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focus on  作者: 篠崎春菜
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055 寄り添って feat.和美

 どうしても忘れられない気持ちがふとした瞬間に思い出されます。忘れたくても忘れられない、辛く、冷たく、刺さった想いが私の頭を支配します。どうしようもなく、涙が出ます。止めてください。優しくハンカチを差し出してください。隣にいて、それだけでいいから。

 穏やかに生きている人。普通の会社に勤めて、普通の人付き合いをして、波風立てず朗らかに。自分の心が穏やかであれば周囲も穏やかである。それを体現するような人だった。彼女の周りはいつも優しく、温かく、平和だ。彼女はそれが当然のように過ごすけれど、俺はそれが当然でないことを知っている。だって、そんなふうに穏やかに生きている人を俺は他に知らないからだ。


「どうしたの?」


 そう、俺に声をかけながらコーヒーを差し出すこの人は、和美さんという。三年前、新社会人だった俺の教育係だった人だ。


「いえ、なんでもないです。ありがとうございます」


 花のように淑やかな笑顔を向けられて、こちらも頬を緩める。社内でこんなに締まりのない顔をして変な噂でも立たないかと心配することすらないくらい、この人の前では皆こんな顔をしているのだ。

 彼女は母のようであり、姉のようであった。どんな人かと聞かれたとき、誰もがそういった年上の完成された女性を挙げた。理想の母、理想の姉。傍にこんな女性がいればどんなに心強いかと思う、そういった類の女性だ。彼女は、恋をするには惜しいほど、ずっと同じ距離で居たくなる女性だった。いずれ結婚し、良き妻、良き母になるのが想像に難くないこの人を貰い受けるのはどんな男だろうかと想像すれば、その相手も同じく穏やかで、温かい人物だ。俺や、俺の知っている誰かの中には彼女に見合う人は一人もいない。


「今日は少し冷えるね」

「そうですね、もう十月ですし」

「そうねえ……風邪ひかないように気を付けましょうね」


 「はい」と自然に出てくる笑顔。それを作り出しているのはこの人であって、俺じゃない。それがあまりにも心地よくて、だから皆彼女を好きになる。特別美人というわけではないけれど、特別優しく穏やかな人だ。この人に憧れない人なんてきっと居ないし、この人を嫌う人は絶対居ない。和美さんの前では、怒りも、嫉妬心も、そういう汚い感情は湧きあがらないように思う。感情が高ぶってカッとなっても、その穏やかな声一つで宥められてしまうのだ。


「今日も一日頑張ろう」


 そう言って、俺の向かいのデスクに彼女が座る。こんな普通の会社に入って、当然競争もある中で、どうしてこんなに穏やかで居られるのだろう。この人は、いつからこんなにも完成されているのだろう。彼女の左手の薬指にはまるシンプルな指輪は、きっとそれを知る人がプレゼントしたのだろうな、などと考えながら、俺はもらったコーヒーを飲み干してパソコンに向かった。




 なんでもない日の午後だった。外回りの最中に、俺は彼女を見つけた。街の小さなカフェのテラス席で、和美さんが誰かと談笑している。その相手が男性だということは見ればすぐわかった。この日和美さんは有給を取っていて、「明日はどこか行かれるんですか?」と何気なく聞いた俺に彼女ははにかんで答えていた。


『記念日なの』


 彼女は結婚していないから、それは恋人との記念日だということは検討がついた。三年前に三年目になる彼が居ると言っていたから、その彼とずっと一緒なんだったら六年目になるのだろう。どんな人か、急に好奇心が沸いて、俺は悪いと思いつつも通らなくてもいいその傍の道を通る。

 チラリと見えたその人は、とても穏やかそうな人だった。和美さんの表情もいつもより一層穏やかで、ああ、と思う。素敵だ、と思う。なんてことのないカップルだ。こんなふうに言うと失礼極まりないが、美男美女というわけではない、どこにでもいそうな、そんな二人。でも、それこそ〝普通〟の俺にはわかる。


(この人も、特別穏やかな人だ)


 そこにあるのは優しい空気だけだった。きっと、誰もが憧れる二人の姿がそこにある。




「おはようございます。昨日は楽しめましたか?」


 次の日、コーヒーを差し出しながら俺は出社してきた和美さんに声をかけた。


「おはよう。うん、凄く楽しかったわ」


 恥ずかし気もなく、いやらしく惚気るでもなく、自然とそう言う彼女があまりにも眩しくて、俺は昨日見ていたことを少し負い目に感じる。


「……実は、昨日外回りに行ったときに見かけたんです」

「そうだったの? 声かけてくれればよかったのに」

「悪いですよ」


 くすくすと幸せそうに笑う彼女は、この世の幸せ全てを掴んでいるように見えた。どうしてそんなに穏やかなのか。きっと皆が欲しくて、でも中々手に入れられないものを彼女は持っている。


「結婚がね、決まったの」

「え、おめでとうございます」

「ありがとう」


 本当に幸せなのだと思う。いつも幸せそうなこの人が、もっと幸せそうに笑う理由は、昨日見たあの人なのだ。

 俺は、どこまでも穏やかに生きる彼女を特別視して、素敵だと思いながら、羨んでいることに気付いた。その穏やかさが、彼女がそれを持って手にした幸せが、俺の元にも来てほしい。そんなふうに思っていることに気が付いた。そしてそれが恥ずかしくなる。ないものねだりだ。そうなる努力なんてしてもいないのに。けれど、どうすればいいのか考えたって、わからないのだ。俺はあまりにも〝普通〟だから。


「……和美さんは、どうしてそんなに完璧なんですか?」

「え?」

「俺には、あなたが特別に見える。優しくて、温かくて、穏やかで、幸せになれないはずがない人だって、皆思ってます」


 「どうすれば、そんなふうに生きられるんですか?」とその問いに彼女はきょとんとして、またくすくす笑って見せた。


「六年前の私も、そう思ってたよ」

「え?」

「今の彼にね。どうしてこんなに優しく、温かく、穏やかで、素敵なんだろう、って」


 「私がね、アタックしたの」。そんな大胆なことを言って、和美さんは笑う。「あんまりにも素敵だから」と言って。


「きみが私のことをそう見えると言ってくれるのは、全て彼のおかげなの。私は全然、そんなんじゃない。嫌な気持ちをたくさん知ってるわ。怒ったり、悲しんだり、嫉妬したり、羨んだり。人間関係でたくさん失敗もした。人を傷つけたこともある。彼のことも――大事にできなかったことが、数えきれないくらいあるの」


 懐かしむように、けれど今もそうであるかのように、彼女が話す。どこまでも穏やかな声で。それを聞いていると、彼女の夫になる人はきっとこんな穏やかな話し方をするのだろうと思う。


「でも、人って変われるのよ」


 その時の笑顔が悪戯っ子のようで、俺はつい、笑った。

 この人も普通の人で、穏やかな今を〝当然のもの〟なんて思っていないのだと、この時俺は初めて知った。そしてその当然じゃないものを、大切に大切に、特別であることを忘れないように、生きているのだと。きっと変わるって、簡単なことじゃない。何度も昔に戻りそうになりながら、それでもそうなりたいと、思い続けていかなければならないのだ。


 だから彼女は過去を捨てないで、覚えている。


 悲しい話じゃないのに、涙が出た。感動と、俺もそうなれるだろうかという不安とで。彼女は驚いたように目を見開いてから、苦笑して俺の頬にハンカチを充てる。


「――このハンカチ、いつも持ってますよね」

「バレちゃった?」


 「私の特別なの」少女のような笑顔で彼女が言った。

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