第5話 can't get
流れ始めた。
その街に流れ始めた。
啼き声が、その街に流れ始めた。
小鳥の啼き声が、その街に流れ始めた。
朝。
夢から、醒める。
人は、夢を見る生き物である。
それは、仕方がないとして。
悪夢だ。
実に悪夢だ。
そう心の中で叫ぶ零時治は、ばちくりと目を開けていた。
ここは、治の部屋。ハルスは、ベッドで寝ていた。それに対し、自分は部屋の隅の床の上に追いやられていた。固い。床が固い。固くて、治には耐えられなかったが、ハルスの暴力を考えると、それは仕方のないことであった。治は立ち上がり、ベッドを見る。ハルスはまだ寝ていた。その寝顔は、遠くから見ても、結構かわいらしかった。ハルスはかわいいんだな。治の足が、ふらついた。
いけない。治ははっと我に返る。そうだった、今日は、ハルスに学校へ連れて行く・・・。ハルスと一緒に登校・・・。そう考えるだけで憂鬱になる。治ははあっとため息をついて下を向いていた。
「あっ!」
治の顔が急に輝く。そうだ、逆に言えば、ハルスは学校への道が分からない。治は急いでたんすから服を出し、着替える。さっさと、さっさと、さっさと。
治は机の上の黒いランドセルをぶん取り、背中に負って静かにドアを閉めると、そそくさと下へ落ちるように降り、居間へ駆け込む。居間では、母が料理をしていた。
「パンは?」
治がそう尋ねると、母は首を横にふる。
「突然、どうしたの?」
母に尋ねられるが、治は返事もせず、冷蔵庫の中を物色してりんごを一個取り出すと、走って居間から出る。
「あ、ちょっと待って!」
母が治を呼び止めるが、その頃には家のドアが閉まっていた。
「はぁ…」
治は、いつもの通学路をぶらりと歩いていた。自然と笑みがあふれるようであった。そして、治はついにたまらず、一笑した。
「はは…はは…はははっ!はっはっは、ははははは!!」
「こら!!」
いきなり怒鳴り声が聞こえる。昨日聞いたばかりの声。治は笑いから一転、顔を真っ青にする。そこにいたのは、犬を連れてきたマナーじいさんであった。
「あ…マナーじいさん、おはようございます」
治は慎重に発声する。
「朝早くから笑うな!周囲に迷惑ではなかろうか!!」
案の定、叱られた。しかし、そんな時でもこっちには秘密兵器があるのである。
「西郷隆盛の真似ですか?」
案の定、マナーじいさんは顔を崩し、いい気してそこを立ち去った。治はほっとし、改めて足を進める。
「ふぁあああ…」
ハルスはベッドから上半身を起こし、両手を上へ伸ばす。ピンク色の髪をしわくちゃに、背中まで伸ばして。
「治」
ハルスはベッドから立ち上がると、治の名を呼ぶ。
「……ん?」
ハルスは、治の寝ているはずのその部屋の隅に、治がいないのに気付いた。
「治?」
見てみると、机の上に、治のランドセルがない。
「先に行ったわね…、まあいいわ、お仕置きだから、例のおばさまと同じように」
ハルスはそうつぶやき、ベッドの下に置いてあった、というか落ちてあった着替えを拾う。
ハルスが昨日着ていた服は、母が洗濯してくれた。今日はハルス、母のお下がりの服を着るのである。
治は、通学路を歩いていた。
「あ、零時君。」
T字路の向かいから、一人の少女が歩いてくる。
「あっ、羽生、おはよう」
治はそう言い、左に曲がる。
「ちょっと!人は呼び捨てにしちゃいけないんでしょ!」
羽生はそう怒鳴り、治を追って治の横へ回る。
「だいだいあなたは、昔からそういう性格で、」
「はいはい、わかったから顔を近付けるなよ」
吐息のかかる距離で、羽生は、治の顔に迫っていた。
「いいえ!いつものことだから、怒っているの。」
「だからといって、怒りすぎじゃないか」
「違う!」
羽生は、治の行く先に回る。
「どけよ」
「嫌。」
羽生はそう言い、治のほっぺたをぱちこんと叩く。
「痛、何すんだよ」
「あなたがきちんとしないから、イライラしているの。」
「はいはい、羽生の几帳面さにはうんざりだよ」
治はそう言い、羽生の右へ回る。しかし羽生は右へ動き、治の前を阻む。
「何やってるんだよ」
後ろから声がしたので、治は振り向く。
「あっ、前田、おはよう」
後ろから声をかけたのは、前田であった。前田は、治の所へ歩み寄る。
「羽生」
前田は威勢のある声で一喝する。
「何よ。」
羽生はむっとした顔で応対する。
「お前は、些細なことで怒りすぎだ」
「な…何ですって!もう一度言って御覧なさい。」
「お前は、些細なことで怒りすぎだ」
「あ?」
羽生は、前田に顔を押し出す。前田は後退りをするが、羽生はさらに前田を、気迫で押す。
「羽生!」
治が怒鳴るが、羽生の眼中に治はいなかった。
「おはよう、おばさま」
ハルスは居間に入り、居間の中央のテーブルの床に正座している母に言う。
「おはよう、ハルちゃん、あのね」
テーブルの上には、朝ご飯が並んでいる。しかしそれはなぜか二人分のみであり、少しも食べられた跡はない。ハルスは不審に思い、母の向かいに正座すると、尋ねる。
「治の朝ご飯は?」
「帰ってから食べるって」
「そう…」
ハルスがそう答えると、母は続ける。
「ハルちゃん、あのね、わたしのこと、お母さんと呼んでもいいのよ」
「えっ?」
「だって、おばさまと呼ぶと、秋●様の事をさしているみたいでしょ?」
「ああ…そうですね。お母様と、」
「さんでいいのよ」
「はい、お母さん」
ハルスがそう答えると、母は両手を合わせる。
「いただきます」
「ねえ、お母さん」
母の仕草を不思議に思ったハルスが、母に尋ねる。
「いただきますって、何ですか」
「あら、まあ」
母は、にっこりと笑む。
「いただきますはね、このお箸に、自分のつばや口の中の汚い物を付けさせていただきます、のいただきますなのよ」
その答えは根本的に違う。(食前食後の皆様、申し訳ありません)
「そうですか、なるほど、ありがとうございます」
ハルスはにっこりと笑み、両手を合わせる。
「いただきます」
ハルスは玄関で、靴を履こうとしていた。
「あらまあ、どうしたの」
いつになっても立ち上がらないハルスを後ろから見て、心配になった母が後ろから声をかける。
「靴のかかとが、入らないんです」
「あらまあ、そういう時は、孫の手を使うのよ」
「孫の手…ですか」
「でも」
母は残念そうな顔をする。
「ハルちゃんはまだ若いから、孫、いないんでしょ?今使えないのは残念ね」
その孫の手は違う。
「そうなんですか」
「でも、かかとに指を入れたら、入るわよ」
「はい、ええと…入った、ありがとうございます」
ハルスはそう言うと、立ち上がる。
「いってきます」
閉まるドアを見て、母は不審そうな顔をする。
ハルスは、家を出て、足を進めていた。
「今日から学校ね。まったく、初日から治をお仕置きなんで、ついてないわ」
ハルスはため息をつき、適当に、それっぽい道を歩き回る。
「そこのかわいい娘ちゃん」
いきなり後ろから声をかけられ、ハルスは振り向く。ちゃらちゃらしている男の人が立っていた。
「なあ、俺と一緒に映画でも見ないか?」
「あなたには、興味ありません」
ハルスがそう一蹴すると、男の人は泣き出す。
「うっ…うっ……、お、俺に従わない人は…、こうだ!!」
そう言うと、男は脇から、刃物を取り出してハルスに向ける。その手は震えていた。
「うっ…」
ハルスの顔は青ざめた。その刃物、全体が真っ赤になっていた。ぼたりと、赤い液が道の上に一滴、落ちる。
「うう…」
ハルスは脇へ手を伸ばす。ない。杖がない。しまった、忘れた。昨日の服の中に入れっぱなしだ。
ハルスは、向きを変え、一目散に逃げ出す。走る。走る。走る。走る。走る。そして、ちらりと後ろを見る。誰もいない。
「はぁ、はぁ…」
ためいきをつき、ハルスは辺りを見回す。高いビル。高いビルが、ずらりと並んでいる。なんか怖そうなおじさんがたくさん、ハルスの周りをひっきりなしに歩いていた。
「えっ……」
ここはどこ。ハルスは、不安に襲われた。
ここは、一体どこなの。
そんな…もしかして、わたし―――・・。
ハルスの顔は、青ざめる。