3.大魔女と愉快な仲間たち
アスラはうつむいて嘘泣きを続けながら、過去を思い出していた。やはりこの男と偽装結婚なんてとんでもないと決意を新たにする。自分の身が持たない。すでに身体がボロボロなのに、このうえ精神までダメージを負いたくない。
アスラは涙をぬぐうふりをしながらか細い声でいった。
「いくら名目上とはいえ、あなたの妻になってしまったら、素敵な恋人を探すこともできないでしょう?」
「君は今までも恋人がいなかったのだし、この辺で俺で手を打ってもいいんじゃないだろうか」
アスラはこの男をタコ殴りにするために杖を求めた。
しかしアスラが立ち上がるより早く、男が席を立って杖を取ってきてくれた。そして案じる声でいった。
「急に動こうとするのはまだやめておけ。歩くときはゆっくりと、足元に気をつけながらと医者にもいわれているだろう?」
皇弟のくせに病院のスタッフみたいなことをいい出した。
アスラは内心で怒れる猫のようにシャーッ!と牙をむいて威嚇したが、実際に杖での殴打という暴力に出ることはなかった。無言で杖をソファの横に置く。皇弟は穏やかにいった。
「欲しいものがあるなら何でもいってくれ。俺が持ってこよう」
「この婚姻届を持って帰って欲しい」
「君がサインしたらな」
「あはは、絶対にしない」
アスラは低い声で凄んだ。
皇弟は顔だけの儚さで、悩ましげにいった。
「君が暮らす城───いや、屋敷を手配しているところなんだが」
「いま城っていわなかった?」
「充分な広さがある屋敷だ。俺と顔を合わせることもない。居住空間は完全に別れている」
「やっぱり城じゃない?」
「もし君に恋人ができたなら、そのときは君の城───いや屋敷で一緒に住むといい」
「どう聞いても城! やめて勝手に用意しないで。城はいらないからね城は。……というか、それは不貞行為ってものでしょう。皇弟の妻が不貞とか、もしかして遠回しに処刑するぞっていってる?」
「契約結婚だぞ。君の心も愛も自由だ。俺は後継ぎを求められる立場ではないからな、問題はない」
大ありだ。特にアスラの心が重傷を負っている。
……かつてはアスラだって、この男の気を惹こうと頑張ったことはあったのだ。
森の奥で育ったアスラは、ときめきを覚えることも、恋をすることも初めてだった。
好きな人と距離を縮める方法さえわからなくて、借金と同じほど恋愛経験が豊富だと自称する大賢者に教えを乞うた。大賢者は10ゴールドの授業料と引き換えに恋愛のイロハを教えてくれた。
しかし、知識と実践はちがうということだろう。実行に移してみてもちっともうまくいかなかった。
最初に教わった方法はこうだ。星空の下でさりげなく身体を寄せて、じっと彼の瞳を見つめる。その後は自然の成り行きに身を委ねたらいい。素敵な夜が訪れるだろう。
しかし現実は無慈悲だ。じっと見つめたところ、彼に「何か心配事があるのか? 何でもいってくれ。君の力になりたいんだ。どうか一人で抱え込まないでほしい」と真摯に気遣われて終わった。ロマンチックな雰囲気は訪れず、最終的には腹痛を心配されて医者に連れて行かれそうになった。最悪だった。
翌日、アスラがさらに10ゴールド払って大賢者に教えを乞うと、今度は胃袋から掴むという方法を授かった。さっそく実践に移すべく、まずは好きな食べ物を探ろうとすると「毒が入っていないなら何でもいい」という深刻すぎる答えが返ってきた。当の本人は平然とした顔をしているのがなおのこといたたまれない。
アスラは勢いよく財布を握りしめて街へ走り、奮発して高いお肉を買ってきた。
その晩はみんなで焼肉パーティーをした。
焼いた肉が嫌いなヒューマンはいない。彼も喜んでいた。
しかし眠りにつく直前でアスラは気づいてしまった。あれ? あのひと皇弟だよね? 皇宮には立派な料理人がいたんじゃない? と。
寝袋の中で恥ずかしさにのたうち回ったアスラは、その翌日、さらに10ゴールド払って三度目の教えを乞うた。大賢者はなぜか両手で顔を覆っていた。「うちの大魔女サマがいいカモすぎる」と呻いていたのは、今にして思うと予言だったのかもしれない。
とにかくアスラは、三度目の正直として、普段よりも薄着になって彼の前でくるくると踊ってみせた。大賢者が太鼓判を押した方法だ。「これで落ちない男はいない。いくらあいつが鋼の理性の持ち主でも、絶対に手を出してくる!」といわれた。
しかし皇弟はやはり育ちがよかった。欲望の獣と化すことなく、アスラの肩にそっと外套をかけてくれた。
「そんな恰好では風邪を引くぞ」
そう優しくいわれたアスラは、恥ずかしさで死にたくなった。
どうあっても彼に女として見てはもらえないのだと、寝袋の中でしょぼくれた翌日、それでもあきらめ悪く四度目の10ゴールドを握りしめたアスラが見たものは、仲間たちから寄ってたかって簀巻きにされている大賢者の姿だった。
次期女王が大賢者を足蹴にしながらいった。
「そなたはほんに騙されやすいのう。この男、顔に詐欺師と書いてあるではないか」
人間嫌いの大神官は大賢者を忌々しく睨みつけて吐き捨てた。
「これだから人間は信用できない。人間は皆裏切るのです。滅びよ悪め、滅びよ!」
戦狂いの剣士は困った顔をしながら忠告してきた。
「あいつの大賢者としての能力は確かだが、それ以外は何も信用しちゃ駄目だ」
皇弟は敵軍を前にしたときのように冷徹な顔で大賢者を見下ろし、それからアスラの手にそっと40ゴールド握らせた。
「経緯はついぞ吐かなかったが、あれは君から金を騙し取っていたのだろう?」
「ちゃんとした授業料だよ!? しかも10ゴールド増えてるじゃない! みんな何をやってるの!?」
「なんの授業だ?」
ぐっと答えに詰まったアスラに、簀巻きの大賢者はへらへらと笑った。
「いいって、気にするなよ、お嬢ちゃん。いつの世も色男は誤解される運命さ」
「駄目だよ、そんな……!」
「優しいねえ大魔女サマは。据え膳に手も出せないヘタレな石頭とは大違いだ。この戦いが終わったら、俺の嫁になるかいぐぉっ」
次期女王は大賢者を踏みつけて、冷ややかに笑った。
「ヘタレな石頭を否定はせんがのう。この妾の前で、世間知らずの小娘を弄ぶような真似が許されると思うたか?」
「お姫様だって、後宮に男をたくさん飼ってるぐぎゃ」
「妾の治世に有用な人材を集めておるのよ。貴様のような無能以外をな。ほほ、無駄口しか叩けぬ口はいっそ潰してしまおうかの」
「俺、大賢者よ? 望むなら二人一緒に天国を見せてあげヒンッ」
馬のように鳴いたのは大賢者だった。
彼らの様子を見ていたアスラは、さすがに『世間知らずの小娘』が自分のことだということは察した。そして仲間たちがみんな、自分の恋心に気づいていたのだろうということもわかってしまった。
アスラは発作的に逃げ出したくなった。このまま森の奥の我が家まで走り続けて寝台へ飛び込み、頭から毛布を被ってわー!と叫んでしまいたかった。
だって、みんな気づいている。きっと彼も、知っていて気づかないふりをしていてくれたのだ。仲間としての関係を保つために目をつぶってくれたのだ。大賢者直伝の恋愛術だ、効き目がなかったはずがない。それでも彼が何もいわなかったということは、そういうことなのだ。つまり自分は、遠回しにお断りされていたのだろう。
アスラはわー!と叫んで地面を転がりたかったし、今すぐ永遠に彼の前から消えてしまいたかった。
しかしアスラは大魔女だ。世界を救うことを定めとして生まれた女だ。
そして一人ではできることに限りがあるのだとアスラに教えたのはこの美しい皇弟だった。
それ以降、アスラは恋心を必死で踏んづけながら、仲間として振舞った。