命の交換
「何てことをしたんだ‼︎ お前はっ……自分がやったことを分かっているのかっ‼︎」
激昂して発する怒鳴り声が、曇天の空を突き抜けて落ちる雷鳴のようで、幼い頃はそれが心底恐かった。
けれどオリエは今、その怒りを甘んじて受け留めている。
それはもう、心の内に宿る強い意志によってと言わざるを得ない、揺るがないものだった。
オリエの父サンダンは、いつかこんな日が来るのではと感じていた。
声や言葉を荒げてはいるが、実はこうなるのではという予感もあった。
けれど、それが現実のものとなると、やはり冷静ではいられないのだ。
「お父さま、勝手なことをしてごめんなさい。でも、私は後悔していない」
「お前は後悔ないかもしれないがな‼︎ 残される私ら家族はどうすればいいのだっ‼︎」
「そうよ、オリエンティン! あなたの浅はかな考えで、こんな大それたことをしでかしてしまって……あああ、私たちはどうしたら良いの」
「お父さま、お母さま……」
目にみるみる涙が溜まっていった。
頬を伝って、床へと一直線に落ちていく。
父や母の涙がその涙と同じような軌跡をたどって落ちていくのを見て、オリエの胸は押しつぶされそうになった。
これまで愛情深く育ててくれた、両親のその想いを考えた時、オリエの行為は結果的にそれを裏切るものとなってしまった。
けれど、その想いと同様に、オリエの中にもまた強く揺るがない愛情がある。
それは、長い間一緒に過ごしてきた幼馴染に、一途に、そして直向きに向けられているものだ。
しかもそれは、親への愛情とはかけ離れた想いだった。
自分の命より。
ライアと、セナの命を。
「……ごめんなさい、ごめんなさい」
オリエの中からはその言葉しか出てこなかった。
言葉は、親子の間を虚しく漂うのみだった。
✳︎✳︎✳︎
「お前、バカかっ‼︎ なぜ気付かなかった‼︎」
セナの激昂が周りの空気をも嵐のように狂わす。
今にも殴りかかりそうなセナを阻止しようと、後ろからカナタが羽交い締めにしてもみ合っている。
いつもなら、血の気の多いライアを押さえつける役なのにと、そうカナタは苦く思いながら、腕に力を入れ直した。
「セナ、ちょっと落ち着け‼︎ 今さら、どうこう言っても、何ともならんぞっ‼︎」
当のライアは、魂が抜けたような顔をして、役所のベンチに背中を丸めて腰掛けている。
「離せっ」
セナがカナタの腕を払いのける。
そしてその一瞬で、セナはライアの胸ぐらを掴んで、捻り上げた。
ライアは力なく、だらりと立った。
「お前が食べなければ、オリエがこんな目に遭うこともなかったのに‼︎」
「………すまない」
「謝って済むことか‼︎ このバカヤロウっ‼︎」
セナが振り上げた拳が、ライアの右ほほに鈍い音をさせて当たった。
その拍子に二人ともがもつれ合って、その場に倒れた。
セナがライアに馬乗りになり、さらに腕を振り上げる。
それを再度、カナタが止めに入った。
「おい、やめろっ‼︎ お前ら、こんなことをしてる場合じゃないだろう」
セナが狂ったように身体を暴れさせる。
必死で掴んだライアの胸ぐらを握り込んだ両手は、そのうちに小刻みに震えてくる。
「じゃあ、どうしたらいいって言うんだ‼︎ 何をしたら、オリエは助かるんだっ‼︎ 教えてくれ、教えてくれ……」
死がやってくる。
自分にではなく、オリエに。
そう思うだけで、気が狂いそうになる。
セナはライアの頬をもう一度、力を込めて殴りつけると、ハアハアと荒い息を繰り返してからライアから離れ、ふらふらと出ていった。
ライアをどれだけ責めて殴ったとしても、オリエの命は取り戻せない。
セナは空を仰いだ。
「どうしたらいい、どうしたら、」
知らず知らずに流れた涙が、首を伝って服の中へと流れ込んでもまだ、正気には戻らない。
セナは長い間、その場で立ち尽くしていた。
「僕の命と、交換してくれ」
呟いていた。
「……僕の命と、」
涙をぐいっと右腕の袖で拭う。
「交換、……してくれ」
そして、ふらふらと彷徨うようにして、その場を離れていった。
✳︎✳︎✳︎
(地に足は着いているのか、俺は生きているのか、)
ぼんやりとした頭でライアは考えていた。
これでもう寿命を全うするまでは生きられる、鈴樹の実を勝ち取って口にした者は、そう思うのだろうに。
今までどれだけ欲したものだろうか、喉から手が出るほど欲しいと願った生なのに、その生が今はライアを苛んで責め立てている。
(どうして、俺は生きるんだ。オリエがいない世界で、どうやって生きていこうっていうんだ)
頬に痛みがある。
セナの怒りがそこにあって、ライアはその怒りを思い出すようにして、そっと手でなぞった。
(あんなに狂ったセナを見るのは、初めてだ……当たり前か、俺はそれだけのことをしでかしてしまったんだ)
洗面所へ入り鏡を見ると、唇が赤黒く膨れ上がっている自分が映った。
その姿を見て居たたまれなくなり、顔を更に歪めてからライアは顔を洗った。
洗面台の中で水飛沫が跳ね上がり、その艶やかな黒髪をも濡らす。
「ライアの髪は、ユンジュのようね」
幼い頃、丘で初めてオリエに会った時、そう言われて頭にきたことを思い出した。
ライアは、誰もが羨ましがる薄茶色の巻き髪を揺らすオリエが、自分の髪を海藻に例えたのが気に入らなかった。
「何だと、お前、俺をバカにしてんのか!」
怒鳴られて、けれどオリエは気にせずに続けた。
「そうじゃなくて、ユンジュって最初は緑色なのに茹でると黒くなるじゃない。その色に似てるなって思って」
火を通したユンジュはその深い黒色が美しく、海の黒曜石と言われている。
「綺麗ね、とっても。本当に、宝石みたい」
花のように笑った顔。
生涯、忘れないと思った。
すでに両親も亡くし、どれだけリンドルを奏でる練習に励んでも、誰にも褒められずに寂しい思いを抱えていたライアの心に、その言葉は染み入ってくるようだった。
オリエはそれからも何かにつけて、自分を褒めてくれた。
オリエはセナに対してもそうであって、初めのうちはセナが褒められると、ヤキモチを焼いて自分ももっと褒められるようにと、セナに対抗心を燃やしたりしていた。
けれど、セナがオリエの評価に値する立派な男だと分かると、次第にオリエを守る同志として受け入れるようになった。
「ライア、セナ‼︎ パンナをもらったのっ。これ、二人で分けてっ」
手を振って、息を切らせて丘を走ってきたオリエの紅潮した顔。
「オリエは?」
「クリーム入りだよ。珍しいでしょ。私はもう食べたから、二人で食べて」
オリエが二つに割って、笑顔で差し出してくる。
(それが嘘だと分かる、そんな俺たちだったのに。オリエという人間を、分かっているつもりだったのに)
ライアは思い出を辿りながら、もう一度顔に水を叩きつけるようにして洗い、流しっぱなしだった水道の蛇口をひねって、水を止めた。
切れた唇にしみて、その痛みが現実へと引き戻す。
滲む血をタオルで拭う。
(オリエが死ぬのなら、俺も死のう)
今までに思いもしなかった考えが頭を占める。
ダウナ人の自分やセナの死は身近だったが、ランタン人のオリエが死ぬなんてことは、これっぽっちも思わずにきたからだ。
小指の先ほども。
(もし俺たちが死んだら、セナはどうするのだろう)
「……本当に、すまない」
呟くが、全てが虚しい。
オリエが自分の分の鈴果をパンナに混ぜ込んで自分に食べさせたことを、腹立たしく思ってみたりした。
それを何の疑問をも持たずに口にしてしまった自分の愚かさも同様に。
けれど、そんな風に腹を立てていると思い込みたいだけで、実はもうそんなことはどうでも良くなっていることにも気づいてしまっている。
ライアは持っていたタオルを鏡に向かって投げつけると、洗面台に両手をついて突っ伏した。
「う、うう、」
嗚咽がこみ上げてくる。
それを抑えつけるようにして、ライアは手で口を塞いだ。
(俺はもう、オリエから離れて生きることはできない。オリエを失ったら、俺も生きてはいられないんだ)
そう心に決める。
いや、決めるのではない。
その考えは元々胸の内にあり、その考えに至ったのが自然の流れだったとでもいうように、しっくりとくる。
運命だ。
けれど、いつまで経っても嗚咽は収まらず、そして涙は洗面台へと落ち続けた。