狩る者、狩られるもの。 後
「お、オオガミ」
狼犬を目の当たりにした時よりも、明らかに動悸がする。
「あ? トウマとはもう呼ばないのか」
見下ろす男に息を飲む。口が乾き、飲み込む唾すら口に残っていない。
「どうして、ここへ」
最後のあがきで適当なことを問う。
「誘拐は目的如何で死刑もあり得る大罪だ。特に女子供を対象にした場合は罪が重い」
淡々とした声だった。追ってきたからには、もうあの男が口を割ったのだ。
「ち、違う」
エラ様の愛馬が一歩踏み出し、右の前足が投げ出されたままの自分の左足のすぐ近くに着地した。傾斜で前足にその巨体の体重のかなりの割合が乗っている。足を踏まれれば折れるだろう、腹や頭ならば死すらあり得る。直ぐ近くで馬が不快気に息を吐き、生温かい唾液が手に落ちて慌てて引っ込める。
「私は、犯人を素直に言えば助けてやると言っただけで……」
「最後の言葉が何になるのか、決めるのはお前だ。忘れるな」
変わらず抑揚のない声が言う。
「……が、エラ様が、あれが戻った途端に……あまりにも冷たくなられたのが、ゆ、許せなかったっ」
国王付きが国を離れた間、仕事の管理や業務の手伝いであれほど尽くした。それだというのに、エラ様は、自分以外を閨にした挙句、国王付きが戻れば当たり前のようにそれだけに寵愛を与えた。王の傍に閨はいられぬ。残酷な事の間は国を離れさせる気遣いだったのだ。その穴埋めに自分は使われたに過ぎない。
「何か、お前はベンジャミンに嫉妬して、あいつを犯人に仕立てようとしたのか?」
それまでと違う、どこか呆れた声が言う。
「ユマ様の誘拐などという、恐ろしい事を計画などしていない。それだけは、命にかけて陛下に誓って言う」
顔を上げて、馬越しに見えた男の目は、酷く冷たい残忍なものに見えた。
馬が不自然な体勢を立て直すように小刻みに地団駄を踏む。引いたように見えたが、すぐ後に踏み出した足が脛に乗る。木の根との間に挟まれたそれがみしりと鳴る。何があったのか理解する前に熱い痛みに悲鳴を上げた。
明らかに折れている。膝の下にもう一つ関節ができたように段ができていた。
「落ち着け、キング。おまえはそんなんだから殺処分されかけるんだぞ」
優しい声でオオガミが馬を宥める。その周りにはずっと犬が纏わりついていた。
「た、助けてくれ」
トウマ・ジェゼロは狂っている。狼の森に住み着いて、犬と獣のように暮らしている。そんな噂を不敬だと断じてきた。だが、サウラ・ジェゼロの兄は、妹よりも余程おかしい。
「俺には、お前が気安くした行為の方が誘拐よりも恐ろしいけどな。真犯人を逃がして、挙句無実の男をあわよくば死刑にしようとはな……」
「孤児が。捨て子が、尊き国王陛下に仕えること自体が大罪だっ」
オオガミが、馬から降りる。高い場から見下ろしていた時よりも、近くに来たそれは余程恐ろしく見えた。
「生まれに人の差が出ないとはいわねーよ。だけどな。マイナスから這い上がった人間は、いい生まれのバカよりよっぽど尊いもんだ」
「ジェゼロ王族に相応しいものが、お傍に仕えるべきなんだ」
小さく首を傾げるさまは、エラ様と同じ仕草だった。
「トワス・コナー、お前は運がいい。そんなんでエラの犬になっていたら、狂犬病患って狂い死んでただろうよ」
そういうと、掠れて音の出ていない指笛を吹き、集落へ降りていく。馬は後をついていったが、まるで番犬のように、狼犬が少し離れた位置で腹を伏してこちらを見ていた。増援を呼びに行ったのだ。今の間に、姿をくらませば。立ち上がろうとしたが、折れた足が痛くて到底坂を下りられない。




