第3話 three years
強い突風が、治の体を紙切れのように壁に叩きつける。壁に強くぶつかった治の背中に激痛が走る。ハルスは、壁にもたれて座りこんで顔を真っ青にして自分を見ている治へ、一歩一歩歩み寄る。
「ああ…ち…近付くな!」
治は恐怖にかられていた。ハルスは冷酷にも治に杖を向け、冷たく言い放つ。
「嫌だったら、わたしの命令に従うことね」
「ひっ…はっ、はい!」
治は震えながらも立ち上がり、自分のハンカチで椅子の上をふく。
「こ…これでいいですか?」
治が機嫌を伺うかのようにハルスに尋ねるが、ハルスは冷たく怒鳴る。
「いいわけ、ないでしょう。隸のものは全て汚れているんだもの」
「じゃあ何でふけばいいんですか!」
「そうねぇ、……ん?そのいす、もしかしてあんたがずっと使っていたの?」
「は、はい」
「それじゃ、もうこのいすはだめね。新しいのに取りかえてもらわないと」
ハルスはそう言い、ドアの左にある本棚の前まで行く。
「でも俺、お金は…」
「お金ならわたしが持ってる。隸の鐚で買ったいすなんで汚れていて座れたもんじゃない」
「何だと!」
「あら、まだやられたいの」
ハルスが杖をちらつかせると、治は引き下がる。
「床にでも座りなさい」
「は、はい」
治は床にあぐらをかく。
「これでいいや」
本棚の本を眺めていたハルスは、本棚に杖を向ける。一冊の本がひとりでに本棚から出て、表紙を上にして浮遊する。ハルスはびょんとそれに座り、治を見下ろす。
「何?」
ハルスは不思議そうな顔をして、呆然とした顔で自分を見上げている治を見る。
「そ…それは、こっちのセリフです」
治がそう返すと、ハルスは注意する。
「まずご主人様から先にお伺いを立てるのが筋よ?そうでなくでも、隸はご主人様の命令なしではしゃべってはいけないの。こんな基本的なことも分かってないの?」
「は、はい」
「それじゃ、聞くけと」
ハルスは、後ろに広がる本を、横目で見る。
「見たことのないような文字ばっかりね」
「それは日本語といいまして」
「つまりこの野蛮な地で使っている言葉なの?」
ハルスが、野蛮な、と付け加えたので、治はむっとする。
「ここのどこが野蛮なんですか?」
「杖でご飯を食べる」
ハルスのその言葉と同時に、ハルスの腹がまだ鳴る。
「あ……」
ハルスは恥ずかしそうにそっぽを向く。
「そういえば、玉子焼き食べてなかったっけ」
治が思い出してそう言うと、ハルスは治に怒鳴る。
「杖なんか出すから!」
「だからあれは杖じゃありません!杖を転用しているわけでもありませんから!」
「それより、スプーンとかフォークとかないの?」
スプーンって、ちゃんと知っているんだ。ハルスに尋ねられ、治はうなずく。
「ありますよ」
「じゃ、何で最初から出さないの」
「俺達は普通、スプーンで玉子焼きを食べませんから」
「そう?やっぱり野蛮ね」
ハルスはそう言い、ちらと左を見る。ドアの右の本棚の側面に、紙が貼られていることに気付く。その紙は全体が青いが、所々に緑の所もある。
「あれ、何」
「世界地図」
治が答えると、ハルスは杖を軽く振る。ハルスの座っている本が、世界地図の前へ動く。治はそれを呆然と、横から眺めていた。魔法と分かっていても、驚くものには驚くのである。
ハルスはそれを正面からまじまじと見つめていたが、驚いた顔をして治に言う。
「これ、本当に世界地図?」
「はい」
治が即答すると、ハルスは困ったような顔をする。
「こんなの、わたしの知っている世界地図じゃない」
「え?」
日本語という名の、読めない文字ばかりだから違うと感じたのかなと治は思った。
「形が違う」
「えっ?」
治は立ち上がり、ハルスの横に立って世界地図をながめる。なんでことない、いつもと同じ陸の形。……あっ、そうだった、世界地図は他の国では、その国が中心に描かれるんだっけ。しかも南半球では、地図はこことは上下逆様になっている。治は世界地図の画びょうを外して床に落とすと、地図を逆様にしてハルスに示す。
「どう?」
しかしハルスは首を横に振る。
「これ……、本当なの?本物なの?本当に世界地図なの?」
「本当ですよ、嘘だと思ったら他のも見ますか?」
「ううん……」
ハルスは首を横に振る。その桃の目から、涙が流れ出しているのに、治は気付いた。
「おい……?」
治が心配そうに声をかけると、ハルスは本から降りる。同時に本も下に落ちる。ハルスはゆっくりと机の方へ歩み寄り、さっき自分が「汚れていて座れない」と言った机の椅子に座る。顔はうつむいていた。えっく、えっくと、泣き声がもれていた。そんなハルスを、治は見つめていた。
「どうしよう……」
ハルスがそう言いだすと、治は地図を丸めて手に持ち、ハルスの手前に立って尋ねる。
「家の場所が分からないのか?」
「ちが…ちがう、ひっく…」
「ど…どうしたんですか?」
さっきまではあんなに強気だったのに急に泣きだしてしまったハルスを見て、治は、女の子なんだなあと思った。泣き顔がちらりと見えた。涙をみだりに流したりせず、目もとを赤くしてしゃっくりしている程度のその顔から、上品さを感じた。この女の子は素もかわいい。思わず抱きしめたくなったのだが、後で機嫌の直った時にギタギタにされるのかなと思うと、手が出せなかった。
「えっく、えっく、ひっく…、こ、ここがまさか…」
ハルスはしゃべりだすが、再びそれは泣き声に戻った。治はそんなハルスを黙って見守るしかできなかった。
「わたしと別の世界……」
それを聞き、治は目を点にする。
「それ、どういうことですか?」
「本で読んだ事がある」
ハルスは、手を顔からゆっくりと離す。
「わたしたちの世界とは違う世界が存在するって…」
「えっ?」
「作者の実体験って書いていたけと、わたしは信じなかった。でも、まさか本当にあるなんて……」
「お、落ちつけよ、とりあえず帰る方法はあるんだろ?」
「それが…、3年に1度しか使えないらしいの」
「はい?ち…ちゃんと帰れるんだろ?」
「うん、でもわたしがこうしてここにいるってことは、理論的にはこれが1年目と言ってもいい…」
「え…?」
治は複雑な気持ちになる。3年間ずっとこの女の子と一緒にいる自信はなかったのだが、かわいいハルスの顔を見て我慢する自信はあった。
「どうしよう…帰れない…3年も……」
「とりあえず、ちゃんと帰れるんだろ?」
治のその確認に、ハルスは右手をおでこに当て、なにやら一生懸命な顔をする。お寒いは、さっき床に落とした4つの画びょうを拾おうと思ったが、隸としてではなく倫理上動いてはいけないような気がした。目の前の女の子が、深刻な状況に追い詰められているような、そんな感じがした。
ぼたり、ぼたりとハルスの左足から血が垂れてくる。治は嫌な予感がして後ろを向く。ドアの前に落ちている画びょうが、4つあるはずが3つしかない。さっきハルスが本から降りた時に踏んでしまったのだろうか。これは足の痛みも感じないほど深刻なのか。もっとも、隸をさせられるであろう俺の方が大変なのには変わりはないが。治はそう思い、再びハルスの方を向く。ハルスは、治の顔をちらりと見て、言う。
「わからない。忘れた」
ハルスがあせった声を出すと、治はえっとなる。ハルスは顔を上げ、治の目をじっと見つめる。その顔は真っ青になっていた。目元が赤い。涙がハルスの頬を伝い、ぼたりと落ちる。
「帰り方を……、忘れたかもしれない」