第1話 she is a witch
真っ青な上で、太陽は照っていた。
治の家の門の前に、少女はうつぶせになっていた。その少女は、桃のようなピンクの髪を背中の半分以上まで伸ばしていて、髪の下には黒いマントが、首からひざまでその少女の体を覆っていた。
治がそれを目撃したのは、小学校から下校して家に着いた時である。家の周りには一戸建てがすらりと並んでいて、アパートやマンションは数えるほどしかない。道は普段は常に人が一人か二人は通っているのだが、こんな時に限って治のほか誰もいない。
治はこの少女をどうしようか迷った。治は、昨日の日曜日父に買ってもらった長編小説の続きが読みたいのである。しかしこの少女を起こして迷子として交番に連れていったら、小説を読む時間が減る。だからといってこのままにしておくと、少女は門のすぐ前に倒れているので門にさわれない。なぜ今までここを誰も通らなかったのか、それとも見て見ぬ振りをしたのか。治は唇を噛む。
ざんざん迷った挙げ句、治はその少女をまたいで門へ行くことにした。何をやってでも読みたいほど面白い小説だったのである。
治はそれを決行した。
道の上に髪の毛しかのっていなさそうなところを選んで、そーっと右足のつま先をつける。両足だと倒れそうだったので右足だけつけて、門のノブにさわる。
「こら!人をまたぐとは何事じゃ!」
後ろから突然大きな声がしたので、治は後ろを向く。そこには、ハゲで深い緑色の着物を着ているおじいさんが、白い小さなかわいらしい犬に首輪をつけて横に従えていた。
このおじいさんは、マナーに極端にうるさく、近所からマナーじいさんと呼ばれ嫌われている。治はしまったと思ったが、とっさに回避策を思いついた。
「マナーじいさん、今日も西郷隆盛のまねですか?」
マナーじいさんの険しい表情が一気にゆるむ。それを見て、治はほっとした。マナーじいさんは、西郷隆盛という単語を聞くと、とたんに機嫌がよくなる。理由は誰にも分からない。マナーじいさんとのやり取りで右足がつっかえていたので、マナーじいさんがすっかり上機嫌で犬を連れていってしまうと、治はほっとした。門を開け、もう一つの足を門の中に入れる。
しかしここで治は一つミスをした。右足も門の中に入れようとした時、少女の髪に引っ掛けて転んでしまった。治はしまったと思い慎重に立ち上がり、おそるおそる後ろを見る。少女は起き上がってしまっていて、治の目の前でゆっくりと立ち上がる。その少女の顔を見て、治は心臓がどきどきしているのを感じた。少女の目は少し薄めのピンクで、唇も細く薄いピンクだった。ピンクの髪の毛はひじの辺りまで伸びていた。まるで外国人だ。制服なのか制服ではないのか妙なオーラを放っている白いカッターシャツ、茶色のスカート、黒いマント、そしてその妙にかわいらしい顔が、調和しているともしていないともとれた。その少女と目が合うと、治は慌てて目を反らす。
「ここは……、どこ?」
少女が、天使のようなやわらかくもろい声でしゃべる。
「見てませんよ、最初から」
治は視線を反らしたまま答えた。小学6年生になったばかりでいろいろあって疲れたから幻を見たんだな。治はそう判断し、ささっと家のドアの方を向く。
「ちょっと」
後ろからまだ声がしたが、治はそれを空耳と自分で自分にむりやり納得させる。
「何でさっきから無視するの!」
さらに強い声で言われ、治はしょうがなく後ろを向く。が、少女とまともに目を合わせられない。それでもむりやり少女の顔を見つめる。ある程度話したら帰ってくれるだろう。治はちょっと軽い気持ちで答える。
「ここは東京の」
「トーキョー?」
少女は不思議そうな顔をする。
「って何?」
それを聞き、治はびっくりする。
「だから日本の首都の」
「ニホン?」
少女が再び不思議そうな顔をする。治は、前例が2つしかないのに、なんとなくその次の言葉が予想できた。
「って何?」
その予想は当たっていた。治は考えた。どうすれば日本の場所を分かってくれるのか。…………。
「極東」
この少女はピンク色の髪と目からして明らかに外国人である。欧米の人から見ると日本は東の東のまだ東、極東に位置づけられるのである。治は、これはいけたかと思ったが、少女の反応はそれに反するものであった。
「キョクトウって何」
「はい?」
治は耳を疑った。いや待てよ、アメリカ人?アメリカからなら日本は・・・・・・そうだ、ジャパンだ、ジャパン。
「ジャパンなら知ってるだろ」
「じゃぱんって何」
治の望んでいたものとは全く違う返事であった。それじゃ何人なんだよこいつは。治があれこれ、どう言えばわかってくれるか考えているうちに、少女の方から切り出した。
「そんなことより、モルデスはどっちなの?」
「もるです?」
いきなり聞いた事もない単語が出てきて、治は当惑する。
「モルデスって?」
「わたしの故郷」
「何の名前」
「国の名前」
少女が答える。いや待てよ、そんな名前の国ってあったかな。治が、それはアフリカなのか南アメリカなのか尋ねようとした時。
ぐー……。こんな音が聞こえてくると、少女は顔を真っ赤にしてうつむく。
「腹がへったの?」
治が尋ねると、少女は恥ずかしそうにうなずく。治はしばらく考え、そして優しそうに少女に言う。
「入れよ」
「うん」
少女はうなずく。
「で、君の名前は」
治が思い出したように尋ねると、少女はゆっくりはっきりと答える。
「ハルス」
「ハルス?」
治はその名を、どこかで聞いたような感じがした。
「どうしたの?」
ハルスと名乗るその少女に尋ねられると、治はあわてて首を横にふる。
「何でもない」
「あなたの名前は?」
「あ……俺は零時治」
「変な名前」
「変な名前はないだろ」
治は不快な顔をする。かわいい少女に自分の名を変と言われたことが悲しかったのである。
「ごめん」
治のその顔を見て、ハルスはそう答える。
家のドアを前にして、治がドアノブに手を伸ばそうとした時、ハルスは拍手をするかのようにパンパンと、手のひらを叩く。顔は真剣であった。治は不思議そうにそれをながめ、何か尋ねようと思った時、ハルスがしゃべりだす。
「おかしい、返事がない」
「何の返事だよ」
治は奇異な顔をして、ハルスの顔をまじまじと見つめる。ハルスはぴんとひらめいたような顔をし、それから治を指さす。
「ってことは、あんたが隸?」
「はい?」
治が目を点にすると、ハルスはドアの方を指さす。
「さっさと開けて」
明らかにそれは命令であった。本来は自分が開けるのだが、命令口調でそれを言われると、必然的に人は腹が立つのである。
「何で俺が開けるんだよ」
「隸だもん」
「だから何で俺が隸なんだよ」
「隸だから」
ハルスがつんとした顔でそう言うと、治は頭にきてハルスに怒鳴る。
「お前が開けろよ」
「あら?隸の分際でご主人様に命令してもいいわけ?」
ハルスはまゆをひそめ、脇から先のとがった木の棒を取り出し、治に向ける。
「死にたくないの?」
「何の話だよ」
「だから、死にたくないの?」
ハルスの顔は鬼気立っていた。治はなんとなくこれを嫌がったら死にそうな気がし、しぶしぶドアを開ける。
「入れよ」
「お帰りなさいませご主人様、でしょ」
「そんなおかまっぽい事言えるかよ」
ハルスは返事もせずに玄関に入り、靴をぬかずに廊下に上がる。
「おい」
治はドアを閉める。
「何よ」
ハルスは振り向く。
「靴をぬげよ」
「あら、靴は玄関でぬぐの?下品ね」
ハルスはそう言い、靴を脱いで廊下に上がった治を蹴り飛ばす。
「何すんだよ、人の家で」
玄関で体勢を直して立ち上がる治に対し、ハルスはつんと言う。
「だって、この家の主人はわたしだもん。文句ある?」
「ある!」
「何?」
「この家の主人は、俺の倒産だ!」
「へぇ?隸の分際で、ご主人様を勝手に決めるのね?」
ハルスがそう言い終わり治が反論しようとしたと同時に、玄関のドアが勢いよく開き、治は玄関の壁に思いっきりぶつけられる。
「誰だよ!」
治が首を出しドアの外を見るが、誰もいない。
「まだやっちゃったかな」
ハルスはそれだけ言い、廊下のつき当たりにあるドアを開け居間に入る。
「おい、待てよ、靴!靴をぬげ!」
治は玄関のドアを閉め、ハルスを追って居間に入る。
治の家の居間は、壁は白く、北東のドアのすぐ右には台所の入口があり、その台所はカウンターで居間と接している。居間の中央には長方形の木の、正座くらいの低めのテーブルがある。西の壁の中央に黒い台に乗ったテレビ、それを挟む二段のビデオが並んでいる木の本棚が二つ、テレビの右の本棚の上に白い電話とテレビのリモコンがある。
ハルスはそのテレビの向かいにある東の壁のソファーに座っていて、居間のドアの治をにらんでいた。
「ねえ、早く料理しなさいよ。まったく、気が利かないわね」
「だから、何で俺がお前なんかに命令されるんだよ」
治が怒鳴るとハルスはソファーから立ち上がり、わきから先ほどの、ペン程度の長さの先のとがった木の棒をテレビに向ける。
「あれ、何」
ハルスにそう言われ、治は驚く。
「テレビだよ、そんなものも知らないのか」
それを聞き、ハルスはテレビを向いて、顔に不気味な笑みを浮かべる。
「エクスプロージョン」
突然、テレビが大きく爆発し、粉々になった。テレビの両横の本棚の上にも、テレビの乗っていた台の上にも、テレビの手前にも、その破片が飛び散る。
それを見た治は、さっきテレビを「何?」と言われた時の百倍以上は驚いた。次に、ハルスをまじまじと見つめる。さっきまでは怒鳴られながらもかわいいと思っていたのだが、今はどこから見てもそんな気持ちにはなれなかった。そればかりではなく、大きな恐怖を感じた。
「ご主人様に敬語を使わないと、こうなるのよ」
勝ち誇ったような顔をして、ハルスは治を見る。その治の顔は真っ青になっていた。
「あ…あ…」
口を開いても、それしか出てこない。ハルスは再びソファーに座り、治に命令口調で言う。
「さ、作りなさいよ、何でもいいから」
「だ…だ…だから、今のは一体……」
ハルスが治に棒を向ける。落ち着け。とにかく落ち着け。治ははあっと深呼吸してから、それでもまだ落ち着ききっていないとみえて、声をふりしぼっている。
「い…今のは一体、な、何ですか」
見知らぬ少女に命令されて敬語を使うのに抵抗はあったのだが、命令に従わなければ命に関わる。治はそう直感した。
治が、さっき深呼吸したばかりなのにまだ落ち着きを失ってしまっていることに気付き、もう一回深呼吸しようとすると、ハルスは平然と返す。
「魔法よ」
「はい?」
治は耳を疑った。
「で、これは使うための杖」
「はい?」
治は、今度は眼を点にする。
「そんなことも分からないの?」
ハルスはものすごい剣幕で治をにらむ。
「ひっ!は、はい、知ってます」
「その顔は、知らないんでしょ」
さっきテレビの名を教えた時の治のようなセリフを、ハルスは吐く。
「し…知ってますよ、それくらい。でも実際に使っている人は見たことありませんし」
「ないの?どれくらい田舎者なのよ」
ハルスは疑っているようであった。
「隸なら誰でも知っているはずよ。知らない隸は一匹もいない」
「匹!?」
あ然とした顔の治に、ハルスは平然と言う。
「隸だから」
「俺は人間ですよ!」
しかしハルスは返事もせずに立ち上がり、杖をわきに収める。座っているままだとわきのポケットに入れにくいようである。ハルスは座ると、ちらと治を見る。
「隸、さっさとご飯を作りなさい」
「はっ、はい」
治は慌てて台所に入る。流し台の下の棚からフライパン、冷蔵後から卵を取り出し、フライパンの上で卵を割る。そんな治の姿を見て、ハルスは思いついたように言う。
「そうだ、隸にも名前があるんだった。で、あんた誰」
「零時治ですよ」
治はフライパンをガスコンロの上に置き、火をつける。
「レイジオサム?さっきも聞いたけと、やっぱり変な名前」
ハルスはそう放つ。
「これのどこが変なんですか?日本人として普通の名前です」
「とにかく」
ハルスは、粉々になった、テレビなるものをながめる。
「あんたは隸である以上、わたしの命令に従う」
「はい…はい!」
治は、何で自分がこんな女の子に命令されなければいけないんだというわだかまりを感じたが、それをむりやり抑える。
「はいは1回」
「はい」
しょうがないけどなんか怖いからとりあえず従うか。治はそう思いつつ料理を続ける。