ……!!!」
何もかもちがうと、アスラは頭を抱えた。
え、このポンコツヒューマン鈍すぎない? あのアプローチの数々は、恋心を知った上でのスルーじゃなくて、もしかして単純に気づいていなかっただけ? そんなことってある?
アスラは苦悩したが、旅の仲間たちがその心情を知ったなら「あれで気づくと思っていたそなたもたいがいよのう」「大魔女サマがいいカモすぎてなけなしの良心がうずいたよね」「貴様に良心など存在しませんが、アスラも十分ポンコツ半ヒューマンですね」「お前は戦死してもよかったけど、あの子には幸せになって欲しいよな」などと口々に呟いたことだろう。
そうとは知らないアスラは、よろよろと顔を上げた。
「というかさ……、すっ、すき、なら、最初にそれをいうものじゃない……!? 結婚を申し込むなら、そういうものじゃないの……? なんで権力ばっかり推してくるの?」
「俺の魅力といえば権力だろう」
「ばか。本当にぽんこつ」
アスラはほとんど睨みつける勢いで、男の瞳をぎっと見つめていった。
「あなたの魅力はね、その執念深さだよ。不屈の心だよ。絶望的な状況でも絶対に諦めなかったところ。何度でも立ち上がるところ。格好良くて、気高くて、見惚れてしまうの。まあ変なところで抜けてるけどね。でも優しくて生真面目で、笑うと可愛いの」
「……アスラ。そのくらいにしてくれないか。さすがにそれ以上は……、俺も期待を抱いてしまう」
「期待してよ」
男が眼を見開いた。
アスラは真っ赤な顔をして、眼をウロウロと泳がせてから、それでも一生懸命、言葉を口にした。
「わたしもあなたのことが好き。ずっとずっと好きだったの!」
数秒後、室内には顔を真っ赤にしたヒューマンが増えた。
めでたしめでたし。