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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

神秘の消えかけた世界で、

指切りだけが命綱だった。

作者: 夜雨

 昔々のお話です、とお伽話なら語るのだろう。けれど、それはまだそう昔のことではない。人間でさえ当時の者が生きているくらいだ、人外ならば尚更である。


 かつて、『神秘』の楽園があった。

『神秘』――紅色の瞳の吸血鬼、自然を依り代とする精霊、精霊に親しい妖精、水と生きる人魚。……そして、黄金色(きんいろ)の瞳と異形の姿を持つ、悪魔。彼ら人外の楽園であった。

 人間と人外が共存したその国を、人々は魔法大国と呼んだ。


 灰瞳の一族を王に仰ぎ千年続いたその国は、しかし盛者必衰の理には抗えず――『神秘』のチカラを求めた国々によって滅ぼされた。残ったのは人間たちに逃がされた壊れかけの『神秘』たち。


 彼らはこの大陸中に散らばった。

 ある悪魔は森の中で死を待ち、新たな契約者に出会い。

 ある魔女はかつての記憶を抱き、復讐にとり憑かれ。

 ある吸血鬼と精霊は森の中でひっそりと『神秘』を庇護し。


 そして、ある悪魔は――。
















 家族になって、と少女は言った。恥ずかしそうにはにかんで、痩せこけた頬を紅潮させて。

 掃き溜めの中で暮らしているような少女を憐れんで、悪魔は「いいよ」と頷いた。


 ずっと、一緒だよ。少女の微笑み。差し出された小指、ひそやかなわらべ歌。ちいさな約束。口だけの、少女のための甘い言葉。


 そうして、後に――ふたりは契約をした。鼓動を刻まぬ彼女の冷たい指に絡めるのは肉を持たぬ見せかけだけの指。少女のきらきらしていた目はもう何も、うつさない。


 どうしてか一粒だけの雨が悪魔の足元に滴った。



 *



 黒い文字が奔る。空を裂いて、蠢くように彷徨うように。

 ロイザは溜息をついた。相も変わらず下手くそな魔法だ。どうして自分はこんなに下手なのだろう、あの子はあんなにも上手に使うのに。何かコツでもあるのだろうか。しかし、年下の少女に教えを乞うのは嫌だ。年上のプライドというものがあるのだ……聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥だと冷静な自分の分析すらも聞きたくない。

 自分は今年で幾つになる? あの子は何歳ぐらいに見える? そんな自問自答をする度、この口は閉じてしまうのである。


「ロイ!」


 慌てたような声が響く。彼は顔を上げ、声の居場所を探した。自分の名を呼ぶのはあの子くらいだ。あの子――ロイザの契約者。ヒアン、ソヒアンリーナ。


「ヒアン?」


 こちらも呼びかければ、あの子にはすぐにわかったらしい。「ロイ、待ってて!」と叫ぶ彼女に大人しく従えば、数秒で幼い少女が駆け寄ってくる。


 ふわふわと揺れる紫紺色の髪。肩甲骨のあたりまで伸ばしているが、彼女としては切りたくてたまらないらしい。だがロイザはこの癖がつきやすい髪が可愛くてしょうがないので、頼み込んで切らずにいてもらっている。

 瞳がぱちぱちと彼を捉えて瞬きをした。大きめな目はただでさえ稚い少女を更にこどもらしく見せる。髪より柔らかい色合いの瞳は光を受けてあるじの意思を受けきらきらと輝いていて、紫水晶のように思える。

 うつくしく綺麗な彼女の両紫が、地味な深緑の髪と同色の目の彼には羨ましくて仕方がない。特に森にいると顕著だ。この髪はまるでそこらに生える苔のようなのだ。あるいは木の葉の陰。言うなれば保護色だ。悪い意味で非常に森に溶け込んでいる。ヒアンはあんなに輝いているのに! 喩えるなら妖精のように!

 ……最近実際の妖精に出会ったが、人間の伝承を微妙に裏切っていく存在だった。人外全般に言えることだが、外見は素晴らしいのに中身が残念過ぎないだろうか。


「ロイ、どうしたの?」


 色々と思うところがあり拳を握りしめていると、押し黙る彼に怪訝そうな少女が首を傾げている。かわいい。


 妖精は手のひらに収まるほど小さく中身が酷いが、外見だけは素晴らしい。そして彼女は妖精のごとき外見である――つまり、それはもうとてつもなくうつくしくかわいいのである。普通両立しないだろう形容詞が似合う彼女のすごいところだ。


「何でもないよ。それよりヒアン、用は?」


 その両立の秘密に彼女の幼さがあるのではと睨んでいる。少女はどこもかしこも成人した男である彼とは違いちいさく壊れそうに幼い。だから基本の彼女はかわいいが似合う。よくはにかむし、くるくると忙しなく動きまわる。だが時たま、大人びた憂いを帯びているのはうつくしい、だ。


「用っていうか、ただロイがどこに行ったんだろうと思って……邪魔をしちゃった?」

「いや、ちょっと遊んでただけだから」


 ロイザは何も知らない。彼女のことなど、何一つ。……自分のことも、知らなかった。記憶喪失。この家で最初に目覚めた時、彼女は彼にそう告げた。実際知識はともかく感情を伴う思い出があるかと言えば否である――だから、認識できる自分のことは、殆どが彼女の語る『ロイザ』であった。


「手遊びって、魔法でしょ?」

「まあ、俺下手だからさ」

「だから練習してたの?」

「秘密の特訓というやつだよヒアン」


 滞りなく会話をしながら、彼は無意識に目を細めた。急いで来たらしい少女は、身嗜みを整えるのを少々省いたらしい。多少省略したところで彼女の魅力が損なわれるわけではない。ただ、ロイザが覚えておくだけだ。……裾にほんの少しついた、染み。彼の場所を常に把握しておこうとする彼女。名を呼べば、すぐにこちらの居場所を把握する能力。自分より巧みな魔法。人外のようにうつくしい容姿。

 記憶喪失といえど知識は失われない。脳内に刻んだ推測は、ますます存在感を増していた。


 冷ややかな思考を表情の下に押し込めて、少女の賞賛で心を埋め尽くした。


 かわいいかわいい、ソヒアンリーナ。



 *



 男は、家族というものが本当に好きだった。だった、過去形だ。家族は捨てた。あるいは捨てられた。笑いあった誰かだとか、あたたかい食卓だとか、抱き締められた温もりだとか、そういうのはもう、ひとつもおぼえていない。

 鼻腔を刺激する血の匂い、くぐもった悲鳴。包丁を手にする"父上"の耳障りな笑い声、歓談する"母上"と客人たち――食卓の上に乗せられた、か細い声を吐き出し虚ろに紅い目を見開く少女(かちく)の不味い肉の味。

 そういう、吐き気を催すものだけを男は家族の思い出としていた。記憶の中の家族の顔はぐちゃぐちゃに塗り潰されている。


 ――大人の味よと、てらてらと血みたいに下品に赤い唇を歪ませて''母上''が笑った。

 ――良いものはまずいと言うだろうと''父上''が切り分け彼女(にく)を咀嚼した。

 ――もう殿下もそんな年ですかと臣下がぎょろぎょろと品定めするようにこちらを見た。

 その数日前に、「殿下は優しいですね」とかわいい声で言ってくれたのは、生きたまま貪り食われる友達(かちく)だった。


 彼女の目が紅く光るたび、彼女の肉は再生した。何度も、何度も、何度も、何度も彼女は食べられた。彼女だけではなかった。あの魔女も、その人魚も、たくさんのひとたちが食べられた。

 それが普通のことだと誰も彼もが男に教えた。


 それから数年経ったとき、婚約者の国に招かれた。



 そこでは。

 だれも、だれも、かれら(かちく)のにくをたべていなかった。

 それはふつうのことではないと、おしえてくれたのはおさななじみだけ。



 ……鼻を掠める鉄錆のにおい。鉄格子越しに無理やりに絡めた吸血鬼の少女の指はあたたかかった。火煙を上げ崩れる城と、狂乱した''母上''と、転がる''父上''の首を切った感触。血濡れた指、刃を握った手が固まってしまって離れてくれない。

 逃げた先で、黒いベールをつけた騎士服の集団の一人がベールを外して優しく微笑んだ。黄金色(きんいろ)のリボンをつけた魔女騎士――黒いベールの騎士団の長が、友達を匿ってくれるとゆびきりをしてくれた。

 男はどうしても、友達と一緒にはいられないと思って、彼らの保護を振り切った。


 彷徨った先で、家族ではないのに、黄金色(きんいろ)の瞳を持つ初老の女が家族のように抱き締めてくれた。受け入れなかったけれど。


 ――ぜんぶ、昔の話だ。

















 鏡を見て笑った。鏡の中の少女は痩せこけた頰ではにかむ。ぱちりと指を鳴らせば、骨と皮だけの体は健康的にふっくらとして、鏡の中の少女は年相応の可愛らしさがあった。

 悪魔は少し満足して、服を変えた。鏡の中の少女はドレスを着ている。悪魔がいつも着ているようなものは似合わなかったから、ワンピースに似たものにしてみた。

 鏡の中で少女はくるりと回る。誰もいない部屋の中、満面の笑みで悪魔は小指を撫でた。


 誰かに見せびらかしたくて、悪魔は家を出た。少女がずっと空想していた可愛らしい家。一人で住むには、少し広い。


 森がざわめいている。自然に寄り添う精霊でなくとも、悪魔はなんとなく森の異常がわかった。木の葉が誘う音、息を潜めた虫が伺う方、揺れる道端の草叢が示す先。導かれるように辿り着いた先で見つけたのは血だらけの男。

 男は、言った。


「……かわいい女の子」


 男は体中傷だらけで、血をだくだく流しながらも眩しそうに悪魔を見上げる。

 悪魔は、そうでしょう、この子は可愛いでしょうと言おうとして――息も絶え絶えの男がもう一度口を開く。


「かわいい女の子の、悪魔だ」



 *



 ソヒアンリーナとロイザは家族であるらしい。そう知識には刻まれている。魂に巻きつく契約の鎖が家族たれと強制する。捨てられないキズナだった。

 ふたりは家族だが、では親子とか兄妹とか、はたまた伴侶であるとか、そんな具体的な関係性はなかった。曖昧模糊な関係はロイザには酷く脆そうに見えたが、その脆さを頑強に補強してくれる(けいやく)があるのである。


 魔法、悪魔の御技。黒い文字によって行われる、世界の書き換え。

 悪魔は勿論、悪魔と契約した者や悪魔の子孫のみが使える能力である。精神生命体であるところの悪魔は他にも多種多様なチカラを持つモノもいるようだが、共通したチカラは魔法と契約だけだ。


 契約。時には代償を伴って行われる、悪魔を唯一縛る枷。悪魔を道具として使えるのは人間のみ。悪魔は――『神秘』は人間を幸せにするための道具であるがゆえに。枷を嵌められた咎。生まれながらに罪を背負う存在。


 魔法と契約は似ている。魔法の上位版とも言えるのが契約だ。大きなことを為したければ相応の存在の強さがあるか、あるいは代償を差し出すか。魔法は願いに応ずる。しかし人間の心は複雑かつ、自分ですら分かっていない願いも持ち合わせる。なればこそ悪魔が、契約を結ぶのだ。誰かの本当の幸せを探すために。


 ソヒアンリーナとロイザは契約を結んだ。結果二人は家族になり魔法を使えるようになった。

 ではどうなるかと言えば、単純である。


「ロイ、私はご飯作るから、お掃除お願いしていい?」


 薄紅色のエプロンを身につけた彼女がロイザを上目遣いに見上げる。勿論彼は一も二もなく承諾する。上目遣い素晴らしすぎると零しながら。一応彼女に聞こえないよう、音は出さず。


 お掃除と言いつつも、まめまめしい彼女は家の中のそれは既に終えている。ロイザがやればいいのは家の周りのことであった。町から離れ、森の中ほどに存在するこの家は木々に囲まれているため、秋口の現在落ち葉の絨毯がそこら中に敷かれているのである。落ち葉は肥料になるが道にあっても邪魔だ。というわけで、彼の出番なのだった。

 そう、彼の下手くそな魔法の出番なのだ。


 家の外壁についた傷を見て、つい先日のことを思い出す。今日と同じように掃除を頼まれた彼は、しかし落ち葉どころか若木をぶっ飛ばし家に打ち付けた前科を持っていた。今日はどうにかそうならないようにしたい。……したいが、この三ヶ月ほどを思い返せば遠い目にならざるを得ないのが悲しい現実である。


 がんばれ俺とぶつぶつ自身を励ましつつ、人差し指でくるりと円を描く。空に滲み出た黒い文字らしきもの――具現化された魔法が対象に纏わり付く。常より素早い動きはロイザに気合が入っているからだろうか。だがそれが仇となる。


「あ、ちょ、待て」


 魔法に纏わり付かれたのは、地面そのものであった。



「……?」


 いつまで経っても彼が帰ってこない。指から散らした文字が脳裏に家の周囲の映像を映し出した。鍋をかき混ぜながら、ソヒアンリーナは首を傾ぐ。

 掃除する――という目的は果たしているようだ。地面に落ち葉は見当たらず、赤茶けた地の色が露わとなっていた。けれども彼の姿が見当たらないと詳しく精査した結果。


「何を遊んでるんだろう……?」


 首から下がすっぽり土に埋まったロイザは死にそうな顔をしていた。



 *



 夢なんてなかった。ないものだらけだった。ただ、なんとなく響きが格好良いから、騎士になった。

 国を統べるお姫さまが騎士団を創設するというから大々的に募集していたのだ。


 そこにいたのは変な人たちだった。

 団長は家事が得意で、服が破けていると繕ってくれた。ご飯も美味しかった。お姫さまがだらけるのもわかる。けれど大掃除の時、いちいち指摘が細かいのは小姑みたいで嫌だった。指摘にお姫さまが耳を塞ぎながらあー! と叫んでいたので、それに倣ったら騎士団の九割が同じことをしていた。団長はちょっとだけ泣いていた。

 副団長は好意を素直に表せない人で、好意の代わりによく殴られたがちゃんと後で謝罪をしてくれた。謝罪のお菓子が美味しいので、わざと殴られるように仕向けていたのに気づかないのは可愛いと思った。他の団員も似たようなことをしていたので、殴られた翌日にはみんなでお菓子を貪り食った。


 団員たちに人外は殆どいなかったが、人間とはこんなにも多種多様なのだなと感じるほど、彼らは奇人変人の集まりだった。


 楽しかった。家族よりも近くて遠い、仲間というものがこんなにもいいものだとは知らなかった。

 楽しかった。たとえその任務が誰かを殺すことだとしても。たとえ、誰かを不幸にする仕事なのだとしても。


 あの日、彼女が標的になるまでは。



 ――男はただ、後悔したくないだけだった。
















 悪魔は少女の肉体を手に入れていた。正確に言えば、少女の亡骸を自らの肉体としていた。そうして、少女の亡骸に遺された想いを知った。



 家の中に運んだ男についた血を洗い流す。男には意識がなく、だから悪魔もまじまじと彼を観察できた。

 肉体年齢は二十半ばといったところか。この辺りでは珍しい深緑色の髪をしている。付着していた血の大半は彼のものらしく、身体の至る所に傷がある。控えめにいっても致命傷だった。もう間も無く出血死するだろう、と悪魔は頷く。


 悪魔には彼の服装に見覚えがあった。隣国の、確か仮面騎士という――悪魔の同胞たちを殺戮する存在だ。幸い悪魔自身は追われたことはないが、たまたま行き合った同胞にその話を聞いたことがある。……その同胞が仮面騎士に殺されるところを、見たことがある。


 元の場所に捨ててこようかと悪魔が思案している時、驚いたことに男が微かな呟きを漏らした。とうに喋れなくなっているはずの瀕死の男が。


 しにたくない、と。

 そんな懇願が悪魔には聞こえた。


「……人間。人間の騎士。あなたがもし地を這ってでも、泥水を吸ってでも生きたいと希うのなら」


 私と、契約をしましょう?



 *



 テーブルをせっせと拭きつつ、ソヒアンリーナが鼻歌を歌っている。書斎から出てきたロイザは聞き覚えのあるフレーズに目を瞬かせた。


「ヒアン……それ、何の歌?」

「えっ……うた?」


 彼女は何のこと、と言わんばかりに彼を見やる。まさかついに幻聴まで聞こえるようになったのか、これは俺も末期だなと独り言ちるが、彼女は気まずそうな顔で「もしかして」と切り出してきた。


「わたし、またやっちゃったのかな……その、気にしないで。無意識に出ちゃっただけだから」


 こちらに向き合ったソヒアンリーナの短めなスカートと長い靴下の合間の白い太ももを見ていて、彼女の言い訳を聞き流していた彼は上の空で会話を繋げた。太もも柔らかそう。


「俺あの曲知ってる気がするんだよね。なんかすごい夢見がちな曲だなーと思って」

「……夢見がち?」

「楽園とか、あるわけないのに……」

「楽園はあるもの!」


 突然の大声に、太ももから目線を彼女の顔へとやる。ソヒアンリーナは強い視線でロイザを睨むも、すぐに我に帰ったか慌てて「何でもないの」と付け足した。何でもないようには全く見えないが、彼女がそう言えば自分は言及できない。

 彼はソヒアンリーナには逆らえない。それは、ロイザが悪魔だと彼女が言ったから。もっと言えば、悪魔は契約者の願いを断れないからだ。


 記憶がないから、その歌を聞いたのはいつ、どこであったかをわかるわけもないが……なにやらその歌が彼女にとって重要なものであることはうかがい知れた。


 楽園。彼の知識は、その場所を――魔法大国と、呼んでいた。



 魔法大国のことについて知ろうとすれば、この国の中枢の職につくか、かの国が在った時代から生きている者から聞くかのどちらかであろう。


 魔法大国は数十年前に滅ぼされた。欲に駆られた人間によって。人間を簡単に縊り殺せる人外が跳梁跋扈する国でも数には勝てなかったと聞く。ましてや大陸の外の人間たちだ、『神秘』の天敵である科学技術はこの大陸とは比べられないほどに発達していた。

 だが魔法大国だ。いくら巨大とはいえたった一つの街しかないのに『大国』と畏れられる国が、数で簡単に落ちるだろうか。その考えから、隣国のどちらかが外大陸の軍を呼び込んだのではないかとの噂もある。


 滅んだ国がどうなったか――まず国土は死の大地となった。最期まで抵抗を続けていた三悪魔が国を守るため使用した魔法が変質し、呪いのように覆っているのだ。病魔の空気によって近寄れば呼吸が困難になり、それでも街中に入ろうとすれば呪いにより体が屑となり消えるという。

 国民は三悪魔に逃がされ、隣国である花白の国と先詠の国に住み着いた。両国は『神秘』を受け入れ国民として遇した。それゆえに、両国にはかつての魔法大国の国民たちの子孫や『神秘』たちが棲んでいる。


 だがその数十年後――現在。突如錯乱した両国を統べるそれぞれの王は、『神秘』を排斥し始める。隷属と、殺戮という手段を持って。



 刻んだ推測は名を確信に変える。

 ロイザは、ソヒアンリーナが決して近づかせようとしない場所を知っていた。家の地下、暗いそこに有るものを知っていた。


 時間がない。裏切り者を、かつて仕えた姫は決して逃さない。一度は形振り構わずにあらん限りの助けを求めた為に逃げられた。しかし次はそうはいかない。何せ、彼はもう生に満足してしまったのだから。

 準備をしよう。こちらの事情に彼女を付き合わせてはいけない。


 ――自らの過去(きおく)は、とうに取り戻している。



 *



 硝煙烟る魔女は冷たい瞳で男を見据えた。……あの女の忌々しい騎士のくせをして、わたくしに助けを乞おうだなんて、いい度胸です。


 男は言われるとわかっていた文句に苦笑いで頷く。仮面騎士(じぶん)の仕事が被害者側である人外たちからどのように見られているかは知っていた。――自らを家族と抱き締めてくれた彼女さえ、狂乱し泣いていた。


 それでもどうか、と。

 縋りつくように男は言葉を紡ぐ。けれども、男は自分のことながら言葉の薄っぺらさに思わず溜息をついた。どうしてか他人事で。何故か芝居を演じるような調子で。


 硝煙魔女は眉を顰める。……たとえあなたの願いをわたくしが聞き入れたとしても、非常に珍しいことですがあなたには魔法を使う適性がありません。

 そうだろうな、とまた男は首肯した。魔女はますます不機嫌そうな顔をしていた。


「代償は?」


 それは男が言ったか、魔女が言ったか。


 契約の代償。叶えたい願いの代わりに何を差し出すか。

 やさしくなるように世界に造られた新しい悪魔なら、そんなことは言わない。自由に造られた古き悪魔なら、最初から契約をするかしないかはっきりと示しただろう。


 かつて人間であった記憶を持つ、この魔女だけは未だ迷っている。男は察していた。この代償で、魔女が契約してくれるかどうかが決まるのだろうと。


 ――あのひとを……母を、殺させたくないんだ。だから、俺が差し出せるのは。


 これが愛なのか、愛の真似事なのかもわからないまま、命を削る。
















 ソヒアンリーナは、ロイザは既に自らの記憶を取り戻していると考えていた。表面上彼はいつもと何も変わらない。しかし地下に置いたはずの彼の騎士服は消えていた。こちらに対する遠回しな探りは彼が目覚めてからずっと続けられていたが、ぱたりと止んでいる。何度か、森へ行くと言った彼が森ではないどこかに行ったこともわかっている。


 そろそろ潮時だった。もう彼は自分の思い描いた図から離れようとしている。それはいけない。何故なら、ソヒアンリーナは彼女のために在るのだから。‬

 かちゃりと、扉を開く音がした。現時刻はまだ森も寝静まっているような夜明け前であるから、存外響いたその音にすこし肝を冷やした。だがそっと中の様子を伺えば、寝台の上の彼はどうやら眠っているようだ。‬

 白い枕に静寂の森のような彼の髪が散らばっている。この短い同居生活の中で寝相が悪いということは知っていたから、ソヒアンリーナはくすりと笑みを零した。よくよく見れば彼が包まるのは真っ白いシーツで、その役目を果たすはずの毛布は足蹴にされている。これでは秋夜の寒さは辛いだろう。

 彼はそう、こういった子どものようなところがある。シーツを纏って丸まる彼は赤子のようであったし、寝顔は稚い。それなのにふと冷酷な顔をする時がある。……彼は仮面騎士としてずっと『神秘』たちを殺してきたのだ。聡い彼は勿論その意味がわかっていてその仕事についたのだろう。

 だから、この身勝手な感情を押し付けるべきではない。‬

 無意識に彼に呼びかけようとしていた口を噤む。代わりに右手で彼の額に触れた。暗闇の中でもわかる黒い文字が染み込む。眠りの魔法。これで、全てが終わるまで彼は眠り続ける。……後は家を荊で覆えば眠り姫の完成だろうか?口づけで魔法が解けるようにはしていないから、そこからして童話の展開にはなり得ないが。


「さようなら、人間」



 ソヒアンリーナは寝室に繋がる扉に厳重に封の魔法を掛け、家の外に出ていた。薄暗さが払拭され始めた森には生き物の気配がしない。けれども黄金色の両目は敵を捉えている。‬

 一歩、二歩、家から離れる。言葉は自然と滑り落ちていた。


「どうしてでしょうね?」‬


 口調をがらりと変えて――いや、本来のものに戻し、ソヒアンリーナは口火を切る。


「ただ利用するだけのつもりだった。あの子は、恋というものに憧れを抱いていたから。でも私は恋なんてわからないから、擬似的にでも恋人(かぞく)を作ってみようと思って」


 幼い少女の顔からは表情が抜け落ちていた。足元から螺旋を描き黒い文字が登ってくる。かつて少女の死骸と交わした、肉体を貰い受ける契約の魔法を変化させているのである。


 ざわりと、森に隠れていた者たちが動く。薄闇に浮かぶ黄金や紅。黒いベール越しにも化け物の色は良く見える。あるいは陽を受けて際立つ白。鼻や目の部分さえ開いていないのっぺりとした白い仮面が少女を睨む。

 魔女騎士と仮面騎士が、二つの国の『神秘』狩りの騎士がそこに居た。


「私のすべてをあの子にあげようと思っていたのに、気づけばあの子は冷たくなっていた。手遅れなら、彼女の遺した願いを叶えようと……嗚呼、それすら叶わないこととは思っていなかったのね、私は」


 ふふ、と笑みを零す。懐かしいとも言えない、すぐ昨日のことのようなあの日のこと。叶った願いは、結局彼女のためのそれではなかった。


 ざ、と音を立て茂みから出てきたのは青灰の髪色の魔女と、銀色の悪魔。ソヒアンリーナは目を瞠った。見覚えのある――かつて魔法大国にて『全知全能の大悪魔』と謳われた悪魔。けれど彼が花白の国に組していることは知っていた。ああやはり、とそんな諦念と怒りを抱いたのは否定しないが。‬


「あの日、彼は血だらけの身体で死にたくないと呻いた。私は、あなたを死なせない代わりに私のままごとに付き合ってと持ちかけたわ。――契約は成った」


 黒い文字が剥がれる。女悪魔(ソヒアンリーナ)は笑う。先の姿より七、八つほど歳を重ねた姿。幼き面影を保った人外の美貌と、後ろで一つに結われたうねる紫水晶のごとき輝きの髪。焔を宿す瞳は黄金。華奢な肢体を覆うのは堅苦しい軍人の服、その胸についた徽章は今は亡き楽園を讃える。


 銀の悪魔が痛ましそうに目を伏せた。その間にも、敵たちは攻撃の準備を進める。白い仮面をつけた者は各々の武器を構えた。黒いベールを顔の前に垂らした者たちは魔法を行使し、影を操り、魔性の歌を奏ではじめる。


「いつからだったのでしょう、私が彼をままごとの玩具と思えなくなったのは。いいえ、最初から彼に情を抱いてしまっていたのかも」


 訥々と語っていたソヒアンリーナはそこで言葉を切り艶然と笑う。大輪の花が咲くように。けれども獣じみた獰猛さを潜ませて。


「悪魔の契約は絶対よ。だから私は、彼を生かさなければならない。たとえこの命が失われたとしても…………きっと、彼は、私が死んだ方が喜んでくれる」‬


 人間の身体は、これだから困る。溢れた水滴に苦笑した。寂しいとか、悲しいとか、そんな感情は要らない。

 ――悪魔(私たち)は契約者に幸せになってくれたら、それでいいのに。彼が幸せそうに笑ってくれるなら、私は何をしたって構わない。


「さあ、戦いましょう、騎士さまがた?」‬

 先詠の国に仕える仮面騎士が、花白の国に仕える魔女騎士が、相対する敵を冷たく見据える。


「私は悪魔ソヒアンリーナ。誇りある魔法大国の民。――おまえたちの、敵よ」


 そうして悪魔はただ独り、死に戦に身を投じた。
















 青灰の魔女は、伝う涙にすら気づかなかった。‬

 多勢に無勢。いくら全員ではないといえ、両国の選りすぐりの騎士だ。魔法大国の悪魔とて強い者ばかりではない。背に守るものがありながら彼らと戦おうなどと、無謀以外の何ものでもないことはかの悪魔自身が一番よく知っているだろう。‬

 ぼろぼろと流れる涙が止まらない青灰の魔女を銀の悪魔が支えた。ふたりもまた、契約をしている。青灰の魔女にとって先ほどの独白は身を引きちぎられるかのような痛みを伴っていた。もしも、自らの悪魔が同じことをしたなら――そんなことは想像したくもないが。‬


「よく持ちこたえるね」‬


 銀の悪魔が契約者に囁いた。


「王族の近衛であった僕がよく知らないということは、彼女はそれほど強くない筈だよ。それでもこの人数相手に既に十分近く戦いを続けられている」

「でも……、でも、ミル。このままだとあのひと、死んじゃう……」

「……アリス。今日の僕らは、裏切り者の騎士を殺すために来ているんだ。その邪魔をするなら、彼女も、殺さなくてはならないんだよ」‬


 お互いの名を呼び合うのは彼らの抑えきれない感情を宥めるためだった。殺したくない、と青灰の魔女は思っている。自分と同じ『神秘』を殺すなどできないと。

 花白の国は『神秘』に隷属を強いる。その騎士たちも、当然『神秘』を殺すことなど数えるほどしかない。殺戮を主とする先詠の仮面騎士たちとは違う。まだ成人もしていないような、幼い魔女の精神は耐えきれないだろう。‬

 早々に終わらせてしまおうと、銀の悪魔は決める。悪魔にとって一番大切なのは契約者だ。命を捨てた特攻だろうが同胞の殺害だろうが、契約者のためならばやり遂げるのが悪魔である。銀の悪魔も多分に漏れず、青灰の魔女の心の安寧のためならばソヒアンリーナを殺すことに躊躇いは抱かない。


 つい、と片手をあげる。膨大な量の黒い文字が敵に向かい奔りだす。その瞬間を見せないようにと自らの契約者を抱え込む銀の悪魔は、既に決着はついたと判断していた。……騎士たちも同じことを思っていたから、その声に驚愕の気配が隠しきれなかった。


「ヒアン、俺にヒアンを犠牲にしてでも生きろって?」

「ッ、ロイ!」‬


 彼女を引き寄せ、ロイザが険しい表情で問いかける。迫る魔法に彼の腕の中で叫ぶが、ふたりの目の前で魔法は搔き消える。彼の右眼が冷ややかな黄金を宿していた。ロイザが名残のように漂う黒い文字を握り潰して空に散らす。それは、普段の彼を知るソヒアンリーナが見たのならあり得ないと断じる光景。あり得てはいけない魔法。けれども幸か不幸か、彼女は彼を詰るのに夢中だった。


「どうして出て来れたの!? 私の魔法はまだ解けていないのに!」

「簡単な話だよ」


 彼が示したのはナイフが半ばまで刺さったままの右の太腿。未だ血が止まらないのも当然か、その傷はつい先ほどつけたらしい。つまり、彼がソヒアンリーナの眠りの魔法に対抗してつけたのだ。


「こんな、」

「この程度の傷で、ヒアンが勝手に死のうとしてるのを止められるなら安いものさ」


 傷を見て目を見開き震える唇で彼を詰ろうとした彼女の言葉を遮り、ロイザは微笑う。‬


「ッ、どうして、どうして守らせてくれないのよ……!」‬


 その微笑みは、いつだって彼ら(人間)が浮かべていたものだ。彼らの死に際に、呆然とする『神秘(こちら)』のことなど考えもせずに。――生きててよかったなんて、守れてよかったなんて、道具に言わないで。‬


「弱いくせに! すぐに死んじゃうくせに! 私を置いて逝くくせに……ッ!」‬


 ソヒアンリーナはロイザを見ていなかった。その瞳は過去の落日を映している。止まらない悲しみが、噛み締められた歯が、何十年経っても整理しきれない激情を示した。それだけ彼女に想われるひとに、すこしばかり場違いな感情を抱きつつ、‬


「俺はきみを残して逝ったひとたちのことを知らないけど。大好きな子を守りたいって思うのは当然のことじゃない?」

 彼女だけにそう囁いて、ロイザは騎士たちに目を向けた。黙って二人を見守っていた騎士たちにすこし笑って呼びかける。‬


「や、副団長とみんな。あと花白のみんな。結構ぼろぼろになってるけど、大丈夫?」

「……あなたが心配することではないでしょう」‬


 応じたのは、声からして仮面騎士の副団長だろう。ロイザによく菓子をくれたひとだ。

 仮面騎士は極力個性を消すようにしているが、ロイザには体格や髪色で誰が誰だかすぐにわかった。つい数ヶ月前まで彼もあの中にいたのだから、当然のことだが。

 思い出が胸の中でくるくると廻る。蘇る記憶に付随するのは、大抵楽の感情だ。


 ただ、一つだけ。‬


「むしろあなたでしょう? ……あの日、わたしたちが負わせた怪我は癒えました?」

「勿論。姫さまがたは猶予を数ヶ月もくださいましたからね」


 笑みを形作り、皮肉めいた物言いで煙に巻く。‬


「あの日……って」‬


 ソヒアンリーナが唇を噛む。

 古傷が疼くような気がした。それは、彼が初めて彼女に出会った日の前日。血塗れになり、瀕死の怪我を負う原因になった出来事。


「それにしても、あなたは魔法大国に縁がありますね。あなたが故郷から逃してきた『神秘』たちも、あの魔女も、その悪魔も、みんな魔法大国出身ですから」

「かあさんが魔法大国に住んでいたことも、ヒアンが所属していたことも知らなかったんですがね」‬


 思い出すな、と脳が命じる。心は、ずっと過去を噛み締めていた。‬

 ――何故裏切る。

 ――他の『神秘』は殺すのに、育ての母は殺せないんだね。

 心底不思議そうな団長と、薄ら笑いの詠姫の声が蘇る。


「あなたが前のように森の吸血鬼に逃してもらう手はもうききませんよ。かの吸血鬼は現在他の『神秘』にかかりきりなので」

「別に、前だって逃してもらう気はなかったんですけど」‬


 ――お前の母は、安らかに息を引き取った。

 感情の見えない紅い瞳で傷だらけのロイザを見下ろす吸血鬼は、何故かこの森まで逃がしてくれた。吸血鬼も魔法大国の出身だから、仮面騎士たるロイザが憎いはずなのに。‬


「また、裏切るんですね」

「はい、もちろん」‬


 前にも彼女にはこうして詰問されたことがあった。あの時、狩られる母を守ろうと一人で仮面騎士と渡り合ったロイザに、副団長は泣きながら問うた。

 ――何故、そこまでするの!‬

 狩られるまでもなく彼の育ての母は避けられない死の定めが迫っていた。寿命だ。あと数日待てば何もしなくとも死ぬのに、詠姫は容赦なく母を殺そうとした。だから彼は裏切った。‬

 育ての母の安寧の死のために、ロイザは自らの命さえも投げ捨てたのだ。そしてまた、同じことを繰り返す。


「だってヒアンは俺の家族ですから」‬

 何を当然のことを、と思いながらも会話を打ち切る。

 震えながら涙を流していた腕の中の彼女は泣き腫らした目で、それでも彼を見ていた。
















 前と同じだ。前も、たくさんの準備をした。

 魔法大国の初代女王に仕えたという吸血鬼を、眷属の子孫を助けたという恩を利用して育ての母を匿ってもらった。

 その吸血鬼や、育ての母が魔法大国の魔女だったという繋がりを利用して、魔法大国初代女王の侍女であった前々世を持つ硝煙魔女との契約に漕ぎ着けた。代償は大きかったが、自分の命にそれほど執着はないので問題ない。

 どうせ仮面騎士は家に詰めかけてくるから、その周りにたくさんの罠を張った。これはかなり役に立った。たった一人で数十人の騎士を迎え撃てたのは罠の力が大きい。


「ところでヒアン、この魔法解いてもらえると助かるな。俺、今もめっちゃ眠気我慢してるから」

「早く言いなさいよ!?」


 だって今にもヒアンがぶっ壊れそうで怖かったし、とは言わずに首を傾げてみせる。眠気が凄まじいのは本当のことで、足のナイフのこともあり今にも崩れ落ちそうだが気力で待たせている。ここでの眠りは永遠のものになると心得ている。敵がいるとかいないではなくて、もう刻限だから。

 硝煙魔女との契約は、代償の遂行は既になされた。先ほどの魔法も、本当はもう使えないはずの硝煙魔女のちからだ。同情か、憐憫か。はたまた嘲笑か。どれであろうが、ひととき力を貸してくれたことはロイザにとって幸いであった。


「因みに、俺出血で意識朦朧としてるから気絶しそうになったら叩き起こして」

「治せばいいんでしょ治せば! 血もある程度は魔法で補填できるもの」

「流石ヒアン、便利」

「世話の焼ける契約者ね……」‬


 どれだけ時間が稼げるだろうか。あとどれだけ、自分は生きていられるだろうか。命が削れる音がする。戦う前から満身創痍すぎて乾いた笑いが出るが、心は浮きたっていた。隣の彼女は心配そうにロイザを見ている。手を差し出してみせればすぐに握ってくれる。

 家族と一緒にいるのは、やっぱり楽しくて、嬉しいものだ。繋いだ手の中に世界の全てがあるような錯覚。


 ああ、しあわせだ。そんなことを、抑えきれず緩む顔で想った。


「ヒアン、俺にちょっとした考えがあるんだ」

「……ロイ?」


 彼女を生かすためのちょっとした考え。君を守るよ、なんてふざけたことを言えるほど立派な人間じゃあないけれど。


 握った手のぬくもり。契約者と悪魔の関係。ロイザは、悪戯っぽく笑った。


「知ってる? 悪魔と契約者はさ、手を繋ぐとチカラの共有ができるんだよ」


 瞬間、矢の雨が降った。――騎士団側に。

 ロイザの瞳は黄金色に染まっている。繋いだ手から黒い文字が放出されて、止まらない。矢の魔法。彼の魔法の拙さを知る彼女にしてみれば、こんなに的確に矢を振らせるなど不可能だとわかる。そして、あろうことかこの魔法を直接的に行使しているのが自分であることもわかる。彼に誘導され、無意識下で使っているようだ。


 そもそもロイザが何故魔法が下手なのかというと、致命的なまでに制御ができないからだ。ならば制御できるモノがやれば良い。そう、悪魔が契約者のチカラで魔法を行使すれば良いのだ。悪魔ほど魔法に通じた存在はいない。もともとこれは、彼らのチカラなのだから。


「頼むよヒアン。使う魔法とか罠の位置とか指示するから」

「つまり固定砲台をやれってことね……」

「俺の弓があれば、もっとうまくできると思うけど……今はヒアンに操作してもらうしかなくってさ」

「弓?」


 ふむ、とソヒアンリーナは考えた。

 悪魔と契約者には様々な『繋がり』がある。先のチカラの共有もそうだが、契約者が名前を呼べば悪魔を瞬時に召喚でき、契約者の許可があれば表層意識の同調や、記憶の閲覧までこなせる。


 ロイザは既に自分の悪魔のすべてを受け入れる体勢なので、ソヒアンリーナは彼の精神の深いところまで潜り込める。


「こういう感じ?」

「うわ、俺の弓だ」


 なので、記憶から弓を顕現させることも訳ないのである。ロイザの記憶にあるそれは茶色だったが、魔法で構成した故にか闇を塗ったような漆黒。だが手に馴染む感触は確かに彼のものであった。


 繋いだ手を離さずに、楽しげに彼は弓を握る。……人の手は二本しかないけれど、悪魔の契約者には魔法がある。


 ひとりでに弓の弦がキリキリと引きしぼられ、黒い文字の矢が速度を貯める。騎士たちは迅速に対応した。何度も矢の雨に棒立ちで振られてくれるほど彼らは甘くない。


 銀の悪魔をはじめとした悪魔の黒い文字が森を蠢いた。ぱしゃりと水が跳ね人魚の惑わしの歌が響き渡る。吸血鬼の影が奔り、騎士を覆う。魔女騎士たちに防御を任せ、仮面騎士が前に出た。


 それら全てを嘲笑い、矢は撃たれ――騎士ではなく土に着弾した。


「……ッ、下!」


 ロイザの罠。矢が狙ったのは、それだった。爆発。閃光。爆音。悲鳴が聞こえる。そして彼らが罠に気を取られている合間に、矢はすぐそこまで来ていた。……命を刈り取る音がする。


 ここは彼の家の敷地だ。文字通りの、彼のホームグラウンド。前と同じく、罠と矢と時々魔法の殺戮劇。彼は躊躇わない。何十人も、何百人も手にかけて来た彼が、今更何を慮るのか。


 仲間もけっこう、好きだったけれど。家族はやっぱりとくべつだから。


 泣きそうに顔を歪めた愛しい家族は、けれどちからの行使を止めない。自らを犠牲にしてまで敵を生かすようなおろかなことは、彼女だってしようと思わない。みんながみんな、悲劇のヒロインのように自己犠牲精神を持っているわけじゃない。


「ごめんね」


 そっと囁いた自己満足(ことば)を、誰も聞いてはいないのだろう。
















 吸血鬼は訝しんでいた。

 繰り出される攻撃を最小限の足捌きで避けながら、お返しとばかりに影の針を射出する。あちらもあっさりと回避するのを見て、一つ溜息がこぼれた。少々この攻防に飽きを感じていたのである。


 そもそも今日の遭遇戦は最初から罠じみていた。『神秘』が酷い目にあっていると聞けば保護しに赴くのが吸血鬼の現在の仕事である。その情報の収集は相方である大精霊に任せているが、今回の話を持ってきたのは最近森にやってきた『神秘』だった。その時点でそこはかとなく嫌な予感がしていたが、大抵の人間も『神秘』も蹴散らせる吸血鬼ならば問題ないだろうとのこのこ現れてやったのだ。


 罠ならば、吸血鬼をここに釘付けにすることで相手に何らかの利益があるということだ。一番考えられるのは陽動。吸血鬼に邪魔されては困る、ということである。吸血鬼が邪魔することなど、『神秘』狩りしかない訳だが。


「どんな大捕物をするつもりだ?」


 距離を取りながら問うものの無言の相手に、吸血鬼の形の良い眉が思い切り顰められた。相手の顔を覆うのっぺりとした白い仮面は口も目も空いていないが、視界は開け言葉を発することに支障がないと吸血鬼は知っている。常ならば相手はすでに何らかの言葉を喋っていたように思う。戦ったのが一度や二度の付き合いではないから、自然と言葉も戦わせるようになったのだ。『神秘』のくせに、詠姫に仕えるこの騎士と。


 この状況は異常で溢れていた。目の前の男が一人で現れるのもそうであったし、先程から相方への連絡を取ろうとしているのだが、右腕を這う蕾は開かない。

 これでも吸血鬼の相方は大精霊と呼ばれるモノである。吸血鬼と同じく原初の悪魔に創られた、そこらのモノとは比べ物にならないほどちからのある『神秘』だ。何をしていようが、この大陸で起こることを把握するのは片手間にできることだ。あれは一体何を考えているのかと吸血鬼の目つきがきつくなったところで、騎士が漸く言葉を発した。


「おまえは何も救えない」


 それは返答というよりも、宣言と形容した方が正しい。


「救わせてなど、やるものか。あれは、……」


 言葉を切り、無言で攻撃を再開した騎士を捌く。

 一瞬の攻防、その時人外の聴覚は隠された言葉を聞いた。


 ――彼は、俺の仲間だから。



 *



 指切りをしたんだ。


 檻の中の友達と、「檻の外で遊ぼう」と。

 幼馴染と、「いつかまた会おう」と。

 友達を受け入れてくれた人と、「必ず友達を救ってください」と。

 騎士の仲間と、「いつだって俺たちは仲間だから」と。


 その指切りを、すべて裏切ってしまったけれど……彼らの温もりはずっと記憶の中にある。



 かあさんは「しあわせになって」と。

 森に母を預け、仲間と戦う前に、死にゆく俺に追い縋るように。皺くちゃで細い指を絡めた。

 だから俺は、まだ、生きている。


 でももういいんだ。


 俺はとっくの昔に、しあわせだから。



 *



 思い出したのは、かつての契約。

 あのとき、俺が命を差し出したとき、硝煙魔女は言った。


 ――あなたが願ったのは、家族の安寧。私が与えたのは、安寧を得るまでの力。それを忘れないように。



 *



「ヒアン、ちょっとごめんね」

「え?」


 ロイザが繋いだ手を解いた。じぶんのしあわせのためには、何をすればいいか。その最適解は既に知っている。


 彼は歩み出でた。かつての仲間へ――家族をおいて。


「ロイ? 待って、一人じゃ危ないわ!」


 慌てて彼に駆け寄ろうとする家族を制して、男は微笑んだ。迫り来る魔法に手を差し伸べる。

 むしろ危ないのは、彼以外の全員だった。


「きゃあっ……!?」


 爆風。不穏にうねる魔法を悪魔特有の感覚で悟り咄嗟に張った防御はどうにかその役目を果たしている。思わず悲鳴をあげたが、ソヒアンリーナにはかすり傷の1つもなかった。反対に、騎士たちは中途半端な防御をやすやすと破られて地に伏す。


 ロイザは苦笑した。ここまで酷くなるのか。爆心地である彼は、けれども誰よりも傷がなかった。服は煽りを受け幾らか破れたものの、完璧な耐性を持つ彼の肉体は爆発を全く苦にしない。カニバリズム、食人の儀式……そういった過去が与える現在に、呆れたように苦笑していた。儀式をしていたのは幼い頃のたった数年だというのにも関わらず、この威力。自らの一族が代々行ってきた禁忌の意味が知れた気がした。


 手の中の弓が朽ちてゆく。ソヒアンリーナの手を離したのはこのためだった。この力は制御するようなものではない。神秘を制すための力だ。味方に神秘がいることすら想定しないような力だ。

 ――そして、それでもなお、彼の寿命を喰らう魔法(契約)は発動した。


 禁忌の力が場を制した隙をついて、極上の代償を得た黒い文字が躍る。深緑の瞳は黄金に侵食される。名残惜しむように一瞬彼の周りを取り巻いた魔法は最高の結果を発揮した。

 つまりは、雑草を刈るが如く、並み居る騎士を薙ぎ倒した。それが最後だった。ロイザの意識も、騎士たちの抵抗も。


 女悪魔の口から声にならない悲鳴が漏れた。手を伸ばした先で彼は崩折れる。力の入らない四肢のせいで這うように覗き込んだ顔は青白い。抱き締めて、体温のない身体に声が出なかった。こんなことってないでしょう、と掠れた声で少女は呟いた。


 現実を厭うように動かない彼の肩口に顔を埋めた彼女の耳朶に静かな声が滑り込む。


「君の彼は、まだ死んでいないよ」


 銀の悪魔が意識のない契約者を抱き抱えて、こちらを見下ろしていた。――最も終わりはすぐそばにいるけれど。冷たい黄金(きん)の瞳から彼を守るようにソヒアンリーナは覆いかぶさった。

 健気な少女への憐憫か、溜息をはいた悪魔はひとつ囁いて、去っていった。


「……君は、まだ若いようだから知らないだろう。魔女、あるいは人の形を得た悪魔は、真に相手を愛する限り――寿命(いのち)を共有することができるんだよ」


 それは、きっと、鉄の国の秘術とは違う形の、しかし紛れもない禁忌だった。

 ひとの命という不変の理を歪める禁忌であった。


 だが、そこにいたのは敬虔な宗教者でも、禁忌を厭う道徳者でもなく、悪魔である。


 だいすきよ、ロイ。

 微笑み呟いた少女は眠る男に口づけをした。





 かつて、鉄の名を冠した国があった。科学と儀式を愛し、鉄錆と火薬の匂いが充満していたその場所はとうに息を引き取っている。

 だが国がなくとも城が爆破されようとも王族が失踪しようとも民は逞しい。ある大国に従属しながらも自治権を持ち、儀式を捨て、科学を追求する目的を少しばかり変えつつも、殆ど昔と変わらない姿で彼らは在った。


 その鉄の国、元王都。瓦礫の山と化した城の残骸を眺めていた男は、ふと振り返った。懐かしい名を呼ばれた気がしたが、背後で繰り広げられていた会話は得意そうなガイドのそれだけであった。


「……ええ、ですから、私たちはこの城を保存することにしました。たった一人幼い身でこの国の在り方に反抗したアーロイザ殿下の功績を忘れないために。今ではこれを象った記念品がいくつも……特に城焼きが評判で……」


 観光説明を朗々と語るガイドの声を横目に、彼は残骸に背を向けて大通りを歩き始めた。城の真正面から噴水広場につながる道の左右には所狭しと種々の店が並ぶ。辺りをきょろきょろと見回しながら、フードを深く被り直す。視界の端で深緑の髪が揺れた。どうやらいつの間にか解けていたらしい髪紐がフードの中のどこかしらに存在する事を切に祈りつつ、足早に向かったのは郊外にある一軒家だ。


 扉を開けると中で掃除をしていた少女が振り返る。男の姿を認めるや否や綻んだ紫水晶の瞳が美しい。


「おかえり、ロイ!」


 男はフードを脱ぎ、黄金と紫のオッドアイを細めて愛しい妻に笑いかけた。


「ただいま」

読んでくださりありがとうございました。


解説など活動報告に載せてあります。是非。

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