表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/4

2.約束


 真面目な男だ。真面目で、優しくて、誠実で、泥にまみれても理想を捨てない。どれほど劣勢でも執念深く諦めない。希望を捨てない。見ているアスラのほうが泣きたくなってしまうような誇り高いポンコツヒューマンだから、身分差を前にしても結婚をいい出すだろうと思っていた。アスラ(仲間)を守ることを優先するだろうとわかっていた。


 だから、自分がきっぱりと現実を突きつけてやるつもりだった。自分の立場を考えなさいといってやるつもりだった。でも、忘れていたのかもしれない。この男は、ポンコツだけど常勝将軍なのだ。


 あっさりとアスラの抵抗を封じ込めてみせた男は、すっと一枚の書類を差し出した。


「問題は解決しただろうか? では、この書面にサインを」


 書類の一番上にはでかでかと婚姻届と書いてある。アスラはついベッド脇の杖へ眼をやってしまった。


 しかし暴力に訴えても物事は解決しない。特に相手が自分より強い暴力を有している場合には。


 アスラは知性ある人間として、穏やかに相手の情に訴えることにした。


「ねえ、あなただって知ってるでしょう? 愛する人と家庭を築くことが、わたしの長年の夢だったのよ」

「アスラ……」

「契約結婚なんてできない。わたしはお母様のようには生きられないのよ」


 アスラは悲しげに顔を伏せて、ぐすんと鼻を鳴らし、ふるふると肩を震わせた。嘘泣きである。



 ※



 昔話をしよう。


 かつて神殿には、稀代の大巫女と謳われた女性がいた。


 彼女は星を読み、風と対話し、古き時代の神の声を聞くことすらできた。

 しかし大巫女は、ある時期を境に心を病み、恐ろしい呪いの言葉を喚き散らすようになってしまった。精神の治療を試みるも効果はなく、呪詛を口にして神聖な場を汚し、ついには誰の制止も聞かずに神殿を飛び出した。今となっては彼女の行方を知る者は誰もいない───というのが公的な記録である。


 しかし実際には大巫女は、闇の軍勢の予兆を捉えていたのだった。当時はまだ誰も知ることのなかった微かな兆しだ。世界でただ一人、滅びの星の訪れに気づいた女だった。


「このままでは世界は滅んでしまいます!」


 彼女は繰り返しそう神殿の上層部へ訴えたが、平和に慣れ切った彼らの耳には届かなかった。虚言扱いの末に牢に繋がれそうになった大巫女は、ついには神殿を飛び出した。



 ───そこまではまだいい。そこまではまだ、悲劇の女性といえる範疇である。



 神殿を飛び出し、放浪の身となった彼女が、次に何をしたかといえば、神を呼び出すことだった。

 神族はこの地を離れて久しく、今となっては伝説の中でしか語られることのない存在だ。その神を、彼女は大巫女の全力を持ってこの地に降臨させた。

 顕現した神は問うたという。

「なにが望みか」

 大巫女は答えた。

「滅びの星から人々を守ることです」

 神は憐れむようにいった。

「この顕現はいっときの幻にすぎない。長く留まることはできず、人間たちを救えるものではない」


 大巫女は笑った。


「わかっております。ですがあなた様には今、仮初とはいえ肉の身体がある。ならば子を成すことも可能でしょう。神の血を引く子を、わたくしに与えてくださいませ」


 神はしばしの沈黙の末に答えた。


「半分は人の子でも半分は神の子。運よく産み落とせたとしても、そなたは死ぬ」


 大巫女は晴れ晴れと笑った。


「世界を救えるのならば、そのようなことは些事でございましょう」






 ───ヤバいヒューマンだ……というのがアスラの正直な気持ちだった。


 養い親である魔女からその話を聞くたびに、アスラは内心でドン引きしていた。覚悟が決まりすぎである。え、神殿への恨みとかなかったの? 何をどうしたら孤立して一人きりになった後で神を顕現させますわ!って決意に至っちゃったの? こわ、わたしの顔も知らない母親が怖い。


 見事に宿願を達して神の子を身ごもった大巫女は、森の奥に住む魔女を訪ねて事情を打ち明け、滅びのときに備えてこの子を育ててほしいと訴えたのだという。

 年老いた魔女もまたドン引きした。心を病んだ娘の戯言だと思えたらよかったけれど、その身に神の力が宿っていることが、偉大なる森の魔女にはわかってしまったからだ。だから余計にドン引きした。


 十月十日を経て、覚悟の決まりすぎた大巫女は、ついに出産のときを迎えた。


 ……彼女はそのとき、初めて涙を見せたのだという。


「後悔なんてしないと思っていたのに……、わたくしはこの子の顔を見ることができないわ。この子が大きくなる姿を見守ることもできない。わたくしが世界を背負わせてしまった子なのに、守ってあげられない」


 泣きながら「ごめんなさい」と繰り返す娘に、森の魔女は約束した。


「この子は幸せになれるさ。きっと幸せになれる。大丈夫、何も心配はいらないさ」


 そうして生まれたアスラはすくすくと成長し、偉大なる森の魔女は彼女に多くのことを教えた。


 背が伸びるとともに、アスラは神秘の力の扱い方を身につけていった。

 その一方で、老魔女は、ベッドから起き上がることが少なくなっていった。


 よく晴れたある日、森の魔女はアスラに約束をさせた。


「いいかい、アスラ。よくお聞き。近いうちに、恐ろしい敵が現れるだろう。お前の力が求められるだろう。お前は戦いへおもむくことになるだろう。……だけどね、アスラ。本当はお前は世界を守らなくたっていいんだ。逃げたっていい。隠れたっていい。わたしがお前に望むのは、幸せになることだけさ。───さあ、この老いた魔女と約束しておくれ。幸せになるといっておくれ」


 泣きながら約束をするアスラに、偉大なる森の魔女は優しい顔で微笑んだ。


「ありがとう。わたしの愛しい子。人生の最後にお前たち母子と出会えて、わたしは本当に幸せだったよ」




 アスラは約束した。


 幸せになると約束した。




 ───だからこんなポンコツ激にぶ男と偽装結婚するわけにはいかないのである!



 彼だって、アスラの事情は知っている。

 森の魔女と交わした約束についても、彼にだけは打ち明けたことがある。逃げてもいいといった養い親の言葉を、彼は否定することも批判することもなかった。彼はただじっと、アスラのことをまるで尊いもののように見つめていった。


「君の親御さんのいう通りだ。君は逃げてもいい。だが君は、それを承知の上で戦うために踏み出した。君のその勇気こそ最も偉大な力だ。君は美しいな、アスラ」


 アスラは真っ赤になった。そして次の瞬間にはこのポンコツ皇弟を呪った。


 この男は育ちが良い上にポンコツなので、他意なくこう恥ずかしいことをサラっといってのけるのだ。いわれた方がどれほど心臓がばくばくしてしまって、バカな期待が芽吹いてしまっては必死で踏んづけているかなんて、ちっともわかっていないにちがいない。


 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ