第3話[超天才は姉に愚痴る]
華やかな都会にはいささか似つかわしくない、アパートの一角。
建物は灰色でかなり古ぼけていた。
しかし、間取りは意外にも豊かで、見かけ以上に部屋の広さと数がある。
リビングが一つと、そこから繋がる部屋が三つ。
そのうち二つは寝室で、残りの一つは作業部屋および資料室として使われている。
これがグレイの居候先であり、血の繋がっていない姉──アンナ・バーンアウトの住まいだ。
「おかえりー……ってあれ? どうしたの? 今日は珍しく学校行ったんじゃなかったっけ?」
そして言わずもがな、出迎えの声もアンナのものだ。
祖父と同じ赤髪赤眼の二十二歳。
雑なポニーテールに黒のタンクトップ、水色のショートパンツというラフな格好をしている。
半身になって椅子に座り、すらりと長い足を優雅に組み、しかしテーブルに広げた白紙のノートを険しく睨みつけながらペンでつついていた。
どうやら絵本のネタ出しに苦しんでいるらしく、ふらふらとリビングに入ってきたグレイには一瞥もくれない。
「だるいから二時限目が始まる前に帰ってきた」
ソファに倒れ込む。
革の冷たさが気持ちいい。
極上のおもてなしだ。
「そっかぁー。あんたも大変だね。私も家族の希望突っぱねて今の仕事に就いたから何も言えないわ、ごめん」
「いいよ。そのほうが楽」
自由気ままなグレイ、自他ともに放任主義なアンナ。
昔から二人の相性はよかった。
グレイが数ある学校の中からわざわざ傭兵育成機関であるカルラ学園を選んだのも、近くにアンナが住んでいたからだ。
感覚としては姉妹というより年の離れた友達に近い。
家賃もきっちり計算して払っているので、居候させてもらうことに関してなんの引け目も感じる必要がない。
居心地は最高だ。
「ねえアンナ」
「んー?」
仰向けになって言う。
アンナは作業の手を止めない。
「"普通"って何?」
「"普通"? うーん、みんなと同じであることかなぁ」
「じゃあ、あたしは一生かかっても普通になれないや。みんな弱すぎる」
「あんたが強すぎるんだよ。自分を基準にしちゃいけない。ってか別にいいじゃない、普通にならなくたって」
「でも、おじいちゃんが『普通の女の子になってほしい』って言ってた。身寄りのないあたしを拾って育ててくれたんだから、最後のお願いくらい聞いてあげたい」
『普通の女の子になってほしい』
それが、祖父が今際の際に残した言葉だった。
だからグレイは祖父と暮らした山を下り、保護者のもとで学校に通う生活を営んで見ようと思った。
"普通"の女の子ならこうするだろうという自分なりの推測に基づいた選択だった。
現状、"普通"に登校することもできていないが。
「優しい子だね、あんたは」
アンナのペンが走る。
何か思いついたらしい。
「優しくなんかないよ。今日だって二人丸焦げにしちゃったし」
「どーせ相手のほうからあんたに何か言ってきたんでしょ? おあいこよ、おあいこ」
「やりすぎだって怒られた」
「誰に?」
「先生。あと、ネアっていうクラスメイト」
アンナが驚いた顔で一瞬グレイを見て、また作業に戻る。
「友達できたんだ。おめでとう」
「友達じゃない。クラスメイト」
「細かいことは気にしなーい。その子、いい子だね。あんたにはっきりものを言ってくれる。孤独なあんたにゃまたとない救いだよ」
「今だって孤独だもん」
「強がるなって。人は一人じゃ生きられないんだ。たとえどんなに強くてもね。そのうちあんたも寄り添ってくれる人のありがたみがわかるようになるよ」
「……知らない」
グレイが拗ねてソファの背もたれに顔をうずめたところで、インターホンが軽やかに鳴った。
さすがのアンナも、今度はしっかりと顔を上げる。
「お客さん? 編集さんがくる予定はなかったはずだけど……」
「いいよ、あたしが出る」
「サンキュー」
説教から逃れたい一心で来客対応を引き受けたグレイは、ソファから降りて玄関に向かう。
話を聞いてもらいたかっただけであーだこーだ言ってほしかったわけじゃないのに……、と内心で愚痴をこぼす。
もう一度インターホンが鳴った。
なんだか急かされているみたいだ。
虫の居所が悪いこともあり、余計にイラつく。
「はいはい、今出まーす」
声に不快感を滲ませて投げやりに応えつつ、さっき脱いだばかりの靴に片足のつま先を差し込み、踵の部分を潰さないようにスリッパ履きする。
そして、その足を大きく前に出してドアを開き──
「こんにちは、グレイちゃん」
「げっ」
速攻で閉めた。
「落ち着け、グレイ・バーンアウト。何かの見間違いかもしれない……」
そう自分に言い聞かせ、あらためてドアをゆっくり開く。
すると、すかさず茶色いローファーがドアの隙間に入ってきた。
カルラ学園に指定されているものだ。
グレイはこの時点で諦念に取り憑かれ、あとから加わった無理矢理ドアをこじ開けようとする力にも、自分でも信じられないほどあっさりと屈した。
「こんにちは、グレイちゃん」
微笑でセリフを繰り返す、濃紺のショートヘアに茶褐色の瞳を持つ少女。
できれば人違いであってほしかったが、残念なことに彼女はネア・リーグネス──、グレイが今最も会いたくない人物だった。
「帰れ」
ドアを引く。
「イヤです!」
抵抗される。
「ってか学校はどうした」
「緊急会議があるだとかでナシになりました!」
「そもそもなんの用だ」
「宿題を届けにきました!」
数枚のプリントを見せられる。
流し読みするが、取るに足らない内容だ。
「そんなのやる意味ないって」
「提出することに意味があるんですぅ〜!」
拮抗するドアの引き合い。
グレイはそれなりに必死だが、さすがに魔法を使わなければ体格差によるハンデがあるのか、ネアはずっと笑顔のままだ。
不気味で怖い。
「グレイー? 何騒いでんのー?」
「ちょっ、こないでアンナ!」
しかもアンナまでやってきた。
この状況でネアとアンナを会わせるのはまずい、絶対に自分が不利になる。
「隙あり!」
しかし奮闘虚しく、後ろからきたアンナに気を取られたことでかえってドアを開けられてしまい、ついにネアがバーンアウト家の敷居をまたぐ。
「あぁ……」
グレイの喉から、グレイ自身でさえ生まれて初めて聞く、情けない声が漏れ出した。
「またそーゆーコト言って。お姉ちゃん悲しいぞ……、ってどちら様?」
「こんにちは。グレイちゃんのクラスメイト、ネア・リーグネスです」
「あー、君がネアちゃんか! グレイと仲良くしてくれてるんだって? ありがとね」
「いえ、私もグレイちゃんに危ないところを助けてもらったので」
「へえ、あんた、人助けなんかしてたんだ」
「……不可抗力だよ」
前門の虎、後門の狼だ。
逃げ場がない。
「そ。まあとりあえず上がって。お茶くらい出すから」
「は!?」
「いいんですか?」
「だめ!」
そんなの考えうる限り最悪の展開じゃないか。
なんとしてでも阻止しないと。
……だが、
「居候に拒否権はありません」
「あうっ」
アンナに頭を撫でられる。
からかいの笑顔を浮かべ、わしゃわしゃと。
グレイはその心地よさにぽけーっとしてしまい、
「さ、どうぞ」
「お邪魔しまーす」
「あっ……」
結局、ネアが家に侵入してくるのを止められなかった。
「くそ! なんなんだよ、もう!」
腹いせに蹴飛ばした靴がドアに当たってる跳ね返り、グレイの顔面に命中した。
最悪だ。