変わらないものなんてない。
それは確かに私の思い出だった。
思い出に写る私の姿は私ではなかったけれど、確かに、この思い出の中に写っているのは私なのだ。
落ち葉と共に写真が、思い出が燃えて弾けた。
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それは私がまだ俺で、男だった時で、女になった時。
いまから二年と少し前の出来事。
残暑、とは言い難い暑さが肌を刺していたのを覚えてる。神社での手伝いを終えて、帰宅している途中で私の記憶は一度途切れている。
次に目覚めた時、私は消毒薬の匂いに包まれた病室で点滴を打たれていた。揺れる頭を何とか持ち上げて体を起こすと病室には姉と両親と医者、みんなが得体の知れないものを見る様な目で私を見ていたのを不快に感じた。酷く身体が怠くて、医者が名前や年齢などを聞いてくるのを不思議に思いながら答えて、自分の声がおかしい事に気づいた。
喉に手を当て、次は自分の肌の感触に違和感を覚えて、目にした自分の腕は小さくて。医者に手渡された手鏡を見て、私は自分という存在が信じられなくなった。
黒く透き通るような髪が肩を撫で、陶磁のような白い肌と色素の薄い瞳をした少女が、鏡を通して私を見ている。思考の中でその少女こそが自分だと認識して、否定して、小さな手を頬に当てて再認識するのに時間は掛からなくて、私は絶句した。
「楓君、混乱しているかも知れないが、気を確かに持って」
鏡を見つめる私に医者がそんな事を言った。私の家族は私が目覚めてからまだ一言も喋らずにただ、私と医者の間に視線をさ迷わせていた。
あまりの出来事に力が抜けて鏡を持っていた手を下げると、医者が腰を下げて私と目線を合わせた。
「一つ教えてくれるかな? 君は、その身体に見覚えがあるかな? 例えば、君の友達とか」
「……知らない……です。これ、なん、なんですか?」
声に色をつけるとしたら薄い桜色。高い、けれど消え入りそうなか細い声が私の喉から出た。混乱する頭の片隅で、ふと、好きな女性歌手の声に似ているな、と思った。
「楓、よね? なんで、そんな……」
「お母さん」
母さんがポツリと漏らした言葉を医者が遮るように制した。けれど、私は医者が制したその言葉の先が分かってしまい、急激に怒りが沸いた。誰にでもなく、何にでもない。ただ言い知れない感情がマグマのように心の火口から溢れだしてしまったのだ。
「……信じられないのは俺だ……なんだよこれっ! 俺の身体は何処だよ!? こいつは誰だよ!? 母さん! 父さん! 姉貴! 教えろよ! わっけわかんねぇっ! なんなんだよぉ……」
持っていた鏡を投げ捨てて叫んだ私に答えてくれる人はいなかった。いや、誰も答える術を持っていなかったのだろう。
言葉と一緒に溢れた涙が頬を伝い落ちて、白いシーツに染みを作っていく。それからは医者の話も家族の話も耳に入らず、私は身体の中の水分が全て出てしまったのではないかと思うくらいに一日中泣いていた。
次の日、泣きつかれて腫れた顔で私は家族と話し合い、自分に起きた出来事を聞いた。玄関に倒れていた私を姉が見つけた事、病院に運ばれ、家族の前でいきなり姿が変わった事。信じられなかったけれど、信じるしかなかった。事実、私の身体は変わってしまっていたから。
それから二週間あまり、私は病院で過ごし、自分の身体が完全な女の子のものになっていることを否応なしに理解させられた。トイレもお風呂も寝るのさえ、男の時とは勝手が違う。それは羞恥なんて感じる間もないほどで、散々、なんて言葉はこういう時に使うのだろう。
学校は転校した事になった。事実上の退学だ。なんたって男から女、それも見た目全くの別人になってしまったのだからしかたない。私が退院するのに合わせ、家も貸家にしていた母の実家に移すことにしたらしい。
この世界から男だった私の痕跡を消すように物事が動いていっているようで、それに恐怖した私は意を決して、親友を呼び出し会いに行った。「誰だ」と否定されるかもしれない恐怖より、家族以外の、私が男だった時の証拠が欲しかった。
小学校からの幼馴染みの親友は私の話をすんなりと受け入れてくれた。流石に最初は驚いていたけれど、私を私だと証明するのに持ち出された質問は、あまりにもしょうもない小学生の頃の思い出で、私は内心、変わらないものがあることに酷く安堵した。そして、その時の親友が特別優しかったのが今でも印象に残っている。
本当は変わらないものなんてありはしないのに、その時の私は、ただ、時の流れに逆らうようにそれに固執していた。
それからも私の家はバタバタと慌ただしく動いていく。
私の戸籍上のあれこれや、この身体の検査。私の女の子としての最低限以上のマナー教育、そして学校の事。
変わっていくなかでの親友との連絡は、それだけが私にとって変わらない時間で、不安定な心を支える柱だった。
もうその頃には男としての心と女としての心が半々くらいになっていて、そのどちらもが親友に依存しかけていたのかもしれない。
戸籍上の事や学校関係の事が落ち着き、親友とは時間が合ったら男だった時のようにまた遊ぶようになった。毎日慣れない事をして気の張る生活の中で、親友の存在は大きくなるばかりだった。
親友が遊べないと言った日は私の心に暗雲が漂って、親友が私以外の誰かと話すと心に棘が刺さったような痛みが走る。本当はずっと一緒に居たくて、沢山話していたくて、自分が女である事を利用した事もある。おかしいって自分で分かっていた。自分が何を言っているのか、何をしているのか、分かっていたのに親友の事など考えもせず、私はその事に見て見ぬふりをしたのだ。
ターニングポイントなんてものが人生にあるとしたらここがその一つだったかもしれない。少しずつずれていく秒針が長い時の中で大きなずれになるように、ここで私自身が目を背けなければ違った今になったかも知れない。
木々の葉が鮮やかに色付き、寒さが肌を刺すようになった季節に親友はとうとう私の前から姿を消した。既に依存しきっていた私は荒れて、駄々を捏ねて、変わらないものを求めていた。電話を掛け、メールを打ち、家に押し掛けて、放課後待ち伏せた。それでも親友には会えなかった。
何が悪いのか、そんなの自明の理で、自分が悪い。いや、何もかも私を女にした"何か"のせいだ。けど、そんな事を考えたって何にもならない。神頼みしても元には戻らない。
頭で理解していても心が理解してくれなくて、どろどろとした醜い感情が溢れてくるのを必死に押さえつけていると涙が出てきた。
公園の片隅のベンチで、いつも親友と話していたその場所で、一人膝を抱えて泣いていた。空は夕陽に焼け、辺りは暗闇を孕み始めて、帰れと唸っているようだった。
「何泣いてんの」
泣いていた私に声を掛けて来たのは姉だった。
姉が私の後始末をしてくれているのは知っていた。親友を探し回る私が迷惑をかけた人に姉が謝って、そしてこうして泣くだけになった私を連れ帰りに来てくれる。私はどこまでも甘えていた。
「ほら、楓、帰ろう。風邪引くよ」
手がのびてきた。掴まれた手に姉の手の冷たさが凍みる。きっと今日も私を探し回っていたのだろう。氷のように冷たくなっていた。私より先に姉が風邪を引きそうだ。
「なずなに会いたい……」
立ち上がり、姉を見上げて意識せずにそう零した私の言葉に、姉は厳しい目付きを向けた。姉もいい加減に疲れていたんだと思う。その目は怒りと呆れと優しさを混ぜた色をしていた。
「……楓。あんた、なずな君があんたを避けるようになった理由、分かってる?」
普段優しい姉の、強い口調に肩が震えた。私の中の火口がまた火を吹き出しそうだった。
「全部……分かってる。でも、会いたい」
意思より先に言葉が零れる。感情が競り上がって、瞳に涙が溜まっていく。みんなみんな分かっていた。私はそこまで頭の悪い人間じゃない。でも、私は正真正銘、馬鹿だった。
姉と繋いだ手に少し強く力が加えられる。
「分かってないじゃないの! なずな君は、このままだとあんたが駄目になるからって、会わない事を決めたの! あの子がどれだけ苦労してるか、あんたは分かってない!」
全部分かってる。分かっている! 親友は優しいから。嫌われても仕方ないくらいの事をしている私の事を考えてくれる。自分の事なんてお構い無しに、他人の為に動く人間だって。けれど、分かっているからって、それが会いたい気持ちを、恐怖を、感情を止められる理由にはならない。少なくとも、この時の私にはならなかった。
「会いたいんだっ! 知ってる! 全部分かってる! 俺が、依存してるって。なずなが私の為に動いてくれてるって。でも、なずなが居ないと駄目……分からないんだ……なんで、こんなに胸が苦しいのかな、私が女になったから? 身体も心も男じゃなくなったから? ねぇっ! 教えてよっ!」
張り上げた声を合図にして火口からマグマが溢れだした。膿を出すように止めどなくそれは溢れていき、小さな子供のように声を出して泣いた。
涙を流す私を姉は抱き寄せて、静かに口を震わせ言った。
「……楓、ごめん。ごめんね。本当は、私達家族が、なずな君の位置に立たなくちゃならなかったのに。そうすれば、楓がこんなに悩む事もなかったのにね。……よく聞いて、楓。変わらないものなんてない……人や物は変容する。思い出だって、美化も純化も風化もする。変わっていくの。でも、変わるって、悪い事じゃないよ。怖い事じゃない。心が変わったって、楓は楓なの。今はまだ混乱していて分からないかも知れない。だから、なずな君は楓に考える時間をくれたのよ。……時間はある。なずな君だって待ってくれる。ゆっくり、新しい楓を知っていけばいい。私も、父さんも母さんもいる。怖がらないで」
姉の言葉が流れ出る涙の代わりに私の中に染み込んで、溶けていく。
涙で姉の胸元を濡らしながら、染み込んでいった言葉を一つずつ取り出して理解しようとしてる内に、どういう風にして眠ってしまったのか。次に目覚めた時は薄暗い自分の部屋の中だった。
泣き腫らした目を優しく擦りながら、窓の外を見ると、太陽が暗い翳りを照らそうとその顔を覗かしていた。
窓を開けると冷たい風が私の頬を撫でて、私の中に燻るマグマを冷やし固めていく。
部屋に置かれた姿鏡に写った私は、腫れた目が酷く目立つ幽鬼のようで、思わず笑いが零れる。変わらないものはない。姉の言葉が頭の中で何度も、何度も再生された。
変わらないと思っていたものは、私がそう思って込んでいただけで、何もかもが変わっていたのだろう。男だった時から、産まれた時から、ずっと止まることなく変わり続けているのだろう。
私の中にある親友への感情は、変わってしまった友情なのだろうか、それとも、未だに変わらない事を望む傲慢なのか。まだ、分からない。
この感情の正体か分かるまで、私は親友に会わない方がいいのだろう。いや、もう親友なんて呼べないのかも知れない。親友だった私はとうの前に、変わってしまった。
いつか、私が変わっていく自分を知ることが出来たなら、また……。
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柔らかな風が吹き、灰が舞った。赤い炎に包まれていた写真の姿はもう見当たらなかった。消えたわけじゃない。なくしたわけじゃない。それは違う形となっただけ。
「かえでー、お友達から電話よー。かえでー?」
家の中から母さんの声がして、私は赤く燻る炭に水を掛けて、家の中へと入った。
「はーい! いまいくー!」