第6話[超天才は孤独を味わう]
「んぅ……」
朝がきたと、太陽の光が告げていた。
目蓋の裏が朝陽で真っ白になっていて、グレイはその眩しさから逃れようと寝返りを打った。
何かに当たる。
柔らかい。
それといい匂いがする。
どこか懐かしく、果物やお菓子とは違う、包まれるような甘い香りだ。
その感覚に再び意識がまどろんでいき、自然と体が丸くなる。
今なら赤ん坊の頃を思い出せるかもしれない。
「うん……、ん?」
思い出せる、で思い出す。
昨日眠ったとき、ベッドにはグレイ以外にもう一人いたはずだ。
濃紺のショートヘアと茶褐色の瞳を持つ図々しくて強引な女で、名前はネア・リーグネス。
他人のことなど滅多に覚えないが、彼女だけは鮮烈に記憶している。
なら、この柔らかさと匂いは──
「おはようございます。グレイちゃんって意外と甘えん坊なんですね」
「う、う、うわぁぁぁぁー!」
グレイは自分のしていたことの恥ずかしさに絶叫し、ネアを部屋から追い出した。
*****
「あんたもう絶対ウチにくるなよ!」
「わかりましたって。五回目ですよ、これで」
道の端で叫ぶグレイと、両耳を抑えて聞きたくないアピールをするネア。
歩いているのは通学路。
グレイはネアに誘われ、なし崩し的に登校するハメになってしまった。
当然やる気はなく、どうせ暇だからと自分に言い訳して、面白くないことがあればまた早退すればいいと予防線を張り、ようやく足を動かしている。
だが、ネアを罵り続けているせいで早くもなけなしの気力が尽きそうだ。
無性に帰りたい、ベッドが恋しい、陽光が疎ましい。
「今朝のことも忘れろよ!」
「えぇっ!? あんな可愛いグレイちゃんを忘れるなんてもったいない!」
「人格ごと記憶を改竄してやろうか」
「そんなことまでできるんですね、天才スゴイ」
さすがにここまで言うとネアも掘り返さなくなった。
カルラ学園に到着した。
昇降口で靴を履き替えているあたりで多数の視線を浴びていることに気づく。
ぐるりと見渡す。
全員が慌ててそっぽを向いた。
きっと昨日の──、ネアに絡んでいた上級生と教室で突っかかってきた男子生徒、計二名をグレイが《エクスプロード》で爆破したことが学校中に知れ渡ったのだろう。
その証拠に、『教官』ことフレア・トールギスが大股の怒り肩で近づいてきた。
「おいバーンアウト!」
ネアが驚いて飛び上がり、グレイの後ろに隠れた。
「昨日、教室で何があったか訊いたぞ! クラスメイトを怪我させておいて謝りもせず帰るとは、いったいおまえはどうなっとるんだ!」
グレイはうんざりしながら、
「は? 先に喧嘩売ってきたの向こうなんだけど」
「だからといって過剰に仕返ししていいわけではない! はぁ……、『最も偉大な魔法使い』も子育ては苦手だったようだな」
「────」
そうしようと思うより早く、グレイはフレアを殴っていた。
遅れて、右拳に反動の痛み。
さらに遅れて、たくさんの悲鳴とどよめき。
「おじいちゃんは関係ないだろ。文句があるならあたしだけに言えよクソババア」
「き、貴様……!」
呆然と固まっていたフレアが震え出し、鬼の形相を露わにした。
グレイは静かに睨み合う。
戦るなら戦るでいい、倒す手段はいくらでもある。
元軍人といえど、グレイにとっては赤子同然だ。
負ける要素など一切ない。
「ストップ! ストーップ!」
一触即発の空気の中、勇敢にもネアが割り込んできた。
がんばって笑顔を作っている。
ついでに膝も笑っている。
「二人とも一旦落ち着いてください! みんな見てますよ!」
フレアがハッと我に返る。
「……すまない。大人気なく感情的になってしまった」
茹だった頭を冷ますように振り、いつもの屹然とした態度を取り戻す。
彼女の気が収まったことでネアもリラックスしたらしく、ふぅっと細く息を吐いた。
「教室に行こう。そろそろホームルームの時間だ」
「はい。ほら、行きましょグレイちゃん」
「……ふん」
三人が移動し、教室に入った途端。
それまで騒がしかった生徒たちが急に静まり返り、すばやく自分の席に戻った。
教壇に立つフレア。
「おはよう、諸君。今日はいくつか話しておかなければいけないことがある」
各列の先頭から最後尾へ、プリントが配られる。
内容は、テロリストに関する注意喚起。
「最近、この街にテロリストが潜伏しているという噂が広がっている。真偽の程は未だ不明だが、気をつけておくに越したことはない。登下校の際は必ず人気の多い道を選び、寄り道はしないように。特に女子は狙われやすいので日中であってもなるべく誰かと一緒にいること。いいな?」
教室がざわつく。
「大丈夫! きちんと対策していれば大抵の不幸は未然に防げる。そしてそれは我々大人の仕事だ。君たちは安心して勉学と鍛錬に励むがいい」
「何が『励むがいい』だ、偉そうに。とっくに知ってるっつーの」
グレイは小声でつぶやいた。
実のところ、テロリストの存在は一週間前から認知済みだった。
この街に入ってすぐ精霊が、悪しき者がいるから気をつけろ、と警告してくれたのだ。
昨日、使い魔が持ってきた『妙な情報』とはそれにまつわることである。
ぼやきを聞き取ったのか、フレアはグレイを一瞥し、咳払いする。
「話はもう一つある。昨日の一時限目が終わったあと、このクラスの一人が大怪我を負った。幸い命に別状はなく、後遺症も残らないようだが、しばらく入院、学校に行くのが怖いと繰り返し訴えているようだ。──グレイ・バーンアウト。何か弁明はあるか?」
グレイはため息をこぼす。
「さっきも言ったけど、あたしは売られた喧嘩を買っただけ。落ち度があるとすれば、力の差を見誤ったあいつのほうだ。以上」
「あくまで自分に非はないと?」
「そう言ったのが聞こえなかった? 耳が悪いなら耳鼻科に行きなよ。ただの老化だろうけどね」
フレアは諦めたように肩を落とす。
「……もういい。せめて授業中はその生意気な口を閉じていろ」
その後、チャイムが鳴り、ホームルームが終わった。
フレアが出ていくと、教室は息を吹き返し、いくつもの雑談が起こった。
グレイに話しかけてくる者はいない。
ふと、会話中のネアと目が合う。
なんだか同情されているような気がしたので、窓の外を眺めた。
人の集まるところは嫌いだ。
*****
「は、はぁい、これで授業を終わります。みなさんお昼はよく噛んでくださいねぇ〜」
フラウディアが四時限目の終わりと昼休みの始まりを宣告した。
グレイは人気のない屋上の階段に移り、アンナ特製の弁当を膝に載せて食べる。
静かだ。
心地よい静けさ。
人混みからようやく抜け出せた開放感もあいまって気分がスッとする。
「こんなところにいたんですか」
と思ったら、招かざる客がやってきた。
「あたしがどこにいようが勝手だろ」
"あっちに行け"と念を込めて睨んだつもりだが、ネアは構わずグレイの隣に腰を下ろし、弁当(グレイと同じくアンナ特製)を食べ始めた。
「……おい、なんの真似だ?」
「私がどこにいようが勝手でしょう?」
「チッ」
意趣返しにムカついたが、ここで言い返したらただのガキだ。
代わりに弁当を掻っ込む。
……ぴたり、と箸が止まる。
本当に嫌なのは言葉で弄ばれることじゃない。
わかり合えないのに近づかれることだ。
距離が近い分、自分と他人の差を余計に意識させられる。
「あたしなんかに構わなければいいのに」
「友達を放ってはおけませんよ」
ほら、これだ。
「……やっぱり、あんたみたいのを"普通の女の子"って言うんだろうね」
「普通の女の子になりたいんですか?」
「別にあたしがそう思ってるわけじゃない。おじいちゃんが死ぬとき、あたしに『普通の女の子になってほしい』と言ってたから、その望みを叶えてやろうとしてるだけ」
「アデルソンさんは、なんでそんな願いを?」
「おじいちゃんが天才だったからだと思う。昔から普通の人たちと馴染めなくて、ずっと苦しんでたんだって。それをあたしに味わわせたくなかったんじゃないかな」
アデルソン・バーンアウトは万人が認める天才だった。
総ての魔法を修め、数多の使い魔を従え、幾千の精霊を友とし、果てには『最も偉大な魔法使い』とまで呼ばれる、生ける伝説となった。
だからこそ、何者も彼を理解できなかっただろう。
「天才ゆえの孤独……、ですか」
「普通の人たちは天才たちのことなんてちっとも理解してくれない。いつだって能力を評価するだけだ。人格なんて最初から求められてないんだよ」
「だからあんなに攻撃的な態度を?」
「それもある。けど一番は、まあ元々の性格だね。あたしの"普通"は、みんなにとっては"普通"じゃないって思い知った。おじいちゃんと一緒だ。もう学校辞めようかな……」
「"普通"ってそんなに難しいものですかね?」
「それが一番難しいよ。その点、あんたはまさに"ザ・普通"って感じですごいよね。皮肉抜きでさ」
「あはは。どうしたって"普通"から抜け出せないんですよ、私は。昨日寝る前にも言いましたけど、私は天才であるグレイちゃんに憧れてます。お互い、ないものねだりです」
ネアが弁当を食べ終えて合掌する。
「ごちそうさまでした。放課後、お弁当箱返しに行きますから一緒に帰りましょう」
「あたしが返しとくからいい。渡して」
手を差し出す。
「そうですか? ではよろしくお願いします。それはそうと一緒に帰りましょうね」
「……やっぱ自分で返せ」
手を引っ込める。
「さて、と」
ネアは立ち上がり、スカートについた埃をはたき落とした。
「先に教室に戻ってますね。またあとで」
「あたしこれ食べたら帰るけど」
「私といたら"普通"になれるかもしれませんよ?」
そう言って、彼女は手をひらひらさせながら階段を降りていった。
……満更でもない自分がいる。
「くそっ、あいつといるとなんか調子狂う」
グレイは八つ当たりで残りの弁当を一気食いした。