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●宇多川凛
歌舞伎の名家である宇多川家。華やかで残酷な世界。
お父様は言葉の少ない人で四六時中歌舞伎に打ち込んでいた。
だから後継者のボクはお母様が稽古する。
しかしボクの才能のなさに焦りを覚えたお母様は拳をふるう。
世間の期待、夫からの信頼、それらに押し潰されそうになったお母様は怪物になった。
対してボクは現実逃避すれば痛みは和らぐと知った。
それを繰り返す末、とうとう本当に痛みを忘れる。
恐怖も憂いも悲しみも無くなっていた。
けれど余計に歌舞伎が下手になる。
演舞に必要な喜怒哀楽ですら手放していたのだから。
「凛クン、ごめんね。お姉ちゃん気付いてあげられなくて。……でももう大丈夫。愛梨がなんとかするからっ!ちゃんと、これからはお姉ちゃんが守ってあげるからっ‼︎」
顔をぐしゃぐしゃにしてお姉ちゃんが泣いている。
ぎゅっとボクを抱きしめてくれたがその温もりもよく分からなくなっていた。
……あれ、どうやって笑うんだっけ。
そうしてボクら姉弟は入れ替わった。
お姉ちゃんはボクとして、ボクはお姉ちゃんとして生活する。
ボクが7歳になった頃の話だ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
大歓声が巻き起きた。
演目を踊りきったお父様とお姉──宇多川凛。
「まさかヘンテコな舞をする子供がここまで上達するとは!」
「ああ、流石は名家宇多川!子供の稽古も一級だ!」
「見所なしの評価を変えなくてはな!素晴らしかったぞ!」
物の価値は多数決で決まる。
落ちている石も、素晴らしい絵画も、人の価値も多数決で決まる。
この割れんばかりの拍手がそれを物語っていた。
「良かったぞ」
口も聞いてくれなかったお父様が不器用に褒めた。
「ごめんなさいね。今まであんな扱いして。でも全部貴方の為だったのよ」
ボクには怪物に見えていたお母様が優しく笑っている。
決してそれらはボクに向けられた言葉ではない。
『凛』と呼ばれる、他人の物語。
こうして凛の世界は変わっていく。凛だけを置いて。
けれど痛みはない。だって──
「えへへっ、どうだったかな凛クン。お姉ちゃんしっかり出来てた?」
「ええ、お上手でしたわ。これからも励むことですわね」
「……り、凛クン?なんか変だよ」
「凛は貴方でしょう。なにを寝ぼけてらっしゃるの」
私は宇多川愛梨だから。
●宇多川アイリ
歌舞伎の名家に生まれ、日本とイギリスのハーフ。
ホムズ女学園生徒会長。世に言うエリート中のエリート。
貴族の令嬢のように可憐に美しく、私を従わせることは誰にも出来ない。
「使用人。この紅茶、なってませんわ。淹れ直してくださいまし」
「は、はい。申し訳ありません」
休日にはお気に入りのドレスを着て、日向で紅茶を嗜むのが私のなによりの楽しみ。
だというのに使用人のせいで台無し。
「この茶葉の価値を知ってますの?貴女がいくら稼ごうと買うことの出来ない高級茶葉でしてよ。それとも弁償してくださるのかしら」
「──……っ」
使用人もとい実母は息を飲む。
趣味が悪いと思われてしまうかもしれませんが私は金の力に物言わせ母親には使用人の格好をさせこき使い、父親には執事のコスプレ。
「すぐに淹れ直してきます。申し訳ありませんでした、お嬢様」
これはあくまで制裁である。
私は歌舞伎伝統協会に大金を融資し歌舞伎業界になくてはならない存在になった。
そうすることで父は私に父親ぶることはおろか意見することも出来なくなる。
そして父に寄生しているこの女を好き勝手出来るわけですわ。
高校生ながらそんなことが実現出来たのは──……
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
中学生の頃だったと記憶していますわ。
凛がクラスメイトをお屋敷につれてきた。
弟は明るい性格のため友人は多く、さほど珍しいことでもありませんでした。
ただ彼は他のクラスメイトとは明らかに違った。
綺麗な顔をしていて優しそう。けれどどこか冷たい雰囲気の不思議な少年。
「ようやく本人に会えた。僕はクラスメイトの森屋帝一。はじめまして」
私が自室に戻ると、少年がベッドの上でくつろいでいた。
下級生なのに礼儀がなってない。
凛はどうして止めなかったのだろうか。
「女性の部屋に殿方が上がり込むなんて無礼ですわ。出て行きなさい」
「なるほど。これが話に聞く【アイリ】だな。自分の性別を女だと認識してるとは面白い。お風呂に入る時とかはどういう解釈をしてるんだ?」
「なにを、わけのわからないことを。私は正真正銘の女性ですわ。そんなに気になるなら確かめてみたら良いのではなくて?」
私は胸を寄せて少年に近寄る。
歳頃の男の子でしたら赤面して逃げるはずだ、さっさと出ていけ。
「じゃあ遠慮なく。失礼します」
ムギュっと容赦なく胸を揉む(握るに近い)。
初めての経験でしたので思考が停止した。
「胸パットは3、いや4枚か。でも人格が変わる度にこれを入れ直してるって考えたら、自分が男ってわかりそうなものだが。性別に関わる情報は曖昧なのか?え、なんで顔が赤く」
胸を触り続ける手を叩き落とす。
「ななな、なんのつもりですの?……分かりましたわ。私の貞操を奪うつもりで凛にに近づいたのですわね!妄想では飽き足らず行動に移した。……もしや凛はすでに亡き者に」
「ほほう、そっちの人格も素質ありとは」
真剣に怯えているのに楽しそうにする森屋帝一。
このままではニュースでやっていた凶悪事件みたく、辱しめを受けた後にコンクリ詰めにされてしまうかもしれない。
「誰かっ!助け──」
人を呼ぼうとしたら左手で口を塞がれた。
そしてベッドにボフっと押し倒される。
上に乗っかる下級生。
肌と肌が重なって、互いの吐息がかかった。
「カラダを汚されても心までは負けないですわっ‼︎」
「違うから話を聞いてくれ」
冷たく突き刺さる声。
逃げ出したくなるほどの眼光を浴びて私としたことが固まってしまった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
……どういうことですの。私はベッドの上で縄に縛られている。
しかも亀甲縛り。タオルで口を塞がれたせいで声も出しづらい。
「思ってた以上に面白い状態だな。男の娘、女装、狂人作家」
「ン──っ!」
ギシギシッと縄が鳴る。
「しかも【二重人格】ときたか。詰め込みすぎだろ」
どう楽しんでやろうかと私のカラダを見つめる下級生。
変態ですわ、鬼畜な変態ですわ。
「まるでビリー・ミリガンだ。執筆をしてる宇多川凛と話しがしたいが今日は留守のようだな。アイリ、お願いがある」
「……?」
封筒を渡された。
しかも差出人は【宇多川凛】。弟の名前である。
封筒から出てきたのは分厚い原稿。単行本1冊分はある。
「これを凛に渡してくれ。いいか、君が『凛と認識してる方』じゃないぞ」
「……ん」
理解は出来ないが頷く。
「それと聞こえてるか分からないが感想を言っておく。この『アマイサカテミシル』、アナグラムにしたら【カミサマアイシテル】。このラブレターとても面白かった。まさか男装してるクラスメイトの弟とは思ってもいなかったけど……君の弟子入りを快く承諾するよ」
次は大きく【合格】と書かれたA4用紙を渡された。
「これからよろしく。3番弟子・アドリエッタ」
「ん?ンン────っ!」
亀甲縛りされた私は自室に取り残された。
凛が助けに来たのはそれから3時間も後。
……こんな恥辱を味わったのは初めての事。怒りのあまりか激しい鼓動と頬の熱が当分治まりませんでしたわ。
●宇多川凛
ボクの精神を守るために生まれた令嬢口調のアイリ。
『くしゃみをしたら』とか『水をかぶったら』とかの設定は特になく変わる。
ただ規則性はあるらしくボクのストレスが限界に達したり気絶させられたら交代。
または頭の中にはスポットライトがあって、光を浴びている人格が主導権を握れる。
当然のことながら、ほとんどアイリが照らされた。
彼女の方が上手く立ち回ることが出来るから。
暗闇に隠れているボクの人格はいずれ消えてしまうんじゃないだろうか。
……もしそんなことになっても誰にも気付いてもらえないかもね。
=合格=
知らぬ間に机の上にコピー用紙とボクの書いた『アマイサカテミシル』の原稿が置かれていた。
たった二文字、それだけで人間は救われることがある。
「はは、ははは。初めて他人に認めてもらえた。……それも憧れの人に」
ボロボロと涙が溢れた。
枯れてしまったと思ったが湯水のように溢れ出す。止まらない。
愚昧灰荘。誰の声も届かない暗闇の中でボクは神様の作品に出会った。
そこには美しい死があった。
そして殺しの快楽があった。
だからボクは執筆を始めたんだ。
人格を保っていられる限界まで。
けれど美学を持って書いているつもりなのに、神様のようにはいかない。
無くなっていった感情が息を吹き返してボクのなかで暴れ出す。
そうして凛にも愛梨にもなれなかったボクは新しい名前を手に入れる。
「ボクは狂人作家アドリエッタ。これからは神様に愛される為に全力を尽くそう」
ボクの不幸は彼と出会うための挫折であったのだと確信する。
●宇多川アイリ
パチリっと目を覚ました。
場所は地下のライブハウス。
タキシードを着ている私は椅子ごと転び落ちていた、顔に違和感。
仮面をしているようだ。
そして心配そうに覗いてくるのはドレス姿のカナリア仮面、弟の凛。
高校に上がってから胸の成長が止まらない、別に羨ましくないですわ。
「どうなっているのですか。説明を」
「あ、お姉ちゃんの方か……凛クンが推理ゲームで負けちゃって、途中までは良かったんだけど全員帰ったところで『神様に選ばれたボクが負けるわけないっ!やだやだやだっ』って大暴れしてさ、椅子から転げ落ちたの」
頭を打って、私と交代といったところでしょうか。
凛は金髪ロールのウィッグを外して渡してくれた。
「まったく。凛はおこちゃま過ぎるのですわ」
「本当にねー、妹ちゃんの髪を引っ張った時は流石に焦ったなぁ」
「……髪を?」
パシンッ。と私は凛の頬をビンタする。
叩いた手のひらが熱を帯びた。
「いったー!なにするのさ⁉︎やったのは凛クンだって!」
「凛は貴方でしょう!女性の髪になんてことを。殿方として最低ですわ」
「ずるっ、それはずるいよ!」
本当に考えなしの弟。
情報共有するための人格交換メモに【妹さんには意地悪しないように】と残したはずですが見ていなかったのでしょうか。
帝一さんに愛されている探偵に嫉妬したのでしょうが、本当に愚か。
顔向けできない。というよりも太平洋に沈められてしまう可能性が出てきたですわ。
なにも伝えずコトを運ばせて、妹さんに嫌な想いをさせたとは緊急事態である。
妹大好きな彼に知られてしまったらどうなってしまうのか、なんとしても隠蔽しなくては。
「カメラは?」
「12台設置してるよ、提出しなくちゃ」
「全部破棄するのですわ。今すぐにっ!早くしないと宇多川の血統が日本から消されますわ‼︎」
「大袈裟だなぁ。優しい帝一クンなら謝ったら許してくれるって」
「そんなわけないでしょう!あれは羊の皮をかぶった悪魔でしてよっ‼︎」
冗談抜きで急がなければ。
妹のこととなると彼は善悪の区別がつかなくなる。
常人では考えつかないような方法で再起不能になるまで潰されるはずだ。
「しかし映像は提出しなくては。映像編集のプロに頼んで偽装するしかなさそうですわね」
凛の奴め。
本当になんてことを。
三角木馬に乗せられてあやれやこれや、それを録画されて市場に流されて。
……ああ、もう世間様に顔向け出来ませんわ。
彼の奴隷に成り下がるのですわ。
「お姉ちゃん……よだれ」
「あら、気が利きますわね」
凛からハンカチを受け取り、口元を拭う。
【宇多川家情報】
アドリエッタ(宇多川凛)
推理小説『アマイサカテミシル』の作者。
幼少期の不幸により二重人格になる。
主人格ではあるが夜の執筆活動以外の生活は全て別人格に任せている。
アイリ
凛の別人格。
ホムズ女学園の生徒会長。
決して媚びず、他人を従わせるご令嬢。
軽い妄想癖の持ち主。
宇多川凛(愛梨)
活発で明るい女の子だがアーティ高等学校では男として振る舞う。
歌舞伎は好きだが、弟を傷付けた母も歌舞伎も許すことは出来ない。
宇多川家唯一の常識人。