始まり(前編)
その脅威の出現は恐ろしいほど突然で、第一発見者はある家庭の男性だった。
八月も下旬に差し掛かる頃、盆明け後の週末で男性は出かけようとしていた。朝方ではあるが相変わらず暑く、首筋に汗をかきながら車に乗り込んだ。
温度が上がりつつあった車内でエンジンを掛け、すぐにクーラーを全快にする。そして男性はハンドルを握って発進した。
男性の家は山の麓に存在する。周辺には住宅がいくつも存在し、規模的に言えば村と表現すべきものであった。住宅地を離れると田園が広がっており、そこから少し進めば道幅広めである片側一車線の道路に出る。車で三十分も走れば町中に辿り着き、今日はそこにあるショッピングモールに向かう予定だった。
今日の用事は色々と物入りであったため買い出し。彼には妻と二人の息子がいるのだが、今日は別の用事で家にはおらず、男性一人。ラジオを掛け天気や交通情報を耳にしながらやがて幅が広い道路に入り、目的地へと車は走る。交通量はあまりなく、車と時折すれ違う程度。その中でトラックと出くわすと男性は休みの日にご苦労、などと胸中で呟いたりもした。
このまま何事もなく目的地に辿り着き、休日を穏やかに過ごすはずだった。昼食はフードコートでとることになるだろうが、今日は何を食べようか――そんなことを考えていた男性は、ふと前方に障害物を発見した。
「あ……」
それはどうやら動物の死骸――周囲に山が存在するこの道路では時折動物が姿を現す。それは小型の動物から鹿のような大型の動物まで。男性は住んでいて熊は見たことはないのだが、猪なんかは目にしたことがあった。
夜、動物は道路に出てトラックなどに轢かれそのまま放置されているというケースをよく目にする。いつもなら役所が処理するのだが、今日は休みであるため対応するのだろうか――そんなことを考える間に接近し、反対車線に逃れて通り過ぎようとした時、男性はその障害物に対し瞠目し、反射的にブレーキを踏んだ。
なぜ止まったか――トラックなどに轢かれれば動物はぐったりと倒れているだけだ。血が道路に出ているが、男性にとっては幾度となく見ているものであり、直視することはほとんどないが、それでもいつものことかと流せる程度には慣れている。
だが今日のは違った。近づいた段階でわかった、動物の死骸は鹿のようであったのだが――首から上が、食いちぎられたように喪失していた。
「……何だ、これ?」
鹿をこんな風に食う動物がいただろうか。男性は疑問に思いつつ、車を発進させようとした。だがその時、死骸の向こう側に動くものを見つけた。
道路の外は森が広がっているのだが――そこから出てきたのは、四本足の――動物、と形容しがたい何かだった。
「は……?」
漆黒の体毛を持つ、狼のような四本足の存在。動物ではない、と男性が直感的に思った原因は、獅子を超えるほどの体格と、全てを射抜くような赤い瞳を持っていたためだ。いまだかつて見たことがない存在に、男性はファンタジー映画に出てくる魔物のようだ、と思った。
その考えはまさしく正解だった――いよいよ現れ始めたその脅威を、世界の国々は魔物と呼称するようになるのだから。
魔物は突如吠えた。遠吠えにも似た何かに対し、男性はヤバイと直感的に考えた。
戻るか進むか――男性はここで進むことを選択した。進行方向に魔物はいるが、それでも車で一気に通り抜ければいいだろうという判断だった。
男性はアクセルを一気に踏み、死骸を避けながら魔物を通り過ぎようとした。だがその時、魔物が動いた。車に反応したのか、それとも中の男性に反応したのかはわからない。確実に言えることは――魔物は男性の車を標的にしたことだけだ。
男性の車に重い衝撃が生じた。ハンドルをとられ、悲鳴を上げながら男性は横を見た。
そちらに魔物がいた。どうやら車に対し体当たりを仕掛けた。車は無理矢理方向を変えられて男性も反射的にブレーキを踏んだ。そして魔物と目が合い――男性は、心の底から恐怖した。
「ひっ……!」
再びアクセルを踏む。魔物から離れようとした時、今度は車の後ろから重い音。恐怖を抱きながら男性がバックミラーを見た時、魔物が車にしがみついているのがわかった。
男性は本能的な恐怖を覚えながらアクセルを踏んだ。どうにか振り払って逃げるしかない。そう判断し祈るような気持ちで車を走らせた。だが魔物はそれでも離れない。ハンドルを右へ左へ操作し魔物は男性を食うつもりなのか――車の屋根に登ろうとした。
だが、その時幸運にも車から魔物を振り払うことに成功した。見ればリアガラスにヒビが入っている。男性は自分の呼吸が荒くなっていることを自覚しながら、アクセルを踏み込み魔物から逃げていく。
そして視界から魔物が見えなくなった時――トラックが男性の車とすれ違うように、魔物のいる方へと向かっていった。




