小林遥香は、いつも下を向いて歩いている
隣の席の小林遥香は、いつも下を向いている。
登下校中も、移動教室も、昼食を食べるときも、ずっと。
全然喋ることもないし、気味の悪い、何だかお化けみたいな暗い奴。
隣の席で、常に下を向いている、ひとりぼっち。
僕は、彼女に何の関心もなかった。
ただ、授業中、窓から吹いた風が、彼女の顔を覆い隠す髪の毛を上げたから 。
小林遥香の睫毛が長かったから。
その奥の瞳が吸い込まれるように真っ黒だったから。
怖いくらい感情がなくて、でも整っていたから。
僕は彼女が気になり出したのだ。
◇
◇
小林遥香は下を向いて歩いている。
校門から出るときも、下を向いている。
鞄から、チェーンが外れて落ちてしまった、小さなヌイグルミにも気づかない。
可哀想なウサギは、くったりと地面に横たわっている。
僕はそれを拾った。
目の前に小林遥香がいるな、と思って歩いていたら、このウサギに出会った。
ちょうど、周りに他の生徒はいない。話しかけてみようか。
「おい」
小林遥香は下を向いて歩いている。
振り向きもしない。
「二年二組、小林遥香」
学年組名前を呼ぶと、小林遥香は艶々の黒髪を揺らして、機械じみた動きで顔を上げる。そして、ゆっくりとこちらを向いた。
知らない奴が話しかけて来たぞ、とでも言いそうな様子だ。
「……」
「これ」
こいつ、クラスメートの名前も覚えてないのかよ。しかも隣の席だぞ。
と言う言葉は胸に仕舞い、ウサギを差し出した。
「……ありがとう」
小林遥香は感情のこもらない口調で、ぽつりと言った。授業中、当てられた時以外で、初めて声を聞いた気がする。
しかしすぐに、下を向いて立ち去ろうとする彼女に、少し苛ついた。
「なあ」
文句の一つでも言ってやろうと、考えていた。それなのに、
「お前、何でいつも、下向いているんだ?」
つい、訊ねてしまった。
「……」
小林遥香はピタリと足を止める。
振り向いて、黙って僕の瞳を見つめてきた。
小林遥香の瞳は真っ黒。吸い込まれてしまいそうだ。
「……」
「……」
何で無言なんだ。さっき喋っただろ。
と、言いそうなのをぐっと堪える。
僕も黙って見返していると、小林遥香は下を向いて歩き出した。
「は?」
小林遥香の不可思議な行動に、思わず声をあげてしまう。
そろそろ帰ろう。と僕も歩こうとした、その時、小林遥香は再び振り返った。
「ついてきて」
小さい声で独り言のように、呟いた。
意味がわからないまま、俺は歩いていた。
◇
◇
◇
小林遥香は下を向いて歩いている。
後ろの僕も下を向いて歩いている。
小林遥香は喋らない。
後ろの僕も喋らない。
「……」
「……」
気まずい時間が淡々と流れていく。
何も喋らずに、ただただ歩く。
人も車も通らない道路を進み、公園を抜け、再びアスファルトの上を歩く。
靴音がペタペタと響く。
ふむ。首が少し、痛むのを除けば、下を向いて歩くのも、悪くないかも知れないな。
右、左、交互に地面を踏む、自分の汚れた靴。
車に何度も踏まれたが、強かに伸びる雑草。
アスファルトの隙間から咲くタンポポ。
日を反射して鈍色に光る、潰れた空き缶。
一生懸命、自分より大きな餌を運ぶアリの行列。
風で揺すられ、落ちてしまった緑の葉っぱ。
後ろに付いてくる、自分と同じ動きをする黒い影。
夕暮れの空を鈍い色で映す、水溜まり。
いつも、前を向いて歩いているから、知らなかった。
こんなにも、きらきら輝くモノが足元に転がっているなんて。
不意に、小林遥香は止まった。
そこは、橋の上だった。
下を向いてでもわかる。川の表面が、油膜が張ってあるように、夕陽の光を乱反射していることに。
ゆっくりと、顔を上げると、そこには
「……うわ」
夕陽だ。
川に浮かぶ夕陽と、空に浮かぶ夕陽が僕の視界に光を溢れさせた。
思わず、橋の手すりに手をかける。
眩しい。眩しくて、綺麗。
瞬きをしても、残光が目蓋の裏にこびりついて、離れない。
チカチカチカチカ。
ため息が漏れる。
ふと、隣を見ると小林遥香は顔を上げていた。
カラスの濡れ羽の様な黒い髪が、それこそカラスの翼のように風でなびいている。
彼女の整った横顔の輪郭は、夕陽の光にとろけているみたいに、赤くなっている。
黒くて、吸い込まれそうな瞳にも光が溢れて、とても綺麗だ。
小林遥香は、前を向いたまま、言った。
「これは、お礼」
「え?」
そして、僕の顔を見て、言う。きつく縛られていた糸が、ふわりと緩むような、淡い笑みを浮かべて。
「北山くん。喋りかけて、くれて、ありがとう」
僕の名前、知っていたんだ。もちろん、同じクラスだから当たり前なのだが、なんだか急に鼓動が速くなった、気がした。
見ると、小林遥香の頬っぺたは、夕陽のせいなのか、真っ赤だった。でも、笑みは消えていない。
僕も笑顔で言ったと、思う。
「うん」
なんだかわからないけど、僕の頬も、熱い。
きっと、これは、夕陽のせいだ。
◇
◇
◇
◇
小林遥香はいつも下を向いて歩いている。
自分の足元に転がる、小さな発見を見つけるために。
不意に、顔を上げたときに広がる、“綺麗”を見つけるために。
「小林さん。前髪を上げてみるといいよ」
「え?」
「きっと、似合うよ」
小林遥香は昨日も、今日も、明日も下を向いて歩いている。