愚鈍
更新します。
「僕は、新しい世界では落ち着いた生活がしたいんです。スローライフが送れる世界へ、僕を送って貰えませんか?」
落ち着きなく体を左右にゆらゆらさせながら、年齢以上に老け込んだ印象を受ける深いほうれい線が刻まれた顔に草臥れて乾ききった笑顔を浮かべてそう言い放つ眼前の男。
袖を通す背広は長年毎日着古したのか型が崩れてすっかりヨレヨレ、覗く白いワイシャツもどこかくすんでいて皺も目立つ。加えてスラックスも丈があっておらず、靴にも汚れが目立ち、髪も自分で適当に切り揃えたのかと思うくらいにボサボサ。
凡そ人前に出るには失格なレベルで乱れた身嗜みに加えて、老け込んだ顔立ちと覇気のない表情のトリプルコンボによって、何ともどんくさそうな印象を受けてしまう。
そんな男の名は、三枝晴見。正直冴えない年老いた風貌だが、まだ二十七歳の若者である。
何でも生前は凄まじく劣悪な労働環境に身を置き、五年頑張ったが結局体を壊して脱走同然に退職。しかし退職した彼を待っていたのは極限の生活苦であり、最後は好転しない人生への絶望と誰にも理解されない孤独に心が潰され、半ば衝動的に命を絶ったのだという。
「成程。生前の苦しみから、転生後はスローライフをご希望ということですか?」
「はい。もう馬車馬のように働く人生を送りたくないんです。命懸けで必死に生きなきゃいけないような人生も。もっとゆったりとして、人間らしく自然に……そう、中世ヨーロッパみたいな異世界で農業でもして静かに暮らしたいんです!」
「農業でも……ねぇ」
目を輝かせてそう言い放つこの男には、何というか些か以上の思慮の浅さが垣間見える。
「一応言っておきますが、そう簡単で甘い話じゃないですよ? 農業の知識や経験は?」
「ありませんけど、多分大丈夫ですよ! なんたって俺は現実世界でブラック企業に酷使されつつも、必死に社会人やって来たくらい根性あるんですから。あの地獄の日々に比べれば、農業なんか余裕ですよ。よ・ゆ・う!」
ニカッと笑いながらあっけらかんと言い放つこの男に、私は苦笑を禁じ得なかった。
こいつ、こんな甘い考え方で世の中生きて来たのか……そりゃ、散々な目に遭う訳だ。
まあ、でもいいか。それが本人の希望なら、好きにやらせてやるのが私の仕事。
例えその後どうなろうとも、それは私の預かり知らぬ話なのだから。
「いいでしょう。では、貴方をスローライフが送れる世界へ転移させます。因みに、転生時には何か一つ能力を与えることも出来ますが、農業を志望する貴方は一体どんな能力を希望されますか?」
「能力か。そうですねぇ……まあ、王道に農業系スキルください。土耕したら植物がすぐに成長するとか、そんな感じの」
「……まあ、いいでしょう。では、その能力を貴方に授けます。頑張ってくださいね」
「はいっ!」
そう言って、晴見は意気揚々と召喚聖印の上に立つ。
そして召喚聖印の光の中へ溶けるように消えていき、彼は異世界とこれから始まるスローライフへの期待に胸躍らせた喜色満面の表情で異世界へ旅立っていった。
「……ありゃ、ダメかもしれないわね。けど、そんな奴でも見捨てず見守らなきゃならないのが、女神様の辛いところよね」
嘆息しながら、私はいつもの水晶へ目を落とす。
さて、今度のヤツはどれだけ持つか。まあ、戦わないから、相応に持つかもしれないわね。
◇
『おお! ここが異世界……すげぇ! ホントに中世ヨーロッパみたいな世界だ!』
降り立った異世界、そしてそこで目につく風景を前に興奮を禁じ得なかった晴見は、街中でありながらお構いなく歓喜の大ジャンプを披露する。当然周囲の視線が向けられることになるのだが、生来楽観的なこの男がそんなことを気にする筈がない。尤も、その楽観的な思考だからこそ、劣悪な労働環境の企業で五年も使い潰されていられたのだろうが。
『おっと、こうしちゃいられない。まずは、土地を手に入れないとな。……あれ?』
突然思案顔を浮かべる晴見。そして、小首を傾げながら口にする。
『そもそも、どうやって土地を手に入れればいいんだ?』
その発言を聞いた瞬間、私は水晶の向こうで思いっ切りズッコケた。
そんな初歩の初歩まで考えていなかったのか……こいつ、マジでダメかもしれない。
◇
『ふざけんな、この野郎っ!』
『ぐえっ!』
街に居ても埒が明かないと判断した晴見は、街の人に話を聞きながら近隣の農村へと足を運ぶ。やって来たのはなんとも牧歌的な、文明が発展したミズガルの都市部と比べれば遥かに時間の流れが遅そうな如何にもない田舎村といったところである。
到着して早々、晴見は村の男に声を掛けた。
この土地で作物が沢山採れるようにしてやるから農地を貸してくれ――と。
その結果、農地の主だろう屈強な農夫の男からは怒声と共に鉄拳が飛んできてこの有様というワケである。
『な、何だよ! いきなり殴ることないだろ!』
『この土地は、先祖代々の土地だ! 先祖代々耕し、守り抜いて、育んできたんだ。それをどこの馬の骨とも知れない珍妙な格好の余所者がいきなり来て貸せだと? ふざけんな!』
農夫の憤りは、まあ至極当然なモノだろう。
余所者に少しでも使わせて、取り返しのつかないことになれば溜まったものではない。
まして農地は、彼らにとって生活の生命線であり財産。それを気前よく貸し出してくれるヤツなどいる筈がない。
『じゃ、じゃあここで働かせてくれ! それなら――』
『お前みたいな余所者、受け入れるワケ無いだろう! 帰れっ!!』
仕方ないとばかりに提案した内容すらもにべもなく断られ、農夫の男は立ち去っていく。
そんな男の背中を見つめながら、晴見はふくれっ面で『何だよ、ケチ!』と文句を垂れるしかなかった。そしてこんな望み薄でふざけた話を、晴見はあろう事か村の農夫全員にして回ったのだ。当然貸出どころか雇用の話すら誰も耳を貸してくれることはなく、結局彼はすごすごと村を後にするしかなくなった。
『クソッたれ! 何でどいつもこいつも俺様を信じて仕事を任せねえんよ! 俺様なら、誰よりも優れた結果を出せる才能があるってのに。世界が変わっても、俺様の才能を見抜けないバカばかりで。腹が立つぜ……クソがっ!』
畦道に転がる石ころを蹴りながら、不満たらたらの晴見。
すっかり夜の帳も降り、このままではあわや転生初日から野宿かと思われたその時。
『……アレは?』
怒りのままに全力で蹴った石が飛んで行った先に視線を向けた時、目に飛び込んできたのは朽ち果てて捨て去られたのだろうログハウスのような小屋。
行く当てなどどこにもない晴見は、いそいそとその小屋に近づくとドアを叩く。
返事はなく、シーンと静まり返るだけ。中に人の気配もなく、辺りが暗くなってきたというのに明かりの一つもない。
『流石に不味いかな? イヤ、でも……非常事態だし、しゃーないな!』
ドアは施錠されていたようだが、そもそもドアの耐久性の方が最早皆無。
晴見が思いっ切りドアを押したと同時に、バキッという嫌な音と共にドアは開いた。
『失礼しま――うげっ!?』
轢き潰された蛙の鳴き声の如き悲鳴と共に、思わず顔を顰める晴見。
中へ足を踏み入れてみれば、外観同様に――否、外装以上に内装は廃墟同然。至る所蜘蛛の巣だらけで、酒樽が散乱する床は軋みが酷く、壁にも穴が幾つか見られる。
天井を見ても明かりの一つだってありはせず、そもそも電気など通っている筈もない。
部屋が薄暗いこともあって、どこを見渡しても燭台や蝋燭の一つ、更には火元となるようなモノすら見当たらない。
『えっ? じゃあつまり、夜は真っ暗ってこと?』
へなへなとその場に崩れ落ちる晴見。
しかし、今更ここを出たところで、宿泊先に心当たりなどない。退散したあの村以外に付近の集落は無く、昼の様子から見てあの村の者たちが晴見を受け入れてくれる筈がない。
何せ彼らには、晴見という氏素性も知れぬ不審な輩をリスク背負ってまで受け入れるメリットが何もないのだ。当然と言えば当然。
『まあ、大差ない気もするけど……野宿するよりはマシか』
腹を決めた晴見は、一息つこうと床に転がる椅子を起こして腰掛ける。
すると瞬間、椅子はメキメキっと軋んだ直後にバラバラに崩れた。
地面に尻を打ち付けた激痛で悶える晴見。ままならぬ現状と痛みに怒りを滾られた彼は一人絶叫する。
『クソッたれ! こんな生活、もう嫌だ!』
叫んだところで、怒りが収まるワケでも現状が改善されるワケでもない。憤懣やるかたなしといった様子のまま、晴見は床に大の字で横たわる。
『明日から……明日から俺の異世界ライフが始まるんだ!』
念仏の如くぶつくさと呟いた後、晴見は静かに目を閉じる。
異世界転生初日にして、さぞかし異世界へ来たことを後悔していることだろう。
だが、こんなものではない。きっとこの男には、もっとつらい現実の数々が待ち受けていることだろう。さて、あと何日で根を上げるかしら……精々楽しみにしておきましょうか。
如何でしたでしょうか?