脱出
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『オラオラオラぁ! しっかり働け、このゴミムシ共が!』
スキンヘッドが特徴的な大柄の男が発する怒声と振り下ろされる鞭がしなり空を切って地面を穿つ音が木霊し、怯えからか何処からともなくすすり泣く様な悲壮な声が聞こえてくる。まさに恐怖と絶望と暴力に支配された、地獄のような広い農場。
ミズガルで言うところの小麦に似た植物を育てているこの農場の一角に、数か月前とは比べ物にならないほどに痩せこけて顔色の悪くなった晴見の姿はあった。
晴見を百ゴールドで落札した男性の正体は、郊外の農場を経営する地主であった。
強引かつ強権的な運営故に雇用した小作農の定着が悪く、しかし利益率の高さから運営方針を改善するつもりなど毛頭ないため、より効率的かつ莫大な利益を得ようと憲兵が主催する奴隷市で若い男の奴隷を買い漁っているのだという。
そうして地主に買われた晴見は他の奴隷と一緒に徒歩で連れてこられ、如何にも脛に傷のありそうな屈強な監視員の元で農業に勤しんでいる。目立たぬように、静かに粛々と。
監視員の男も、晴見を買った地主の男すらも、彼が神から授かった農業系のチート能力を持っていることなど知らない。それどころか、晴見が担当する区画の収穫が他と比べて優れているという事実にすら気付いていない。
収穫量が良かったなら、「良かった」という感想で終わり。それが理由で奴隷の待遇が改善されることは無い。逆に収穫が悪ければ、担当する奴隷は鞭打たれて最悪殺される。
毎日毎日寝る時間と食事の時間以外ずっと農作業に従事する日々。風呂にも入れず、排せつすら決まった時間にしか許されない。その上食事も農場から無償提供されることはなく、自己負担による購入制。地主から渡される僅かな給金を捻出して、相場より遥かに高い癖に粗末な食事を地主から買うしかない。
それでも、食事だけがこの地獄の農場における僅かな楽しみなことには変わりない。それにも関わらず、そんな細やかな楽しみにすらありつけない奴隷が数名。その一人が晴見だ。
晴見の様に課せられた莫大な罰則金を奴隷市場での売買のタイミングで清算し切れなかった奴隷は、残る賠償金支払いのために僅かな給金全額を差し押さえられている。そのため、彼の手元には一銭たりとも渡りはしない。故に農場に来てから既に数か月は経とうかという頃合いだが、その間晴見はほぼ絶食状態。水と、見かねた同僚から分け与えられる僅かな食糧だけを頼りに厳しい重労働に従事している有様だ。
その上、晴見は仮に賠償金を全額支払ったところで自由にはなれない。何故なら今の晴見は、地主の男に買われた奴隷。賠償金の支払いと奴隷売買は別の話であり、賠償金の債務が消滅しようが奴隷契約は消滅しない。退くも地獄、進むも地獄。待ち受けているのは、死の運命だけ。
『……冗談じゃねえ。ブラック企業に必死に耐えた俺でも、奴隷なんかこれ以上は御免だ!』
いつの世も、劣悪な環境というのはそこに縛り付けられた者の心に反抗心を芽生えさせる。まして、一度劣悪な環境から逃れているのならば猶更である。
そしてこれ以上は耐えられないと判断した晴見は――動いた。
奴隷たちは基本的に皆枷を嵌めた上で寝るように指示されているのだが、数名の痩せ細った奴隷は例外的に枷の着用を免除されていた。脱走のリスクが少ない奴隷相手ならば、監督役がいちいち枷の施錠状態をチェックするのが面倒なだけだからという理由らしい。
長らく絶食に耐えてすっかり痩せこけてもなお、晴見は中々施錠免除の対象にはならなかった。しかし、ある日の晩に漸く、晴見は施錠免除の対象として認定された。
久方ぶりの、手足が自由な状態での睡眠。だが、悠長にそんなもので喜んでいる場合ではない。これ以上衰弱すれば、いよいよ脱走どころの騒ぎではなくなる。故に隙が生じ、加えて体力がまだある時期―― すなわち今を逃しては、永久に脱走の機会は無いと踏んでいた。
胸に脱走の決意を固め、しかし周囲に合わせて狸寝入りを決め込む晴見。
日中の激務故に途中幾度も睡魔に負けそうになりながら、それでも気力だけを頼りに睡魔を何とか捻じ伏せて、監視役の監視が緩まる機会を伺う。
そして、夜がすっかり更けて来たころ、漸く監視役が舟を漕ぎ始めたその時。
『今だ!』
好機と判断した晴見は、静かに起き上がると全速力で駆け出す。
脱走の事は、誰にも話していない。
ブラック企業勤めをしていた際、気心の知れた同僚にワンマン社長への悪口と退職を検討していることを半ば冗談交じりに口走ったことがあった。ほんの些細な可愛い冗談に過ぎないそれを、その同僚は晴見を裏切って密告。その結果同僚が昇進した一方で、晴見は休む間もない激務を課された上で減給。更には辞められないように散々恫喝された。
以来晴見は、同じ苦しい境遇にいる仲間とて信用できない、信用してはならないという考えを持つに至ってしまった。だから、今回も誰にも何も告げずに逃げた。裏切られるくらいなら裏切ると、痛い目に遭うくらいなら遭わせると、一概に批難し切れない自己保身故に。
『奴隷が逃げたぞ! 追えっ! 追えぇえええええええっ!』
晴見の脱走は、すぐに監視役たちの知るところとなった。
何故なら晴見の脱走に気付いた同僚の奴隷が、即座に監視役に報告したから。
そして監視役たちは急いで晴見の後を追った。万全を期すために他の奴隷の枷を解除して捜索の頭数を増やすという手段を取ってまで、後を追い始めた。
そんなことなど露知らず、晴見は必死に足を動かして逃げ続ける。
肺が破れそうなほどの激痛を放ち、素足に幾筋もの傷を付け、丹精込めて育てた作物を掻き分け踏み荒らしながら、必死に走った。
そうして、身を隠しながら移動して何とか出口の近くまで辿り着き、あと少しで自由が手に入るという――その直前で。
『いたぞ! もうこの際、殺して構わん! やれ!』
『はっ!』
背後から聞こえた物騒なやり取り。そして直後に響く、火薬の爆発した音。
『グえっ!?』
背中から押し出されるような強い衝撃と共に、声にならない断末魔が漏れる。衝撃に耐えきれずに倒れ伏した晴見の胸には穴が穿たれ、そこから止めどなく血が溢れ出してきた。
先込め式の粗末な銃撃くらいでは、本来晴見は死なない。高所から自由落下しても死なないほどの加護を授かっている以上、そのくらいでは致命傷どころか傷を負うことすらない。
しかし、晴見の場合は別。長きに亘る劣悪な環境で晴見の肉体は既に死の寸前まで追い詰められており、加護の力で生命を維持することで辛うじて命を繋いでいるのが現状だった。
故に加護の力が収まり、肉体の耐久度が生前と大差ない水準にまで落ち込んでしまっていた。だからこそ洗練されていない粗末な銃による一撃で容易く傷を負い、致命傷となった。
『……く、クソが』
衰弱し切ったところに多量の出血が重なり、晴見の視界はすっかり狭まって意識は朦朧としていた。そしていよいよ限界という段になった時、今際の際に抱く悔しさから弱々しい口調でそう呟くと、終ぞ晴見は事切れて静かに瞳を閉じた。
◇
『――はっ! はっ……はっ……い、今のは?』
こくりこくりと首を擡げながら気絶していたところ、危うく椅子から崩れ落ちそうになったタイミングで漸く晴見は目を覚ました。その吐息は荒く乱れ、顔中には夥しい汗が浮かんでおり、まるで全力疾走してきたばかりであるかのよう。
まああの結末だ。無理もない話だが、余程の恐怖心を抱いたのだろう。目が覚めてなお体は意思に反して小刻みに震え、何より。
「あらあら、大丈夫? まだ寝小便するような年齢じゃないでしょうに」
「――えっ!?」
私がそっと指摘してやると、晴見は反射的に自身の股間へ視線を送る。
椅子を伝って流れ落ちる排泄物に、弱々しく湯気を上げながら広がっていく染み。
思わず我が目を疑いたくなるだろうその情けない様を目の当たりにした瞬間、「嘘だろ?」と顔を赤らめながらオロオロとした表情を浮かべる。
「ごごご、ごめんなさいっ! す、すぐに掃除します」
「当然よ。さっさと片付けなさいな」
用意しておいた雑巾とバケツと除菌液のセットを、晴見に向かって投げ渡す。
それを受けとった晴見は「どうも」と会釈するなり、いそいそと片付け始めた。
「くそっ、汚ねえなぁ!」
「汚い? ……ふっ!」
雑巾で吸ってバケツに絞ってから除菌液で消毒するという作業の繰り返しを始めて早々に、ふと晴見が漏らした苛立ち混じりの一言。それを耳聡く聞き咎めた私は鼻で嗤ってやる。
すると晴見は徐に顔を上げ、私の方へ睨むような視線を向けてきた。
「な、何ですか? その小馬鹿にしたような笑みは……」
「小馬鹿にしているんじゃなくて、ハッキリとバカにしているのよ」
「――なっ!?」
「まあ、この際だしハッキリ言うわ。アンタさぁ……ヴァッッッッッッッカじゃないの?」
「――えっ?」
突然眉間に皺を寄せた険しい表情と共に投げ付けられた暴言を頭が正確に処理出来なかったのか、晴見は呆気にとられたように凝然と固まる。
「そ、そんなことありませんよ! 俺は――」
「バカよ、バカ! もしバカじゃないとするなら、楽観的? いや、良く言い過ぎたわね。さしずめ能天気か、あるいは頭の中お花畑とかの方が適切じゃないかしら? まあ何れにしろ、アンタは一事が万事考えも見通しも甘くて温くて場当たり的なのよ」
「なっ! そんなことありませんよ! 俺は、ちゃんと考えて――」
「どこがよ! 何も考えてないでしょ、アンタ。まず、中世ヨーロッパ風だっけ? アンタが生きた時代と比べて数百年も文明が後退した世界で農業やりたいなんて言っておきながら、虫やネズミどころか自分の汚物すら許容できないとか冗談が過ぎるでしょ?
人類が衛生に気を配り始めるのは、産業の発展に伴う公害問題が表面化した頃。それ以前は良くも悪くも自然と共生していたから、自然を排除してまで衛生を優先させるなんて発想は無かったでしょうね。アンタの睡眠を妨げてくれた虫やネズミと文字通り共生していただろうし、何より化学肥料なんて存在しなかった時代に農業用肥料として人や動物の排泄物を利用していたなんて有名な話じゃない?」
「…………それは、そういえば」
「手付かずの自然と管理され切った人間社会は正反対。だからこそ、アンタが生きた人間社会で培った常識からすれば受け入れがたいモノや汚いとされるモノが数多く存在して当然。
そうなればもう、農業以前に生きていくだけでもシビアだったでしょう。実際、寝床にすら苦労していた。そしてそれは、最初から想定できた。言ったでしょ?『簡単じゃない』と」
「うぐっ!?」
「まあ、アンタが農業に憧れを抱くのも理解はするわ。アンタの世界には、農業をアピールするようなコンテンツは山とあった。それに農業自体、確かに魅力的で素晴らしい事業よ。
けどコンテンツというのは往々にしていい面ばかり強調して悪い面をぼかすし、魅力的な事業にも大変さは必ずある。上手い話には裏があるように、綺麗な花にはトゲや毒があるように、美味しい物が体に悪いように。そして頭の悪いヤツほど、自分にとって都合の悪いそうした話の裏側への想像や配慮が足りない。或いは敢えて目を逸らす。だから失敗する。
もしアンタが本気で農業やりたかったら、抜け漏れが無いほどに深く調べた上で入念に計画を練って準備をしなければダメだった。それなのに『何とかなる』って根拠のない自信だけは持っちゃって、適当な思考で場当たり的に行動すれば失敗して当然よ。碌に知りもしないのに『余裕だ』なんて豪語するような、人生舐め腐っている自意識過剰野郎なら猶更ね」
「………………」
「ああ、でもアンタはある意味目的を遂げたんだったわね。なら、一応聞いてあげましょう。
どうだった? 望み通りに異世界で農業できた感想は? 楽しかったかしら?」
「ぐぐぐ……ぐぅぅうううううううう!」
歯を食いしばりながら、苦悶の表情で妙な奇声を零す晴見。
まあ、あの結末が彼の望んだ異世界ライフでないのは明白で、かといって私の言葉を否定できるだけの結果を出せていなくて。
故に私の問いはさぞかし腹立たしく聞こえたことだろう。けど、まだ終わらない。
「あと、農業するための農地と家を買うための金を稼ごうとして商売に手を出そうとしたけどすぐに挫折していたわね。もしかして、先の時代を生きているから、売れるモノの一つでもすぐに考え付いて作れるとでも思ったのかしら? 無理に決まっているでしょうが。使ったことはあっても作ったことのない物ばかりのくせに」
「だって、物語ではあんなに簡単に――」
「そりゃ物語だもの。簡単に行くでしょうよ。でも、生憎アンタの人生は物語じゃない。そんなことにも気付かなかったのかしら?」
「………………」
押し黙る晴見。やはりというかなんというか、図星らしい。つくづく考えの甘いヤツ。
その浅薄な見通しに、思わずため息が漏れてしまう。
「で? 商売できるような商品を作れないからって最後は相撲を教えていたけど、アンタ一体それで何を売りつけるつもりだったのかしら? 今回は都合よく金巻き上げられたみたいだけど、まさか最初からその結果見越していたとでも?」
「それは! 正直そこまでは考えてなかった。けど俺が広めた遊びがブームになれば、また新しい遊びを教えて欲しいって話が来るかと思って……」
「ふーん。やはり能天気で行き当たりばったりの考えなしだったワケね。聞いて損した」
「……で悪いかよ?」
「はぁ? 何か言った?」
「他力本願で悪いのかよ? 能天気じゃ駄目なのかよ!? 行き当たりばったりでいけないのかよ!!? さっきから偉そうに言いやがって! 何様のつもりだ!」
俯きながらぼそぼそと何か言っているので聞き返してみれば、返ってきたのは激情に任せた怒声。全く、どうしてどいつもこいつも痛いところを突かれると怒るのやら。
というか、何様って決まっているでしょうが。
「女神様よ? 偉いに決まっているでしょうが」
「なっ!? てめぇ、ふざけ――」
「ふざけてんのは、アンタでしょうが。他力本願で能天気かつ行き当たりばったり。そんなのダメに決まっている。勿論、自分の意思なく奴隷同然に生きていくというのならそれでもいいわよ。でもアンタは、自分で人生を切り開くことを望んだ。自分らしく生きることを願った。だから異世界に行ったんでしょう? それなら、他力本願でも能天気でも行き当たりばったりでもダメ。それでは到底、自分の人生なんか生きられない。
いい? 自分の人生を生きるためにはね、他人任せでなく自力で問題に立ち向かい、常に最悪の状態を想定して綿密に人生のプランや戦略を練らなければいけないの。
でも、アンタには自分で人生を生きる意志も気概も無ければ、深く考えて導き出したプランも戦略も無い。だからアンタは他人に利用される人生しか歩めないの。
実際アンタが生前ブラック企業に搾取されまくった原因だって、突き詰めれば抜け出す術も考えず抜け出した後どうするかも想像できず、現状を変える労力を惜しんで楽な方に流されるようにして現状維持を選んだから。
そして異世界で最後奴隷にまで身を落としたのは、異世界を舐めて掛かって文明が発展していない世界へのリスクを考えるだけの思考力が無かったから。
二度も人生を生きて、その結末が両方とも他人に利用されて終わる人生だったのは偶然なんかじゃない。というか、あの選択肢に溢れた恵まれた世界ですら何も為せず、自分の人生も生きられなかったヤツが、どうして異世界でなら大丈夫だと思えるのかしら?」
「……………………」
「今のアンタじゃ、どんな世界だろうが奴隷的のような人生を歩むしかない。何事も自力で解決する覚悟と、人生を真剣に生きて考える知恵と思考力。そのいずれも無いヤツに、待っているのはそんな人生だけ。いいカモにされて終わりなの。わかったかしら?」
言いたい放題扱き下ろしてやれば、晴見は何か言い返したいのに何も言い返せない悔しさからか、まるで百面相の様に顔を歪ませ顔色を変えている。
だが、これ以上反論など聞いてやる気はない。私は静かにフィンガースナップを響かせ、晴見の足元に召喚聖印を刻み付ける。
「――えっ? これは……」
「もうこれ以上言ってやることは無いわ。さっさとミズガルへ、二ホンへ帰りなさい。今のアンタじゃ、幾度転生したって無駄。選択肢にも物資にも可能性にも恵まれたあの世界で、精々自分で人生切り開いてみなさい。それでもまだ異世界行きたいって言うなら、その時また異世界へ送ってあげる。私からの宿題、悔しかったらやり遂げて私を見返すことね」
嘲笑交じりにそう言い放ってやれば、召喚聖印が発する光に包まれ薄くなっていく中でもハッキリと分かるくらいに晴見は私を強く睨んでくる。
そして声こそ出ないが口で「上等だ!」と言い放ち、その姿は完全に消え去った。
「デカい口叩くじゃない。なら、有言実行して見せなさいよ。全く!」
やれやれ。どうしてどいつもこいつもここから去る時だけは威勢がいいのやら。
まあ、今後どうなるかほんの少しだけ期待して待ってあげるとしましょうか。
如何でしたでしょうか?