第13話 she leave
「忘れてもらうの」
「えっ?」
無理にまじめな顔をしていた治の顔は、今度は自然に、疑問の顔になる。
「何を忘れるんですか?」
治が尋ねるが、ハルスは、首を横にふる。
「だから、何を忘れるんですか?」
ハルスは重々しく立ちあがり、脇から杖を取り出す。
「えっ?」
治は眼を丸くする。ハルスは、悲しそうな顔をして、杖を治に向ける。
「さよなら」
「な……何のつもりですか、一体!」
治は立ち上がる。
「だから、忘れてもらう、っていうことなのよ」
「ち、ちょっと待って……!!」
治のあせった声を無視して、ハルスは唱える。
「フォーゲット」
治は、その魔法がかかるや否や、ひざをついて、うつぶせに地面に倒れる。ハルスは、それを悲しそうに見下ろす。どうせ相手には伝わらないと思いつつも、出した一言。
「さよなら、好きだった」
その朝に、犬の散歩をしている太ったおばさんは、公園で、一人の少年がうつぶせになっているのを発見した。
「もしもし、警察ですか!?」
おばさんが慌てて家に帰ってした電話は、朝と言うに疲労と困難に満ちたものであった。
警察は、うつぶせになっていた少年の検死を行い、まもなく気絶している事を確認した。その公園は、封鎖された。
その日の一ノ谷小学校では、朝から体育館で全校集会が行われた。一ノ谷北公園で、一ノ谷小学校の6年生が一人、うつぶせになっていた。事の一部始終を説明した後、校長先生は、「みなさんも不審者に気を付けましょう」と言い、解散となった。
6年2組では、いつもより1時間ほど遅れて、朝の会が始まった。
「では、出席を取ります。」
教壇の羽生はそう言い、名簿を上から順に読みあげる。
「五十嵐さん。」「はい」
「伊口君。」「はい」
「池田君。」「はい」
「伊勢田さん。」「はい」
「上下君。」「はい」
「白黒君。」「はい」
「花田君。」「はい」
「長谷川さん。」「はい」
「細田さん。……休みね、問丸君。」「はい」
「橘さん。」「はい」
「零時君……惣田さん。」「はい」
「謎十君。」「はい」
「村田君。」「はい」
「岡田さん。」「はい」
「大馬さん。」「はい」
「夜久君。」「はい」
「前後君。」「はい」
「前田君。」「はい」
「五島君。」「はい」
「是長読さん。」「はい」
「是早読さん。」「はい」
「朝風さん。」「はい」
「佐々木君。」「はい」
「桐生君。」「はい」
「木全さん。」「はい」
「三木さん。」「はい」
「十二月田さん。」「はい」
「日向君。」「はい」
「二人、欠席です。」
羽生は右の、教室の窓辺の、灰色の机に座っている富岡先生に、そう報告する。
「ありがとう」
富岡先生は立ち上がり、羽生から名簿を受け取る。羽生は自分の席に戻った。富岡先生は、教壇から、生徒達を見回し、こう言う。
「さあ、みんなはもう分かっているかもしれませんが、うちのクラスの零時君が、今朝公園で見つかりました。ただ、単なる気絶のようで、今は自宅で寝ています」
生徒達は、お互いの顔を見合わせる。
「医師によれば、明日にでも来れるだろうとのことです」
富岡先生は静かに自分の記憶を読みあげ、そして一呼吸おいて言う。
「これで朝の会を終わります」
「ここは……?」
その日のうちに、治は目を覚ました。
「あら、治君」
治の母が、ベッドのかたわらの椅子に座っていた。ここは、治の部屋。治は、ベッドで横にされていた。
「母ちゃん、今日何日?」
「水曜日よ」
母はそう答える。治は、どきっとした顔をする。外はまだ明るい。
「今、何時?」
「ええと……、11時25分よ」
母は、部屋にかけてある時計を見る。
「学校!!」
治があせった顔をして動こうとするが、母は制する。
「まあまあ、今日は学校を休んでもいいわよ」
「えっ?」
治は、腰を下ろす。
「今朝、公園で見つかったの、覚えてる?」
母にいきなり、"今は知らない"事を言われ、治はびっくりする。
「いや、俺は公園には行ってないよ」
「えっ?」
今度は母が眼を丸くする。
「俺、今日初めて起きた」
「えっ?」
「……明日、学校?」
「うん」
「そして、今日は休み?」
治が尋ねると、母はうなずいた。
「そっか……」
治は、窓の外をぼんやりと眺めていた。
「何で休みなの?」
「だから、今朝公園で気絶していたって」
「まーだ、いつもの勘違いだろ」
治は疑い深く問う。母は慌てて釈明する。
「連絡があったの、警察から」
「勘違いだろ」
治は立ち上がる。
「待って」
母が制するが、治は無視して、ベッドから立ち上がり、たんすへ行って一番上の、下着のある引き出しを開ける。
「あっ……」
治は、その引き出しの中身を見て、ぴたりと止まった。
「どうしたの?」
母が尋ねるが、治は母に言う。
「ご飯作って」
「はいはい」
母が部屋から出ると、治は、改めてそのたんすの中から、つまみ出す。一本の、木の棒。
「何だこれ?」
先がとんがっている。表面がざらざらしている。木の細い枝をぼきっと折った、そのもの。何でこんなものがここに?治はそう思い、その木の棒をまじまじと見つめる。
「……まあ、いっか」
治は、その木の棒をゴミ箱に放り投げる。そして、引き出しから、いつも通りに下着もろもろを取る。いつもと違うのは、時間。
それ以降、少年は、二日間共に過ごした少女を回想する事はなかった。
草原の上に、その少女は立っていた。上には、青空が広がっている。雲ひとつない青空。
「どうしたの?」
後ろから、もう一人の少女、着物姿の檸檬に尋ねられる。
「いや……、檸檬ちゃんの家の庭は、広いなあって」
「ねえ、つかぬ事を聞くけと」
檸檬は、その少女に尋ねる。
「もしかして、治君に恋をしたの」
その少女は、顔を真っ赤にする。
「ち……違う!」
少女がいきなり檸檬の方を向いたので、檸檬は一瞬ぎょっとなる。
「違う!わたしは、好きな人なんでいない!」
「ふふっ……、ははっ」
檸檬が手を口に当てて笑い出す。
「からかうのはよしてよ」
その少女、白いカッターシャツに茶色のスカート、黒いマント、そしてまぶしいばかりのピンク色の髪を背中まで伸ばしているその少女は、照れくさそうにそう言う。
「あいつは、もう会う事はないから……」
少女の語気は、次第に弱まって行く。
「まぁ……、運命は恋に打ち勝つから、ね……」
檸檬も、力なさげにそう言う。
「違うもん!好きじゃない!」
ハルスが真っ向から、大声で否定する。檸檬はくすっと笑う。
「違う!」
ハルスが怒鳴る。檸檬は、一つため息をついてから言った。
「まあまあ、さあ、家に戻ろう」
空は絶えずして 清きを崩さず
朝霧の向こうに 海は在る
自然をいとわず 自然を愛し
仲間と集いして 前へつき進む
我らが母校 一ノ谷小学校
「以上を以って兵庫県・姫娚市立一ノ谷小学校第1学期終業式を終わります」
教頭先生が体育館の舞台の教壇で礼をする。生徒達も一同礼で答える。
その日の教室で、富岡先生は教壇に立つと、生徒達に通知表を配ってから、帰りの会で言った。
「夏休みの宿題は昨日渡したのが全部です。持ち帰り切れなかった人は、今日全部持ち帰ってください。さて、明日からみんなの楽しみにしている夏休みが始まります」
富岡先生は、そこから生徒達の顔を見回す。早く終われ早く帰りたい、の面であった。
「小学生を卒業すると、部活やらなんだやらで夏休みの大半が侵食されます。つまり、夏休み全部が楽しめるのは、小学最後の学年である今年限りです」
生徒達は一斉に眼を丸くする。富岡先生は、声を張り上げて言う。
「なので、今年はしっかり楽しんでくださいね!」
「はい!」
生徒達は、一斉に言う。残念な顔をしている人、期待に満ちた顔をしている人、さまざまであった。
「おしまい」
富岡先生がそう言うと、羽生は生徒達に号令をかける。
「起立。」
「礼。」
「さようなら!!」
生徒達が一斉に言う。
「9月に、まだ会いましょう!」
富岡先生も、強く答える。
「さあ、夏休みだ!」
下校の道中で、治は、空を眺めながら、声を張り上げる。
「明日、俺の家に来いよ」
前田が治に言う。
「分かってる」
治もうなずく。
「ええと、市民プールはいつからだっけ」
前田が尋ねると、治は即答する。
「もうとっくに始まってるよ」
「そうだったな」
前田は、作り笑いをする。