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―エピソードゼロ― 後篇

 「貴様はクズだ。人の言う事が聞けないような奴はボクの部下には必要ない。クビだ」

社長の無情な言葉が耳を打つ。あれから俺は全身に負った重度の凍傷が回復するのを待って工藤さんを背負い、キキの死体を近くに落ちていた鞄に詰め込んで行く当てもなく事務所に来ていた。

工藤さんをソファに寝かせてハンカチを敷いたテーブルの上にキキを横たえ俺は床に正座。

ソファに座り肘かけに頬杖をついた社長に外出を叱られ、事の次第を説明したら解雇を言い渡されたという有り様だ。

反論の余地はないしする気も起きない。こうなる事は予想できた。

秋津様のことは話せないのだから理由もなく命令を無視して魔王に出会い殺されかけたと言えば当然だ。

俯いて社長の言葉を聞く事以外に俺に何が出来るのだろう。

「貴様はもうソサエティとは何の関係ないフリーの法術師だ。君がどこで何をしようとソサエティは一切関知しない。好きにすればいい」

「―え?」

立ち上がった社長に意味を尋ねようと顔を上げると同時に事務所の扉が開いた。

そのまま背を向けていた入口の方を振り返ると、どこかで見た事のある白いワンピースを着た髪の長い女性が立っていた。

「こんにちは。翡翠さん」

どうせ社長は接客なんかしないだろうと立ち上がった俺は彼女の言葉に欠けていたパズルのピースが見つかった様な解放感と安堵感と、そして戦慄を覚えた。俺たちは一体いつから魔王の掌の上にいたのか。

気になって社長を見ると凝然と目を剥いていた。

魔王が来た時より驚いている。

「憶えていますか?私の事」

「工藤一姫。そういう事か。アンバー」

「―社長―。彼女が工藤瑞姫のお姉さんなんですね?」

「―そうだ」

苦虫を噛み潰した様な顔をしていた社長はふっと倒れるようにソファに座ると苦しげに言った。

言いたい事は山ほどあるが社長を責めても意味がない。もう全て済んだ事だ。

始めたから疑わしかったのに騙されていたと感じてしまうのはそれだけ巧妙に魔王が情報を支配していた所為だろう。俺たちは勝手に勘違いしただけだ。

名前も顔も分かっていながら今回の事件には無関係だろうと。

調べる時間がなかったなんて言い訳でしかない。

社長は今回の依頼に関心が無かったのだから責めるのは間違っている。悪いのは工藤瑞姫の姉を捜索するという名目でオズ社に侵入する事を決断した俺の方だ。まあ、だからどうしたという訳じゃない。

最初から魔王の獲物は工藤瑞姫であって俺たちではなかった。あの魔王の策略に嵌まったにも拘らずこっちには何の被害もなかった事が何よりの証左。つまり墓穴を掘らされたのだ。

この何とも言えない敗北感も俺たちが勝手に抱いているだけで魔王には与り知らぬ事だろう。

「忘れていた訳ではない。だのに思い出せなかった」

不貞腐れたように顎を右手のひらに乗せた社長が呟く。誰かの意図を疑うというより純粋に悔やんでいるようだった。

「彼が言っていました。翡翠さんはソサエティの副首領として忙しい時には一日で何十人という人に出会って顔や名前や性格を把握しなくちゃいけないから、何年も前にたった一回だけあった人間の事をそう簡単に思い出す事はないって。特に長く生きているとその傾向が顕著で翡翠さんは記憶力という点では十人並みだから人の成長を加味して過去に会った人物と照合が上手くいかないから大丈夫だと。私も気にしていませんから。あの時は私もただの人でしたから」

「その彼って魔王の事ですか?」

「魔王?」

一瞬何を言われているか分からないといった風に首を傾げた工藤一姫は合点が言った瞬間くすっと面白そうに失笑した。

「ごめんなさい。そういえば彼ってそんな風に呼ばれていたのよね。ちょっと皆に魔王って呼ばれて澄まし顔で胸を張っている所を想像しちゃった」

彼女の様子に俺は言葉を失ってしまった。同じ人物の事を言っている筈なのにずいぶん印象が違う。俺にとって奴は恐怖の象徴だが工藤一姫にとっては違うらしい。奇妙な感じだ。

「――貴女は工藤瑞姫さんのお姉さんなんですよね。何であんな奴の言う事を聞いているんですか?あいつのせいで彼女がどれだけ危険な目にあったか知らない訳ではないでしょう?」

俺の詰問に工藤一姫は茫然と瞬きを繰り返した後、黙ったままじっと顔を覗きこんできた。

初対面の相手にいきなりこんな事を言うのは失礼だが、これだけは確認しておかなければならない。彼女が敵か味方かまだはっきりしていないのだ。

「もしかしてあなたが神門竜明くん?」

「―え?はい。そうですが―」

面食らう俺に構わず工藤一姫は握手を求めるように手を差し伸べてきた。俺にどうしろと?なんてマイペースな人なんだ。

「はじめまして。工藤一姫です。あなたの事は彼から聞いてるわ。メルが、あっ―え〜と。彼の、魔王さん?のことね。メルが円香ちゃんに一人前の法術師たるもの一般人で親しい人をもつべきじゃない、なんて意地悪な事を言うから、孤独だった円香ちゃんの心の支えになってくれていたのよね。ありがとう。私は何もしてあげられなかったから」

強引に手を取って両手で包み込むように握ってくる彼女の温かな手を俺は握り返す事が出来なかった。魔王から聞いてるって事は俺が先生を殺したって事を知っている筈なのに何でそんな屈託なく笑えるんだ。俺は礼を言われるような人間じゃない。

「先生を御存じなんですか?」

「うん。学生時代からの親友なの」

「そう―ですか。だったら親友の錬金術師である貴女が何もしてあげれなかったなんて事は―」

言葉が尻すぼみに消えてゆく。顔が見れない。恐らく工藤一姫は超一流の錬金術師だ。俺よりずっと強い。彼女の桁違いの質量を伴った存在感の理由は賢者の石が原因だろう。

社長に匹敵する錬金術師がいるとは思わなかった。それだけの力を持っているのなら先生の心を支えていたのは俺じゃなく彼女だったんじゃないか。

「ううん。私がこうなったのは円香ちゃんが亡くなった後だから」

「どういう事だ?ずっと魔王は日本に来ていなかった筈だ。円香の死に際もあいつは姿を現さなかった」

申し訳なさそうに言う工藤一姫の言葉に社長が口を挟む。

「来ていたんですよ。円香ちゃんが自分の身が危なくなったらメルに報せる法術を無効化していたから間に合わなかっただけで。彼、悔しがっていたわ。また助けられなかったって。その時に賢者の石を貰ったんです。メルったら泣きそうな顔で―一姫、私に君を守らせてくれ、なんて言うんだもの。断れないわよ」

とても自然に惚気られた。完全に会話の主導権を握られている。どうしよう。いい加減手を離して欲しいんだけど。助けを求めて社長に目を向けるとなんだか複雑な顔をしていた。眉間に皺を寄せて嫌そうにしているのに彼の感情は嫌悪ではなく郷愁だった。

ああ良く分かったよ。俺に味方はいない。

「つまり魔王の庇護下にあるから貴女は妹を生贄に捧げたんですか?」

「生贄って何のこと?」

可愛らしく首を傾げられた。嘘は言っていない。俺の言っている意味が分からなかったのか、或いは知らされていなかったのか。工藤一姫は無関係なのか?

いや、それはない。彼女が姿を暗ませたから工藤瑞姫は拉致されたんだ。

切っ掛けを作った人間が知らない訳が無い。

「恍けないで下さい。魔王が工藤さんを―」

そこまで言ってふっと疑問が脳裏を過った。魔王は工藤瑞姫に何がしたかったんだ?

「もしかして瑞姫ちゃんを攫った事を言っているの?あれは全部お芝居なのよ。オズの雇った人たちはみんなメルが殺しちゃったから―あの場には私を含めてメルとメルの部下の筧さんの三人だけだったの。鬼蜘蛛だって万が一の事が無いように三人でずっと見張っていたわ。彼が瑞姫ちゃんに法術師の世界を体験させたいって言うものだから。生半可な事じゃ意味が無いし。ごめんなさいね」

何だそれは。

あれが全部狂言だった?奴が見せた幻覚は虚構の敵だった?

それじゃまるであいつが俺と同じように工藤瑞姫の死の運命から救うためにやった事のようじゃないか。そんなこと認めない。認められない。

あいつはそんな善人じゃない!

「貴女は騙されている。あいつは人助けをするような―他人のために行動するような奴じゃない。魔王は人の命をゴミのように捨てられる殺人鬼だ。そんな奴が誰かを守ろうとする筈がない。魔王の味方の貴方にはそう見えたかもしれないが本当は違う目的があった筈だ。そうじゃないとおかしい。現に工藤さんはこうして死にかけた。あいつが守ろうとしていたのならこうはならなかった筈だ!」

語気が荒くなる。知らず大きくなった声が震えている。なんてみっともない。

こんな子供のわがままみたいな事が言いたい訳じゃない。でもキキが死んだんだ。

魔王が悪人で居てくれないと戦う理由がなくなってしまう。

俺まであいつを認めたら魔王の言動を肯定した事になる。俺が未熟なのは良い。でもキキを見殺しにしたあいつを正しいなんて言う事は絶対に出来ない。

「ごめんね。私もメルの味方として言わせてもらうわ。彼を認めて欲しいなんて言わない。でもメルも自分の使命と目的のために苦しんでいるの。彼にだって出来る事は多くない。だから私は瑞姫ちゃんを守ってとは言っていないの。そんな事を言えば彼を余計苦しめてしまうから。それでもメルは出来る事をしてくれたと思っているわ。瑞姫ちゃんは無事だったんだもの。メルが本当に何もしなかったら誰も助からなかった。違う?それでも誰かを恨みたいのなら私を怨んで。私も実の妹の命より好きな人を助ける方を選んだ人でなしだもの」

そんなこと出来る訳が無い。優しく俺の手を握って微笑んでくれるこの人を恨める筈がない。それこそ最低だ。

「貴女は魔王が人を殺すことをどう思っているのですか?」

「どうも思っていないわ。もし今回のように瑞姫ちゃんが本当に攫われて殺されたら私は犯人をどんな事をしてでも探しだして殺していたと思うの。そんな最低な人間が何て言えば良いのかしら?彼が殺してきた人たちの半分は誰かに恨まれても仕方のない人ばかりかもしれない。でも半分はそうじゃないわ。メルは殺す相手を善悪で差別しないの。一方的に憎まれる人間はいないって言うのが彼の思いだから。悪人なら殺しても良いなんて言ったら彼に嫌われてしまうでしょうね。だから私は彼のする事に何も言わないようにしているの」

真摯な眼差しで言う彼女の言葉を俺は理解する事が出来る。先生にも良く言われていた。

この世界に必要のない人間はいない。どんな悪人でも必ず誰かに愛されている。

事実、魔王ですらこうして愛している人がいる。それが何よりの証拠だ。

正義の名を以って誰かを殺せばその瞬間それは正義という名の悪になる。だから誰も殺してはいけない。人間の悪意や敵意を前にすると我を忘れがちな俺はその言葉を忠実に実行出来ていたとは言えないけど、それでも殺人を禁忌としてきた。

秋津様の言うとおり俺と魔王は似ているが全く逆の行動を取っている。一体何があったら先生にそう教えた本人が善悪無関係に殺すようになるのか。確かに俺は魔王の事を何も分かっていないのかもしれない。先生に出会わなければ俺も魔王のようになっていたのだろうか。

「―そうですか。色々不躾な事を言って済みませんでした」

そっと握られていた手を離してもらって俺はきちんと彼女の目を見て言った。これは宣戦布告だ。工藤一姫の立ち位置は魔王と同じ。悲しいが俺とは決して相容れる事はない。

俺はいったい何を期待していたのだろう。法術師である以上たとえ骨肉相食む事になろうとも平然としていられる人種だという事は分かりきっていたのに。

「いいえ。こちらこそ。ありがとう。瑞姫ちゃんを守ってくれて」

屈託なく微笑む工藤一姫が工藤さんに近づく様子を、いざという時のシミュレーションをしながら見ている自分に気がついて苦笑した。俺もこっちの世界に浸かり過ぎだな。

「手伝いましょうか?この事を魔王から聞いていらっしゃったんでしょうが、あいつが車を表にとめて待っている訳じゃないでしょう?」

「ふふっ。ありがとう。それじゃお言葉に甘えようかしら。私の車までお願いできる?」

頷いて肩に手を回して抱き起していた工藤一姫から工藤さんを受け取ろうとした瞬間に工藤さんが目を開けた。

「――姉さん!助け―あ―」

何度か瞬きをした後、お姉さんに掴みかかるように飛び起きて肩を掴んだ工藤さんが突然言葉を詰まらせた。テーブルの上のキキを見られたか。どっかに隠しておくべきだった。

「―ごめんなさい。私――」

「謝らないでくれ。間に合わなかった俺にも責任はある」

俯く工藤さんにかけるべき言葉が思い浮かばない。

どんな言葉もキキの死を覆せないなら空しいだけだ。まだ俺を責めてくれた方が楽だったのに。沈黙が重い。

「瑞姫ちゃん可愛い!」

「ふにゃあ!」

一姫さんに突然頭の上にある耳を握られた工藤さんが変な声を上げた。本当にこの人は空気を読まないな。

「え――――?」

工藤さんが自分の身に起きた事実に硬直する。そう工藤一姫がにぎにぎしているのは顔の横ではなく頭の上にある猫の耳だった。恐らくあり得ない感触に理解が追い付かないのだろう。

「鏡なら事務所を出て右手奥のトイレにある」

俺の言葉を聞いて工藤さんは、はじかれた様に飛び出していった。いずれ知る事になるとはいえ今ここで教えなくても良かっただろうに。本心から純真に思っていても我慢してほしかった。工藤一姫はにこにこ笑っているけど、どうする積りなんだよ。

「どう言う事よこれ!何で私に猫みたいな耳と尻尾が生えてるの!取れないし!引っ張ると痛いんだけど」

しばらくして帰って来た工藤さんが俺の襟首を掴んでくる。何で俺に言うんだ。

「キキがお前を助けるために魂を与えた事が原因だ、と思う。その耳と尻尾は魂の器に入りきらなかった部分だろう。アストラル体だから強い霊応がなければ見えないから安心していい。日常生活に支障はないだろう。―何があったか覚えているか?」

最後の質問をするかどうか迷ったが魂の融合なんて前代未聞だ。辛いだろうが彼女の魂がどの程度無事なのか確認するためには必要だろう。魂にはその人物のプロパティ情報が含まれている。万が一でも破損した箇所をキキの魂が上書きしていたら一大事だ。

どんな障害があるか全く予想がつかない。

「学校の帰りにキキにあって話しながら一緒に歩いていたら変な黒い人の影みたいなのに襲われて、逃げたんだけど公園で追いつかれて、それから―――」

話すうちに工藤さんの声から力が抜けて襟首を掴んでいた手が離れた。

「ありがとう。全部覚えているんだな?他には何か今までの事で思い出せない事は?」

俯いた工藤さんが力なく首をふる。なるほど。記憶に異常は無さそうだ。

まだ安心はできないが後は経過観察をしてみるしかない。自分の異変を自身で気付けるとは限らないからな。

「神門、私の所為でキキは死んだの?」

「―工藤さん」

「はい?」

工藤瑞姫に呼びかけた筈が工藤一姫が返事をした。

工藤一姫の顔にも声にも突然呼ばれて本気で驚いているようだった。

もしかしてこれが本物の天然ってやつなのか。

「いや、貴女ではなく―」

「ごめんなさい。でも工藤さんじゃ分かり難いわよねえ?瑞姫ちゃん。紛らわしいから名前で呼んでもらったらどうかしら?」

「え?まあ―別に良いけど―」

工藤さんが猫の耳をピクピク動かして言う。嫌悪感を抱かれていないという事は―。

「それは、友達になってくれるって、事なのか?瑞姫」

「いきなり呼び捨て?」

すごい睨まれた。嫌悪も憤怒もない。なんで?どう言う事だ?

「客には慇懃に友には無礼にってのが先生の教えだからな。嫌なら止めるけど」

「ふふっ。円香ちゃんが言いそうなことね。どうするの?瑞姫ちゃん」

「別に、嫌じゃないけど―」

「じゃあ友達だ。よろしくな。瑞姫。俺の事も竜明って呼んでくれ」

友達が出来たって事で良いんだよな。うれしい。顔がにやける。

そうか。こういう巡り合わせもあるのか。

俺はこのために生れて来たんだと思う。俺はこの子を全力で守ろう。友達を守るのは当然のことだ。これで良いんだよな?キキ、先生。

「いや。あんたは神門よ」

「なんで?」

「なんでも。というか何でそんなにうれしそうなの?」

呆れたように瑞姫が苦笑する。

「嬉しいからだ。俺はこのまま敵か味方か分からない奴らに囲まれて最後には裏切られてひっそりと死ぬんだと思っていた。でももう違う。俺は感情のまま意味もなく戦って死ぬわけじゃない。瑞姫のために戦って瑞姫のために死ぬんだ。本当にありがとう」

「死ぬとか言うな。あんたは大げさなのよ。友達ぐらいこの先いくらでも出来るわ」

「社長!友達が出来た!」

「―ふん」

いつの間にか自分のデスクに戻っていた社長に言うと鼻で笑われた。社長も嬉しそうだ。祝福してくれているのだろうか?

「まったく。―でも良いの?私のせいでキキは―。大切な人―というか猫だったんでしょう?」

「良いんだ。確かにキキは俺にとって先生と同じ家族みたいなものだったけど。こんなに穏やかな心で死んでいったんだ。瑞姫を守れて満足していたんだ。それなのにお前のせいだなんて言える訳がない。お礼が言いたいくらいだよ。キキを救ってありがとうって」

「分かるの?そういうの―」

「ああ。キキは自分を犠牲にしたんじゃない。瑞姫を助ける事がキキの望みであり願いだったんだ。だから自分を責めないでくれ。それじゃキキが可哀相だ」

そっとキキの身体を撫でる。死に際の感情はこの世界に強く残る。悲しみや憎しみの念が心の色が死体に焼き付く。そういう気配を見てきた俺には分かる。

歪んだ魂から生まれた妖怪であるはずのキキが羨ましいくらい心から安堵して死ねたんだ。これで俺が誰かを恨んだり瑞姫が自分を責めたりするのは間違っている。

「だから後の事は俺が何とかする。気になった事があればいつでも良い。何でも言ってくれ」

「だったら消して欲しいんだけど。出来ないのよね?本当にこれ普通の人には見えないの?」

「見たり触れたり出来るのは極少数だ。ここにいる人間は例外だと思っていい。尻尾だって服を突き抜けているだろう。帽子を被ったって耳は隠せないよ」

「―見たの?」

何故かスカート押さえながら半眼で睨まれた。ん?どう言う意味だ。耳も尻尾も見えてるんだけど素直に見たって答えてはならないと本能が告げている気がする。

「ああ―。見てない」

「何よ。今の間は!」

「お前が変な事を考えてそうだったからちょっと考えた間だよ」

「そう言えば忘れていたわ。メルがね、ソサエティの蔵書に魂に関して扱った本があるからそれで勉強しろって言っていたわよ。神門君、分かる?」

ソファに座って俺たちを眺めていた工藤一姫がまた唐突に言う。俺が言い掛かりをつけられているのを助けてくれた訳ではないんだろう。

「はい。大丈夫です。ここの本は全部読んで憶えていますから」

「おおぅ」

「全部覚えてるって―。どれくらい??」

「このビルの空いているフロアに置いてある分全部。一度読めば憶えられるだろ?」

「いやいや―普通無理だから」

瑞姫が顔を引き攣らせて言う。何かまずい事を言っただろうか?

「頑張ったのね」

「はい。一年くらいかかりました。でも色々先生の質問に答えると褒めてくれるんで、それが嬉しくて」

まあ、憶えていても理解できていない事もあるけど、それは今言う必要はないか。

このまま話題を変えよう。

「それよりキキの遺体ってどうすればいいんだろう?やっぱり生ごみなのか?」

「間違いじゃないと思うけど。ちゃんと火葬してもらいなさいよ」

「ああ。やっぱりそういうサービスがあるんだ」

「今からでよければ私の車で送って行けるけど。どうする?」

「それはさすがに悪いですよ」

「良いじゃない。人の好意には素直に従うものよ。行こう姉さん」

瑞姫は勝手にキキを抱き上げると一姫さんを伴って出ていってしまった。仕方ない。

「それじゃ、社長」

「ああ。全部終わったらまた来い。貴様向きの依頼が山ほど残っているんだ。忘れるな」

「―はい」

この人は優しいのか雑務を俺に押し付けて嫌がらせがしたいのか良く分からない。実際ソサエティには俺みたいな社員はいないから社長がこう言う事を言うのは予想出来ていたけれど。

もしその時がきたら社長を名前で呼ぼうか。そういう未来があっても良いかもしれない。


キキを膝の上に乗せて窓から見える夕焼けの景色を何となく眺める。工藤姉妹に連れられる様にして後部座席に座ってから今まで何も考えていなかった。頭の中が真っ白になって思考が停止するなんて先生が死んで以来だ。そう言えば今日は久しぶりに本気で怒った気がする。俺にもまだ人間らしい感情が残っていたんだな。

「あぁ、そうだ。海の公園に行ってもらいたいんですけど」

「はあい。分かったわ」

「え?キキの火葬に行くんじゃないの?」

「そうだ。ただ、自分でやる」

「んん?」

「まあ、後で説明するよ。それよりも携帯のアドレスを交換しよう。これから何かと必要になるだろうし。暫くは異常が無いか確かめるために出来れば週一で、少なくても月一で実際に会って話したいし。友達ならこれくらい当然―だろう?」

「いや、まあ―良いんだけどさ」

「うん?」

瑞姫が難しそうな顔をして困惑している。何故だ?何か変な事を言っただろうか?

「何でそんなに友達って事に拘るの?その―ちょっと気持ち悪い」

「―そう―か」

「瑞姫ちゃあん」

「ごめんなさい!でも、他に言葉が思い浮かばなくて」

謝られたが気持ち悪い発言は撤回されず。若干ショックだ。

「俺としてはこうしてはっきり言ってくれた方が助かるが―具体的にどこが気持ち悪いんだ?」

「何て言うか、がっついてる感じ?急にテンション上がるくせに、どことなく及び腰だから友達って言葉を免罪符にして言い寄られてる気がする」

ショックだ。

「なるほど。難しいな。先生には散々友達を作れと言われてきたけど、まさか出来るとは思ってなかったから、どう接すれば良いのかよく分からない」

「普通で良い―って言っても分からないのか。ええと、仲の良いって一人もいないの?一緒に仕事をした事がある人とか。そうだ。あの翡翠っていう社長さんとかは?」

瑞姫の言葉に胸が締め付けられる。先生やキキ以外の人が俺を気遣ってくれている事実に少し悲しくて、とても嬉しかった。

「誰もいない。法術師は基本的に極度の秘密主義者だ。自分たちが発見した法術を他人に知られる事を嫌がる癖に、他人の法術を知りたがる救いようのない馬鹿ばかり。だから法術師同士の交友はあり得ない。弱みを見せれば何をされても文句は言えないような世界だ。戦争中の敵国同士のスパイが本当に仲良くなれる訳ないだろう?普通の人と親しくなる事も弱みになるし、被害が無関係な人にも及ぶ可能性があるからって先生ほどの人ですらずっと一人だった。社長とも仕事の話しかしたことが無いし、仕事以外の用件であった事もない。それに俺は出生が特殊すぎるせいで先生以外の人をずっと避けてきたからな」

と言うより昔の俺は人間が大嫌いだった。

同じ生き物という意識もなく今からは考えられないほど喜怒哀楽が激しく傍若無人だった俺は炎の法術でからかって遊んでいたような気がする。それが先生が死んで法術が使えなくなってからの俺は燃え滓のように感情が希薄で無感動だ。

人間の事もさほど関心が無く、関わり持たなければ助けようとも思わない。先生を殺してしまった日も一日落ち込んだだけで直ぐに何も感じなくなった。キキの死に直面した今も一時的に怒れても、もう既に何も感じない。俺は一体どうしてしまったんだろう。

「ま―まあ、でも大丈夫よ。友達って言い出す前は普通だったんだから。慣れよ慣れ」

「ありがとう」

「だから、お礼なんていいって。さ、携帯貸して」

笑顔で手を差し出す瑞姫にウエストポーチから携帯を取り出して自分のアドレスを表示させた状態で手渡した。彼女は恐らく分かっていないだろう。俺にとって自分がどれだけ救いとなっているか。いくら感謝しても足りない。もう二度と俺は友と言える人と出会う事が無いだろうから。先生は俺に普通の人として生きて欲しそうだったが、やはりどう頑張っても無理そうだ。

「そういえば前に私の連絡先教えなかったっけ?」

「仕事上で知った事をプライベートに使える訳ないだろう」

「そっか。はい。終わったよ」

「ありがとう」

「またあ―。照れくさいから」

「慣れろ」

携帯を受け取って意地悪く笑ってみせると瑞姫は一瞬驚いた顔をした後、

「なに?」

引き攣った笑みを浮かべて頬を抓ってきた。

「何でもない。善処する」

「ふん。まったく。でも、これで私も気を付けないといけないのかな?」

「その必要はないだろう」

「何で?」

「俺が法術師じゃないからだ。周囲にただの人間だと思われるように市販の法具だけを使って村雨丸は極力使ってこなかった。俺があの安倍円香の弟子だと知っている人もほとんどいない。知名度ゼロの素人に構っていられるほど奴らは暇じゃないさ。ただ自分から法術を知っているような素振りを見せるべきじゃない。三猿が示す叡智のように悪い事には関わらないようにした方が無難だろうな」

「まるで法術に関する事が全部悪い事で法術師がみんな悪人だって言っているように聞こえるんだけど」

不愉快そうに瑞姫が顔を顰めて言う。

「ようにじゃない。そう言っているんだ。俺を含めて多かれ少なかれ法術師は現行の法律じゃ裁けないからって裏で好き放題やっている奴ばかりだ。例外はない。いいか?痛い目に遭いたくなかったら余計な事は見ない様にしろ。何を聞いても忘れろ。そして何があっても人に話すな。この鉄則を絶対に守れ。今回みたいな事がもし、もう一度あったら、今度は助けられないかもしれないんだ。納得できなくても俺の言った事を守ってくれ。いいな?」

「――分かった」

不満がありありと表情にでていたが渋々頷いてくれた。頭は良さそうなのに瑞姫は善人すぎるから心配だ。あるいは俺が悪人すぎるのかもしれないが。

「着いたわよ」

車が止まり工藤一姫が振り返って言う。

「どうも」

キキの亡骸を抱いて浜辺に向かう。日が暮れてきたせいか人影は疎らだ。それでも出来るだけ人目を避けて一番端まで歩くとポーチから赤い霊符を取り出してキキに張り付ける。

「何それ?」

ついて来た瑞姫がキキを覗き込みながら言う。

「俺の―火の力が込められた霊符だ」

昔まだ俺が法術を使えた頃に力を使いたくなったら何かを燃やす代わりに作っていた法具。

ストレス解消に当時は相当数作ったが手元に残っているのはこれ一枚だ。

後は全て先生と一緒に燃えてしまった。

「キキに言われていた事を思い出したんだ。その時が来たら先生と同じ方法で―俺の火で葬って欲しいって」

両手にキキを乗せて水平線に向けて差し出す。そして霊符に念を送ると直ぐに火が付き、キキと共に静かに燃え上がり、あっという間に燃え尽きて消えた。両手の平がズキズキと痛む。

猫を骨も残さず焼き尽くす炎に触れたせいで見るも無残な事になっている。こういう時は痛みに慣れていて良かったと思う。そっと傷口を隠しながら振り返ると工藤姉妹が神妙な顔で空を見上げていた。

「二人とも付き合ってくれてありがとう。それじゃあ」

「ちょっと!」

早々にその場を去ろうとすると瑞姫に腕を掴まれた。

「何だ?」

「どこ行くの?」

「え?」

考えていなかった。俺はこの場所から離れることだけで頭が一杯だった?どうしたんだろうか。何だか調子が悪い。こんな事は普段あり得ないのに。

「―ドッペルアドラーを忘れたから取りに戻ろうと」

「だったら一緒に戻れば良いじゃない。何、言っているの?」

「――だから、一人にしてくれって言ってるんだ」

「だめ」

「何故だ?」

「今のあんたを一人に出来ない」

「どう言う意味だ?確かに少し頭が回ってない感じだが、そこまで心配される程じゃない。俺は大丈夫だ」

「でも―」

瑞姫が猫耳をぺたんと寝かせて不安そうな顔をする。腕を離そうとしない所を見ると、全く信用して貰えていないらしい。参ったな。まさかキキが死んでも何も感じていない何て言える訳がないし。

「まあまあ良いじゃない竜明くん。今日くらい」

ニコニコしながら近づいてきた工藤さんが有無を言わさない雰囲気でもう片方の腕を掴んで、俺をずるずる引き摺って行く。

全然抗えない。って言うか痛い!

「は?や―ちょっと―。分かった。分かったから。言う通りにしますから。離してください!」

「ありがとう。良かったわね。瑞姫ちゃん」

瑞姫は複雑そうな顔をしていたが、その一方で安堵の気配を感じる。

まあ、それなら良いか。

「それで一つお願いがあるんだけど、いいかしら?」

「何でしょう?」

「私とも携帯のアドレスを交換して友達になりましょう?」

満面の笑顔で言われて俺は腕を摩りながら思う。もしかしたらこれから一生、工藤姉妹には逆らえないのかもしれないと。


 高校の帰り道にある花屋の前で意外な人に出くわした。

「やあ。工藤君」

相手はさして驚いた風もなくそう言って微笑んだ。何もかもが黒尽くめのスーツにスポーツ選手がしているような形の色の濃いサングラス。手には黒い手袋までしている。一目見ただけでは分からなかったけどその顔にある×の字の傷跡を見てようやく誰か分かった、

「アンバー、さん」

「ここで君に会えるとは僥倖だな。近くでコーヒーの美味しい店を知らないだろうか?ケーキでも良いが」

という訳で何故か私が知っている喫茶店に案内する事になった。

らいむらいと、という名前で小さな店内には所狭しとアンティーク調のものが飾られていて、この昔ながらといった雰囲気が気に入っていた。

それにケーキもコーヒーも美味しい。

「なるほど。私はいつも神保町の天球堂という喫茶店を利用しているが向丘にもこういう場所があるのだな」

一番奥まった席に座ってアンバーさんがチョコレートケーキセット、私がチーズケーキセットを注文した。

どうやら気に言ってくれたみたいだけど店の中くらいサングラス取れば良いのに。

「私は体が締め付けられるのが苦手でね。面も眼帯も我慢できないのだよ。このサングラスは代替として妥協できるぎりぎりのラインなのだ。不快にさせたのなら詫びよう」

「いえ―別に良いんですけど。顔を隠すための、と言う事ですか?」

「ふふっ。私が顔を隠さねばならない人物だとでも?工藤君は私に会う前にどこかで私の顔を見た事があったのかな。指名手配されている私の写真なり似顔絵なりを見た事が?」

「―見た事ありません」

「ではこの顔の傷のせいかな?それとも私が殺人犯だから、こそこそしているべきだとでも?おかしいな。私には顔を隠さねばならない理由が思いつかない」

「すみません。気に障ったのなら謝ります」

何気ない質問の積りだったのに私を責めるように立て続けに質問を返されて思わず頭を下げていた。前あった時はもっと機嫌が悪そうでも簡単に答えてくれたのに今日はどうしたんだろう。何だかあの時と口調も雰囲気も全然違う。サングラスをかけている上にニコリともしないで言うから以前よりもずっと怖いんですけど。

「うむ?ああ―怒っている訳ではない。私はもともと無表情でね。迂遠な物言いも癖なのだよ。私の尊敬する人物のものが移ったのだろう。許してくれ。面についてだが私は顔を隠したくて面をしている訳ではない。あれはグリームニルという名でね、私の力を封じる力を持った法具なのだよ。まあ、あっても無くても変わりはしないが、無いよりはマシだろうという程度だが。だからサングラスは眼帯と同じ役割を持っていると言えるのだ。私の左目は昔、友人にやってしまってね。人に不快な思いをさせないためなのだ。ちなみにこの手袋も同じ理由だ。分かってもらえたかな?」

微笑む彼の表情が作られたものである事が何となく分かった。

この人は感情を表に出すのが苦手な人なのかもしれない。微笑んで見せるのも相手を不安にさせないためなんだろう。取っ付き難いけど優しい人なんだという事が伝わって来た。

私がこの人には二回しかあった事がないけれど毎回違う人と接しているような気がする。

今回は今までと違って威圧感も恐怖も何も感じない。まるで普通の人のようだ。

どう言う事なんだろう。

「はい。私の方こそかえって失礼な事を言ってしまったかもしれません。済みませんでした」

「構わんよ。この傷は目立つ。と言うより人目を引く事が目的でつけられたのだ。こいつは呪われているぞ、とな。忌み子の印なのだよ。だが私は自分の容姿について何も感じていない。そもそも形や色につて好き嫌いや良し悪しを決めてしまう事の方がナンセンスなのだ。それは個々人の感情という相対的な価値観であり絶対的なものではない。この世界にあるものは存在しているというだけで充分認められているのだから」

「―はあー」

何が言いたいのか良く分からない。この人なりに私の言葉に応えようとしているのだろうけど、何か話す度に論点がずれて言っている気がする。

「君の耳や尾と同じようにね」

びくりと身体が震えた。急に言われて驚いた。恥ずかしい訳じゃない。最初は気になってしょうがなかったけど一日もすれば慣れてしまった。

実際これが見える人はいないようだし、私自身、違和感がない。

だけど、これを目にする度にキキの事を思い出す。どうしても考えてしまう。彼女がどうして、どんな思いで、私を助けたのかを。

神門は気にしなくて良いって言ってくれたけど、昨日からずっとその事が頭から離れない。

「今日一日過ごしてみてどうだった?」

「どう―と言われても。これといって何も―」

私が黙っていると注文していたケーキとアイスコーヒーが運ばれてきた。

彼は無表情で何を言うでもなくブラックのままコーヒーをすすりチョコレートケーキを食べ始めた。けど私はミルクを入れてかき回しながら何だかもやもやしてケーキに手をつける気にはなれなかった。

「どうした。食べないのか?美味いぞ。ああ―ここは私の奢りだ。足りなかったら追加で頼んでも構わんよ」

「あの―それは良いんですけど。貴方が私を助けてくれたんですよね?」

彼は何も言わずに私よりもケーキを食べる事に忙しそうだった。

「理由を聞いても良いですか?」

「キキ君は限界だったのだ」

三分の一くらい食べ終えた所でフォークを置いてコーヒーを一口飲んでからようやく言った事がそれだった。またズレている。

「妖怪とは人の曲霊から生まれるモノだ。キキ君の場合は純粋な悲しみだけしか持たず生まれてきた。それが幸か不幸か結果的に自我を持つに至れた訳だが。しかし日々刻々と肥大化する自己が自我を飲み込むのは時間の問題だった。放って置けば、いずれキキ君は禍を振り撒くあやかしに成っていただろう。それでなくても感情は伝播するものだ。彼女は身近な人に悪影響を及ぼすのではないかと常に気にしていたようだ」

「キキが貴方にそこまで話していたんですか?」

「いいや。ちょっと話せば分かる事だ。それに調べもした。依頼人の本当に望む事を叶える事が私の仕事なのだから」

「―依頼人?―それはっ―」

私の言葉に少し笑って彼はケーキを少しずつ食べながら、ついでのように淡々と抑揚もなく話を続けた。

「彼女に初めて会ったのは私が来日した当日、約一ヶ月前だ。自己の肥大化を抑制してくれと依頼されたが、しばらく話してそれが彼女の本当の願いではない事が分かったのでね。人と接する時間を対価に協力する事にした。自分の代替者を見つける、という彼女の目的は手伝わせてもらえなかったがね。キキ君は相棒の事をずっと心配していたよ。『竜明は私を心の支えにしている。私がいなくなったらどうにかなってしまうのではないか』とね。いじらしい話だ」

「その代替者が私って事ですか?」

声が震えないようにするのに努力が必要だった。彼の話が核心に近づくにつれてじわじわと背筋を冷たいものが這うような気がした。頭がくらくらする。血の気が引くってこういう事か。魂の融合ってそういう事だったの?私はいずれキキに身体を乗っ取られて私でなくなる?それがキキの願い?

「そうではない。結局、キキ君は最後まで代替者を見つける事が出来なかったのだ。彼女は自分の心にある本当の願いから目を背けていたようだが、とうとう心を押し殺す事は出来なかった。ずっと一緒にいたい。そう遮二無二願えば良かったものを。キキ君は本当に彼の事を心から――。いや、よそう。私のようなモノがこれ以上は口にすべきではないな」

「それじゃあキキは何で私を助けたんですか?自分の命を差し出してまで。神門と一緒にいたかったのならそう願えばよかったのに。貴方ならそれが出来たんですよね」

「天魔という私の法術は等価交換を原則としている。彼女は自分の願いを叶えるために支払われる対価が大き過ぎる事を悟っていたのだろう。願いを叶えるためにそれ以外のすべてを犠牲にする。たとえば神門君と一緒にいるために自分が自分でなくなる。そういう本末転倒ともいうべき事が天魔にはままあるのだよ。なによりキキ君は他者を犠牲にする事も自分の願いが神門君を縛り付ける事も忌避していた。人生とは本当にままならないものだ」

「それじゃあキキは全部諦めて、死ぬために私を助けたってことですか?そんな―」

「それはあり得ない」

「なぜ?」

「キキ君の自己を形成する核は、飼い主が殺された際の悲哀なのだ。命が失われる事の意味を理解している彼女が自殺などしないよ。それだけはあり得ない」

「じゃあ―」

声を荒げそうになった瞬間、鋭い視線に射竦められ言葉が詰まる。

「落ち着きたまえ。キキ君の心は彼女のものだ。その事について言葉を連ねる事はそれをより曖昧に遠ざける事になってしまう。だから私に言える事はただ一つ。キキ君は君と話す事で何か希望を見つけたのかもしれない。と言う事だ。事実、君たちは友達になったのだろう?」

「―え?どうして――」

「勘だよ。知っていた訳ではない。私はある程度、話せばその人の精神構造をトレースする事が出来るのだよ。もちろん完全ではないが。人格や思考の傾向から言動を予測できる。工藤姓が二人揃えば名前で呼ぼうという話になるだろうし、そうなれば神門君は嬉々として君と友達になろうとするだろう。

彼の事だから一姫君は私の味方として警戒を解かないだろうし。何をするにもいちいち理由がいるとは不自由な事だ。何故、人間は自分の望むものを自ら遠ざけるのかね。遠くに置いて眺めていたいのかな。目の前にあるのだから手に取れば良いものを」

また沈黙が下りる。

この人の話を聞いていると頭が痛くなってくる。上手く理解できない私がバカなのかな。

キキは私に希望を託したって事で良いの?私が神門と仲良くなることを見越して?

結局キキの思いはキキにしか分からないってことか。

「そう―。分からないで良いのではないかね?」

どきっとして顔を上げると彼がじっと私の事を見ていた。

心を読まれた?

精神構造をトレース出来るって言ってたけどまさかね。私はほとんど話していないのに。

急に目の前の人が魔王と呼ばれている人物だという事を思い出した。

彼に見られているというだけでぞぞぞっと言いようのない恐怖が湧きあがってくる。

「私がキキ君の心理を事細かく解説した所で彼女の気持ちを理解できる訳ではない。数式の解法を教えられるように言われても空しいだけだ。感情は言葉にした途端、嘘になってしまう。言語とはあらゆることを単純化するという事に他ならないのだから。真理とはほど遠い」

「それは―そうかもしれませんけど」

「不安なのだね。死と言うものをその目で見て身近に感じたから。自分の生を認識してしまった。その不確定さを不自然さを漠然と感じてしまったから。普段、必死に忘れようとしていた事を思い出してしまったのだね」

「違い―ます。私は―そんな事が怖い訳じゃなく――キキが私のために死んだ事を――」

重荷に感じている?

だって私にはキキが自分の命を犠牲にしてまで生きる価値なんかない。

しょうがないじゃない。

「違う。人の価値として評されるものは全てその人本人以外のものだ。命の価値は等価なのだよ。工藤君が生き残った事とキキ君が死んだ事は本質的には無関係だ。評価とは何が残ったかではなく何が失われたかで下される。それに真に人のために行動できる者はない。キキ君は自分のために死んだのだ。やりたい事をやったその結果、命を失ったという評価が出来る訳だがそれをどう思うかは人それぞれ。少なくともキキ君は不満を抱いてはいなかっただろう」

彼の言っている事は何となく分かる。

でもだからってキキが勝手にやった事だ、誰も助けてなんて頼んでないなんて思うのは絶対に間違っている。

少なくても私は生きている限りキキに感謝し続けなくちゃいけないんだ。

「そう、だからこそ工藤君がどう思おうとも自由なのだよ。工藤君の魂は君のものだ。魂は寄り添う事は出来ても一緒にはなれない。触れあったら壊れてしまうのだから。キキ君の自我も自己も、もうどこにも存在しない。彼女の魂だった物は工藤君の魂として機能して元に戻る事はない。あやかしとしての力も私が対価に貰った。もっともキキ君の記憶と知識は融合させずに器の外に耳と尾の形で表出する事になってしまったがね」

「これ―キキの記憶なんですか?」

「そうだ」

「あやかしの力を貰ったって――」

「それが工藤君を助けるために必要な対価だったのだよ。君の尾は二股ではないだろう?」

そう言えばそうだ。

キキって妖怪の猫又だったっけ。私の尻尾は真っ黒な尻尾が一本だけだ。

「それじゃあキキの記憶や知識を私が読み取る事って出来ないんですか?」

「それを私は工藤君に伝えに来たのだよ」

ああ、やっぱり偶然じゃなかったんだ。

今更だけど。

「どう言う事ですか?今まで全然関係ない話してた気がしますけど」

「うむ。どう切り出そうか考えていたのだよ。何と言えば良いのか分からなくてな。工藤君と話していればいずれこの話題になるだろうと―」

ケーキを突きながら言う彼を見ていて思ったんだけどこの人、実はもしかしてものすっごい口下手なのか。

思っている事を口にするのが苦手な人なのか。

信じられないけど。

「なんか私の悩みの相談に乗って貰うかたちになって済みません。私の耳と尻尾―キキの記憶の事で話があったんですよね?」

「ああ―七人みさきに襲われた事で君の魂を修復するためにキキ君の魂を使った訳なのだが、規格が同一の箇所は良くてもプロパティの内、キキ君のパーソナリティデータは融合させると本体の魂そのものに取り返しのつかない傷をつけてしまう。その為、その部分を切り離して工藤君の魂とは別に保存する事になった。それがその耳と尾と言う事になる。今からでもキキ君の記憶や知識といったパーソナリティデータを読み込むことはできるが非常に危険だ。魂から魂へ直接情報をやり取りするため工藤瑞姫というフィルターを介さない事になる。キキ君の記憶は工藤君の記憶として保存される事になるのだ。その区別はつかない。言葉で言っても理解しにくいだろうが。分かるだろうか?」

正直、分からない。

と言うより頭では何となく分かっても実感が伴わない。

これって分かったって事にならないわよね。

キキの記憶を私の記憶として認識する事になっても猫と人間なんだから分かるような気がするんだけど。

「その時の感情や五感からの刺激。そういったものを君は工藤瑞姫でありながらキキとして追体験する事になる。身体の差異など関係ない。そして君は猫又のキキだった頃の事を思い出すのだ。記憶や知識の抽出を続ければいずれ君は自分がキキなのか工藤瑞姫なのか分からなくなるだろう」

「――――すみません。頭では分かるんですけど。やっぱりその危険性をどの程度認識できているかと言われると――」

正直に言うと彼は黙ってしまった。

沈黙が重い。

なんか私が叱られているような感じになっているのはなぜ?ぼーっと無表情に私を見つめる彼からは何の感情も伝わってこないけど、この空気はいたたまれない。

「あの――」

「めんどいな―」

「は?」

彼のぼそりと呟いた言葉に思わず声を上げる。この人今なって言った。

「手を出したまえ。私のいない所でやられては今日会いに来た事が無駄になってしまう」

「―はあ」

左手の手袋を外して差し出されたから私もその手に手を重ねる。

その瞬間、何をされるでもなく唐突に意識が遠のいた。

海に面したマンションの一室。

部屋の中には行く先々で意味もなく買ってきた種々雑多な置物や、ぬいぐるみが無造作に置かれていて床面積のほとんどを埋め尽くしていた。

この女の孤独を表しているそれらは主の感情を吸い取ってか悲しげにこっちを見つめてきて、いつも落ち着かない気分にさせられる。

「ほら、どうした。食べないのかよ」

丸テーブルの上に座った私の前に猫用のマグロ缶の中身を平皿に盛ってTシャツとショートパンツ姿の円香が差し出してくる。自分はビール片手に鰹のタタキを手掴みでつまんでいる。マグロ缶も嫌いじゃないけど、このジャンクフードみたいな感じに飽きてしまったのよね。

「豪華な食事を用意するから仕事を手伝えって言うから乗ったのに。何なのこれは。いつもの缶詰じゃない。こんな物がただの家出猫の捜索と思ったら、良く分からない組織だか結社だかに目の敵にされたあげく、あやかしに襲撃されていた貴女を助けた相棒に対する報酬なのかしら」

「何だよ。高かったんだぞ。一個二百円もしたんだ。そんなにちっちゃいのに。私だってどこか店に連れてって豪勢に振舞ってあげるのもやぶさかじゃないけどさ、あんた猫じゃん」

「自分で料理するって選択肢はなかったのかしら?」

「キキさん。私に何を期待してるの?」

「それもそうね。ごめんなさい」

この女は料理が出来ない。と言うより世間一般で女性的とされている事の一切が下手だった。掃除は自分の生活圏内だけでそれ以外の場所はほったらかし。料理は酒のつまみだけ。それも彼女の師匠が動物性の物を受け付けなかったらしくバリエーションは乏しい。

「まあまあ。私の鰹もあげるから機嫌直しなよ」

目の前に垂らされた鰹のタタキを貰って食べていると背中を撫でられた。

「ちょっと!」

「良いじゃないか。少しくらい触ったって。仲良くしようぜ、キキ」

円香が寂しそうに笑って言った。

頬を涙が伝い落ちてゆく。それを優しく拭われる感触に今、自分がどこで何をしていたのかを急に思い出した。懐かしい記憶を白昼夢に見ていたような気がする。

「大丈夫かね?自分が誰か分かるか?名前を言ってみてくれ」

「私はキ―――――工藤瑞姫」

記憶が混乱している。キキと言いそうになった。私の名前は瑞姫。でも今もはっきりと思い出せる。円香と一緒に食べた鰹の味もマグロ缶の味も背中を撫でられた感触もマンションに吹く海風の匂いも。

「私―円香の事――」

「忘れていた訳ではない。君たちは一度もあった事がなかった筈だ。どれだけリアリティがあっても今の記憶は全てキキ君のものだ。しっかりしろ!」

強く言われてまだ零れてくる涙を拭う。

うん、もう大丈夫。だいぶ意識がはっきりしてきた。

これが魂から直接受け取るって事なんだ。一度もあった事がない筈の人に対する感情が全く違和感なくある。学校の友達に対するものよりもずっと強い友情を感じる。こんな不自然な事はないのに指摘されても簡単には受け入れ難いほど私の中では当たり前の事になってるなんて。その事に恐怖を抱かない事が怖い。

「キキ君と工藤君の魂に明確な境はない。君が望めばいつでも私の手を借りずとも今と同じ事が出来るだろう。だがキキ君の魂を吸収すればするほど君は自分がキキなのか工藤瑞姫なのか判別が出来なくなって行く。最悪、重度の精神疾患を誘発する可能性がある。やるなとは言わないが相当の覚悟をもって行いたまえ。私の様になっても良いというなら別だがね」

「私の様にって、それどう言う意味ですか?まさか貴方も――」

「おしいが違う。私には他人の魂を奪う事が出来るのだよ。法術師は極度の秘密主義者で自分の知識を親兄弟にすら話さないしメモを取るにしても全て暗号化するのが当たり前だ。だから私はどうしても必要な知識はその人物の魂ごと奪って吸収するという事を何度も繰り返していた時期があってね。おかげで私は私が誰だか分からなくなってしまった。可笑しいだろう。笑っていいのだぞ」

本当に笑いながら彼は言う。けどそれはとても機械的な笑みだった。

面白いからでも場を和ませる為でもなく笑えと言われたから無理に笑っているようだった。

何も感じていないんだ。何人、何十人、もしかしたら何百人もの魂で感情や記憶がぐちゃぐちゃになっているのに。

「笑い事じゃないわよ!そんなの――笑える訳ないじゃない」

「笑い話なのだよ。解離性同一性障害、俗に言う多重人格を患う事になったが、それとて主殿に言わせれば元からそうだったのだそうだ」

「―多重人格?」

「混沌とした人格をその中でも強い自我を持った我々三人に任せて主人格は奥に引っ込んで表に出てこない。自己防衛のためなのか、あるいは単純に怠けているのか。あれもこれもと欲張った結果自分で制御できなくなった事は笑うよりない」

「平気―なんですか?」

「ああ」

「じゃあ―私が貴方とあったのが初めてだと思ったのは――」

「私の名を土御門流と言う。怠惰の感情を司る主殿を支える三柱の一つ。はじめまして。名乗るのが遅れて申し訳ない。ああ―それと私の性別は、一応女だよ。口調がこんなだし身体は男だから信じられんかもしれないがね」

私の勘は当たってたんだ。

まさか女の人の別人格だとは思わなかったけど。たぶんこの人は嘘をついていない。今の話を聞いて辻褄が合った。

「はじめまして。何て呼べば良いですか?ツチミカドナガレさん」

「――土地の土に御の字の御に出入り口の門で土御門。流れるで流という字を書く。土御門でも流でも好きに呼びたまえ。ところで信じるのかね?今の私の話を」

「はい。彼方に会う度に別人に会っているような気がしていたのは本当ですし、今の話がたとえ嘘であっても私には何の関係もありません。私が損をしない。彼方も得をしない。そんな事で流さんは嘘をつかない。違いますか?」

「ふくくっ。ようやく慣れてきたかね?調子が出てきたじゃないか。なかなか賢いじゃないようだし。なるほど。主殿が気にかける訳だ」

「その主殿って人が流さんの主人格ですか?」

「工藤君が初めに会ったお方だよ」

「あの人が―――」

私が一番恐怖を感じた人だ。平然と人を殺して嘘をつく。魔王のイメージにぴったりの化け物。思い出したら寒気を覚えた。今もあの人の恐怖は私に沁みついている。

「ちなみに二度目に会ったいけ好かない奴が憤怒の感情を司る東雲八雲だ。他に傲慢の感情を司る神門竜明と言う奴がいる。」

「その主殿って人に名前はないんですか?実は三人目の人と同じ人だとかじゃなくて?」

「主殿に名はない。我々も知らない。故に我らも真似て名を名乗らない事が多いのだよ」

「彼方たちは何とも思わないんですか?その人は彼方たちを殺して知識を盗んだ本人なんですよね」

「何とも思わんね。少なくとも生前に主殿と私がどういう関係にあったにせよ今の私はあの方を畏敬申し上げている。たとえ我らの言動が全て主殿の掌の上の事であろうともあの方の命に従えることを誇りに思っているよ」

「そうですか――」

「止めて置きたまえ。我々は特殊だ。君の参考にはなり得ない」

「ばれました?――」

全部お見通しか。そりゃそうよね。

仮に私がキキの記憶を全部吸収して上手く人格を分割できたとしても、この人のようになれるとは到底思えない。

キキに完全に私の人格が乗っ取られるか自分が誰なのか分からないストレスを抱えながら生きて行かなくちゃならなくなる気がする。

「でも良かったんですか?今更ですけど今の話って秘密なんじゃ」

急に神門から聞いた三猿の叡智の事を思い出した。

法術師と接する上での鉄則だと昨日、車の中で強く言われたんだっけ。

この人も一応、法術師なのよね。

「構わんよ。私とて礼儀は弁えている。今日ここで私とあった事も話した事も私の存在ごと忘れてしまうのだから暗黙のルールには抵触しまい」

「―――忘れるってどういう事ですか?」

「私の法具である三十枚のシェケル銀貨は時空連続体に接続できる銀の鍵という特性を持っている。時間という概念に囚われず連続した過去現在未来に自由に行き来できるという事は、どの時間にも同時に存在できるという事であり、かつどの時間にも存在しないという事だ。銀を使い続けてきた私はその力の影響を強く受けている。そのせいで私は確率的に現在にいるように見えるだけで本来はどこにもいない。だからこの世界の人間には私は認識できない」

また難しい事を。

つまり流さんは過去と現在と未来に同時に存在しているって事?だから現在時間にとどまる事を止めれば現在にいるのに認識できなくなる?

でもそれって今に限った事じゃないんじゃないの?

「じゃあ―何で私は流さんを認識できるんですか?」

「私が銀を使って君に私の姿を見せているのだよ」

私の考えている事があらかじめ分かっていたかのように直ぐ答えが返ってくる。

「銀は常温で気化する。体に取り込まれた銀は血液中に留まり外に出る事はない。つまり一時的とはいえ銀と言う法具の所持者になる訳だ。もちろん支配権は私にあるから何も出来ないがね。それでも銀がある所に私はいる。銀を通して私が認識できるという訳だ」

「私の身体の中に法具が―」

「君に限らず私と接し、私を認識できた人間は全て銀の所持者と言えるだろう。君の姉である一姫君は別だがね。彼女は賢者の石によって私を認識している。それでも私の声や姿を実際に見なければ私の事は思い出せないが。今まで一姫君は私の存在を君に話した事は一度もなかったのではないか?」

「―はい」

確かに最近の姉さんと私が知っているいつもの姉さんは全然違う。

普段あんな姿を見ていれば彼氏でも出来たんじゃないかと疑っていたと思う。

「でもそれって大丈夫なんですか?」

賢者の石で認識させているって事は姉さんに銀を持たせる事をこの人が避けているという事だ。安全ならそんな事するだろうか。

「銀の所持者は身体の回復力が向上する。常に健康に肉体的な病気もせず普通の人間なら致命傷となる傷を負っても回復するし寿命も飛躍的に伸びる。エリクシルという特性だ。しかし長期間、エリクシルの効果にさらされると体が馴染んでしまい今度は銀がなければ生きていけなくなる。こうなってしまうと私の傍にいなければ生きられない」

「それじゃ――」

「大丈夫だ。銀の致死量は千分の一ミリリットルと僅かだが人体の吸収スピードは非常に遅い。何十年も私と共にいなければそんな事にはならないよ。今日、君に会って工藤君の銀は回収させてもらったから安心したまえ」

「――私に会いに来た本当の理由はそれだったんですか?」

「ふふっ。その通りだ」

やられた。怠惰を司るとか言っていた流さんがそんな面倒くさい事を説明するだけに来る筈がない。

「君との会話が楽しくてつい長居してしまったな。そろそろお別れだ。工藤君」

いつの間にかケーキもなくなりコーヒーを飲み終えた流さんが立ち上がる。

駄目だ。このままじゃ良いように翻弄されただけで終わっちゃう。

何か最後に一発くらわせてやりたい。あっと言わせるような事を、何か―。

「あの―これで彼方の事を忘れてしまうのなら最後に一つだけ質問させてください」

「―何かね?」

「本当は、貴方は誰ですか?」

私の言葉にニイッとぞっとするような笑みを浮かべてサングラスを外した。

「私はシューニヤナーガルジュナアバタールだ」

機械でできた彼の左目を見た瞬間、意識が遠のいた。

「――――あれ?何してたんだっけ?」

いつものらいむらいとで私の前には手がつけられていないチーズケーキセットがあった。学校の帰りに寄ったんだっけ?時計を見ると十七時をだいぶ過ぎていた。

「ええ―?」

勿体ないけど急いでケーキとコーヒーを流し込んで店を出た。どう言う訳か既に代金は支払われていたんだけど。私、一体何してたんだろ。記憶がなくなるなんて神門に相談した方が良いのかな。


 七月十二日午前二時。

日付が変わった真夜中に出歩くなんて久しぶりだった。

普段、僕は日が沈む頃には就寝するので街を出歩くというだけでも十分新鮮なのに夜の街となるともう別世界に見える。そもそも街並みが日本に見えない。地下で生活していると時間や曜日の感覚が曖昧になってしまって時代が変わるほど引き籠っていたんだなあと改めて実感した。

彼が設計したあの地下施設は四季の移ろいや太陽の動きを日の出から日没までを忠実に再現するくせにカレンダーも時計もない。そういう外の情報を一切断たれた閉鎖空間で長く生きてきたため同じ時間を過ごしてきたはずなのに浦島太郎の気分だ。

この時間の千代田区神保町は街灯と信号機の灯りだけで人影はない。その事に何故かほっとしている自分がいる。さて、何十年も人とまともに接してこなかったから対人恐怖症にでもなったか、はたまた友人の人間嫌いが移ったのか。

或いはもう、僕の自我も限界が近いと言う事なのかな。

入り組んだ路地の奥。目的地である天球堂という喫茶店のある辺りは暗くはなかった。

行燈看板は仕舞われてしまっているけど場所は今も覚えている。

最後に来たのは確か百年くらい前だった気がする。相変わらずの懐古趣味だ。窓から店内を覗いて見てもオレンジ色の灯りがぼんやりとついているだけで営業しているようには見えない。彼好みの演出だな。

ドアを開けて薄暗い店内に入る。テーブルやカウンタに置かれた灯りの光量は非常に弱く店の奥までを見通す事は出来ない。その闇と光の狭間に彼がこっちを向いて微動だにせず立っていた。いつもの黒衣に肩まである黒髪と眼帯からのぞく白皙の美貌。今日は面をしていない。

無表情で黙っていると生気をまるで感じられずマネキンのようだ。

「ようこそ。天球堂へ」

手でカウンタ席を示す彼の声を聞いて雷に打たれた様に全身に戦慄が走った。

「誰だ、君は――?」

僕の知っている人格ではない。目の前にいるのは神門竜明でも東雲八雲でも土御門流でもない。トリニティと呼ばれる主人格を支える三人格。それ以外が表に出ているなんてあり得るのか。

いや、彼と初めて会った時、まだ彼の事を知らなかったから分からなかったけど、あの時の人格が今の彼なのか。ならば彼こそがトリニティが主や神と崇め奉る魔王その人なのか。

「ごめん。君の事は何て呼べば良いかな?まだ名前を知らなかったと思うけど」

「好きなように呼べば良い。どう呼ばれても、それは私の事であり、また、ない。エヒイェ・アシェル・エヒイェ」

私は在って在るものである?なんて事を当たり前みたいな顔して言うんだ。ニコリともしないせいで冗談なのかすら分からない。

「じゃあいつも通り鵲と呼ばせてもらうよ」

言いながら示された席に座ると鵲は僕のことなんか忘れてしまったかのように一つ離れた席に座った。

「ヴァィツェンをくれ。ああ―君も何か好きなものを頼め」

「じゃあ、緑茶を―」

カウンタに控えていた三つ揃えのダークスーツを着たマスターに注文を伝える。彼は僅かに頷いて奥へ消えて行った。慇懃で寡黙な彼が取り仕切るこの天球堂のメニューには普通のコーヒーや軽食にケーキなどが載っているんだけど、頼めば何でも出てくるちょっと変わった店だ。この店のオーナーの鵲が傍若無人な事を言うからだろうと僕は思っている。入口から入って右手にカウンタがあるんだが収容人数二十人弱の喫茶店のくせにバーのようにバックバーにズラリと世界中のありとあらゆる種類のお酒が陳列されている。見ているだけで酔ってしまいそうだ。

所在なく鵲に目を向けると気だるそうに頬杖をついて茫然としていた。今日は彼に呼ばれた訳だけど何の話があるのだろうか?なかなか言い出せずにいると結局、鵲と一言も話さないまま温かい緑茶と大ジョッキに並々と注がれた白ビールが届いてしまった。

仕方がないので一口飲んでその美味しさに驚き感想をマスターに伝えようとしたら――。

「おかわり」

「―え?」

僕の湯呑の何倍もある大ジョッキのビールがなくなっていた。

「はやい―な」

「そうか?こんなもの水やジュースと同じだ」

僕にはたとえそれが水やジュースでも一気飲みできる自信はない。顔色一つ変えずに大ジョッキを差し出す彼の前に赤茶色の飲み物が注がれた白いカップが置かれた。この香りは紅茶だろうか。

「うまづら。私はいつ紅茶の頼んだ?」

「これ以上はお体に障ります」

一言ずつ交わしただけで沈黙する二人に僕も言葉を失っていた。鵲がこれほど大酒のみだという事もそうだが、これほど直截に人の悪口を言った所を初めて見た。馬頭と言う名のマスターが涼しい顔で彼の命令を拒絶した事もまた驚くべきことだ。彼らの関係は相変わらず良く分からない事ばかりだ。黙ったままの二人が頭の中でどんな会話を繰り広げているのか。僕には見当もつかない。

「臆病は文明人のみの持っている美徳である――」

苦虫を噛み潰したような顔で呟くと鵲は紅茶を一口飲んだ。まさか折れたのか?あの鵲が。

「手紙を受け取ろう」

「あ、ああ」

いきなり言われて慌てて着物の袖の中に入れて持ってきた便箋を彼に渡すと直ぐにそのまま黒衣の中に仕舞った。

実に呆気ない。別に何を期待していた訳ではないけれど。

「今日はこの為に呼んだのか?」

「私が何であるのか忘れたのか?人の弱みに付け込み欲望を曝させる。天上欲界の支配者。第六天魔王波洵。その悪魔が話があると言っているのだ。用件など一つしかないだろう?」

ニイッと微笑む彼の顔を見て確信した。鵲はかぐやの事で僕を呼んだんだ。

「やはりそうか。かぐやの手紙は今回が最後になると言っていたね」

「猊下が予言した。二千四百年、世界が滅びると」

「――――あと半年もないのか」

世界はいずれ滅びる。

それは鵲から知らされていたからそれほど驚くべき事ではないが、それでも改めて聞かされると薄ら寒いものを感じる。

今が二三九九年七月十二日の水曜日。鵲が言う猊下がミシェル猊下なら彼の所有する法具であるミラビリス・リベルの予言的中率は九九パーセントだ。

百パーセントでないのは、かつて鵲が二千年に世界が滅びるとの予言を覆した事が原因らしい。そしてまた彼はほぼ確実に実現すると言われているミシェル猊下の予言を実現させないために東奔西走していた筈なんだが。

「でも大丈夫じゃなかったのか?」

「私が予言しよう。猊下の予言は外れる―と。だが、そんな事よりも大切な事がある」

「そうか―。かぐやの寿命は世界の死よりも早いんだね」

彼は答えない。それでもそれは直接的な表現が出来ない彼なりの肯定だ。これも事前に分かっていた事ではある。覚悟はできていた。その筈なのに油断すると理不尽にも彼を責めてしまいそうになる。でも何故それを今更わざわざ僕に伝えるんだ。

「法具を発現した全ての法術師の宿命だ」

無機質な鵲の声に苛立ちを覚える。そんな事言われなくても分かっている。法具とは法術師自身の神の刻印から引き出した力そのものが形になったモノだ。そのため力を使えば使うほどその力に自分が蝕まれることになる。死を司る月読の力を持つかぐやは唯の人間だった僕を生き永らえさせるために使用した天の羽衣の力に侵され続けていた。天の羽衣が暴走すれば自分ごと周囲の生物を全て巻き込んで黄泉へと引き摺り落とす事になる。それを避けるために僕は悪魔と契約を交わしたんだ。

法具の暴走に誰も巻き込まずにかぐやを心安らかに死なせて欲しいと。もし、かぐやが誰か殺しそうになったら、その前にその手で殺してくれと。

その代わり僕は今後一切かぐやに会わないという契約。かぐやが死んだあと僕の事も殺して貰う約束をしている事を彼女は知らないだろうけど。

僕は今までずっと天の羽衣に命と心を支えられながら愛する人が死ぬ日を指折り数えてきた。僕さえいなければ苦しまずに済んだだろうに、と自分を呪いながら。

「約束通り、全て君に任せるよ」

ようやくそれだけ口にして鵲の方を見ると彼の黄金に似た琥珀色の瞳と目があった。

「本当に、それで良いのか?」

悪魔のような微笑みを浮かべて鵲が言う。

「何を―言って――」

「このまま死に目に会わず、かぐや君を、私が殺しても、本当に良いのか?」

「あ―当たり前じゃないか。そういう契約なんだから。破る訳には――」

「破って良いと言いているんだ。愛しい人に会ってその手で殺したくはないか?」

「なっ――――」

何を言っているんだ彼は?僕がかぐやを殺すだって。

「そんな事――僕に出来る訳ないじゃないか!」

思わず声を荒げる僕を冷ややかに見据えて鵲が笑う。

「秋津君。これは愛の話だ。愛あればこそ人は人を殺すのだ。愛を知らなければ憎しみも知り得ない。愛があればこそ人は殺意を抱き、その身も心も魂すらも己の物にしたいと希う。愛しい、憎いという言葉の差異など瑣末な事だ。人だけが愛を知っている。人だけが心から望んで人を殺せる」

君は間違っている。そう言いたいのに言葉が出ない。否定しきれない。

愛とは慈しむ事だ。大切にしたい、守ってあげたい。そういう感情で憎悪とは全く無縁のものだと言いたいのに。僕にはそう口に出来ない。

何故なら僕はずっとかぐやの死を望んできたのだから。

「ならば君は他の男が愛しい自分の女を殺しても何も感じないと?」

「―っ――――」

「私が、かぐや君を殺しても――」

「赦せる訳が――ないだろう!」

言わずには居られなかった。彼の言い分とは関係なくこれだけは確かな事だ。

「それは、嫉妬じゃないのか?」

睨みつける僕の視線など物ともせず悪魔が優しく諭すように微笑む。頭の中がぐちゃぐちゃで考えがまとまらない。

「まだ時間はある。是非、考えておくてくれ」

「――無理だ」

「神は人の罪を決して赦さない。カエサルのものはカエサルに神のものは神に返しなさい」

相変わらず鵲の言葉は良く分からない。でも何となく意味は理解できる。僕は法具を形成した訳じゃないけど過去に一度だけ神の刻印に自我が飲み込まれた事があった。そのせいで今も僕の意識を飲み込もうと水道管が破裂したように力が噴き出し続けている。

何とか三種の神器の力で抑え込んでいるけど、これだっていつまでもつか分からない。

地下に住んでいるのだってそのためだ。人と接すれば僕の無意識にあるアレを刺激してしまう。僕の世話をしてくれている女中は鵲が作った機械だし御簾越しでなければ人と話す事が出来ない。例外は鵲くらいだ。どうもアレは彼が怖いらしく鵲といる時だけは大人しくしている。

「アレは人がどうにかできるモノじゃないよ。まさしく人は神には逆らえないんだ。僕がかぐやを―かぐやの元に行けば最悪、僕も暴走してこの世界に死を振りまく怪物が二柱現れる事になる。君だってそれは望む事ではないんじゃないのかい」

「集合的無意識そのものである神。一度、門を開き刻印を発動させればゼルプストは人の原像を投影した力を与えるが、その大いなる力の前に人の自我が対抗する事は困難だ。だが不可能ではない」

「――ひっ」

ドンっと鵲が言いつつ形成した物に僕は引き攣った悲鳴を漏らした。

彼が離れていなければ今頃椅子から転げ落ちていただろう。

勇壮な、それでいて目を背けたくなるほど恐ろしく鋭い槍だった。

厚い穂の中央に梵字と三鈷剣が彫られ、柄は美しく貝によって飾られている。

青貝螺鈿細工と言っただろうか。目を奪われるほど綺麗なのに僕にはゲジやヤスデのような不快害虫を見せられているような気分だった。

「随分、その―物騒な槍だね」

「蜻蛉切と言う。秋津君に私からの贈り物だ。きっと君の役に立つだろう」

差し出される槍を僕は受け取れない。先端恐怖症でも刃物が怖い訳じゃないのに。

何故かたった一本の槍が怖いのだ。

触る事すら嫌だと僕の無意識が言っているのだろうか。

事実いつも以上にアレが今日は静かだ。

「まさか、これがあれば自己の肥大化が止まるなんて言わないだろうね」

「法具一つで自己は克服できない。だが蜻蛉切は三種の神器と天の羽衣に守られている秋津君を殺せる」

なるほど。

もうほとんど神に成りかけている僕を殺せるか。これがあれば僕はもう一度かぐやに会えるのだろうか。

「これを受け取れば僕は君に何を対価として支払わなければならないんだ?」

「私が神を殺せば人類は滅びずに済む。だが災厄が去る訳ではない。この先訪れる未曾有の混乱を生き抜かなければならない」

聞き捨てならない事を言っておいて鵲は私に蜻蛉切を差し出す。

これ以上聞きたかったら受け取れという事か。

仕方がない。

震える手を無理やり動かして受け取った蜻蛉切の形成状態を解除する。

気持ちの悪いものを所持しているせいで背筋がぞわぞわする。

冷めてきた緑茶を一口すすって気持ちを落ち着けると彼に目を向けて先を促した。

「人の持つ魂は遍く神の分霊だ。全てが無意識で神と繋がっている。ならば神が死ねばどうなるか。今まで神は人に争ってはならない。産めよ、増えよと命じてきた。それがなくなれば人は神の力を残した状態で解放される事になる。この状態で自己の肥大化が始まれば人類がどうなるかなど自明の理だ。この危機を脱するには人が自己を自分の意思で制御できるようにならなければならない。自己を克服し支配する自我。つまり超自我の確立だ。君には是非それをやってもらいたい」

鵲は言いたい事を言ってしまって僕の事なんか素知らぬ顔で紅茶を飲んでいる。

こっちは君の言葉の意味を理解するので手一杯だと言うのに。

「質問しても?」

満足げな顔をした鵲が僕に視線を向ける。もう完全に彼のペースだな。

「僕も法術師の端くれだ。魂の直霊、ゼルプストとか神の刻印とか自己とか呼ばれている機関が神と繋がっているのは分かる。君が人類を助けるために神を殺そうとしている事も知っている。けどその結果、世界規模で全人類の自己が肥大化するというのか?」

彼は答えない。しかし肯定と受け取って良いと思う。

「神を殺さないでおく事は出来ないのか?君の話が真実なら神は人類に無意識下で争いを禁じたり繁栄を促していたりしていたんだろう?」

「神は人類を家畜としか見ていない。霊力は生まれた時から絶対量が決まっている。たとえ死んで生まれ変わっても鍛えても強くもならないし、保有量が増える事はない。だから神―あの偽天は自分の分身を無限に作り出しそれを改めて吸収する事で底上げを狙っている。愚かしくも外宇宙に存在する真の神を討つために。それにこれは偽天に家族を殺された私のケジメでもある。復讐ではない。昔はそんな事を思っていた気もするが今はもうただ奴を殺す事が出来ればそれでいい。これだけは譲れない。たとえこれが何者かの筋書き通りであろうとも―」

彼の言葉には珍しく明確な嫌悪が滲んでいた。鵲は何より自由を愛し、信奉している。

なるほど。彼の怒りや憎しみは神の存在ではなく行為に対するものなのか。

最後の言葉が気になるけれど、これだけ分かれば十分かな。どうせ聞いても答えてくれないだろう。彼は自分のプライベートな事は口が堅いから。

「神を殺す算段はたったのかい?」

「かつての私は弱かった。しかし今の私は違う。その為に四百年も準備をしてきたのだ。私にとってそれは過去の事だ。それよりも先の事が気がかりだ」

「どうしてそこまでして人のために尽くすんだい?君には関係ない事だろう?僕に蜻蛉切を渡した事もその一環だろうし、君が迷える子羊なんて呼んでいる子たちを見つけては呪いをかけているのもそうだろうし」

「私は悪魔だ。人がいなければ空腹で死んでしまう」

自傷気味に言う彼の真意は分からない。けれど信じよう。それが鵲の不器用な優しさだと。

「でも本当に可能なのか?超自我の確立。そんな事が出来たとして自己を支配できるなんて」

「そうでなければ私がこの力をどうやって手に入れたと思っている?」

これ以上ないほど説得力のある言葉だ。

でもどこか嘘くさいんだよなあ。

君の力の秘密はそんな事じゃないだろう?とはさすがに言えないけど。

彼は一度も僕に彼自身の本当の力を見せていない気がする。

「まあ、分かったよ。何千年も生きてきて未だに超自我のちの字にも触れられていない僕だけど。期待に応えられるようにするよ」

「ひらめきに時間は関係ない。それはある日、突然やってくるのだ。流れ星や彗星のように」

また格好つけて。足を組んでティーカップ片手に言う様子は様になっているけれど僕は正直反応に困るよ。

「君は彗星のような人だからね。僕の願いはきっと叶うだろう。でも君の願いは一体何なのだろうか?」

鵲が全てを見透かしたように僕に目を向ける。ゾッとするような強く鋭い視線だった。

「君の話を聞けば聞くほど分からなくなる。君の真意は何だい?神を殺す事は通過点でしかないと言うが、じゃあその先にある目的は?君は何をしようとしている?神を殺す事と自己の肥大化は何の関係がある?人類のために行動しているように見えるのに何故、手を差し伸べる対象が個人なんだ?君は僕に何を隠しているんだい?」

「知る必要はない」

にべもない拒絶。だがここで引き下がったら彼からは何も聞き出せない。

「僕は鵲の事を友人だと思っている。君の身を案じるのも協力したいと思う事も必要ないって否定するのかい?」

「私には友など必要ない。君には私が誰かの手を借りなければならないような奴に見えるか?」

「――いや――」

これはおかしい。僕を利用したいのならもっと穏やかに宥めるべきなのに何故これほどはっきりと否定するんだろう?僕が怒ったりしないで真意を酌もうとする事を読んでいたとしても理由としては弱い。彼が本心を言っているのならショックだけど、わざわざ不和を助長する必要はない筈だ。そこまでして隠したい事があるってことか。

「―――まさか」

ふと思い出した。鵲を心配するマスターの言葉。エリクシルの加護がある鵲がたかが飲酒を禁じなければならないのはなぜだ?彼の未来のビジョンに欠けていたのは彼自身?

まさか、彼は自分の代替者を探しているのか?

「秋津君。私は助けを求める者の味方だ。私の名を呼ぶ者のもとへ、いつでもどこでも私は現れ手を差し伸べるだろう。だが君は違う。君は私の助けを必要としていない」

鵲は寂しげな微笑みを浮かべて眩しそうに目を細める。

「君はどんな事があろうと自分自身の手で道を切り開こうとするだろう。窮地に陥っても私の名を呼ぶ事はない。責めている訳ではない。私が君のために出来る事は限られているという話だ」

「だから自分の事なんか気にせず僕は僕の道を生きろとでも?」

黙ったままでいる彼を見ていて無性に悲しくなった。僕の力では彼のために何もしてあげられないのか。

「他人の願いを叶える君の願いは、誰が叶えるというんだ?」

「馬頭。今夜は私の奢りだ。秋津君を退屈させないように頼むぞ」

「はい。畏まりました」

「―鵲!」

僕の言葉を無視して店を出て行こうとする彼の名を思わず呼んでいた。でもそれ以上なにも言葉が続かない。何を言えば良いのか分からない。

「君は何も言う必要はない。ただ、もうどうしようもないと思ったら迷わず私の名を呼べ。私はいつでも君の傍で君を見ている」

振り返らずに言う彼の言葉は何故か今生の別れを告げているように聞こえた。


 目眩がする。身体から力が抜けて行く。歩く事はおろか立っている事も出来なくなって電柱に手をついて凭れかかる。気持ちが悪い。頭の中だけがくるくる回っている。目を開けている事すら苦痛だ。風邪をひいて高熱があるのに遊園地のコーヒーカップに乗ったら同じような体験ができるかもしれない。

早めに秋津君と分かれて良かった。彼の前で発作に見舞われていたら面倒な事になっていた。秋津君にはもっと未来を見ていて貰わなければならない。過去に囚われた亡霊にかかずらっている時間などない。

この四百年は長かった。もうすぐ全てが終わる。

致死量の百倍に相当する銀の毒に侵され、私を生かしているエリクシルに殺されるまでに成すべき事を成さなければ。私にかけられたこの世界に存在するあらゆる食物を食べる事が出来ない呪いのおかげで苦労させられたが、あと少しなんだ。辛うじて摂取できる植物性の食べ物で食い繋ぎ、不眠不休で準備に明け暮れた日々も、もう少しで終わる。だからどうか持ってくれ。

「シューニヤ」

懐かしい最も古い名前を呼ばれて顔を上げると私を見ている女性の黒い双眸と目が合った。背中まで届く癖のない烏羽色の髪に日本人離れした白い肌。ワイシャツに黒と白の千鳥格子模様のタイトスカートに赤いベルトと黒いタイツ。これで仏頂面で腕組みして私を睨みつけていなければ完璧だったのだが。

「やあ、菊理君」

「―あたしがくるのが分かってたのか?」

「馬頭に飲酒を止められた」

彼がそんな事をする理由は菊理君が来ていたから以外にない。

ならば私が天球堂を出れば連絡するという流れが自然だ。

「一ヶ月もホームを空けてアーリャもツェツィーリアも連れずにお前は何をしてるんだ。出掛ける時はあたしたちノルニルの誰かを連れて行けといつも言っているだろう」

近寄ってきて肩に振れてくる手を振り払って背筋を伸ばす。菊理君に私の情けない姿を見て欲しくはない。

「これは私の個人的な仕事だ」

「ノルニルはお前に法術を使わせないためにいるんだ。仕事の内容なんか関係ない。言えよ。誰を殺せばいい?あたしは何をすればいい?お前が命じれば何でもする」

銀の星団に属していながら独立した機関であるノルニル。彼女ら三人は必要に応じて私以上に団の人員に対する命令権を持つ。彼女たちは私の行動の―もっぱら戦闘行為を代行する私の仲間。彼女たちが勝手に言い始めただけなのだが、私がそれぞれに運命の三女神の名を与えて言動を黙認した事で今では皆にも受け入れられている。普段ならばツェツィーリアを供にしているのだが――。

「ウルズ、私は君に何かを求めた事が合ったか?」

「シューニヤ」

菊理君が苦しそうに悲しそうに泣くのを我慢するように私の名を呼ぶ。

「―――あたしの事は、今は良い。それよりももっと自分を大切にしてくれよ!お前はもう法術が使える様な身体じゃないんだ。今だって銀で無理矢理身体を支配して動かしているだけで本当は寝たきりじゃないか。これ以上延命以外に力を使うのは止めろよ。発作を起してるって事はまた万崋曼荼羅を使ったんだろ。その術は本来多重で発動できないんだ。どうしてそんな無理するんだよ―――。なあ、聞いてるのか?」

聞いていない。菊理君が現れた時から私の人格のほとんどが目を閉ざし耳を塞いで何も考えないようにしている。これは非常に珍しい反応だ。今まで菊理君以外にこんな事は見られない。だが、たとえ話を聞いていなくても推察は出来る。普段は私と同等かそれ以上に頭の良い天才のくせに私の事を心配して切羽詰まっている時は本来の菊理君では考えられないほど視野が狭窄し思考も閉じる。また私の身体がどうとか万崋曼荼羅の使用を咎めているのだろう。

有り難い事だ。本当に嬉しい。だが私は菊理君の要望には応えられない。だから申し訳なくて仕方がない。

「シューニヤ!」

「私をその名で呼ぶな」

背を向けて歩いて行こうとすると肩を掴まれた。

「どこに行く」

「まだ終わっていない」

「今は何をしているんだ?」

「これは私が成すべき事だ。昔に交わした約束を果たさなければならない」

「またあの女か!どうしてそんな大昔の事を今も引きずっているんだ。どうしてお前が死んだ女のせいで苦しみ続けなくちゃいけないんだ」

うむ?私の言葉を菊理君が勘違いした?珍しい。しかしそれだけ菊理君の中であの人の存在が大きいという事か。都合が良いのでこのまま利用させてもらおう。

「約束とは相手が死んだからと言って無効になるものではない。この苦しみが、この痛みこそが、今も彼女の想いに応えられているという証左だ。これは私が望んだ事だ。誰も邪魔はさせない。彼女との絆を感じられるからこそ私は今もこうして戦えるんだ」

「私にはその手伝いも痛みを分かち合う事もさせて貰えないのか?」

振り返って両手を広げ肩を竦めると鳩尾に傘の柄が突き込まれるのは同時だった。それを受け止まられたのはこちらが挑発して行動が読めていたから。そうでなければ今頃私は気を失って転がっていただろう。

「ウルズ?」

「だったら力ずくでも言う事を聞いてもらう」

菊理君は飛び退って一足一刀の間合いからパラソルを構える。

本気で私を叩きのめす積りのようだ。このまま捕まれば手も足も出せないようにどこかに監禁される事になる。私が解放されるのは全てが終わった後になるだろう。菊理君の意思は肯定できない。

だが相手はあの世界の法術師たちが私と同様に恐れる運命の三女神ウルズ。あるいは黄金の魔女の一人。私が殺した我が師父の娘であり私の義妹、神門菊理。かつて私が全盛期に本気で戦って敗北した、ただ一人の魔女。衰えた今の私ではどう足掻いても勝てないだろう。

「どうしてお前は何でも一人で勝手にやろうとするんだ。お前にはお前が集めた仲間がいるじゃないか。お前がいなくなって、たったの一ヶ月でホームはメチャクチャだ」

「私には誰も必要ない。銀の星団の皆は私に勝手についてきただけだ。皆は皆なりの目的のために私を利用しているにすぎない。我々は利害関係が一致しているだけの仲だ。私がいなくなっても銀の星団は続いて行く。決して無くならない。そういうものとして私が造った。私に嘘は通じないぞ」

「アーリャもツェツィーリエも部屋に引き籠って出てこない。ひのわの奴もずっと塞ぎ込んでいる。そのせいでかぐやもずっと機嫌が悪い。お前の組織の中枢はお前で持ってるんだよ。あたしだって、なあ――」

「私がいなければ何もできないなら、我が団は不要だ。地獄に堕ちる亡者の後をついて来たいと言うのなら私が先に殺してやろう」

「私より弱いくせに―」

「いつの話をしている?」

不敵に嗤って右手を上げる。私が銀の星団の元帥として戦う際の攻撃準備の合図。

ブラフだが菊理君には有効だろう。我々の周りには誰もいないから当然なのだが、探知範囲に何の気配もなければ菊理君は我が団に所属する彼を想像する。百目と呼ばれ千手千眼観世音菩薩の名を冠する第七世代EGを所有する超長距離からの狙撃が出来るスナイパー。

嘘の可能性があったとしても否定する情報がなければ、たとえ菊理君といえども気にせざるを得ない。やれる事は全てやらなければ。なにせ彼女の持つパラソルは空間を支配する菊理君の法術の力を増幅し補助する法具だ。アレを使われては私に打つ手はない。加えて私が菊理君の為に鍛造した小烏丸は時空を裁断する能力がある。が、私は今まで絶体絶命の危機を幾度も乗り越えてきた。勝てない相手と戦い事も初めてではない。

「シューニヤ!」

「私は私の未熟さを知っている。私が一人で戦っているといつ言った?この国にもベルセルクは何人も潜入している」

私を殺してしまいかねないほど鋭く睨みつけながら菊理君の姿が闇に解けるように消える。

「アイリス。戦闘開始だ」

――はい。マスター

周囲に十二枚の銀の刃を展開―完了。

神門菊理の攻撃パターンを検索―完了。

ハイゼンベルグアルゴリズムにより確率収束点の解析―完了。

ラプラスアルゴリズムにより近未来完全予測―完了。

左目の機械眼に算出された結果をARとして投影―完了。

瞬時に眼帯に覆われた機械の左目に人工現実が映像として映し出される。それは右の肉眼の視覚情報と合わさり私は時間を超越する。

前後からの同時に火花が上がり銀の短剣が両断される。菊理君のパラソルに仕込まれた小烏丸の剣戟。空間を超越する彼女の法術を使った移動術は離れた空間と空間を接続してその間のトンネルを走り抜けるものだ。当然のその先に障害物があれば衝突する事になるがその際の最大スピードは約三十万キロメートル毎秒。つまりほぼ光と同じ速度が出せる。

が、私にとってそれでは遅い。一秒にも満たない間に行われた前後左右の四方向同時攻撃に続いて三次元的な八方からの猛攻を全て十二枚の銀の短剣で受け切り私自身はその場から一歩も動くことなかった。

今の私には現実が雷鳴のように遅れてやってくるのだ。

現実と言うものはかくも遅く私を遠く隔てている。私のこの感覚を菊理君も充分に理解しているだろうに―。

銀の刃を破壊して最後に懐に飛び込んでの小烏丸の刺突は柄を握る右手に左掌を添えて逸らし、そのまま右拳を脇腹に当てた。だが衝撃は全くない。そもそも私に攻撃の意思がなかった事と動きを読んで後ろに退いたんだろう。それも私の読み通り。これでチェックメイトだ。

ここがどこか忘れてはならない。車道と歩道の区別が曖昧な一本道。そして菊理君が退いた所は道路の真ん中。そこをヘッドライトが照らし出す。車は何も気が付かずに走り去っていったが菊理君は私を見失ったらしくきょろきょろしている。

君は変わらず可愛らしいね。私の事しか見ていないからそんな事になるんだ。常に私と戦いながら伏兵を気にかけていた所に突然の車と光に驚いて一瞬私の姿を見失った。

電柱の上から菊理君が私を探して声を上げる様を見遣りながらグリームニルを被る。見つかる前にここを去るとしよう。


 「筧」

スツールに座り茫然と窓から外を見ていた私は立ちあがって振り向いた。

「どうも。大屋さん」

年の頃は十七、八歳の青年。

ネイビーにストライプ柄のスーツを着こなす姿は若々しいのに彼の醸し出す雰囲気は老練した兵士のように重く鋭い。

名前を大屋泰邦という。オズジャパン本社を実質牛耳っている陰陽師の頭。私の所属する組織で実際の社長よりも偉い人だ。

「突然呼びだして悪かったな」

「いえ―」

「それにしても、お前がこういう所に興味があったとは知らなかったよ」

私の隣の席に座った彼がメニューを持ってきたメイド服と呼ばれる過度な装飾と極端にスカートの丈が短い制服を着たウェイトレスを見送りながらニコリともせずに言う。

「―はあ」

別に私は興味などないのだが。言っても仕方がないので黙っておこう。そう思われても仕方がない事は確かなのだ。今日、彼に面談を求められ、応じた私がこの千代田区の秋葉原駅に程近い喫茶店―いわゆるメイド喫茶と呼ばれるこの場所を指定したのだから。

とはいえピンクと白を基調とした明るい店内で黒い着流しを着た禿頭の私とビジネスマン風の彼は酷く場違いな気がする。早く用事を済ませて帰ろう。

「それで、何のご用でしょうか?」

「うん。この一ヶ月でオズの社長と幹部、俺の部隊の三分の二が殺された。実質、今戦えるのは俺とお前だけだ。それにヘルメスと提携することが決まったから外の風が入る。もう今までのようにはいかない。だから俺はオズから手を引こうと思う」

「―つまり?」

「つまり。お前はクビだ」

「――そうですか」

何を言われるかは予想できていた。だからなのか予想より何の感慨も湧いてこなかった。

私の家族を奪い、犯罪を強要してきた組織からやっと解放されたというのに。

「何だ、反応が薄いな。お前、俺に恨み言の一つもないのか?今ならお前の両親を殺して妹をバラして闇で売り払った俺に何の気兼ねもなく復讐できるんだぞ?猿の手を持つ今のお前なら俺を殺せるかもしれないぞ?しかも今、俺は丸腰だ」

まるで自分の事のように訴えかける彼に私は苦笑しか返す事が出来なかった。

確かに大屋泰邦は私がまだ小学生の頃に妹を攫い、法術の触媒として売り捌き、そのせいで禁忌に手を出した父親を母と共に殺した。そして私に一歩間違えば死ぬような修練を強い、それが終われば今度は私自身の命を人質に取り、殺人や誘拐といった犯罪をさせてきた。

恨んでいない訳では決してない。殺せるものなら殺してやりたい。

だが、私は魔王にこの悪魔の手を移植された時に気が付いてしまったのだ。

自分の命を犠牲にすれば簡単に復讐できると実感した時に考えてしまったのだ。

果たしてそれは死んでまで遣り遂げなければいけない事なのかと。

「何が可笑しい、筧!おい、笑い事じゃないぞ」

私の襟を掴み上げ睨みつける彼の顔は憎悪に歪んでいた。

一体、誰に対しての憎しみなのか。

「大屋さん。止めましょう」

懐手をして隠していた包帯でぐるぐる巻きにされている悪魔の手を出して私の襟を掴んでいる右手を掴むと力任せに引き剥がした。

「そんなに死に急ぐ必要はないでしょう。彼方には誰かを犠牲にしてでも成し遂げたい事がある筈です。まあ、それでも今すぐに死にたいと言うのなら殺してあげますが?」

「――済まん。どうも最近、情緒不安定と言うか怒りっぽくていかん」

今し方の激情はどこへいったのか突然申し訳なさそうに言う。

「最近いつ寝ましたか?」

「―――――――三日寝てない事は思い出せるが、いつから寝てないのか覚えていない」

「大屋さん。寝ずに済む事と、寝なくとも平気でいられる事は同じではありませんよ」

「俺は山伏の修行はさせたが坊主になれと言った覚えはないぞ、筧。敵の心配をするとは。髪と一緒に玉までどこかに捨ててきたのか?猿の手を手に入れてから去勢されたみたいに大人しくなりやがって」

「失敬な。ただ、私はこの手を手に入れて解らなくなってしまったんです。私が生涯を賭けてやるべき事とは何なのか」

もしかしたら筧瑛虎という人間はあの時に死んでいたのかもしれない。

「若いなぁ。俺はお前くらいの歳の頃は目の前の事で手一杯だったなぁ」

「いきなり年寄り臭くなりましたね」

「ははっ。で?お前はこれからどうするんだ?何か当てがあるのか?」

「いえ。何もありません。ただ、まあでも山伏らしく旅でもしてみようかと」

「へえ。良いじゃねーか。一人旅か。頑張れよ」

珍しく微笑んだ大屋さんに肩を強かに叩かれた。かなり痛い。

今日は本当に感情の起伏が激しいな。

いつも厳しい人に優しくされるとやはり気持ちが悪い。

「大屋さんこそ、これからどうする積りなんですか?」

「俺は―敵を迎え撃つ」

「―――正気ですか?」

魔王と戦うなんて正気とは思えない。この何かを悟った様な感じはそのせいなのか。

「相手はあの魔王ですよ?勝てる訳がない。逃げるべきだ」

「冗談だろ。こんな一方的にやられておいて敵前逃亡なんてありえねーよ。それに相手が魔王だ何てただの噂だ。ひと月も経たない内に俺達が全滅した事は確かだ。未だに俺は敵の規模も正体も判っていない。なるほど確かに強敵だ。でも、だからって居るかどうかも判らない怪物を引き合いに出すのは間違っているだろ。俺だって伊達に百年以上生きて来た訳じゃないんだ。大丈夫。死にはしねーよ」

大屋さんがコーヒーを飲みながら清々しい顔で言う。何でこの人はこんな快活そうな顔をして嘘を言えるんだろう。

復讐心を失った私が言うのも変な話だが魔王を殺すために生み出され、その憎悪で今まで生きてきた人が不倶戴天の宿敵の存在そのものを否定するなんてあり得ない。

今日の呼び出しも裏切った私を処分するか魔王の事を吐かせる為だと疑っていたのに、何故こんな惚けた事を言う。

もしかして私や他の部下を逃がして自分一人で魔王と戦う積りなのか?世界中の軍事力を結集してさえ魔王一人殺せなかった事を誰よりも知っている筈なのに、そんな無謀な事を考えているのか?まるで大屋泰邦らしくない。

でも私にそれを忠告する事は出来ない。私は魔王を知らない事になっているのだから大屋さんの言葉に否定的な意見を言う訳にはいかないのだ。そんな事をすれば私の裏切りが露呈してしまう。そうなれば大屋さんは私を殺さない訳にはいかなくなる。私も今ここで殺し合う様な事は避けたい。それはお互いの望む最期ではない。

だとしたら大屋泰邦にとって最良の最期とは何か?それが魔王との一騎打ちだと言うのか?

「――そうですね。でも正体不明の敵を相手に勝算はあるんですか?」

「無いな。無いが、引けないなら進むしかない。一世一代の大勝負、精々足掻いて見せるさ」

「―武運長久をお祈りしております」

「ああ。ありがとな。お前も元気で生きろよ」

最後まで私の事を気遣って大屋さんは去っていった。その後ろ姿を見送りながら思う。

この世界は不条理で理不尽だ。彼は決して善い人間ではなかったが悪い人間でもなかった。

本当の悪がどう言うものか知る私にとって大屋泰樹は不愉快ほど不器用な優しい人間だ。

もっと傍若無人に振る舞えば良かったのに。

「お前は、彼をどう思う?」

「ゴキブリみたいな人だね」

ゴツゴツと重い靴音を立ててその男は私の隣に座った。唐突に現れた気配に背筋が泡立つ。

今までどこにいたのか分からないが適当に話を振って油断していた事を悟られないように努めた。

白地に青と赤のラインが入った外套の下に黒い軍服。

顔はフードとマスクですっぽりと覆い隠され黒い硬質な手甲と脛当てで武装した異様な風体。

ようやく何故この場所を指定したのが分かった。とはいえ、この格好はいくら変わった服装の人が多い秋葉原であろうとも目立って仕様がない。コスプレと言って通じるレベルなのだろうか?アニメかゲームから出てきたような出で立ちは偽物っぽさや安っぽさが全く無いだけにシュール極まりない。

「なに?」

「―いや。どう言う意味かと」

しまった。つい呆然と見てしまった。この人は自分がものすごく注目されている事に気づいていないのだろうか。顔が隠れていれば恥ずかしくないとでも?いや、もう考えるのは止そう。

「ゴキブリって昔から人の身近に生息していたせいで大した理由もないのに蛇蝎の如く嫌われてるだろう?それも世界中で。昆虫なんてよく見れば全部グロテスクなのにね」

「要するに嫌いと言う事か?」

「いいや。僕は好きだよ。ゴキブリ」

「そう、か」

相変わらず掴み所のない奴だ。銀の星団エクシードギア開発室室長。

素姓を知られることを極端に嫌っていて本名はおろか地声すら聞かれないように変声器で低くしているらしい。

雷帝なんて名乗っている割にせせこましい所もある。

「こんにちは。筧さん。今まで魔王の使いで電話越しに話した事はあったけど、こうして面と向かって会うのは初めてになるね」

「そうだな。今日は一体何の用なんだ?」

「君が大屋泰邦と会うって話だったから心配になってね」

「俺が情報を漏らす事が、か?」

魔王にしては随分小さい事だな。あの人なら俺に気づかれる事なく行動を誘導するか、そもそも何を知られても支障が無いと陰でほくそ笑んでそうなイメージがあったんだが。

買い被りだったか。或いは雷帝の独断?それも冷酷非道を地で行く雷帝らしくない気が―。

「違うよ。大屋泰邦は魔王が目を付けた相手だ。君が殺してしまっては目も当てられない。だから、もしそうなったら僕が君を殺そうと思っていたんだよ」

なるほど。それなら納得できる。

基本的にこの人は気遣いが出来ないし空気を読まないから。

俺を目の前にして殺意を抱いていたと告白しておきながら言葉に全く感情が籠っていない。

「―あの大屋さんを殺せる俺をあんたは殺せると思っているのかね?」

「殺せるさ。だって魔王はその為に僕を君のお目付け役に指名したんだから。もちろん正面から正々堂々戦えば僕は負けるだろうね。でも僕と君は致命的に食い合わせが悪い。君が僕を一回殺すまでに、僕は君を百万回殺せるだろう」

背筋を冷たいものが走る。雷帝の話は大げさだが間違いではない。俺の悪魔の手は相手の能力の詳細が解ってさえいれば、たとえそれが魔王の法術であっても対処できる。しかし全く分からない場合は大した効果が期待できない。未知の相手、それも速さが領分の敵には不利である事は確かだ。

「なるほど。俺は命拾いした訳だ。口は禍の元というが本当だったな。桑原桑原。じゃあ俺は失礼するかね」

「ちょっと待ってよ」

立ち上がろうとした瞬間、強烈な力で肩を掴まれた。骨を折らない程度に、しかし痛みだけは与える絶妙な力加減。たった腕一本で抑え込まれ、俺は顔を顰める事だけで指一本動かせない。これだからタカ派って奴は嫌いなんだ。

「離せ」

「嫌だよ。君を殺すだけなら陰からこっそりやれば良いのに、わざわざこうして姿を現したって事はそれだけが目的じゃないって気付いてるんでしょう?逃げようとしないでよ」

気付いていたから逃げようとしたんだよ、とは言うべきではないか。魔王からの指令なら今までの様に会わなくても伝える手段はいくらでもある。

それを雷帝が出向いて来たという事は絶対に危険な内容だ。自分の望まない面倒事を押し付けられるのはもう嫌なんだが。

―仕方がないか。

「分かった。だから離してくれ」

「ありがとう」

「それで?」

「魔王から君にプレゼントだよ」

雷帝が足元に紙袋を取って俺に差し出してきた。

「―は?」

いつからこんな物そこに置いてあった?そもそも紙袋にプリントされているPCパーツを打ちまけて満面の笑みを浮かべている金髪の少女は何だ?

「彼が?俺に?これを?」

「うん」

そうか。そう言われては仕方がない。受け取りたくはないが、ここで押し問答しても無益だ。外観は見なかった事にしよう。

不承不承受け取って驚いた。存外に軽い。爆弾か呪物を想像していたんだが、さすがにあの人でもそれはないか。しかし、ほっとしながら意を決して中を覗いて入っていた物に愕然とした。引っ張り出して確認しても間違いない。

このトリコロールカラーのコートは雷帝が今着ている物と同じ銀の星団の制服だ。

要するに俺は勧誘されているのか。

「言っておくけど、これは勧誘じゃないよ。魔王にとってもう君は銀の星団の一員なんだから。そのコートは純粋なプレゼントだ。要らなければ捨ててくれても良い。でも何をしても魔王の認識は変わらないだろうけどね。御愁傷様」

「俺は――」

まだ生きられるのか。覚悟はしている積りだった。復讐を果たす手助けに悪魔の手を与え、代わりにオズ社を追い詰める為の都合の良い捨て駒の内通者として体良く利用される。それが魔王との契約だと俺は認識していたのだ。だから最後には用済みとして理不尽に殺されるのだと思っていた。

「―何かこれを受け取る事でデメリットはあるのか?」

「うーん。これと言ってないんじゃないかな。魔王は基本的に強要も強制もしない放任主義だし。銀の星団に入っても変わらない事の方が多いんじゃないかな。自分で自分の面倒さえ見られればどこで何をしていても誰も文句は言わない、というより誰も助けてくれないからね」

「なるほど」

銀の星団の団員であるベルセルクやワルキューレと呼ばれる連中は全員がエクシードギア―俺の記憶が正しければ超科学によって作られた巨大ロボットみたいな物を持っている。

エクシードギア一機が一個師団に匹敵すると言われている程の力を持っているのだから、各々が好き勝手に行動していても問題ないのだろう。とは言え諜報活動と暗殺や破壊工作が主任務だと魔王から聞いていたんだが、組織として今何をしているのだろう。

「もしかして銀の星団としては今はもう誰も活動していないのか?」

「鋭いね。その通りだよ。魔王がもう歳だから。ホームって呼ばれてる基地に主要なメンバーと一緒に引き籠って殆ど出てこないから事実上何もしていないと言っていい。ただ、当たり前だけど、たとえ魔王の命令が無くても個人の行動の責任は組織全体に波及する。もし下手な事をして失敗したら魔王が許しても周りの連中が黙ってないよ。忠誠こそ我が名誉がモットーの馬鹿が多いから。助けに来たと思っていた仲間に後ろからバッサリ何て事も」

「冗談だろう?」

魔王の支配がそこまで弱いとは思えない。部署が違うだけで同じ会社でも顔すら知らない何て事があり得る大企業じゃないんだ。仲間意識は強いはず。

たとえ新参者といえどもそうそう簡単に殺されるような事はない、と思いたい。

「半分はね。銀の星団内は魔王の意向が周知されているけど下部組織の円卓騎士団は完全に野放しだから。魔王を裏切ったなんて奴らに思われたら本当に命を狙われるから気をつけてね。ほら、君の後ろにいる人とか」

くだらない事を言うと思いながらも硝子越しに後ろを確認して心臓が止まりそうになった。

いつの間にか店には誰もおらずメイド服の少女たちが反対側の席の前にズラリと整列してこちらを見ている。

久しぶりに心から恐怖を覚えた。雷帝に気を配り過ぎてまったく考えもしなかった。もし彼女らが殺意を抱いていたら今頃俺は生きていない。

「――まさか、あの子たちは円卓騎士団なのか?」

「そうだよ。この店そのものも魔王の出資で成り立っているしね。戦闘能力がない分、銀の星団の団員より忍っぽいかな」

「―そうか」

恐ろしい組織だ。戦闘能力がないって話も雷帝の基準でものを言っているのだろう。改めて精査して気付いたが彼女たち一人一人から強力な法具の気配を感じる。一見一般人と見分けがつかないが手練ればかりだ。こんな奴らが世界中に居るのか。

「組織としての規則やルールはないのか?それだけは聞いておきたい」

「具体的なものは無いかな。本人はどう思っているか知らないけど魔王ありきの組織だから。今はもう大体魔王の不評を買って殺されて粛清されているから、本人の倫理観を逸脱した事をしない限り大丈夫だよ。ああ、でも一つだけ暗黙のルールがあるかな」

「それは?」

「魔王の敵と戦わない事」

「は?敵?」

「そう。今、魔王は全く違う事に執心しているけど、銀の星団はもともとその組織と戦う為に作られたものだったんだよ。魔王はツンフトって呼んでる秘密結社。決して表には出ず、人に法術や法具の事を教えて周囲を巻き込んで破滅させるように誘導するって事を繰り返していたらしい」

「らしいって事は今はやっていないのか?魔王がもう壊滅させたんじゃないのか?」

「それはないね。ツンフトの幹部は一人一人が魔王と互角以上の力を持った奴が十一人もいるんだ。いくら魔王でも簡単に勝てるとは思えない。らしいって言ったのは魔王が別の事を始めたから敵の情報がさっぱり掴めなくなっただけ。今も水面下で何をしているか」

「ちょっと待て。魔王と互角以上の力を持った法術師が十一人もいる?しかもそいつらの組織が野放しになっているだけじゃなく戦うな、だと?正気か?おい!」

スツールから立ち上がり雷帝の襟首をつかみ上げこっちを向かせる。

思わずやってしまったが今更取り繕っても仕方がない。納得のいく答えがなければ一発打ん殴ってやろう。

「落ち着きなよ。怒っても何にもならない。勝てないんだ。あの魔王ですら負けないでいるだけで精いっぱいだった。僕たちが戦えば確実に死ぬ。それに戦ってはいけないって言われているのはツンフトの幹部であって奴らに操られている人じゃない」

「つまり、今お前らは被害の拡大を防いでいるのか?」

「そう言う事をしている人もいるんじゃないかな?僕は何もしてないけど」

「くっ!」

右手に渾身の力を込めて雷帝の顔を殴ると鉄でも殴った様な堅い感触がした。

普通の人なら一発で昏倒させられる力を悪魔の手に込めた積りだったのに雷帝は何をされたのか分かっていないかのように平然としている。

何なんだこいつは?本当に人間か?

「僕には君の価値基準が分からないよ」

後退りする俺に合わせて雷帝が一歩踏み出す。

「さっきは家族を殺した相手を気遣うような事を言っておいて、どうして僕に対してはそんなに怒るんだい?君を駆り立てるものは何なんだろう?やっぱりその手からの記憶転移が原因なのかな」

「―は?悪魔の手が何だと?」

「あれ?知らなかったのかい?君の右手のそれ、悪魔の手なんで呼ばれているけど大昔に死んだ人の手なんだよ。心臓じゃないから本来は記憶転移は起こらないんだけど、君の法術は巫覡の系統だ。影響されても不思議じゃない。君は本当に筧瑛虎なのかな?」

「俺は俺だ。他の誰でもない」

確かにちょっと前まで憎くて仕方がなかった相手に同情している自分を不思議に思う。思い返してみても昔の自分の方に違和感を覚える程度には影響を受けているんだろう。

でも、俺が俺でなくなった訳じゃない。

「俺は昔から悪人が嫌いだった。人を傷つける奴が我慢できなかった。この手を魔王から貰って気がついた。この世界には先天的に、徹頭徹尾、悪に染まった奴がいる。そいつに対する怒りは昔から何も変わっていない」

「つまり僕が悪人だってこと?」

「悪を見逃す奴も同罪だ」

「―へえー。あの人が気にいる訳だ。面白いよ、筧君!」

悲鳴が上がる。視界が霞んでいてよく分からないがあちこちが痛い。どうやら床に倒れているようだが起き上がろうと身体に力を込めても満足に動いてくれなかった。

「良い反応だね」

もぞもぞしていると雷帝に足で仰向けに転がされた。

身体の上に乗っていた霊符と椅子や机の破片が落ちる。

「加減したとはいえ、僕が殴るよりも早く防御されるとは思わなかった。でも僕を殺したいのなら攻撃しなきゃね」

ふざけるな。俺の霊符の防御が間に合っていたのなら、こいつはそれを突き破って来たのか。

「とりあえず、殴られた理由を聞かせてくれるか?」

「先に僕を殴ったのは君じゃないか。お返しだよ。後は、まあ忠告―いや警告かな。身の程を知れ。悪が憎いって事は別に良いんだけど、それで君に死なれちゃあ困るんだよ。分かるかな?勝てない敵にはたとえどんな事があっても逃げるようにして欲しいんだ。殴って言う事を聞くような人じゃないと思うけど、君はもっと自愛すべきだ」

「人を殺そうとしていた奴が良く言うじゃないか」

「ん?そんなの当たり前じゃないか。人の命の重さは評価する人間や周囲の環境によって左右されるんだよ?僕にとって君は無価値だけど魔王にとっては違うんだ。私的な理由で君を殺したら、それがどれだけ正当な理由だったとしても僕は魔王に殺されるだろう。筧瑛虎と言う人間の命はそれだけの重さを持つ側面が――」

「煩い!命に価値を見出せない奴が偉そうに。俺の命は俺のものだ。他人にどう見られているかで生き方を変えてたまるか」

辛うじて感覚が戻って来た身体に鞭打って立ち上がり雷帝を正面から睨みつける。

どうしてだろう?雷帝と話していて湧いてくる感情は怒りではなく空しさだった。まるで人形を相手にしているようだ。

「脳を弄って無意識に死を忌避するようにプログラムしても良いんだよ?」

「やってみろ。もう一度、法術の気配を感じたらこの手を破壊する。魔王がいう俺の価値は悪魔の手の適合者だからだろう?こいつが無くなったら魔王はどんな反応をするだろうな?」

腕組みをして仁王立ちしたまま身動きしない雷帝に右手の袖を巻くって猿の手を見せる。

分の悪い賭けではないはずだ。

雷帝が銀の星団の一員なら必ず魔王の利益を優先する。

だが、もし雷帝が仕掛けてきたら、俺は猿の手を破壊できるのか?

「自分の命を粗末に扱う積りはない。俺を仲間だと思うなら退いてくれ。こんな事で争うべきじゃない。そうだろう?雷帝!」

「―――――分かった。僕の負けだよ」

しばらく対峙した後、こっちの葛藤も知らず雷帝が淡々と踵を返した。

「でも納得した訳じゃないからね。僕の連絡先を置いて行くから報連相を守るように」

俺が座っていたテーブルの上に何かを置いて雷帝が店を出て行く所を見届けて漸く肩の力を抜く事が出来た。

「―はあ」

「大丈夫ですか?」

胸を撫で下ろしため息を吐いているとウェイトレスに声をかけられた。

目を向けると痛ましげに顔を見上げてくる視線が合った。心配してくれたらしい。まあ、傍から見ていて心配になる程吹き飛んだ自覚がある。

「ああ、大丈夫だ。お互い本気じゃなかったから」

「そうですね。お顔も腫れていないようですし」

俺が吹き飛んだ理由は殴られたからと言うよりも衝撃波のせいだ。雷帝の力が霊符の障壁を破壊するために殆ど失われていなければ、今頃俺の顔は原形を留めていなかったに違いない。

「でも、凄かったですね。着物の袖からぶわぁってお札が沢山出てきて、あの雷帝様の動きを一瞬止めたんですから。あれは結界か何かなんですか?」

「結界と言うより障壁だな。霊符のある場所にしか効果がない。それよりも店の片づけを俺にも手伝わせてくれないか?」

店内ではすでに他のウェイトレス達が撤去作業に取り掛かって動き回っている。邪魔にならないよう端に退いた俺に話しかけてきたこの子は上席を接待する役目を担っているのだろう。

「でも―」

「銀の星団と円卓騎士団の関係はある程度、察するが、ついこの間まで下っ端だったから落ち着かないんだ。それに皆でやれば―」

「失礼致します。それではこれを機に上に立つ者として慣れてはいかがでしょう」

「え?」

いつの間にか傍に来ていたこの店で一番年長そうな子に、問答無用で席まで追いやられてしまった。

「いや、あの―」

「まあ良いですから。お話しましょう?」

「ええ?」

駄目だ。目が合わせられない。帰りたい。

しかし女性が苦手なせいで言いだせず、結局それから全てが綺麗に片付くまで入れ替わり立ち替わり店の女の子―と言うと何だかいかがわしい感じだが、俺の隣にやって来た子と話してなければならなかった。

もう二度とメイド喫茶には行くまい。


 時刻は七月十二日十九時。江戸川区にある介護老人ホーム前の路肩にバイクを止めてから俺は動けなくなってしまった。あと一歩がどうしても踏み出せずに途方に暮れる。

キキの葬儀を終えてから今まで一睡もできなかった。暇つぶしにと魔王がこの一ヶ月間何をしていたのか情報を集め、整理し、解析して魔王の標的とオズ社が行っていた悪事の黒幕が判明しても胸の中のもやもやした何かは一向に消えてくれそうにない。

感情が消化不良を起こしていて気持ち悪い。

キキなら何て言うだろうかと考えて何度も途方に暮れた。月も星も無くなってしまった夜空を見遣って考える。家族がまた一人死んだと言うのに喪に服す事もなく俺は何をしているんだろう?

悪人を魔王から助けて何になる?

俺は何がしたいんだ?

真っ暗な空から老人ホームへ視線を移す。特に変わった所はない。が、魔王は近いうちに必ずここへ来る。

魔王が俺達の前に姿を表すまでにオズの臓器や人身の売買に関わっていた人間が何十人も殺された。そのお陰で今まで顔も名前も判っていなかった黒幕のしっぽを掴む事が出来たのは偶然ではない。あいつは獲物の周りにいる人間から殺す事で追い詰めて玩ぶ一方で、自分の前に立ちはだかる誰かを誘っているかのように痕跡を残しながら行動している。俺はそれを追ってここまで来てしまったのだ。七年前に竣工してから一度も営業していない介護老人ホーム。

名義はオズジャパン前社長のものだが、出入りしているのは大屋泰邦という人物だけ。

おまけに消費電力は工場並みと、ここまでくれば疑うなと言う方が無理だろう。

まだこの施設がどういうものか分かっていないが、今この中に大屋泰邦がいる。

それだけで十分だ。俺ならこの機会を見逃さないだろう。魔王なら敵をアジトごと吹き飛ばしてもおかしくはない。

まあ、俺は行くかどうか決断できないでいる訳だけど。

どうしよう。

見ず知らずの奴の為に勝てない事が分かっている相手に命懸けで挑む理由なんてない。合理的に考えれば俺はこの件にもう関わるべきじゃない。でも人が殺される事が分かっていながら見過ごしていいのか?

イライラしてモヤモヤしてうろうろしているとポケットの中でPDAが震えた。暫く無視していたが、いつまで経っても震えているので引っ掴んで相手を見ると工藤瑞姫からだった。

「なんだ?」

「あんた今どこで何してんのよ!今日一日メールしても電話しても無視ってどういうこと!友達辞められたいのか?」

「ごめんなさい」

凄い剣幕で捲し立てられて気付いたら謝っていた。そう言えば何度も着信があったけどあれは瑞姫からだったのか。五月蠅いからバイブレーションにして以降忘れていた。

「で?」

「え?」

「え?じゃないわよ。あんた今何してんの?」

「ああ、何て言うか。色々立て込んでいて、何だかよく分からなくなっていた」

「どう言う事?もう少し詳しく話しなさいよ。全然分からない」

「ああ、俺って先生と約束した事がいくつかあって。人を殺さないとか、人を助けろとか、自分の命を大切にしろとか」

「うん」

「それで今から俺がやろうとしている事は、先生との約束を守ろうとすると破る事になるんだ。上手く言葉に出来ないが。何て言うか約束を守るために約束を破る必要があるんだ。ずっと丸く収める方法を考えてるんだが何も思い浮かばない。瑞姫、俺はどうすればいいんだ?」

話していて涙が出そうになった。

考えが纏まらずに何を言っているのか自分でもよく分からない。

寂しいと心から思う。

先生やキキとの思い出が脳裏を過る。こんな事は生まれて初めてだ。

「どうすれば良いって。良く分からないけど。神門はどうしたいの?」

「―――え?」

「だから、先生の約束よりあんたがどうしたいかが重要でしょう?やりたい事をやるかどうか迷ってるって事は、やりたいって思ってるって事じゃない。だったら約束の事なんか気にする必要はないわよ。やらずに後悔するよりやって後悔した方が良いって言うしね」

「それはそうかもしれないが―」

「ああもう!あんたはいつからそんなに優柔不断になったのよ。神門にとって先生との約束が大事なのは分かるわよ。でも、それがあんたの足枷にしかならないんじゃ意味ないじゃない。あんたは今まで先生との約束の意味を考えた事なかったの?その願いを、意志を受け継いだんじゃなかったの?何の約束を破る積りか知らないけど、それは先生に顔向けできないような人の道から外れる事なわけ?」

「――いや、それは。そうだな。その通りだ。ありがとう、瑞姫」

今ようやく本当の意味で先生が友達を作れと言った意味が分かった気がした。

「良いわよ。別に―」

「そうか。それで瑞姫は何の用だったんだ?何度も連絡してくれていたみたいだけど?」

「ああ―。その、わ、私は別に良いの。そんなに急ぎの用件じゃないし。た、ただ神門がなかなか出ないから向きになっただけ」

「ふうん。悪かったな。それじゃあ―」

すっかり瑞姫と話して浮き立っていた所に轟音が響いた。さっきまでの事が嘘のように一瞬で引き締まる。銀色の球体が空から降ってきて老人ホームに墜落する所を目撃した。

魔王が来た。

「なに?今の音?」

「何でもない。俺の待ち人が来たようだ。それじゃ行くよ。瑞姫の話はこんどまた聞くから」

「うん。分かった」

「有り難う。じゃあ」

PDAをライダージャケットの内ポケットに仕舞い村雨丸を携える。

さあ、行こう。


 自動ドアを手動で開けて改めて思う。外観もそうだけど中も病院に似ている。

嫌な場所だ。

ここにある真新しいソファや受付に白く埃が積もっている様子が気に入らない。

不気味なものは何もないのに建物全体から死の気配が漂っていて気が狂いそうだ。

こんな場所に出入りしている大屋

という男は正気じゃない。

さっさと魔王が落ちたあたりへ向かおう。

鍔に親指をかけて慎重に歩みを進める。

何て事はない場所なのに煩いほど心臓の鼓動が速い。立ち止まって深呼吸をするとカチカチ音がなっている事に驚いた。村雨丸を握る手が震えている。一瞬何が起こったのか理解できなくて戸惑ったが気付いた瞬間苦笑していた。なんだ。俺も人間らしい普通の反応が出来るんだな。今まで恐怖で身を竦ませた事なんか無かったから新鮮で楽しい。

だが今は邪魔だ。震えを止めるにはどうしたらいいんだろう?

「武者震いか?俺が一発気合い入れてやろうじゃねえか」

窓から差し込む街の明かりに照らされているだけの暗い廊下に隻眼の魔王がいた。

幽霊のように黒いマントに黒い軍服。今日は面の替わりにトーテンコップの紋章の制帽を被っている。それに両手両足には黒い硬質な何かで覆われて武装している様子が窺える。

笑えるほど凄い奇天烈なコスプレだ。それなのに全く笑えない。

「いや。もうその恰好だけでインパクトは十分」

「これから殺し合うってのにバイクに乗るような格好をしている方が俺には異常に思うが。そんな装備で大丈夫か?」

「残念ながら、これが一番良い装備だ」

「可哀そうに。初期装備が最良とは」

「うるせえよ」

「それで俺にどうやって勝つ積りだ?」

目を細めて嗤う魔王に俺は鯉口を切った。

「俺はあんたに勝つ必要はない。負けなければ良いんだ。パワードギアを持つ俺は簡単に死なない。お前の呪いも怖くない。何度も何度も再生してお前に食らいついてやる。もうこれ以上誰も殺させないし、お前を殺しもしない」

「あはっ―アハハハッ。笑えるな。最高の冗談だ。だが不可、だな。要はノープランなんだろ?せめてトラウマを何とかしてから言えよ」

「トラウマ?」

「お前が法術を使えなくなった理由は円香を殺したからだろうが。法術はゼルプストの力を引き出して使うものだ。それなのに人の意識や自我に働きかける心的エネルギーをお前は意識的に拒絶している。つまりお前の無意識を形成する神の魂の意思をお前自身が否定しているんだ。怖いんだろう?また人を焼き殺す快感を思い出す事が。楽しかったんだろう?大好きだった先生をその手で殺す事が」

「違う!俺は―」

「違わない。お前の魂とお前の中の神の魂は同じモノだ。その殺人衝動も悲しみも憎しみも全てお前の心の一部だ。否定して逃げても意味が無い。齟齬が起きてるって事はその証拠であり、何よりお前がお前である事から逃げる事は出来ない。エゴとイドの調和も取れず法術すら使えない未熟者のお前が俺に勝てない事を百も承知でどうしてそこまでする?俺が殺してる奴らはお前には何の関係もないだろう?ほっとけばいいじゃないか。この世界の出来事は殆ど全てがお前には関係ない。今もどこかで沢山人が死んでいる。お前に出来る事は何もない。蚊帳の外なんだ。出しゃばって来るなよ。命を粗末にするなと教わらなかったのか?お前が命をかける意味はどこにある?」

「俺は先生に命を大切にしろ、人を助けろと教わった。だから精一杯生きて、両手を広げて、出来る限り手の届く限りの人を助ける。俺に出来るのはそれだけだけど、それだけで十分だ。今お前に勝てないからなんて理由で逃げたら俺はもう一生、誰にも手を伸ばせなくなる。俺は弱い。だから今諦めたら、自分に言い訳して逃げる事しかできなくなる。そんな事は絶対に嫌だ!俺は人として誇り高く生きたい!無理だとか不可能だとか関係ないんだよ!無様でも足掻いてこそ生きてるって言えるんじゃないのか!」

「誇りの為に恥を曝す、か。良いじゃねえか。俺は好きだぜ。そう言うの。だが、それだじゃまだ不可だ。意志だけじゃあ世界は応えてくれない。力を示せよ。勇者様」

魔王が差し出した右手にぐにゃりと不定形な銀色の何かが溢れだし巨大な銃の形を取った。

何だあのグレネードランチャーみたいな銃は?あんな物がまともに撃てるのか?刀を抜く事も忘れて見入っていると指が入りそうな銃口がぴたりと俺に向けられた。

拙いと思った瞬間には身体を捻っていた。凄まじい銃声に耳鳴りがする。マズルフラッシュで目がチカチカする。でも避けられた。どんなに巨大だろうとあれが銃ならば戦える。

村雨丸を一息で抜刀し鞘を放り捨てて即座に窓が並ぶ右側へ跳躍した。ほぼ同時に俺が立っていた床が爆発する。魔王との距離はおおよそ五メートルだ。俺なら一瞬で詰められる。窓枠を蹴り飛ばし、脇構えを取った瞬間、魔王と目があった。

僅かに身体を傾けて銃弾をかわし擦れ違いざまに刃を振るう。俺の村雨丸は空を斬り魔王の弾丸は窓を壁ごと破壊した。

硝子の破片が背中に刺さるが痛みを感じない。聴覚は完全に死んでいる。

それでも空中で回転し左の壁を足場にして魔王の頸に目掛けて刀を薙ぎ払った。銀色の巨銃と打つかって火花が散る。力比べをすれば負けることは明白。

力を逃がすように斬り払い、返し刀でわざと弾き飛ばされて距離を取る。

やっぱり強い。全く勝機が見えない。でも大丈夫だ。焦る事はない。

冷静に水飛沫が舞う中、大きく踏み込んで眉間に突き付けられた銃口を身を沈めてかわし、巨銃を握る右手を狙って切り上げた。

ガンッ!と銃身と刃が激突して火花が散る。

普段は絶対にしないパワードギアの全力稼働に互いの獲物が重い音を立てて反発し合うように弾け飛んだ。一瞬だけお互いに体勢を崩す。

―今だ!

村雨丸の法術を発動させ魔王の身体についた水分を凍結させる。更に壁と床と天井の水を凍らせて魔王の動きを封じるように氷の柱を出現させた。

「おおぉ!」

この刹那に全身全霊を込めて袈裟がけに斬り下ろした。

避けられる距離じゃない。殺せなくとも傷を与えられる筈だった。なのに何でなんの手応えも無いんだ。まるで身体の上を滑った様な感じだった。氷の檻を物ともせずに、破壊して魔王が銃口を俺に向ける。逃げようとして気付く。俺の足が凍りついていて動かない。村雨丸に触れもせずに支配を奪われた!

「アウフ・ヴィーダーゼーエン」

「―――――――っ!」

気付いた時には床に倒れていた。

撃たれたのだろうが記憶がはっきりしない。魔王の足が見える。

そこからべっとりと血糊が蛞蝓の通った後の様に続いていた。

自分の身体がどうなっているのか分からないが知りたくもない。

痛みは感じないが、どうせスプラッタだろう。

「お前のゼルプストは火之迦具土神。原初の炎。叡智の灯火。それらを司る火雷天神。八寒地獄を司る村雨丸とは真逆の属性だ。お前が使うにはそもそも不釣り合いなんだよ。つー訳でこれは返して貰うぞ」

近づいてきた魔王に辛うじて握っていた村雨丸を奪われた。先生の形見を目の前で持って行かれても指先はおろか視線すら満足に動かせない。

「あと、一つ言わせて貰えば、お前は戦う事と逃げる事の意味を勘違いしている。お前の目的は何だったんだ?なぜ俺と戦おうと思った?殺人を否定するなら俺から逃げると言う戦い方を選ぶべきだったんじゃないのか?もっと頭、使えよ、バカ。結局お前は自罰的欲求を満たしたいが為に火雷天神の死の誘惑に負けたんだ。残念だよ。そうしていれば俺はお前の中の銀を殺さずに抽出してようと思っていたのに」

俺はまだ戦える。魔王が喋っている今も確実に傷が回復していっている。身体に力が入るようになってきた。あと少し、時間を稼いで―。

「おい。お前まさか、まだ自分が死なないなんて思っているんじゃないだろうな?」

魔王が足で身体を蹴って仰向けにして覗きこんできた。

「お前、は―人を、殺せないんだろう?」

「ああ?神の祝福の事を言っているのか?ハッ!アホが。俺がこの呪いと何万年付き合ってきたと思っている?とっくの昔に抜け道を見つけているよ」

知ってたよ!言うと思った!くそ!それじゃあ俺は本当にこんな所で死ぬのか?瑞姫と約束したのに。先生に生きろって言われているのに。

―でも先生を殺した化け物の俺には相応しい死に様かもしれないな。

「どうやら、まだ足りないようだな。教えてやるよ。本当の恐怖と絶望を」

魔王が俺の身体を跨いで立って、何かを引っ張り出すような動作をする。何をしようとしているか分からないがとにかく逃げようと腕に力を込めて上体を起こした俺は愕然とした。胸に開いた大きな穴から銀色の液体が血と共に溢れだしてきている。まさか俺のパワードギアなのか。魔王は生きたまま取り出そうとしている?

急に怖くなってもがいても身体は全く動いてくれなかった。

「おいおい。その足でどうやって逃げる積りだ?」

「え?」

魔王の言葉につられて足に目を向けて思わず目を向けて見えた物にぽかんとしてしまった。俺の足がぐにゃぐにゃになっている。ゼラチンか或いは空気の抜けかかった風船みたいだ。

全身あんな風になって死ぬのか。

―嫌だ。

「あ―ああ!」

嫌だ!死にたくない。死にたくない!

「あああああああああああああああああああああああああああ!」

「アハハハハハハッ。苦しいか?辛いか?これが真実だ。普通は困難な事にぶつかればどん詰まる。死ぬような目に遇えば人は死ぬ。主人公補正?ご都合主義?現実を見ろよ。そんな物はどこにもない!」

必死に両手を当てて塞ごうとしても全然、銀の流出は止まってくれない。

結局、まるで意思を持っているかのように身体から這い出していく銀を眺めているだけで腕までゴムみたいに潰れてしまった。

何かないのか。生き残る手段は何か―。身体を動かさなくても良い方法。そうだ!法術はどうだ?俺の法術は―ああ、駄目だ。今アレを起こせば俺が助かっても大勢の罪のない人が死んでしまう。そうれは―それだけは俺が死んでも絶対に駄目だ。

――俺は何も出来ない。何て無力なんだ。だが、どうせ死ぬのならせめて命乞いはしたくない。歯を食いしばり震える体に鞭打って涙に霞む目で魔王を睨みつける。

そんな俺を無表情に見下しながら頭に足を置き―

「死にたくないか?死にたくなよな?でも、駄目だ。―死ね」

「――――――」

言い捨てて踏み潰した。


 ARとして投影された矢印の映像に従って辿り着いたのは階段裏にある扉だった。

ここだけアホみたいにセキュリティが高い。ノブがあるべき場所に静脈と指紋認証を行う機械が取り付けられている。

今思ったんだが何であいつは老人ホームの下に基地を作ったんだ?普通の家じゃ駄目だったのかよ。

―様式美と言うものでは?

―面倒くさかったのではないかね?

お前らには聞いてねえよ。うぜぇ。

当たり前みたいに頭の中で話しかけてくる二人への憤懣を目の前のドアにぶつけて蹴り壊した。

くの字に折れ曲がったドアは向こう側の壁に激突して落ちて行く。

あまりの呆気なさに拍子抜けしながら室内に足を踏み出そうとして―、

「うおわっ」

思わずドア枠を掴んで声を上げていた。真黒だ。何もない。ドアの向うは部屋じゃねえのかよ。九平方メートル位の正方形の穴って何の罠だよ。

―何の、と言うか落とし穴ですね。

で、これどうすんだ?アイリスさんは下へ行けってつってるけど。闇の中に消えて行っている矢印の先を見遣る。光源がないせいでどの程度の深さがあるのか分からない。

―さっさと落ちたまえ。チキン君。

流の言葉はムカつくがそれしかねえか。制帽を押さえて軽く飛び降りた。

数秒の紐なしバンジー体験を経てダンッ!と着地して上を見上げる。結構遠い。

十階か十二階分はあるか。普通の人間なら誤って落ちれば死ねる高さだが、俺にとっては落ちるだけでは何の意味も無い。

ただの嫌がらせかよ。うっぜえ。

王が認めた陰陽師なら道中の仕掛けも期待していたんだが。

辿り着いた場所も何もない。アイリスは目的地を意味する丸いマークを示しているが、そもそも暗過ぎて良く見えねえ。

眼帯を捲って左目を開くと自動でアイリスが暗視装置を起動してくれた。王しか機械眼は使えないがアイリスがこっちの状況を判断して操作してくれるのは有り難いよなあ。

まあずっと見られているみたいで良い気はしないけど。

白黒の視界の中でマークに目を向けると、そこには銀行の金庫みたいな重厚な扉があった。

だが何故か真っ平らでダイアル錠もハンドルもない。どうやって開けりゃいいんだよ。

というかどうやって開けてんだよ。蝶番がないと言う事はスライド式なのか。

さすがに殴っても簡単には壊せそうにない。どうすっか。

―どうもこうもさっさと破壊すれば良いでしょう。貴方はシェケル銀貨をまともに形成できないんですから。下手の考え休むに似たりですよ。憤怒の権能や日緋色金が使えなくともルーンがあるでしょう。

俺がバカみたいな言い方はやめろ、竜明。

―実際貴様は馬鹿だろう。そうやってぐだぐだしている事が如何に我が君の負担になるか考えてみたまえ。

だったら代わりにてめえがやれよ、流。

―だが断る!

うるせえよ!でもま、確かにさっさと進むか。右手に一センチ程度の小石大に銀を固めて形成し、そこにハガルとイサとギューフのルーン文字を刻む。それを握り込んだ拳を扉にコツンッと当てると亀裂が走り瞬く間に合金製の扉が氷か硝子の様に砕け散った。

あっけないなぁ。

このまま大屋泰邦って奴も手応えがなかったらどうしよう。

と思ったが踏み込んだ先の光景に杞憂だと言う事が分かった。

「な―んだこりゃ。すげえ」

デタラメな高さの天井に百メートル以上ありそうな奥行き。

明らかに上の施設よりここの方がでかい。その広大な空間に林立する巨大なコンピュータ。

暗闇の中で夜空の星か摩天楼群の様にキラキラ光るマシンを目にして薄ら寒いものを感じるのはここの気温が低いからだけじゃないだろう。間違いなくこれを作った奴は天才だ。天才ではあるが同時に狂っている。

床にのたくる大小様々なコードを傍目に中央の道を歩きながらそれを見上げる。一番奥まった所に鎮座するコンピュータよりもなお巨大な透明な円筒形の物体。カプセルと表現される物の気がするんだが、大きさが規格外過ぎて正しいのか分からない。中を満たす緑色に発光しているのはマナか?だが秋津がここの存在に気付いていないと言う事は、あれはマナを地下から汲み上げるだけで消費せずに循環させて還しているのか?分からん。確か大屋泰邦は死者蘇生の研究をしている筈なんだが。

と、あれこれ考えながら近づいて行くと答えが見えてきた。巨大なカプセルの中に人がいる。他が大きすぎて良く見えないがカプセルの真ん中辺りに素っ裸の少女が浮いている。

なるほど。これが蘇生装置なのか。マナを利用する事に気付いているのなら身体の問題は解決しているのか。

「遅かったな」

カプセルの根元に到着するとコンソールの前の椅子に座っていた男が振り返り声をかけてきた。

帯青茶褐色と呼ばれる色合いをした立折襟の軍服に帽用星章の軍帽。

足元に置かれたどろりとした黒い炎のランタンに照らされて刀を携えマントを纏っている姿はあの頃からまったく変わらない。

天才陰陽師の大屋泰邦。百年以上前に日本帝国陸軍によって王を殺す為だけに作られた怪物。生まれた時から呪われた鋼鉄を埋め込まれた生物兵器。世が世なら英雄と呼ばれるに相応しい男。まあ、要は王にとってこいつはそれだけ賛辞に値する相手って事だが。

「そうか?お互いもう歳だからな。変わる事もあるさ。俺はもう歩く事だけでも辛くて。でもお前は相変わらず屍姦が止められないみたいだな?」

「俺にネクロフィリアの趣味はないよ。何を言ってやがる。ボケたか?東雲八雲」

「魂を失った死者は蘇らない。いい加減分かっただろう?たとえ死体に命を吹き込んでもそれは同じ人間とは言えない物だ。死者蘇生は故人を二回殺すんだよ。お前もそれだけ傷付くんだ。泰邦!もう止めようぜ。そうすれば俺は――」

「五月蠅い!黙れぇ!」

突然激高した泰邦はランタンに鞘を叩きつけた。

それに目を向けてはっとした。あのランタンは封印だ。あの中に入っているどろりとした黒い炎は泰邦の曲霊だろう。自分の身体から取り出して封印していたのなら王が感知できない筈だ。なんて考えている間も硝子にひびが入り金属の部分が歪んで行く。

「樹には幸せになる権利がある。あんな死に方をしていい訳がない!それとも貴様は彼女が屑共に玩ばれるだけに生れてきたとでも言うのか?」

「その通りだ。樹はクズ共の玩具として生まれてきたんだ」

「樹を殺した貴様ならそう言うだろうな。だがな、俺はそれを否定するために戦ってきたんだ!樹は幸福になる権利がある!何人も邪魔はさせない。俺が命に代えても彼女を幸せにして見せる!」

「はん。最後まで理性を失わずにいたからって被害者面してんじゃねえよ。てめえも同罪だろうが。それにそれは建前だろう?守ると誓った人を守り切れなかったから生き返らせてどうしようって言うんだ?そんな事をしても失敗は取り返しがつかない。分かってるんだろう?取り繕うなよ。俺とお前の仲じゃねえか。自決できないからって樹を利用してんじゃねえよ」

「うるさい!お前に何が分かる!」

泰邦は苦虫を噛み潰したような、或いは今にも泣きそうな顔で俺を睨む。

「敗北しても自害も許されず、戦う理由も失って生きる意味もなくなった。それなのに生き続けなければならない。この地獄で理性を保つには樹への愛と貴様に対する憎悪だけだった!必ずや貴様を殺し樹を蘇生する!」

ランタンがぐちゃりと潰れた。

中からタールの様な物が燃えながら這い出して来て大屋泰邦の靴に触れるとそこから吸い込まれて行った。

憐れなる孤高の英雄よ。あの頃のお前は気高かった。周りの同志たちが曲霊によって狂って行く中で時代の所為でも環境の所為でも特定の個人の所為でもなく、自分が最善を尽くす事にのみ傾注して愛した人を救おうとしていた。大樹の巫女である樹を苦しめない為に、ただ独り正気を保って―。なぜこうなってしまった。

愛憎に取りつかれ理性を保てても正気を失っては駄目だったのに―。

「俺を殺しても樹は生き返らないぞ」

「いや、貴様は殺した人間の魂を腹の中に溜め込んでいるんだろう?その中に樹のものもあるはずだ。腹掻っ捌いて引き摺りだしてやる。そうすれば樹は蘇る、だろう?」

「やっぱツンフトが接触していたか。誰にあった?図体はでかいくせに気弱な白衣の男か?それともシルクハットにステッキを持って手品師みたいな格好して幼女を天使とかほざいてる変態か?」

「は?知りたけりゃ吐かせてみろよ」

泰邦が抜刀して刀を上段に構える。俺も二十五ミリ拳銃タスラムを銀で形成して構え―撃つ間もなく振り下ろされた刃を銃身で受けていた。電車が急停車したような甲高い音と火花が散る。片手面のくせに何て威力だ。呼吸も瞬きも忘れて刀身を受け流しつつ回り込むようにして避け無防備な背中に銃口を向ける。まあ飛び込んでこればこうなるのは当たり前だ。素人みたいなミスしやがって。

怒りを込めて引き金に指をかけようとした瞬間タスラムが刀に打ち上げられ吹き飛んで行った。おいおい何だ今のは?こいつ風車みたいに回転しやがったぞ。

剣道の達人がする動きじゃねえだろうが。お前はハリウッドスターかよ!

「弱くなったな、八雲」

刀を上段に構えながら泰邦が言う。

「お前は腕を上げたな。とでも言えば良いのか?」

「昔の貴様はもっとデタラメに強かった。あの頃の貴様と戦っていれば今頃、俺もこの場所も跡形もなく消滅していた。なぜ武器を持つ?手加減の積りか?貴様にとって武器など枷でしかないだろう。やはりあの話は本当だったのか?」

「うっせ。俺を憐れむような目で見るな」

確かに泰邦の言うとおりだ。王の死期は近い。

こうして立っているだけでも体力をガリガリ消耗している。

本来は立つ事さえままならないんだ。弱体化しようとも戦えるように見せかけるには武器を使うしかない。それで今まで通用していたんだ、呆気なくバレたもんだ。

とは言え俺と泰邦との間にある能力の差は何だ?

さっきから身体が重いし、泰邦が異様に身軽そうだから重力系統の法術かと思ったんだが。俺の斥力で相殺しきれないと言う事は違うのか?そもそも何でこいつは曲霊を取りこんで平然としてるんだよ。

普通ゼルプストの力が暴走して人の姿も理性も保てない筈なんだが。何も変わった様子が見られない。可能性としては泰邦のゼルプストが観念的、抽象的な神であった場合か。

黒い炎の曲霊、重力制御、それらから考えられる神は地獄関係なんだが。

―黄泉ノ穢レ。唾棄スベキ災厄。ソノ名ヲ大禍津日神。他者ニ理不尽ト不条理ヲ齎ス霊。神門曲霊ノ語源。

唐突に頭の中に響いた異質な声に目眩を覚える。王様の言葉は相変わらず分かり難い。

仕事しろよ竜明。まあ、お陰で仕組みは分かった。大屋泰邦の法術は徹底的に敵を弱体化して自分を有利にする。不条理、不合理、理不尽あらゆる災いを齎す。そういう能力。

身体が重いのも泰邦の動きが速いのも俺の斥力が通用しないのもこいつの法術が原因だ。すげぇなぁ。こりゃあマジで戦わないと勝てないよなあ。仕方ねえよなあ。ちょっとだけ熱くなっても―。

「アハハッ。楽しくなってきたなあ?泰邦。来いよ。今なら俺を殺せるかもしれないんだろう?」

「やああ!」

裂帛の気合を入れて振り下ろされる刀を右腕で受け止める。

が、火花が散って斥力の盾を断ち切り腕が宙を舞って刃が肩に食い込んだ。泰邦は瞠目している。だが俺には予想済みだ。一瞬の硬直の隙に泰邦の左足を踏みつけ顔面めがけて左拳を突き出す。拳が頬を掠り裂け俺の肩から刀が抜けた。

近距離で視線が合う。泰邦は苦しげに顔を歪める。俺は嗤っているかもしれない。お互い一歩も引かずそのまま刀が心臓を貫き俺の拳は顎を捉えた。

よろよろと泰邦が後退る。

「貴様はどんな体してんだよ?」

「そういえば自分の血を見るのは何千年ぶりだろうな。そんな顔するなよ。楽しもうぜ?俺も久々に熱く―な――」

―そこまでです、八雲。交代です。暫く我が王の玉体を傷付けた事を反省しなさい。

「申し訳ありません、泰邦殿。お騒がせしました」

「―――神門竜明か。誰でも良いが、どうやったら貴様は死ぬんだ?心臓が駄目なら首を落とせば良いのか?まさか不死身じゃねーんだろ?」

「はい。ただ我が王は運動神経も頭脳も人並み以下。法術も戦闘向きではないと散々な方なので、負けないように幾重にも防護策を講じているだけですよ」

「腕を切り落とされても心臓を刺されても平然としていられる策って何だよ」

「ああ、腕はほら。義手ですし―」

右腕の切断面を見せる。床に落ちている方は液状になって戻って来たタスラムと融合させてから拾い切断面を合わせると綺麗に元に戻った。

手を開閉しても違和感なし。

「心臓の方は突かれても血が噴き出さなかったでしょう?つまり回復力が高いために穴が開かなかった。それだけですよ」

「化け物め」

「はい。ですから我々―いえ、我が王は天下無双なのです。さて、決着をつけましょう」

左手に形成した銀から一振りの刀を取り出し抜刀せずに構えた。

鞘を握る手を拳二つ分開けて体の前に出して鯉口を切り、重心を半歩引いた左足に置いて柄に右手を添える。

「俺をバカにしているのか?」

「滅相もない」

そう思うのも無理はないでしょう。

抜刀術とは本来、当たり前のように凶器を持ち歩けた時代に刀を抜かせないように、或いは抜かれる前に先の先を制する為に発生した技術。

既に抜刀して構えている相手には不利にしかならない。通常は、ですが。

一足一刀の間合いで空気が凍る。地獄のような時間が過ぎ―一瞬で勝敗は決した。

元々体力の無いわたくしがふらついた瞬間に上段に構えていた泰邦殿が痙攣するようにびくりっと動き、しかしそのまま微動だに出来ずに硬直し、刃先が彼の頸を斬り裂いた。

血を噴き出す頸を押さえて膝をつき、信じられない物を見るような目でわたくしを見上げる泰邦殿に近寄り刀を振り上げる。

「凄いでしょう?この千子村正。普段は鈍らなんですが、斬る相手がどの程度、人に恨まれているかによって切れ味が変わるんです。更にいざという時には金縛りによって相手の動きを封じてくれる。まあ、貴方の法術がこの百年余で募って来たご自身の恨みに負けたとい事ですね。見えますか?この夥しい怨霊たちが」

「ぁ――」

泰邦殿が瞠目して声を漏らす。彼には殊更はっきりと見えている事でしょう。

自分に纏わり付くゾンビのような死霊たちの姿が。

それこそ彼の周囲だけに何百と言う死者がぐちゃぐちゃに寄り集まっている様を見れば流石の彼も間抜けな反応をするしかないでしょうね。

「くっ―そ。ふざけるな。俺は―」

「では、ちょっと痛いですけど我慢してくださいね」

悔しげに歪む顔に微笑みを返して刀を振り下ろした。


 暗闇に緑の光。目に映るその光景が何なのか理解するのに時間がかかった。

先ず身体が動かない事にパニックに陥り、それが治まってようやく自分が研究室の天井を見ている事を悟る事が出来た。

どうも仰向けに寝かされているようだ。

「気がついたか?泰邦君」

頭の方から聞こえた声に体が強張る。

柔和な口調に一つ一つの音をはっきりと発音する話し方。どれだけ人格が変わろうと間違えようがない。

「悪魔」

ゆっくりとした足取りで歩く音だけが聞こえる。今の体勢では姿を見る事が出来ない。

「良かった。きちんと話せるようだし、意識もはっきりしているようだ」

見やすい場所までやって来た悪魔が膝をついて俺の事を覗き込む。

「何故、俺を殺さなかった」

「君に聞きたい事があったんだ。ああ、勘違いしないでくれ。生かしておくと言っている訳ではない」

「だったらせめて、この体を何とかしてくれよ。身動きできない。話しづらいんだよ」

「―うむ。君は忘れているのかもしれないが、君の身体は死にかけているんだ。パワードギアは殆どの機能を停止し、回復が間に合わなかった傷は今も血を流し続けている。君の命はもって数分だろう」

「そんな馬鹿な―」

溶鉱炉に沈めても破壊不可能と言われているパワードギアの機能を停止した?

これを作った奴らですら持て余していたっていうのに?

俄かには信じられないが、事実どれだけ力を入れても指先すらまったく動かせない。

「気が付いていない人が多いようだが、パワードギアは欠陥品だ。動力が死者の怨嗟であるならそれを消してしまえば機能が停止する。壊す必要は全くないんだ。こんなに分かり易い欠陥と製造コストの悪い法具だったのに、性能ばかり注目されて随分作られたようだけど」

「ふふふふふっ。なんだ。初めから貴様の掌の上だったと言う事か。滑稽だな。希望なんか初めからどこにも無かったのか」

勝てる訳のない相手に勝てると思っていたのか俺は―。

或いは思わされていたのか。

「何を言っているんだ?君の希望は叶ったじゃないか。ようやく死ねるんだぞ。泰邦君」

「なに―?」

こいつは一体―。

「死にたかったんだろう?だから、手を抜いて戦った」

「そんな―」

なぜ俺が手加減しなければならない。悪魔を殺せば全て―。

すべて?何だ?

「君は頭が良い。自覚はしていなかったが分かっていたのだろう。私を殺しても、樹君を蘇生させても、君の本当の願いは叶わない。だから無意識に死を望んでいたんだ。勿論、樹君を救いたいと言う気持ちも、私に対する復讐心も嘘ではないだろう。人間の心と言うものは多面的だ」

悪魔の言葉を否定する事が俺には出来なかった。

今改めて振り返ってみれば、気味が悪いほど俺は悪魔と戦う事しか考えていなかった。

そして戦っている時は法術を使うと言う発想すらなかった。せっかく曲霊の封印を解いたのに、刀でしか戦わなかったなんて俺はバカか。

「結局、俺は最後に樹よりも自分の事を優先したのか。最低だ」

瞼を閉じる。声が震えていた気がするが気のせいだ。今まで悪人だという自覚はあったが、まさか自分自身の意思すら偽るクズだったとは。俺は一体何のために人々を犠牲にしてきたんだ。

「違う。死ぬような目に何度もあって心を狂わせ、生きる希望を失い、しかし死ぬ事も出来ず、孤独を癒す術も見つからず、日々の生活に苦痛しか感じなくなる。人としては自然な反応だ」

「もう良い。さっさと殺せ!俺に出来る事は、それだけしかない」

「そう急かなくても、私の用件が終わる頃には死んでいるだろうから協力してくれ」

「用件?」

「そうだ。君の夢を教えてくれ。私がそれを叶えてやろう」

また唐突に脈絡ない事を言いだしたな。

つまり何が言いたいんだよ?

「―ああ、要するに、樹を生き返らせてくれるのか?」

「違う。そうではない。私が知りたいのは泰邦君の本当の願いだ」

「俺は樹の為に―」

「本当にそれが君の心からの願いなのか?」

眉間に皺を寄せて睨まれた一瞬、視界が暗転した。瞼を開けているのが辛い。

何かされたのか?それともその時が近いのか。

いずれにせよ俺にはどうでも良い。

「しっかりしろ!死ぬ前に教えてくれ」

強く肩を掴まれて悪魔に視線を向けた。なぜそんな顔をする?貴様は何にそんな必死になっているんだ?

「泰邦君の夢は何だ?樹君を蘇生してどうする積りだったんだ?彼女が他の誰かと生きる事を君は望んでいた訳ではないだろう?私が知りたいのは君自身の―幸せなんだ」

「なんで―そんな事が知りたい?貴様は何を―企んでいる?」

「私は第六天魔王波洵。他者の夢や希望を叶える事が私の悦び。ただ私は君の魂が欲しいんだ。その引き換えにどんな願いも叶える。それが私の趣味だ。だから教えてくれ。今際の際だ。誰に憚る事はない。泰邦君が今まで戒めてきた心の内を教えてくれよ」

人の心を食らう悪魔。こいつがそんな風に畏れられる理由がようやく分かった。こんな事を言っていれば当たり前の結果だ。俺達はこんな化け物を殺すために生まれのか。

どうしてこんな事になってしまったんだろう。

当時まだ子供だった俺たちは否応なく戦場に駆り出され、そして死んでいった。

戦えば死ぬ。戦場へ行けば帰ってこられない。それが当たり前で何も思わず俺は無気力にその時を待っているだけだった。樹に出会ったのはそんな時期だったか。

中でも、みなか計画の中核的存在だった樹は実験で玩具にされ、暴走した同胞たちの精神統制を一手に引き受けて日々肉体も精神も疲弊させていた。

今思えば彼女を助けたのは同情だったのかもしれない。或いは自分よりも扱いが酷い人を助ける事で自己陶酔に浸っていたのか。

それでも俺は樹の事を好きだったんだ。一度も本人に言った事はなかったけれど。

言う資格があるとも思えないけれど、もし願いが叶うなら―。

「―樹と――一緒に、生きたかった」

恋人として一緒の時間を―。平和な日常を過ごす事が出来たらどんなに良いだろうか。

手を繋ぎ同じ話題で盛り上がる。そういう日々を共に生きて行けたなら、それ以上の幸福はあり得ない。

「君の願い。確かに聞き届けた!その代わり君の魂を貰う。良いな?」

「――好きにしろ」

もう目を開けていられなくなった。まさか悪魔に魂を売って死ぬ事になるとは思わなかった。こいつの言葉を信じる気にはなれない。だが、不思議と心は穏やかだ。せめて腹の中で樹の魂の傍に居られるなら良い夢が見られると良いな。


 息を引き取った泰邦君の傍らに胡坐をかく私の周囲に銀が舞い散る。私はこれを美しいと思った事はない。最愛の友であり師を殺して奪ったこの三十枚のシェケル銀貨は私の十字架だ。万崋曼陀羅と呼ばれる他者の願いを叶える法術も今や地獄に引き摺り込む外法でしかない。

だが、かの名探偵のように私もまたこう思うのだ。

「もし君の言葉が約束されるならば公共の利益の為に私はもう片方も喜んで受け入れよう」

銀が中へ吸い込まれる様にして消え、暫くすると喉が盛り上がって口から白い蛇が這い出してきた。それを掴み取り咥えられたブラックオニキスのような色の勾玉を見る。

これが泰邦君の魂か。何て美しいのだろう。

「大樹の巫女殿。貴女の騎士は我らの大願成就の為に役立ってくれる事でしょう」

蛇に勾玉を飲み込ませるとどろりと溶けて腕に同化する様にして消えた。

最初にこれを目にした時は自分が液体金属の殺人兵器にでもなった気分がしたものだ。

実際は私の敵はコンピュータなんだが。本当に世の中ままならない物だな?泰邦君。

私は失笑して研究室を後にした。

出入り口まで来ると煙管を取り出して刻みタバコを詰め込みマッチで火を点ける。

予想通り外は雨だった。非論理的だが私は相当、雨に好かれているらしい。

一服して新しい刻みタバコに火を点け雨の中へ一歩踏み出すと横合いから傘が差し出された。

「雨に濡れると身体に障るぞ」

菊理君か。心配しなくても私の周囲は斥力で覆われている。雨に降られる事などあり得ない事は知っているだろうに。甲斐甲斐しい事をする。

それよりもずっとここで待っていたのだろうか?今回は撥ねつける必要はないかな。

「ありがとう」

「うん」

無表情で頷く菊理君を見遣る。表情や言動からはまったく感情が読めないがお礼を言う必要はなかったかもしれない。

「一口、良いか?」

彼女が上目使いで聞いてくる。そんな目で私を見るな。

「――どうぞ」

仕方なく煙管を差し出すと何事もなかったように喫い始めた。

彼女ほど私に女性の恐ろしさを教えてくれた人はいない。もっと厳しく接するべきなんだが。難しいなあ。

と、思っていると向こうから白いコートを着た人が歩いてくる姿が見えた。

「ありがと。返す」

「―ああ」

押し返された煙管の灰を捨てまた火を点けるまでの一連の動作をする間に待ち人が辿り着いた。マスクとフードで顔を隠していて見えないが、挙動から察するに神支那君かな。

「やあ、建御雷君」

「どうも、名無しの権兵衛さん。僕の事は雷帝と呼んで欲しいって言ったと思うけど?」

「EGの名称で呼ばれるのは嫌なのか?」

「雷帝の方がカッコイイと思うんだけど―」

「―分かった。君に任せよう」

「どうも。それで、貴方が外に居るって事は全部終わった事で良いの?」

「そうだ。後始末を頼む。約束通りデータは君が好きに使って良い」

「了解」

「この下にあるのは墓所だ。死者への礼を忘れるな。それと、そこにある物は天才が百年以上の間溜め込んだ狂気だ。毒されないように」

「心配性だね。まあ、肝に銘じておくよ。それじゃ」

私の横を通り過ぎって行った雷帝が直ぐに足を止めて何かを思い出したかのように振り返った。

「ああ、そうだ。名無しさんと同じ名前で呼ばれていた彼はどうすればいいの?」

「どう、とは?」

「生きてるんでしょう?いや、殺せなかったのかな。貴方は詰めが甘い。悪に徹しきれていない。生来の貴方は奪う者ではなく与える者だ。だから最後の最後で助けを求める声を無視できない」

「なるほど。確かに彼は生きている。絶望に立ち向かえる事は戦士の資質としては十分だが何の策もなしに挑む事が、いかに愚かな事か知らしめるために、強めにお灸を据えたが殺さなかった。君の言葉通り私は甘いのだろう。なら、彼の処分も君に任せようか」

「――え?」

終始落ち着いている雷帝が珍しく動揺した声を上げる。

「良いの?僕に任せて」

「もちろん。上司の私が出来ない事を部下の君が行う。理想の関係だ」

「――ふふふっ。ああ、分かりました。貴方には本当に敵わないなあ」

上機嫌で雷帝が去っていく。さて、彼はどうするだろう?

「良いのか。あんなこと言って。あいつ意識のない人間でも殺すぞ」

「珍しいな。君が見ず知らずの人物の事を気遣うとは」

「―それは―。スーニャの計画に支障があるんじゃないかと―」

菊理君がごにょごにょ言いながら視線を逸らす。

これは関係者に会ったな。今回の件で彼女が出会う可能性が高く、また感情移入し易い人物がいるとすれば工藤瑞姫君あたりか。

上出来だよ、菊理君。

「心配しなくても私の計画は誰か一人の生死で破綻するほど脆くない。それこそ私が死んでもエテメンアンキ計画は止める事は不可能だ。そういう風に私が設計したのだから」

神を殺し、この星から全人類を鏖殺する事で魂を天へと還し、この宇宙を支配から解放する。

盲目白痴の神よ、私はこの世界が嫌いだ。

なぜ、希望を抱く者を絶望させて突き放す?成功を望む者を挫折させる?必要性もなく意味も価値もないと烙印を押されて崖から突き落とされた我々はどうすれば良い?

この世界はあまりにも機械的すぎる。条件に満たないものは捨てられるしかない。

仕方が無いとは言え、私はお前を非難する。愛を識らないのなら自分以外が住む世界など作るべきではなかった。自分だけの世界で自分だけを見つめて満足していればよかった。

だから私はお前の全てを否定する。

お前の持つ全てを剥奪してやる。

この世界に生きとし生けるもの全てを殺し尽くしてやる。

しかし、一息には終わらせない。それでは喜劇になってしまう。

これはグランギニョール的な悲劇でなければならないのだ。

一人一人、ゆっくりと殺していかなければ、お前は命のなんたるかを理解できまい。

家畜を奪い、目を潰し、耳を削ぎ、皮を剥がれ、自分の血の臭いを嗅ぎながら断末魔を上げて赦しを乞え。この星にお前の居場所はない。

「時は春、日は朝、朝は七時、片岡に露みちて、揚雲雀なのりいで、蝸牛枝に這い、神は宙にあり―」

そして知るが良い。この世界では何が起ころうとも、たとえお前の死すら何事もない事象であると。

そう、まさに―

「世は全て事もなし」

おはこんばんにちは。カズヒロです。ここまで読んでいただき本当にありがとうございました。

この小説は某ライトノベル新人賞に応募して落選した作品です。評価は全て最低で、構成が破綻していて小説としての体を成していない。設定が通読しても理解できなかった。

と言うものでした。貴方はどうでしたか?

破綻うんぬんに関しては、どうしても自分自身では限界があり、良く分かりません。

設定に関しては何を指して言っているのか・・・。

わざと曖昧にした時代背景?この時点では未知の力だった法術?

分かりません。どうしてこうなった?

さて、愚痴はここまでにして、あまりにも徹底的に全否定されたので、この小説の続きを書く積りはありません。誰にも読まれない小説ほど悲しい物はないのです。

とはいえ、望む声があれば或いはと思いますが、そんなものがあるのでしょうか。

取り敢えず一縷の望みを込めて予告だけはしておこうと思います。

次回のエテメンアンキは、『秋津式ブートキャンプ』と『狸狗狐さんの星占い』でお送りする予定でした。

それでは、さようなら。

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