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白くて静謐な虐殺と、赤くて億劫な日常  作者: キャラメル伯爵
1/1

一章

 枯葉がゆっくりと重力に引かれて落ちていく。それは先に落ちた枯葉に埋もれ、山の表面を覆う膜と一体になる。木々から枯葉が我先にと飛び降り、その身を重ね合う。

 彼らの降り積もる中には野球ボール大の石が地面に鎮座していた、そのざらついた灰色の表面には赤く艶やかな血がぺっとりと塗られている。

 そしてその傍にそびえ立つ背の高い樹とは別に、立ち尽くす短駆な少年の姿がある。

 彼は俯き静かに見下ろしている、右手に握られているのは錆び果てた末に切れ味を失ったハサミ。

 そのハサミを握りしめた彼の前には少女が横たわる、齢十歳にも満たないであろうふくらみのある頬をした目を瞑る顔。黒い髪は肩に触れる程の長さ。

 薄手のワンピースは土くれで汚れて、体にはすでに枯葉が積もり始めていた。呼吸を続ける胸に連動する体の動きに、それら枯葉がはらりと地面へ零れ落ちる。

 軽く握る両手を顔の前に置いて眠る少女。穏やかに閉じられている瞼に髪の中から伸びる眩いほどに赤い鮮血が垂れた。白い柔肌を犯す少女自身の血が顔を横一線に赤く染める。

 少年は血を見た故か突然腕を持ち上げ、ハサミを自分の頭部より高く握る。

 静かに彼はしゃがみ込む。

 幼さのあるやわらかい手の中には錆尽き果てたハサミ。

 少年の目に浮かぶのは、映るのは横たわる少女。

 彼は少女の頭部の近くに片手をつく。

 振り下ろされる右手。

 少女の体を覆わんとしていた落葉が衝撃で小さく舞い上がった。ガチリと肋骨に刃のぶつかる鈍い音が鳴る。

 少年は再び右腕を持ち上げる。

 緩まぬ速度で振り下ろす。

 パキャリと肋骨が折れると、果実を潰す様なグチュリという音が少年の腕が振り下ろされるごとに鳴る。

 少年の目に映るのは少女の姿、少年の目に浮かぶのは真っ白い歓喜――。


 ――◇――


 頭部が揺らされていた。

 髄液が揺蕩う、三半規管内を蠢くリンパ液が頭部の動きを脳に伝える。

 僕は自分の頭に押しつぶされていた両手から顔を上げた。微睡みの残る目を開き、霞んだ視界に意識を集中させる。圧迫されていたことから痺れる腕の感覚を無視しつつ、徐々に細部の色が見えてきた視界に、仁王立ちする男子の姿が浮かび上がる。

 呆れ半分、また人をいじる機会を得た歓喜半分といった表情を浮かべるその人物――岡崎暮田。僕の小学生からの友人、風に乱されたような天然パーマの黒髪、シャツの裾をズボンから出した崩れ気味の制服。素行が良いとは言えない風体、風紀委員には到底無視できないであろう学生――。

「おい暁祟、まだ寝ぼけてるのか? とっくに担任の始業の説明は終わって、みんな帰ったぞ」

 僕こと澤海暁祟そうみあきたかはゆっくりとまぶたを開いて、気怠い緩慢とした動きで首を回す。

 暮田は両手を腰に当て、どこかのキャラクターみたいな演技の口調で声を掛けてくる。

 恐らく主人公の幼馴染か何かのつもりなのだろう。

「ん……あれ……」

 ふと思い返せば寝た記憶自体が無い、そう周りを見渡すと教室に並ぶ席には僕と暮田以外に誰も居なかった。確か2年生として始業式に参加して、その後の新しい担任の説明を聞いていた筈だったけれど。

「言っておくが、お前だいぶ序盤から寝ていたからな。俺はお前の後ろの席だからしっかり見ていたぞ、覚悟しておくんだな、先生があとでお前にどういう接し方するか楽しみだ」

「そんな……寝不足かな……」

 目を擦り両手を大きく突き出して猫のような伸びをする、暮田に凹んでいると思われるのも癪なので僕は気にしていないといった態度を示す。最近特に寝不足、また体が疲れるような出来事は無かった筈だけれど、どこかまた気疲れでもしてしまったのだろうか?

 始業式はずっと座りっぱなしで二酸化炭素に満ちた体育館に漬け込まれて、そのせいで眠気が襲ってきたのかもしれない。

 今日は学校が終わり次第、僕も真っ直ぐに家に帰ろうと思っていたのに。

「お前は高校に入ってからどうも居眠り増えてないか? というかやっぱりちょっと疲れ気味にも見えるような気もするが。いっそお前の寝顔を撮ってクラス中にばら撒くという強硬手段でその状態を矯正してやろうかと思っていたんだぞ?」

「そ、それはまた……人を勝手に撮るのも、写真をばら撒くのも良くないんじゃないかな」

 僕は苦笑いを浮かべ彼に向き直った。すると彼は両腕を組み、真剣な顔でさらに続けた。

「いや、友を思っての勇気ある善な行為だ」

「絶対ただの蛮勇だよ、被害絶大な悪事だ……」

 彼ならそれを実行するまでに踏みとどまってくれるだろうと僕は思った、だけど彼はこういう誰にも壁を作らない人付き合いが功をなした広い人脈を持っている、いざ本当にばら撒かれたらクラスどころか学校中で生徒の目に入ることになるだろう。

 ただ彼に起こされなかったら僕も一体いつまで学校でねむりこけてしまっていただろうか、一応そこのところは感謝をするべきなのだろうかな。

「まあでも起こしてくれてありがと、起きて直ぐ一限と対面はイヤだし」

 なるべく真摯に、真面目な雰囲気を醸し出して感謝の言葉を茶化されないようにと警戒する僕。

「それが実は、もう4限が終わってしまったところでな……」

 効果なし、茶化された。

 というかもう居眠りしていたのを起こされた時点で主導権は握られてしまっている、彼もまたそれを自覚してこうも僕をいじるのかもしれない。勘弁してほしい。

「どう考えてもそんなに寝ているわけないよ、流石に起きるでしょ」

 すると彼はビシっと僕に人差し指を突きつけてくる。

「ところがこのクラスみんな、俺に引けを取らない程に心優しく、お前の穏やかな眠りを妨げないように静かに授業を執り行ったのだ」

「本当に心優しいなら起こすでしょ、普通……」

 まずクラス全員が彼に引けを取らない程に心が優しい、といった部分はスルーを突き通そう。めんどくさい地雷な予感がする。

「とは言うけどさ、俺が起こすまでも無いかとも思っていたんだよな」

「?」

 彼は突然いやにぼんやりした物言いをする、またその表情は呆れたと言わんばかりの力の抜けたものだ。

 言葉が足りないとはこのことだよ、と僕は静かに思う。すると彼は僕のその表情を見るや否や大きく溜息を見せつける。

「? じゃないよまったく、俺以外にも確実にお前を起こす、叩き起こすことなくとも気にかけて起こして、帰宅を促す奴がいるだろって意味だ、もしかして俺へのあてつけか?」

「あ、そういうこと」

 やっと彼の言わんとすることがわかった、それにわかろうとも思わない彼の気持ちも少し。

「いやでも沙紀だって忙しいだろうし――」

 僕がそう言い終わった直後、教室のドアを勢いよく開ける音が響き渡り、僕らは同時にドアの方向に視線を向けた。

「よかったぁ~ まだ居た」

 急いで走ってきたのだろうか、息を切らしながら教室に入ってきたのは濃い茶髪を口頭の根元からまとめて背中に垂らしたポニーテールの女子――三倉沙紀。

 スカートをはためかせながらしっかりと筋肉のついた健康的な脚を晒して、小走りに僕らのもとに来る。肩にはカバンが掛けられており、彼女も帰宅をしようとしたところのようだ。

「チッ……やっぱり……なんか腹立つぜ」

「……」

 なんとも言えない、何を言っても反感を買う予感しかない。彼の睨む目と沙紀には届かぬ小声を聞いて僕は沈黙を固持する。

 沙紀は僕の彼女、交際相手だった。だから彼女のいない暮田は沙紀の話題となると僕を妬みで罵倒するのだ、そのことに対して僕は特に怒ったりはしないけれど、あまり下手な反応をすると数日は機嫌が悪くなるのは流石に避けたい。

 彼には散々疎まれるような発言の雨を浴びせられるけれど、僕は特に男気を見せるような行動を、すなわち沙紀へのアプローチや告白を敢行したわけでもなく、彼女の方から突然告白してきたのを受け入れただけなのだ。だから別に偉そうにできるわけでもそこまで誇示するわけでもない。

「まだ居た、というか僕は寝ちゃってて暮田に起こされてたんだけど。沙紀は何か用事でもあったの?」

 意図しない事情で帰宅が遅くなった僕だが、沙紀はそんなドジをする娘という訳でも無いはずだ。

「新しく保健委員になってね、そしたら放課後に先生の長い説明に付き合わされちゃって」

 保健委員……確か一年次は体育祭委員を務めていた筈だったけど。

 彼女は中学生まで区大会に出る程の実力を持った陸上部の選手だった、しかし故障でそれを続けることが難しくなって中学卒業と同時に辞め、それでも高校では体育祭委員としてスポーツに関わり続けようとしていた。

 彼女が体育祭委員のメンバーと深く話し込んでいたり、深夜まで作業をしているというのは僕も知っていた。それが二年からは保健委員に変えたというのか、何か気持ちの変化でもあったのだろうか。

「体育祭委員はもうやらないの? あれだけ打ち込んでいたのに」

 そう僕が聞くと彼女はバツが悪そうに答える。

「いやまあそうなんだけどね、スポーツがもうあまりできない私より、実際に動いている人の方がきちんと勤めを果たせそうかなと思ってたんだよ」

 確かにそういう面もあるか、彼女が一番そういうことをわかっているのだろうし、そういうものなのだろう。

 ふと時計を見る。針は頂点を越えて時間がもう午後に入っているのを示している。

 その記憶と齟齬が出てしまった時間を確認して、僕は多少の倦怠感を感じていた。

「ねえ帰らないの?」

 沙紀は僕の顔を覗き込む、やや心配そうな表情だ。一方一切目を合わせてくれない彼女と僕の姿を横から見ていた暮田は、カバンを肩に掛けて背を向ける。

「んじゃ俺はもう帰る、なんだか気分を害した」

 まだ言ってる……。彼も悪い人じゃないし相手がいてもおかしくないと僕も何度も本人に言っているんだが。それに実際できればこのとげとげしい言葉を投げかけられることがなくなるかなと暗に期待していたりする。

 彼はそこまで真面目な学生という訳でも無いが、悪いことは悪いと言って指摘するし、彼の人当たりの良さはこの学校では共通認識として通じるだろうとも言われている。

「僕も帰るよ、今日は一旦家に帰ってからバイトがあるんだ」

 机に掛けてあった学校指定のカバンを持ち上げて立ち上がる。

 特に教科書も入っていないカバンはとても軽い、これだったら持ってこなくてもよかったのではないか。

「え、バイト? 今日は遊べるかなと思ったのに」

 沙紀は僕の視界に入り込んでくるとあからさまに残念そうな顔を見せてくる。

 正直なところ、彼女がなぜ僕なんかに告白し、また未だに気にかけてくるのかその理由がわかっていない。

 人の気持ちは他人に推し量ることも、推測すら難しい曖昧なものだろうけれど、その理由の一つも中々わからないのだ。

 以前一度だけ「どこが?」っと聞いてみたことはあるのだけれど、もじもじと赤面して黙ってしまいまともな答えを貰えていない。逆に僕はどうなのかというと、彼女の印象はもちろん悪くはなかった。中学時代から陸上選手としてそれなりに噂も聞いていたし。高校に入ってそこまで関わったことが無かったけれど、付き合い始めてからその気遣い巧みな性格と、勿論スポーツ少女といったファンも多い男勝り感もある彼女は十分魅力的だった。

「ごめん。バイト先で急に来れなくなっちゃった子がいてさ」

 僕は素直に、真正面から正直に謝る。彼女はこう見えて感情の起伏が正にも負にも動きやすい、へたな事を言うと深刻なまでに悲しんでしまうのだ、それも隠しているつもりながら見ていられない程に。

 ちなみにバイトは高校に入ってから直ぐに始めた、地元のファーストフード店で働いている。容赦なく高校入学と同時にお小遣い制が早くも廃止された僕の家、遊ぶお金が欲しければバイトしろというのが親の方針なのだった。

 とは深刻そうに言うけれど、今働いているお店は自分でもハンバーガーやポテトが食べられるファーストフード店、新作もすぐに試せるというのは十分嬉しい。

 高校生らしい、若き男子として珍しくないのかもしれないけど、僕はファーストフードやジャンクフード、そういった類の食べ物が大好きなのだ。味はしっかりと濃く付いており、いつでもどこでもペロリと食べられるその形態、一種の食の完成形だなと思っているのだ。

 ただこれは沙紀や暮田曰、「妙に入れ込んでる、怖い」なんて言われる度合いらしい、心外だ。

 ということで僕は、僕たちは三人で校舎を出て、他愛もない会話で通学路を騒がせつつも各々の道で分かれたのだった。


 ――◇――


 ここまで僕はなんでもない、いつも通りの顔で彼らと接して、会話して、至極普通の放課後を過ごしたわけだけれど。いつの間にかに寝てしまい、その中で見た夢はハッキリと記憶に刻まれていた。夢は人の記憶に残りづらく、メモでもしないと大抵の人は一時間も経ってしまえば内容を思い出すのはとても難しくなってしまうだろう。

 だが今回は違う、逆なのだ。

 夢を見た記憶、それは間違っていない、ただ見た内容が夢であり、また記憶なのだ。

 だから忘れない、今でも鮮明に夢ではなく記憶として再生が可能だ。

 僕が七歳の頃、すなわち小学二年の頃。山の中で一人遊んでいる時に、ふと顔も知らぬ6歳程度の少女と出会い。そして殺した。

 まず動機、それは衝動的なものだった、つまるところ興味本位。

 手近な石で頭を殴りつけ、あっさりと昏倒した少女を、同じく落ちていたハサミで何度も胸を刺し、腹を刺し続けた末に殺した。

 そして結果、僕は興味を失ったその死体を放置したまま、なんのこともなく帰宅した。

 普通ならこんな蛮行をしてしまえば、僕は大変な目に遭うだろう、最悪児童施設送りなどといった、それどころか刑務所かも。

 ただ少女に最大の不幸をもたらした僕は、最上の幸運に恵まれていた。

 その日は数日前から天気が荒れると予報されていて、その予想通りに酷い豪雨と強風が僕の街、またその地元に屹立する山を掻き回した。

 山の中に放置され、虫とバクテリアの食糧と化した少女、またその雄弁な殺人の証拠は川の氾濫、山の土砂崩れに飲み込まれて喪失した。後日土砂の中から当然の如く発見された少女の損壊の進んだ死体は口を無くし、饒舌さを失ってついには僕を弾劾することもしないまま石の下に運ばれていった。

 さて、普通殺人を起こせば良心の呵責、罪の意識が心に枷か何かの様に人生全体に圧し掛かるだろう。でも僕は、齢六歳程度の僕にはそんなことはなかった。興味本位で少女を殺し、やがて興味を失った。大した話でもない、結果が重大であってもその動機が、もたらした影響までもが甚大で過大とも限らない。

 そうしてその過去の子供によるちょっとした遊びの記憶は、少年漫画や幼き日の親とのふれあいと同ジャンルの過去として分類され、やがて意識の中から薄れていったのだ。

 それでも記憶は薄れ意識から廃絶されようとも、感触が、経験が、その行為そのものが僕を成長させる数多のカオスに近い子供を取り囲む、成長の糧の一つになったのだろう――。

 しかし最近、高校に入ってからこの記憶が再生されることが増えてきた、まるでノスタルジックなブームでも訪れたかのように。

 当然最近の居眠りの原因である気疲れの誘因であろうかと考えた、しかし何度も夜の就寝時、授業中の居眠りの中で見るそのビジョンを、僕はつらくも苦しくもなく呆然と見ていたのを感覚としてありありと認識できた。

 だが逆に、夢を見始めた頃から僕は、日常の中で謎の疲労感に襲われることが増えた。

 そう考えればこの夢、過去の記憶が因由、源泉であるとは言えるかもしれないけれど。

 鮮明に流れる記憶のビジョンと同様に感覚もハッキリと心の感触として残る。


 夢で感じるのは渇望、現実で感じるのは虚無。


 何かが僕の中で動き出したのだろうか、のっそりと巣の中で頭をもたげた心理の蛇が、何かを訴えようと這い出しているのかもしれない。

 

 ――◇――


「お疲れまでした」


 僕は店の裏口でマネージャーにお辞儀をし、そそくさと帰路につく。

 既に空は黒塗りとなって眩い星光を浮かべている。バイト先の店が含まれる商店街を抜けていき、もう人通りが殆ど無い住宅街に入っていった。

 家々の窓を照らす室内の灯りはぼんやりとし、暗い通りを照らすのは電柱に付けられた街灯の限られた範囲の光。

 冷える手を堪えて肩に掛けたカバンの持ち手を握り、もう片手はポケットに押し込む。

 ――新作のバーガー、美味しかったけど材料費が高いのか少し小さかった気がするな、これは少しマイナス点か。サイズ別にでもしてくれないかな……。

 それはそうと明日からは普通の授業が始まる、春休みの気のゆるみが抜けない中ではどうにも気怠いものがある、なんてぼんやりと考えながら歩きなれた夜道で歩を進めていた。

 靴音すら耳に届き意識の中に滑り込んでくる静かな夜道、それなのに道の左右に連なる住宅から生活音が漏れてくることは無い。家と外、それらは完全に隔離されている。

 それは住む者も歩く者も意識的であろうと無意識的であろうと定義づけられているのだろう。

 家は自己の増幅した結果と言ってもいい、家亡き人は己を小さな家として拠り所として道を歩き、家を得ればそこは自己の膨らんだ心休まる場所とするだろう。

 自己というものが曖昧な子供にそれはない、拠り所としても固持するべきものの己が無く、つまり家も無ければすなわち全てが道であり、外地なのだ。

 隣の家の芝生は青いとは言うが、それは当然自分の家があってのこと、無ければ隣の家も芝生も無い、それに付随する気持ちの変化も無い。

 本当に小さい子供はまだ己と他人を比較することは難しいだろう、比較対象も何もが曖昧で揺れ動くのだから。それでも彼らは自己の介在しない、もっと原始的な人間の精神の奥に用意されたブラックボックスの動き。外部からの刺激やたまに起きる内なる衝動に突き動かされて活動を続ける。外地に彷徨う子供たちはいずれ他人として認識するであろう者たちと混ざり合い、刺激の応酬、また伝達を繰り返して自ずと自分とは近くて違う、他人というものを知り、他人であろうとその心を推し量ることをある種の能力として獲得するのだ。

 だがどうだろう、混ざり合うことも足りぬまま、家を立てて外地を見下ろして混ざり合う子供たちを見ることができるようになってしまった子供とは? 刺激不足? 否、生存を続けている限り外部の、世界の刺激は止まぬ、それは知識であり感性の育みを促す糧だ。

 それでも早すぎる自己の確立は齟齬を生む、他人が違うと早々に知ってしまい、混ざり合えなかった者にはもはや知ることが叶わぬものができるのだ――。

 暁祟は馴染みある孤独感に浸れる夜道で度々深呼吸し、夜の冷気で肺を満たしながら街灯の傍をひとつひとつ通り過ぎていた。

 不意に脚を止め、ふと顔上げて月を見る。薄い雲を身に纏う月は煌々と青白く夜空の中で浮かんでいた。

 すると一瞬、その真っ白い月の丸いシルエットを黒い小さな何かが横切ったように見えた。

「ん?」

 人工衛星、なんてものは地球の地表から裸眼で確認することは難しいだろう、だが飛行機であれば一瞬で通り過ぎるというのもまたおかしい。ソレは小さく、かつ素早いソレが空を駆けていた。なんていう真実が、幾つかの推測される事項から外されるのは一般常識を照らし合わせられる思考の持ち主なら当然の結果だろう。

 音も無ければ空気の揺れも何も彼にソレの動きを知らせることはしなかった。いや、できなかった。

 ぽつりと立ち尽くし、月を凝視する彼の背後に降り立ったソレの動きを人間の五感は察知するには些か力不足だろう。ソレは人のありとあらゆる能力を上回り、また危険を体現することこそが存在証明であり、彼らの持ちうる全てなのだから。

 小さなそれは暁祟の背後に立ち、彼を彼の気が付かぬ隙から観察した結果、気配を隠すことをやめて一人の人間にとても似た存在感を漏らした。

 僕は背後に蠢く違和感に気が付いた。それは見えもせず、感触も無い、音も無い曖昧なもの。目を瞑った先で体の中に生じた異常を感じる様に、とてもぼんやりとした感覚を背後に感じたのだ。

 危機感も無く、好奇心の出る幕も無く反射的に振り返った、首から回していき体を捻って背後に視線を向ける。

 そこにあった、居たのは歯を見せない緩やかな唇のカーブからなる笑みを浮かべた子供、童子と言える小さな子供。だが性別がわからない、黒く墨が垂らされた様な髪は鎖骨辺りまで伸びたセミロング、大きくアーモンド形に開かれた目は幼さを十分に残して性別は示さない。

 だが服で男児だろうという推測ができた。この夜道には冷えそうな半袖の真っ白いシャツ、肩に掛けられたサスペンダーの付いた真っ黒い短パン。そして黒い靴下が小さなローファーを履いた脚からは見える。

 手を後ろで組み、やや前のめりに僕を見る彼の目に視線が引き寄せられる。

 真っ直ぐ見つめてくる飲み込まれそうな黒い目、月明りに照らされ微かに紫色に見えた角膜は綺麗だった。

 カバンを肩に掛け、振り返ったまま動けぬ僕と、動かぬまま見上げてくる少年。その光沢のある美しい黒い絹のような、肩よりやや高いところで切り揃えられた黒髪をサラサラと垂らし、やや首傾げに僕を、僕の見つめてしまった眼球の中心を覗き込む。

「あなたはどうですか? 夜の居心地は良いですか?」

 突然投げかけられた疑問。その内容に思考は連れさられ、子供特有の高くはっきりと鼓膜に届く明るい声に耳もつい傾ける。

 夜道は心地良いのか、それは肯定するしかないだろう。丁度その心地よさを堪能し、月を見上げるというロマンチックなことを一人でするくらいなのだから。

「うんうん、言わなくてもわかります。好きですよね、あなたも。見ていればわかることを聞くのは失礼にあたる愚問かもしれませんが、目的があなたの反応にあるとすれば、順当で正しい行為だと思うのです」

 そう少年、いや少年という言うのがはばかれる程に落ち着き大人びた物言いを聞いてしまえば、少年ではなく彼と呼ぼうという気になってしまった。

 彼は大げさにも一人頷き、顔を上げると猫の様に睫毛が弧に並ぶ大きな目を細めて笑みを浮かべる、言葉は紳士を思わせるような悠然さを持ち、笑みやしぐさは賢い子供である彼。

 そんな彼を前にして僕は言葉を紡げずにいる。喉から吐き出される息に声は乗らず、小さく情けなくただ開く口。何を見たわけでもないのに、彼の姿と存在に大きく動揺、静かに心をざわつかされる。

「キ、キミは――」

 なんとか声を絞り出し、聞いたところでどういうことでもない、形式じみた問いを投げ掛ける。

 それを聞いた彼は驚いたように目を開き、背を伸ばしてやや上がっていた口端を下げた。

 しかし直ぐに頬を小さく釣り上げ、一歩踏み込んで横から顔を覗き込むように首を小さく傾けて上目遣いに目を見つめ返して返答する。彼の細く美しい髪が流れる様に、パラパラと顔に暖簾のように掛かる、その髪の間から煌めく目が覗く。

「ボクは羅墨、羅生門の羅に水墨画の墨で羅墨」

 月明りに照らされ、夜から切り取られた。また陰から零れ落ちたような服装の、しかし真っ白い乳白色の肌をした彼はそう名乗った。敵意も無く、純粋無垢で軽やかな鈴のような声色で自分の名前を名乗った。

「こんな綺麗な夜に出会ったのも何かの縁、ちょっとしたことを手伝ってくれないでしょうか?」

 ぱあっと明るい表情で彼は語った、それでもどこか人間味の無い、人に近い何かの言動に見える。

 その新たな言葉にも僕は言葉が詰まる、だがそれを彼は先を促せという意味の沈黙と捉えた。

「難しいことでも辛いことでも無いことですよ。ただボクと一緒に、鬼とその従僕と戦って欲しいんです」

 彼はそう言った。何気なく、何事も無く落ち着き払った子供の声色で、大人が諭す様な口調で。

 ――戦う、鬼と。聞いただけですんなりと理解し、頭の中で素早く論理的な反応や思考が返ってくるような問いではなかった。耳に言葉が入り、言葉に含まれる単語が脳に染み込むがそれからのフィードバックは無い、つまりどういうことなのだろうか?

 鬼のような人間、鬼のような酷い状況、それらに対して共同戦線を引く様に立ち向かえという意味?

 そう僕が思考を順々と巡らし、答えを導き出そうとしていた。

 すると彼は僕を中心に回って歩き始め、目の前で立ち止まると背筋を伸ばして姿勢を正して向き直る。彼の履くローファーの靴底がコンクリートの地面にぶつかるカツンという軽い乾いた音が響く。

「当然これは文字通り、言った通りの意味ですよ。安心してください、ボクがあなたに力を分けてあげますから、あっさりと死ぬなんていう心配は御無用ですよ」

 人差し指を持ち上げ、まるで教師が生徒に語るような説明を続ける。

 突然、紫煙のように絡みつく、ゆらりと残留し続ける煙がどこからともなく生じて彼を取り囲み始めた。

 それは灰色と言うには禍々しい程に暗く、黒と言うにはねっとりと空気に漂うそれは月の光を反射していた。

「会話において文字通り、というよりは見た通りのほうが良いでしょう。目は口ほどにものを言いう、でもこの逆も言えるでしょう? 入力ではなく出力でもという意味で。視覚は聴覚に勝る実感のある情報を与えるでしょうし」

 彼はそう言い切り、同時に手を何かの合図の様にひらりと開いて空気を掻き回す様に小さく動かした。謎の煙は彼の手の動きに連動する様に流動し、彼の前面に向かって流れ出して僕に向かってきてあっさりと通り過ぎ、背後の光が届かぬ暗い道に吸い込まれていった。


 ――グチャンッ。


 生々しい肉の弾ける音が通りを響かせ僕の耳に届く、それは挽肉を混ぜる音を大きく、また派手にしたような生理的嫌悪感を誘発させる音。

 肩越しに振り返り、その音源に視線を向けた僕。その視界の中心、そこで何かが闇の中から飛び出すのを目にした。

 闇から飛び出した影は勢いよくこちらに向かってくる、だが重力に引かれて下がっていったそれは僕にぶつかる数メートル手前で地面に接触した。そして何度か転がって何かを撒き散らし、それでも勢いを残して灰色の地面を黒い液体で濡らしながら僕の眼前にそれは滑り込んできた。

 それは人型の一部、損壊した上半身の一部だった。損壊した結果の上半身のみのシルエットで、また残った上半身も左腕と左胸から下が失われていた。捻りつぶされた様に残った腹は内臓が押し出され、中身を失った腹部は萎んだトマトじみた皺で包まれている。

 腹部の断面からは腸や膵臓といった内臓が剥き出しになり、止めどなく赤黒い液体が流れ出していた。

 残骸に成り果てたその人型をした物体、人らしき何か。無傷に近い胸部は筋肉でぱっつりと皮膚が張ってふくらんでおり、ボディービルダーを彷彿とさせる。また右腕も強靭な編み込まれた筋肉が盛り上がってゆるやかな凹凸を浮かび上がらせている。

 だが中でも特に目につき、僕の視線を離さないのは顔だった。

 険しく剣吞さを体現した眉間に彫り込まれたように皺が寄り、驚嘆ではなく憤怒の表情で見開かれた眼光は得物を前にした獅子を彷彿とさせる。

 獣かサメのような鋭い歯がハッキリ見える食いしばった口、そこからはまだ震えるエンジンじみた唸り声が漏れていた。瀕死の人間らしきそれは、ボサボサに乱れた固そうな黒髪の中から何か黒い角のようなものを覗かせていた。

 そしてその口がゆっくりと開かれ、吐息が白く夜の空に立ち上がる。

「グガァ……この化け物が、鬼の面汚しがぁ……」

 瀕死な上半身しかない男は恨めしそうな表情で、焦点の合わぬ眼球を怒りに微振動させながら呪詛のような言葉を捻り出した。

 だがそれを言い切った瞬間に口腔からどす黒い血液が溢れ、むせて呼吸を困難にして溺れる寸前のような呻き声だけを出すようになった。

 僕が目の前の怒りに震える死体に目を奪われていると、羅墨と名乗った少年は軽やかな足取りで死体のそばに寄っていく。ゆっくりと僕は男から彼に視線を移す。その表情を恐る恐る覗き込むと、そこに見えるのは歓喜でもなく、恐れでもなく、ただの呆れたと言わんばかりな眉をへの字に曲げた顔だった。

「確かに確かに。ボクはキミたちにとっての鬼、という定義を揺るがし。それでいて誇りとする信義に泥を塗っているかもね。でもそれはそれ、これはこれ」

 彼が言葉を言い切るとまたも煙が立ち込み始め、男の目の前に漂い始めた。男は先程までの威勢を失い、やや目尻を下げる怯えた表情を浮かべる。

 その瞬間、煙が意識を持ったように蠢き大人を覆うほどの手を形作り、落下した。

 突然煙が生み出した鋭い爪と甲冑のような装飾を帯びた手が男を押しつぶす、「ドチャンッ」という音が轟き、男は煙から現れた大きな掌底によって完全に見えなくなってしまった。

 やがて手はまた煙に戻り、発散して消えていく、そしてまた見えるようになった男は見るも無残な姿となっていた。

 肋骨は折れて胸が陥没し、頭部も鼻や歯が粉砕されて大きくゆがみ、眼球は潰れて零れ落ちている。だがそれでも男は呼吸を続け、下半身があったであろう断面からの出血は止まっていた。

「こういうことだよ、鬼は死なない。どんなケガであろうと時が経とうとボクらは存在を保持し続ける、キミたち人間が物理的に結びつけられて顕現しているのとは根本的に違うのさ」

 呼吸を忘れかける程に視界に映る、思考が止まる風景に目を奪われていた僕、その耳元で彼は囁く。

「だけど世界でただ一つ、兜落としと呼ばれる刀だけが鬼を確実に殺しうる。それが無い限り鬼は死ぬこと叶わず、己が投じられた状況と事態に永延と立ち向かわねばならない」

 彼が僕に語り掛ける間も、男は目に見えて再生を続けていた。

 出血は止まり、皮膚からほつれたような繊維は自ずと集まり結びつき、さらに皮膚が断面から成長して、延長しては体の修復を行っている。

 潰れた胴体や顔は所々裂けた皮膚の下で蠢いている、恐らくは砕けた骨片までもが再生しようと寄せ集まっているのだろう。もはや既存の常識で説明をするのは不可能な現象がそこにあった。

 それを僕が感覚と思考で実感し、食物を嚥下する様にやっとのこと認識した時、ある種の懐かしい――落ち着く感触が背筋と脳を流れた……。

「これだけのものを見れば酔狂でも狂言でも無いことはわかってもらえたと思うんだけど、その上でどうかな?」

 彼の目線に気圧されて視線を外し、自分の考えと改めて向き合う。

 答えは出ていた、常識に照らし合わせて考えればこの質問に対しては拒否を主張するしかないと。それでも、もしかしたら拒否した結果彼に殺されてしまうという可能性も十分に予想され、そういう展開も浮かぶだろう。しかしそれらを霞ませ、擦り落とす様に思考から溢れ出すとある内から生じるものがあった。

 僕は彼に話しかけられ、今までの自分の中の物差しを打ち壊す様な状況に置かれて感じたその感触が忘れられない、身をよじる様なこそばゆい小さな快感に似たそれを思っていた。

 自分の中で未知な蠢きを自覚した時、無自覚に僕の手は彼にゆっくりと向かっていた。

 まるで神父に許しを請い、助けを請う罪人のような恐る恐るといった緩慢な動き。

 するといつの間に数歩離れた位置で姿勢正しく立っていた彼は、僕の手を取ると墨を垂らしたような黒髪を揺らし、妖艶さを滲ませる控えめな笑みを浮かべる。

 彼の底抜けに黒くも美しい髪に包まれた額寄りの頭部に、小さく、鋭利な先端を持つ角があるのに僕は気が付いた。

「ありがとう、これからキミはボクのパートナーだ。互いに持ちうるもので助け合っていこう」

 これが全ての発端。

 血染めの過去を持つ僕が、夜を血で染める少年と出会った。

 澱んだ夜に浮かび上がる異なる世界。鬼の住まう闇の凍える世界に、僕はもう魅入られていたのだろうか。

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