第5話[凡人は超天才と一夜を過ごす]
残念ながら、時間というものは楽しければ楽しいほどあっという間に過ぎ去ってしまう。
半日かけてアンナと語り合ったネアは、そう思った。
「そろそろ夕飯にしよっか。ちょっくらカレーうどん作ってくる」
「何か手伝うことありますか?」
「すぐできるからいいよ。グレイ呼んできてくれる?」
「はい」
グレイをリビングに呼び出して数分後、バーンアウト家の夕食が始まり、そして何事もなく終わった。
平和そのものだった。
あまりに平和すぎて、テレビを点ければどのチャンネルでも報道されているテロリスト潜伏事件も、本当にこの街で起こっているのかと疑わしくなるほどだ。
「お風呂と着替え用意しといたから二人とも入んな。ネアちゃんは私のパジャマね」
今回、食後の片付けを担当するアンナが言う。
食事中に一度リビングを離れたのはそのためだったんだ、とネアはひとりでに納得し、
「ほんとですか? ありがとうございます!」
笑顔で返礼した。
「待った! もしかしてこいつと一緒に入るの?」
グレイがあからさまに嫌そうな顔をして隣に座るネアを指差し、わなわなと唇を震わす。
「ウチの風呂は広いから子供二人くらい余裕よ」
「い、嫌だ! なんであたしがこいつなんかと──」
「グレイ。私は何度も言ったよね? "居候に拒否権はありません"って」
「うぐっ……!」
「観念して行ってきな」
「……アンナなんか大嫌いだ」
「そう。私は大好きよ、グレイのこと」
「う、うっさい」
赤面して怒るに怒れないグレイ。
ネアはその隙に彼女の手を掴み、風呂場へと歩き出す。
「話がついたところで行きましょうか!」
「だから引っ張るなって!」
グレイの態度に傷ついたので、服を脱ぐまでずっと手を繋いだままにしてやった。
*****
風呂場にて。
「わー、ホントに広いですねー!」
「タオル巻けよ……」
「女の子同士だし恥ずかしがることないじゃないですか。ほら、座って座って。髪洗ってあげます」
「いいよ、自分でやる」
「遠慮せずに」
「遠慮なんかしてないっつーの!」
しばしネアとグレイの言い争いが続き、結局根負けしたのはグレイのほうだった。
アンナとのやりとりでわかっていたことだが、愛情を以てゴリ押しされると存外弱いらしい。
人の真摯な思いを無下にできないのだ、グレイは。
「グレイちゃんの髪、真っ赤で綺麗ですね。それにとってもサラサラです」
「…………」
曇り気味のガラスには気持ち良さそうに目を細めるグレイが映っている。
ほんのりと頬が赤いのは照れているからだろう。
「私、一人っ子なんですよ。だからこういうの密かに憧れてたんですよね」
「……よくしゃべるやつ」
「おしゃべりって楽しいじゃないですか」
「別に。っていうか誰とも話合わないから楽しいと思ったことない」
「ふーん。たとえばどんな話をするんです?」
「某大学で発表された新魔法の開発に関する論文についてとか、地層の分析によって割り出される古代生物の生態についてとか。あと、高密度魔力帯と精霊の分布が生むレゾナンスフィールドの観測法およびそれを利用した空間魔力値の測定法だとか。あんまり難しい話題じゃないと思うんだけどな……」
「めっちゃ難しいですね」
「周りがバカすぎる」
「グレイちゃんが賢すぎるんですよ」
どのワードも、およそ十三歳の少女の口から飛び出すようなものではない。
対してネアが好む話題はといえば、今読んでいる少女漫画の最新話がどうだとか、誰々が誰々に恋しているだとか、そんな程度である。
グレイとはまるで別次元だ。
それはさておき、グレイの髪を洗い終わったので、泡が残っていないか注意深く観察しながら、毛先まで丁寧に濯いでいく。
「いっちょあがり!」
完璧。
我ながらいい仕事をした。
「礼は言わないぞ」
「はい! じゃあ体のほうも……」
「これ以上あたしに触ったらマジでぶっ殺すからな」
本気で嫌がったのでさすがにやめておいた。
それぞれ体を洗い終え、浴槽に入る。
アンナが言っていたとおり、ネアとグレイが両端から足を伸ばしてもまったく窮屈に感じない大きさだ。
掃除も隅々まで行き届いている。
ズボラに見えるアンナだが、意外と几帳面なのかもしれない。
「極楽、極楽〜」
「ジジくさ」
「そう言うグレイちゃんは見事なお子様体型ですよね」
グレイの体は、いわゆる"つるぺた"だ。
未だ女性らしい丸みを帯びてはおらず、髪を短くすれば少年に間違われることのほうが多いだろう。
ネアは平均とはいえそれなりに育っているので上から目線になれる。
「これは機能的って言うんだ」
「プークスクス、負け惜しみとはみっともない」
「ハ、顔の良さでは誰にも負けないんでね。体型くらいは譲ってやるさ」
嘲笑を嘲笑で返された。
確かにグレイの顔立ちはゾッとするほど美しい。
今みたいに歪んだ表情をしているとかえって親しみやすいが、ふと無表情になったとき、絵画がそのまま立体的になったような錯覚と、あまりの周囲との浮きっぷりに不気味さを覚える。
グレイが人と馴染めないのは本人の問題だけでなく、その外見が人並み外れているがゆえに周りが気後れしてしまうからでもあるのだ。
「ところで話は戻りますけど、人とおしゃべりしたいならグレイちゃんが得意な話題より相手と共通の話題を選んだほうがいいですよ。全然知らないことを得意げに話されたってちっとも面白くありませんし」
「じゃあ、逆に普通の人が知ってる話題ってなんなの?」
「そうですね……。好きな有名人や好きな食べ物のことでしょうか」
「好きな有名人、いない。好きな食べ物、美味しければなんでもいい」
「得意な魔法、苦手な魔物」
「使えない魔法はない。苦手な魔物もいない。みんな一撃で死ぬ」
「恋愛」
「あたしより弱いやつに興味ない」
「それじゃあ一生結婚できませんね」
「うん。だから独身のまま生涯を終えるつもり」
齢十三にして早くも独身宣言である。
もう少し夢を見てもいいんじゃ……、と思いつつ、ネアは、
「私はステキな人と結婚したいなー」
自分の願望を口にした。
具体性なんて欠片もない、ただそうだったらいいなというか、きっとそうなるだろうなという、まあ、普通の願いだ。
「あっそ」
だからだろうか、興味なさげに立ち上がるグレイ。
「もう上がるんですか?」
「やりたいことがあるからね」
「さっき言ってた新魔法についての論文ですか?」
「いや、この街に放っておいた使い魔たちが妙な情報を持ってきたんだ。それを精霊たちと相談する」
「妙な情報?」
「あんたが気にすることじゃないし、話すつもりもない」
グレイはさっさと風呂場から出て行ってしまった。
「……使い魔に精霊かぁ。やっぱりすごいな」
使い魔は、魔力を対価として契約者に絶対服従し、様々な命令をこなすもの。
精霊は、自然界に溜まった魔力が生物の残留思念を核にして集まり、幼児並みの知性を得たもの。
どちらも高位の魔法使いにしか縁のない存在だ。
使い魔は契約を維持するのにかなりの魔力がいるし、精霊はそもそも魔力が低いと干渉することすらできない。
子供でありながら両方に対応できるのは世界でグレイだけだろう。
普通の人は老齢になるまで修行を積んでやっと可能性が生まれる程度なのだから。
「ま、羨んでもしょーがないよね」
自分は自分、他人は他人。
ないものねだりしたところで何かが都合よく手元に転がり込んでくるわけではない。
配られたカードで上手くやるしかないのだ。
そして今、ネアが持ちうるカードは、お風呂をゆっくり楽しむこと。
このカードは、超天才のグレイは持っていない。
*****
「いやー、いいお湯でした」
ちょっと大きめの薄黄色のパジャマに着替えたネアは、首にかけたタオルで濡れた髪を拭きながらリビングに戻った。
そこではパジャマの本来の持ち主であるアンナがテーブルで作業していた。
ネアに気づくと、苦笑いを浮かべる。
「おかえりネアちゃん。悪いんだけどさ、今夜はグレイの部屋で寝てくんない? 私、締め切り近くて遅くまで起きてるからさ」
「はーい」
グレイの部屋に入る。
暗い。
けど、明るい。
部屋の中央に青白い光が灯っている。
光の前にはグレイが立っていた。
赤いフリルに縁取られたピンク色のパジャマを着ている。
意外と少女趣味?
それともアンナのチョイス?
いや、違う。
重要なのは青白い光の正体だ。
そのことを問おうとしたが──、目の前の幻想的な光景に、ネアはしばらくぼうっとしてしまった。
やがて、光が止む。
室内は月と星の明かりだけになり、逆光で顔を黒く塗り潰したグレイがこちらを向く。
とりあえず、ネアは部屋の電気を点けた。
「今日はもうあんたの顔を見なくて済むと思ってたんだけど」
暗がりのせいか、いつもより迫力がある。
そんなことはありえるはずがないのに、碧眼が自ら発光しているように見える。
人間離れした美しさの瞳だ。
「ここで寝かせてください」
しかし、臆せず言った。
"友達"に怯える必要はない。
「断る。どうしてもと言うなら床で寝ろ」
「ベッド半分借りますね」
あ、そういえば髪乾かしてないや。
……まあいいか。
ネアはグレイはベッドに寝転がる。
すると、グレイは碧眼の煌めきの中に怒りを滾らせ、ネアに覆い被さり、左手を首にかけてきた。
「……あんた、あたしをナメるのも大概にしとけよ。その気になればあんたごとき一瞬で消し炭なんだぞ」
右手には炎が宿る。
真紅の炎。
熱は感じないが、殺傷能力があることはわかる。
「グレイちゃんにはできませんよ」
微笑んで言う。
「あぁ!?」
グレイが眉間にしわ寄せ、真っ白な犬歯を剥く。
「だって優しいですもん」
そう言うと、グレイは顔を赤くしてネアから離れ、ベッドの端に腰掛けた。
「あたしが優しいとか、頭おかしいんじゃないの」
声は小さい。
焦っているというよりは呆れている風だ。
「もしそうなら嬉しいですね。"異常"とか"異質"に憧れてますから、私。まあ何をやっても普通の域から出られないので無縁の話ですけど」
「何それ。じゃあ超天才魔法使いであるあたしに憧れてるってこと?」
「はい。私もグレイちゃんみたいにすごい魔法で悪者をやっつけたり、精霊と自由にお話したり、そんな"普通"ではない"特別"になりたいです。こんなこと考えてる時点でどうしようもなく"普通"だなってこともわかってるんですけど、だからこそなおさら憧れちゃいます」
「そっか……」
グレイは俯いて、
「"普通"の人はそうなんだ……」
と、独り言の調子でつぶやく。
「グレイちゃん?」
「なんでもない。ベッド、半分使っていいよ。でも静かにしないと蹴落とすから」
「……? わかりました」
彼女が妙に落ち込んでいる……、ように見えた。
けれど、下手な詮索はかえって負担になるだろう。
ネアはシーツの中にグレイをいざない、背中合わせになると、
「おやすみなさい」
「……おやすみ」
それからは何も言わずに眠った。