番人
この話にはまだ主役と呼べるものは出てきません。
「助けてくれぇっ!」
悲痛な叫び声がその場をつんざいた。無精ひげが醜く口元に生えている中年の男だ。脂肪を蓄えた腹を揺らしながら、どこかへ逃げようとするが、無駄だった。緩慢な動きはそれほど脚に自身が無くても追いつける程度のもので、すぐさま警備の者に回り込まれる。
小さな悲鳴をその口から漏らして、肥満の男はたじろいだ。喉元に、日本刀を突きつけられたからだ。
「観念しろよおっさん。もうここに配送が決まった時点でてめえはもう詰んでんだよ」
恐怖に顔を歪ませて、一歩二歩と下がっていく。真っ黒な制服に身を包んだ、刀を手にした男は、それにつれて歩を進める。喉元から、切先がずらされる事は無い。
涙を浮かべながら、その太った男は番人達に懇願した。
「お願いです! 俺は、ちょっと万引きした、それだけで……何も人を傷つけるような事は」
「知るかよ。クズはどこまで言ってもクズだ。物盗りの際に異能を用いた、それだけでもう駄目っていう法律なんだよ」
ようやっと刃先が喉から離れて、鞘に納められる。それと同時にほっとしたのもつかの間、男は警備員に思いっきり蹴飛ばされた。あまりの衝撃に、胃袋の中身が口からこぼれる。びちゃびちゃと、朝食の不味い飯が地面に広がった。
「げほぉっ、おえぇえっ!」
「ったく汚-な」
悪態をつきながらその男は犯罪者全員を睨みつけた。その犯罪者たちのほとんどがおどおどとしている中で、一握りの者が好戦的な目をしている。そしてごく少数、この場の出来事や今の自分の立場に無関心な者もいた。
こういう奴らがいるから面白いんだよなと、そっと彼はほくそ笑む。
「よーしクズども、よく聞け。お前らは犯罪人、だからここに来た。つっても万引き犯から大量殺人のサイコ野郎まで様々だけどな。まあ、この門の向うに入ったその時には、『仲良く』やるように」
刀をもう一度抜いて、刃の先端を巨大な建物に向けた。そこには、とてつもなく巨大なドームができあがっていた。厚さ十メートル以上の鉄板によって囲まれたその内部には、とてつもなく膨大な都市。世間ではこれを“パンドラの匣”と呼んでいる。
この中には、犯罪を犯したうえで、さらにとある条件を兼ね備えた者が一様に集結していた。
「俺たちが案内するのはここまでだ。……だが、お前たちが無理やり門を開けてここから逃げだそうとしたその時には、いくらでも相手をしてやるからかかって来い」
彼らが集まっているこの地点は、匣への出入り口日本支部である。各国の入口はまた別の場所に設けられていて、基本的には会わないようになっている。理由は簡単で、犯罪者同士が手を組んでより一層面倒なことにならないようにだ。
一回あたり三十人程度の人間がここに送検される。それが一日に三回程度。それが全ての国で行われているため、本来であればこの中の人口は増え続けるはずである。
にも関わらず、この中の人口はあまり増えない。それだけ、この内部での死人が多いという事なのだ。
そんな中、四人の犯罪者たちが立ちあがった。男だったり女だったり、年寄りだったり若かったりと様々である。
日本刀を持った彼は、茶色い瞳の中に彼らを映した。
「おいどうしたクズども。まだ座ってろよ」
「いや……どうせなら今ここで戦おう」
逃げ出そうとするならば戦う。それならば、今すぐこの場で戦った方が手っ取り早いというもの。そのため、警備員の面々に対して反抗的な面々はすぐさまここで立ち上がる。
その言葉を聞いた途端に、男の顔に歪んだ笑いが広がった。だが、その目はゴミを見ているようである。
「そう言ってくる馬鹿を楽しみにしてるんだよ、俺は」
その言葉を皮切りに、四人の犯罪者たちは一斉に飛びかかろうとした。だが、飛びかかろうとしただけでその体は指一本動かせなかった。自らに体の異変を感じ取り、四人とも焦りを浮かべている。
「影山ぁ、邪魔してんじゃねえよ」
「桐野がたらたらしているからだ。遊んでたら殺されると、身を以て何度も経験しているだろう」
「説教はいーんだよ、さっさとヤらせろよ」
「二対四なら構わん」
「ちっ、てめえも戦いたいだけじゃねーか」
サングラスをかけたがっしりとした体格の男が、先程から一人で昂ぶっている刀の男の横に並んだ。日本刀の男は桐野と言い、門番の中でも相当な問題児だと同僚からも疎まれている。対するガタイの良い影山は真面目に仕事はこなすが、根は桐野と大して変わらない。
不意に、動きを止めていた四人の体が動くようになった。またしても突然にそれが起こったので、揃いも揃って困惑している。だが、彼らは次の瞬間、桐野の言葉に対して怒りを露わにした。
「かかって来なクズども。お前らじゃ俺を殺せやしねぇからよ」
さっさとしろと、桐野は手招きする。青筋を浮かべた若い男は、一気に駆けだした。先程までは綺麗に毛が剃られていて、どこか女々しい印象だった彼だが、途端に全身が金色の体毛に覆われる。二足歩行だったのに、いつの間にか走っているうちに四足歩行になっている。
獣化タイプだなと見切りをつけて、桐野は少し高揚してくるのを感じ取った。自分と同じではないか、と。
鋭い牙を覗かせ、獰猛な方向と共にその獣は桐野に飛びかかる。もうその牙は彼の身体を引き裂こうとしているのに、彼は一歩も退く気配は無い。
その牙が後数瞬で桐野の体躯を貫こうとした時、先程同様にぴたりとその動きを止めた。そしてそれは言うまでもなく、もう一人の影山という男のせいだ。
「こっちは二人だぜ。何も考えずに四人じゃなくて一人で突っ込んでくるあたりがクズだよな」
ゆっくりと、見せつけるように刀を振り上げる。恐怖のため、先鋒の男の眼は最大限に見張られていた。次の瞬間、煌めく金の体毛が、血で真っ赤に染まった。返り血を浴びた桐野自身も真っ赤に染まる。
鼻腔を、鉄の香りが刺激したその瞬間に彼は高らかに叫びだした。否、笑いだした。これ以上なく愉快そうに。
「これだよ、これこれ! こういう馬鹿がいるから止められないんだよ! あっはははははは!」
狂っている。よく彼はそのように言われている。だが本人はその事を全く気にも留めていなかった。
「オイオイ、ボーっとせずにかかってこいよ、次はお前らの番だぜ」
赤く濡れた顔の中で、真っ白な歯と瞳だけが輝いていた。