命の期限
この世界は不平等で成り立っている。
誰一人として、平等だと思う人はいない。
それが生と死という、この世界では禁忌の存在であっても。
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「死ぬとかそんな話、二度と聞きたくない」
オリエンティンは小高い丘に立ち、眼下に広がる広大な領地を見下ろしながら呟いた。
点々とある家は、木材や瓦で作られた質素な平屋ばかりだ。
その生い茂る緑の中に、彼女の家も埋もれるようにして建っている。
比較的、木や緑の植物が多いランタンの街では今、毎年恒例の樹木祭が開催されていて、今日はその祭りの最終日であった。
祭りの最終日というと普通、徐々に盛り上がりを見せて賑やかなものであるが、この樹木祭だけはその奇異な理由から、街は一種異様な空気に包まれる。
「平和なのは見せかけだけ。この丘からでは、分からないのよ」
オリエンティンは、小さく失笑した。
昨日から続く、少し強い風は彼女の耳元で不協和音を奏でながら、彼女の薄茶の長い髪に指を梳き入れるようにしてそのまま去っていく。
しばらくの間、風に良いように遊ばせておいてから、彼女は思いついたようにして、丘から街へと続く道へと足を向かわせようとした。
その時、背後から、
「オリエ、ちょっと待ってよ! ねえ、お願い、そんなに怒らないで」
少し高めだが優しさを含む声。
そして、もう一つ。
「頼む、オリエ、もう勘弁してくれ」
地を這うように太く、腹に響くような低い声。
その二つの声はどちらも、男が女に必死になって許しを請うような、そんな一種の情けなさを含んでいる。
オリエンティンは、その声の方へと顔を向けるどころか地面を睨みつけると、そんな二人の声を耳にも入れないという頑な素振りを見せて、歩みを進めた。
風に遊ばれていた先ほどの表情と違って、その桜色の唇は真一文字にぎゅっと引き結ばれた。
「…………」
言葉を発してしまうと、途端に涙が込み上げてきそうで、彼女は掛けられた声を振り払うようにして歩みを続けた。
街へと降りていく小道を小走りでぐんぐんと降りていく。
坂道で勢いがついて足がもつれそうになったところで、オリエの腕はぐいっと掴まれて引き戻された。
彼女よりはるかに背の高い男、ライアが苦虫を噛み潰したような顔で、腕を握っている。
息を整えようと、はあはあと荒い呼吸を繰り返しながら、それでもオリエの腕を離さなかった。
彼の黒い前髪は、汗でべっとりと額に張りついている。
ようやく息が整ってくると、腕を掴んでいた手を離して、彼はその手で前髪を掻き上げた。
「オリエ、もう勘弁してくれ。俺たちが悪かった。謝るから、な」
そして、ふうふうと同じように息を吐きながら、もう一人の男、セナが追いついてきた。
セナは、栗色の癖っ毛があちこちに跳ね上がるのをそのままにして首筋から汗を流し、立ち止まってから両膝の上に両手をついて、今にも吐き戻しそうな体勢で、背中で大きく息を重ねていた。
「ごめん、はあっ、はあっ、許してオリエ、ほんとごめん、はあっ」
何とか言葉を出して謝罪すると、ライアとセナはオリエの返事を待った。
オリエンティンとライアとセナの三人は、幼馴染だった。
家は決して近いとは言えないが、三人の家からは同じ距離である先ほどの丘の上で、小さい頃いつも待ち合わせをして遊んだりしていた。
男二人と女一人の珍しい組み合わせだったが、一緒になって遊ぶ時にはウマが合い、イタズラを仕掛ける時にはぴたりと息が合う、仲の良い三人だ。
けれど決定的に違うのが、オリエンティンはランタンの街出身、そしてライアとセナは、この丘から望むことができるもう一つの街、ダウナの出身であることだ。
オリエが丘から見下ろしていたのは、彼女の家があるランタンの街並み。
広大な領地なので、民家は点々としているように見えるが、街の人口は多く、その街を束ねているのがオリエの父、フューズと呼ばれる最高位の役職につくサンダンだった。
そして一方、ライアとセナの出身地でもある、ダウナの街。
ランタンとは対照的に二十歳以上の成人が一人として存在しない街。
「……死ぬなんて言葉、二度と口にしないで」
オリエは怒りを抑えた声で言ってはみたものの、その言葉にある種の虚しさを含んでしまっていることを、自分でもどうすることもできなかった。
オリエはしばしば『運命』の意味を考えてみた。
『死』が人の運命に組み込まれているのは、万物の理だ。
自分だっていつかは死ぬのだ、巡り考えては、いつもそこに辿り着く。
人はいつかは死ぬ。
自分を含んだ誰も彼もが、『いつかは』死ぬ。
けれど。
オリエは許しを乞う情けない顔で追い掛けてきた、二人の男の顔を見た。
ライアは真っ直ぐで男らしく誠実な性格が、美人で評判だった母親譲りの顔に表れ、もう一方のセナは見かけは優男だが、ともするとライアより男気のある潔さを持ち、そんな性質が両の瞳に力となって宿されている。
二人とも、赤ん坊の彼らを抱き上げて写る両親の写真を見るからには、親譲りの顔や性格なのであるのだろう。
けれど成長した彼らを見ることもなく、彼らを産み落として直ぐに、父親も母親も二十歳になる前で死んだので、それが本当に当たっているのかどうかは確認のしようがない。
そう、ダウナ人は、二十年という生を全うできないのだ。
そして、この二人の男も例外ではない。
「けれど、俺たちもう十八だ。現実を見なきゃいけないだろう」
ライアが遠慮がちに言う。
「ライア、もうその話題は止そう。せっかく久しぶりに三人揃ったんだからさ、こんな風につまらない時間を過ごすのはもったいない。オリエだって、楽しく過ごす方が良いだろう」
そう言葉を続けたセナの表情も、どこか陰っている。
「そういうことじゃないの。そんなことが言いたいんじゃないっ」
オリエは握っていた両の手に力を込めた。
「私が言いたいのは、本当にこのままで良いのかってことなの。このまま死を待つだけなんて……何とかしなきゃいけない、何か方法を見つけようって、」
「けど、どうしようもねえだろっ」
ライアがオリエの言葉を遮るようにして、強く言葉を投げた。
「俺たちはあと二年で死ぬ運命なんだ。それはどうしようもできないだろ。だからこそ、今こうやってお前に……」
「そんな遺言みたいな願い、聞けるわけないでしょっ‼︎」
抑えていた涙が、どっと溢れて出た。
オリエは右手の甲を、目頭にぐいぐいと押しつけた。
「選べないの、選ぶことなんてできないっ! 選ぶ必要なんてないぃ」
うわあっと大声をあげて泣き始めたオリエを前に、ライアとセナはバツの悪そうな顔をして、その場に突っ立った。
二人は視線を合わせた。
それは、これだけは言わなければと、とうの昔から心に決めていた二人の、固い意志が垣間見えるものだった。
「無理に俺ら二人から選ばなくていいんだよ。オリエが他に好きな人がいるなら、それはそれでソイツとくっついてくれりゃあ良い……」
「そんな人、居ないっ!」
「オリエ、そんな風に泣かないで」
セナが低くも高くもない落ち着いた声で、言い聞かせるようにして宥めすかす。
「オリエ、よく聞いて欲しい。これはライアと僕、二人で長い間話し合って決めたことだ。でもね、君に押しつける気はないんだよ。それに、この意見についてはオリエも含めて一緒に話し合いたい。もっと良い方法があるかも知れないだろ。冷静になって考えてみて、君の意見を聞かせて欲しいんだ」
「おい、セナっ」
ライアが痺れを切らしたように、切羽詰まった声で入る。
「他に方法なんてないだろう!」
「ライア、お前もちょっと冷静になれ。お前だって、リンドルとハーグ、どちらかを選んでどちらかを捨てろと言われて直ぐに選べるのか?」
ライアが身体を硬直させた。
リンドルはこの地方に広く伝わる固有の弦楽器で、十本の弦を張った木製の楽器である。
ライアは幼い頃からこのリンドルをこよなく愛し、研鑽を重ねてきた。
そして、ハーグ。
これは、ダウナ特有の楽器で、これも弦楽器の一種であるが、この楽器に詳しい継承者はダウナには居らず、ライアはリンドルの弦を両の指で弾いて奏でる演奏方法からヒントを得て、独自の演奏法を編み出していた。
これは、ダウナの街にそういった文化や芸術を後世へと繋いでいく、いわゆるダウナ独自の熟練者が二十年の寿命に阻まれて誰一人いないということもある。
ダウナ出身のライアやセナは、習い事一つにしてもランタンまで通わねばならなかったし、そういった意味では苦労の連続であった。
大人が一人として存在しないという現実。
子供が何一つ教えられることなしに、自分の身一つで生きねばならない環境。
それが、あまりにも過酷な環境であることは、想像に難くないのだ。
ダウナの街の中心に建つ小さな役所には、そういった生活の知恵などを書き記した『ダウナ歳時記』という書物が遺されている。
これはダウナの歴史や偉人のストーリーから、かまどの使い方や薪割りの方法、食物の育て方などの膨大な資料であり、それは未だに受け継がれていて、その量を少しずつ増やしている。
ライアはそこへ、ハーグの演奏方法を独自のものであると前置きしてだが、書き記したこともあった。
「そりゃあ、直ぐには……」
「だろう。それと一緒だよ。オリエにも少し考える時間をやってくれ。僕たちだって、話し合いにかなりの時間を掛けたはずだ」
「…………」
これで少しは余裕が出来るだろう、そうセナが算段をつけると、オリエに顔を向けて再度、念を押すようにして言い繋いだ。
「そういうわけだから。ライアと僕、どちらかと結婚するのか、それともしないのか。もし結婚できるなら、オリエの父上にも、相談しなくちゃならない。まあ、反対されるのは目に見えているけどね」
苦く笑いながら、セナは続けた。
「オリエ自身が決めて良いんだよ。こんなこと、誰にも強制できないし、させたくない。けれど、分かっているのは、僕たちはもう十八で、あと二年足らずでこの世から消えるということだ。子孫を残すも残さないも、僕たちにとってはどうでもいい。そんなことより後に遺していくオリエには、絶対に幸せになって欲しいんだ。だからこそ、二人から無理に選ばなくて良い。ランタンの男と結婚しても構わない。これは、僕たち二人の共通の想いだ」
オリエにはもう言い返す気力も無かった。
二人にそのぐらつきようもない意思を明かされてからは、泣き過ぎてもう涙も枯れ果ててしまうのではと思うほど、泣き通していた。
幼馴染との別れが近づいている。
それはもちろん、自分の父サンダンの口から聞かされていたことでもあり、三人で震えながら『ダウナ歳時記』を読んで知らされた真実であり、それが自分たち三人の上へと覆い被さってきて逃れることができない『運命』であることも知っていた。
けれど、頭で理解していても心はそうはいかない。
分かっていても、どこか遠くの国の出来事のように思っていて、早く言えばその事実から逃げてきたのだ。
オリエは、呆然となりながらも、二人へと手を伸ばした。
握り返してくれる手は、オリエの手よりはるかに大きく強い。
幼い頃はこうやって手を繋いで、野原を駆け回っていた。
その光景を思い出すと、新たな涙が零れ落ちそうになり、オリエは空を見上げて瞬きを二度、重ねた。