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第7話「負の連鎖」

 早朝。


 まだ薄暗い。


 町が目覚める前の静寂が、街を包んでいる。


 シンと。


 空気が冷たい。


 白い息が、吐く度に立ち上る。


 フワッと。


 俺とエリシアは、外套を羽織り、フードを深く被って石畳の道を歩いていた。


 コツコツと。


 足音だけが響く。


 人通りはほとんどない。


 時折、早朝の仕事に向かう人とすれ違うだけだ。


「もう少しよ」


 エリシアが小声で言う。


 ヒソヒソと。


 その声は緊張で少し硬い。


「ああ」


 短く答える。


 町外れにある馬屋。


 そこで馬を調達して、この国を出る。


 それが計画だ。


 でも——


(メル…)


 胸が、ざわつく。


 ザワッと。


 昨夜、メルに別れも告げずに出発を決めた。


 メルのためだ。


 エリシアがそう言った。


 俺も、そう思う。


 でも、本当にそれでよかったのか。


 メルの笑顔が、脳裏に浮かぶ。


 あの無邪気な笑顔。


「お兄ちゃん」と呼んでくれた声。


(これでよかったのか…)


 不安が、心を蝕む。


 答えは出ない。


「着いたわ」


 エリシアが立ち止まる。


 目の前に、大きな厩舎がある。


 木造の建物で、古びているが頑丈そうだ。


 中から馬のいななきが聞こえる。


 ヒヒーンと。


 何頭もの馬が、朝の餌を待っているのだろう。


 干し草の匂いと、馬の匂いが漂ってくる。


「タクミ、ちょっとここで待ってて」


「え?」


「馬の手配は私がする」


「あなたは目立つから」


 エリシアが俺を見る。


 その目は真剣だ。


 フードで隠していても、黒い髪と異国風の顔立ちは隠しきれない。


 この国では珍しすぎる。


「あの建物の影に隠れててちょうだい」


「すぐ戻るから」


「分かった」


 俺は頷いた。


 エリシアが厩舎に向かう。


 コツコツと。


 その背中が、少し小さく見える。


 扉が開く音。


 ギィッと。


 馬の嘶きが一瞬大きくなり、また扉が閉まる音。


 バタン。


 俺は、近くの建物の影に身を隠す。


 石造りの壁に背を預ける。


 冷たい。


 ヒヤリと。


 フードを深く被り直す。


 顔が見えないように。


 誰にも気づかれないように。


(早く…)

(早く、この国を出たい…)


 焦りが募る。


 心臓が、早鐘を打っている。


 ドキドキドキドキ。


 激しく鳴っている。


 手のひらに汗が滲む。


 ジットリと。


 厩舎の中から、声が聞こえる。


 壁越しに、かすかに。


 エリシアと、男性の声だ。


 馬屋の主人だろうか。


 低い、野太い声。


「おや、エリシアじゃないか。こんな早くからどうした?」


「馬が欲しいの。一頭」


「一頭?一人で遠出か?」


「ええ。少し…ね」


 エリシアの声が、わずかに曇る。


 嘘をついている時の、あの微妙な声の変化。


「そうか。まあ、いい馬を用意してやるよ」


 主人の足音。


 ザッザッザッ。


 馬房を歩く音が聞こえる。


 馬の鳴き声。


 ヒヒーン。


 蹄が地面を叩く音。


 カツンカツン。


「なあ、エリシア」


 しばらくして、主人が話しかける。


 その声が、少し低くなった。


「昨晩、ある話を聞いた」


「ある話?」


「ああ。ほら、例の偽勇者だよ。懸賞金かけられたろ」


 その言葉に、背筋が凍る。


 ゾクッと。


 体が硬直する。


(懸賞金…)

(俺を探してる…)


「それで懸賞金目当ての連中が、うろついててな」


 主人が続ける。


 その声は、まるで他人事のように軽い。


「そいつらが話してた」


「なんでも、獣人族が偽勇者を匿ってるんだとか」


「え…?」


 エリシアの声が、わずかに震える。


 その動揺が、壁越しにも伝わってくる。


「遅い時間だったぞ。夜の十時過ぎだ」


「酒場で聞いたんだが」


「そいつら、獣人居住区に向かったらしい」


「まったく、物騒な事だ」


「まさか…」


 エリシアの声が、緊張で上ずる。


(獣人居住区…)

(メルが…)

(昨夜の十時過ぎ…)


 頭の中が、真っ白になる。


 心臓が、さらに激しく鼓動する。


 ドクドクドクドク。


 血の気が引いていく感覚。


 手が震える。


 ガタガタと。


「獣人どもが偽勇者なんか匿うわけないだろうにな」


 主人が笑う。


 ハハハと。


 呑気な笑い声。


「まあ、懸賞金目当ての連中は必死だからな」


「どこでも探すんだろうさ」


「獣人どもも災難だな」


「そう…ね」


 エリシアの声が、遠くなる。


 その声には、明らかな動揺が混じっている。


(まずい…)

(メルが…!)


 足が、勝手に動き出す。


 体が、言うことを聞かない。


 理性よりも、感情が先に動く。


「エリシア!」


 厩舎に駆け込む。


 扉を勢いよく開ける。


 バンッ!


 大きな音が響く。


 馬たちが驚いて嘶く。


 ヒヒーン!ヒヒーン!


「タクミ!?」


 エリシアが驚いた顔で振り向く。


 その目が見開かれている。


 馬屋の主人も、俺を見る。


 太った体格の中年男性。


 無精髭を生やしている。


 その目が、一瞬で疑いの色を帯びる。


「おい、お前…」


 主人が一歩後ずさる。


 ジリッと。


 その目が、俺の顔を確認しようとする。


「エリシア、獣人居住区に行く!」


「タクミ、落ち着いて…」


 エリシアが慌てて駆け寄る。


 タタタタッ。


 その手が、俺の腕を掴む。


 ギュッと。


「メルが危ない!」


 俺は叫んだ。


 声が上ずる。


 冷静さが、どこかに消えている。


「分かってる!でも今は…」


「おい、あんた…まさか…」


 主人が壁に立てかけてあった農具に手を伸ばす。


 ガシャッと。


 巨大なフォークのようなピッチフォーク。


 その先端が、鋭く光る。


 ギラリと。


 主人の目が、恐怖と警戒の色に染まる。


 顔が青ざめている。


「偽勇者か…?」


 主人の声が震えている。


 ピッチフォークを構える手も震えている。


 ガタガタと。


 でも、その目は本気だ。


「くそ…!」


 エリシアが舌打ちする。


 チッ。


 その顔が、焦りで歪む。


「タクミ、走るわよ!」


 エリシアが俺の手を強く引く。


 グイッと。


 その手が、今までにないくらい力強い。


「お、おい!待て!」


 主人の声を背に、俺たちは厩舎を飛び出した。


 背後で、主人が誰かを呼ぶ声が聞こえる。


「偽勇者だ!」という叫び声。


 -----


 走る。


 ただ、走る。


 タッタッタッタッ。


 石畳を蹴る音。


 荒い息。


 ハァハァハァ。


 心臓が激しく鼓動する音。


 ドクドクドクドク。


 全てが、耳に響く。


「タクミ、こっち!」


 エリシアが先導する。


 その動きは素早く、迷いがない。


 路地裏を抜け、裏通りを駆ける。


 建物の影を利用して、人目を避ける。


 エリシアは、この町の地理を完全に把握している。


「エリシア…!」


「分かってる!獣人居住区ね!」


 エリシアが答える。


 その声にも、焦りが滲んでいる。


 息が上がっている。


 ハァハァと。


(メル…)

(無事でいてくれ…)


 祈るような気持ちで走る。


 メルの笑顔が浮かぶ。


「タクミさん!」と駆け寄ってくる姿。


 手作りのパンを持ってきてくれた時の、嬉しそうな顔。


 治りかけの肋骨が痛む。


 ズキンズキン。


 走る度に、鈍い痛みが走る。


 息が上がる。


 喉が焼けるように痛い。


 でも、止まれない。


 止まったら、メルが—


 どれくらい走ったのか。


 時間の感覚がない。


 ただ、必死に走った。


「着いた…!」


 エリシアが急に立ち止まる。


 俺も止まる。


 息が、荒く上がる。


 ハァハァハァハァ。


 目の前に、獣人居住区の入り口があった。


 木造の門。


 いつもなら、獣人の門番がいるはずだ。


 朝の挨拶をしてくれる、あの優しい獣人が。


 でも——


 誰もいない。


 静寂だけがある。


 シーンと。


 不自然な静寂。


 鳥の声すら聞こえない。


「何か…おかしい…」


 エリシアが警戒する。


 手が、腰の剣に伸びる。


 ガチャリと。


 その指が、柄を握る。


 全身が戦闘態勢に入っている。


 門の周りを見る。


 地面に、何かが散らばっている。


 茶色いシミ。


 いくつも。


「これは…」


 近づく。


 足が震える。


 ガクガクと。


 その正体が分かってしまうから。


 血だ。


 乾いた血痕が、地面を染めている。


 広範囲に広がっている。


 たくさんの血が流れた跡。


 地面に吸い込まれ、黒ずんでいる。


「争った…跡…」


 エリシアが呟く。


 その声が、わずかに震えている。


「そんな…」


 足が震える。


 膝が笑う。


 ガクガクガク。


 門の柱を見る。


 深い爪痕がある。


 鋭く、深く。


 獣人の爪だ。


 必死に抵抗した痕だ。


 何かから逃れようとした痕だ。


 木の繊維が裂け、白い木肌が露出している。


「メル…」


 声が震える。


 喉が詰まる。


 ギュッと。


「メルが…中に…」


「タクミ」


 エリシアが俺の肩を掴む。


 ギュッと。


 その手が震えている。


 エリシアも、動揺している。


「落ち着いて」


「ここから中を見ても、何も分からない」


「でも…!」


「中に入ったら危険よ」


 エリシアの声が、必死だ。


「メルはあなたの味方だった」


「でも獣人族の全員がそうとは限らない」


「今回の一件もあるわ」


「あなたのせいで襲撃されたと思ってる獣人もいるかもしれない」


「今は入らない方がいい」


 エリシアの目が、真剣だ。


 その目には、恐怖と心配が混じっている。


「メルが…メルが心配なんだ…!」


 声が裏返る。


 涙が出そうになる。


 ジワッと。


「分かってる。私も心配よ」


 エリシアが続ける。


 その声も震えている。


「でも、今は…」


「時間がない!」


 俺は叫んだ。


 その声が、静かな居住区に響く。


「メルが…もし、メルが…!」


 想像したくない。


 メルが傷ついている姿。


 メルが倒れている姿。


 あの小さな体が、血まみれになっている姿。


 その光景が、頭の中に浮かんでしまう。


「獣人族に…死人が出たかもしれない…」


 声が震える。


 全身が震える。


 ガタガタガタ。


「全部…」


「全部、俺のせいだ…!」


 その言葉が、口から溢れる。


 止められない。


「違う」


 エリシアが即座に否定する。


 その声が、強い。


「あなたのせいじゃない」


「違う!俺のせいだ!」


 俺は叫んだ。


 拳を握りしめる。


 ギリギリと。


 爪が手のひらに食い込む。


 痛い。


 血が滲む。


「俺が…俺が召喚されたから!」


「魔導士たちが死んだのも!」


 あの光景が蘇る。


 十二人の魔導士たちが、次々と灰になっていく光景。


 崩れ落ちる体。


 苦痛に歪む顔。


 助けを求める声。


「王国が勇者を得られなかったのも!」


「メルが…獣人族が襲われたのも!」


「全部、全部俺のせいだ!」


 涙が溢れる。


 ポロポロと。


 止まらない。


 頬を伝って、顎から滴り落ちる。


 地面に、小さな染みができる。


「タクミ…」


 エリシアの声が、優しい。


 でも、その優しさが今は辛い。


「俺が…無能だから…」


「適合率が低いから…」


「勇者になれなかったから…!」


 拳を地面に叩きつける。


 ドンッ!


 石畳が硬い。


 拳が痛い。


 ズキンと。


 でも、この痛みは、俺が受けるべき痛みだ。


「全部…俺が悪いんだ…!」


「違う!」


 エリシアが俺の肩を揺さぶる。


 ガクガクと。


 その手が強い。


「あなたは悪くない!」


「悪いのは王国よ!」


「勝手に召喚して、勝手に追放して、勝手に濡れ衣を着せて!」


 エリシアの声が、怒りに震えている。


 その目に、涙が浮かんでいる。


 ジワッと。


「でも…」


「でも、結果は同じだ…」


 俺は呟く。


 声が枯れている。


 ガラガラと。


「俺が…召喚されなければ…」


「魔導士たちは死ななかった…」


 あの十二人は、今も生きていたはずだ。


 家族がいた。


 友人がいた。


 夢があった。


 それが全て、俺のせいで消えた。


「王国は、もっと早く次の勇者を召喚できた…」


「メルも…こんな目に遭わなかった…」


 メルの笑顔が浮かぶ。


「タクミさんは本物の勇者だって、メルは信じてます」。


 あの言葉が、心に突き刺さる。


 ズキンと。


「タクミ、やめて…」


 エリシアの声が、懇願するように震える。


「これから…魔王が復活して…」


「王国の住民が…何千人も…何万人も…殺されるかもしれない…」


 その光景が浮かぶ。


 街が焼かれる。


 人々が逃げ惑う。


 子供たちが泣き叫ぶ。


 全てが、灰になる。


「それも…」


「全部、俺のせいだ…」


「あの冒険者たちが…俺を殴ったのは…正しかったんだ…」


 あの痛み。


 あの屈辱。


 でも、それは当然の報いだった。


「何故なら…」


「俺が…悪いから…」


「いい加減にして!」


 頬に衝撃。


 バシッ!


 鋭い音が響く。


 ビンタだ。


 エリシアが、俺をビンタした。


「エリシア…」


 頬が熱い。


 ジンジン。


 でも、その痛みで、少しだけ現実に戻る。


 エリシアの顔を見る。


 その顔が歪んでいる。


 涙で濡れている。


 ポロポロと。


「今は、そんなこと言ってる場合じゃない!」


 いつも優しかったエリシアが、今は怒っている。


 その目が、涙で滲んでいる。


 でも、真剣だ。


「あなたは悪くない!何度も言わせないで!」


 エリシアの声が、悲痛だ。


 その声に、痛みが混じっている。


「でも…」


「もういい。今は、町を出ることを考えて」


 エリシアが俺の腕を掴む。


 ギュッと。


 その手が、震えている。


「メルは…きっと無事よ」


「獣人族は強いって、あなたも聞いたでしょ?」


 その言葉は、自分に言い聞かせているようにも聞こえる。


「でも…」


「お願い…今は…」


 エリシアの声が、懇願するように震える。


 その目が、俺を見つめている。


 必死に、俺を説得しようとしている。


「…もう」


 俺は呟いた。


 力が抜けていく。


 スッと。


 全身から、何かが抜けていく。


「もう、疲れたんだよ…」


「タクミ…?」


 エリシアの目が、不安で揺れる。


「元の世界でも…この世界でも…」


 社畜として使い捨てられた日々。


 理不尽な残業。


 上司の罵声。


 そして、この世界での追放。


 濡れ衣。


 暴力。


「俺の…居場所なんて…どこにもない…」


「俺が…いると…」


「みんな…不幸になる…」


 魔導士たちが死んだ。


 メルが危険にさらされた。


 エリシアも、俺のせいで追われている。


「エリシアも…」


「やめて…」


 エリシアが俺の服を掴む。


 ギュッと。


 その指が、服を強く握りしめている。


「そんなこと言わないで…」


 エリシアの声が、涙で震えている。


 ポロポロと。


「ごめん…エリシア…」


 俺は、エリシアの手を振り払った。


 バッと。


 その手を、無理やり剥がす。


 エリシアの顔が、驚きで歪む。


「タクミ!」


 走り出す。


 ダッと。


 足が、勝手に動く。


「待って!」


 エリシアの声が、背後で響く。


 その声が、遠ざかっていく。


 でも、止まらない。


 足が、前に進む。


 タッタッタッタッ。


(一人に…)

(一人に、なりたい…)


 涙が、頬を伝う。


 ポロポロポロ。


 視界が、ぼやける。


 でも、走る。


 ただ、走る。


 エリシアの足音が聞こえない。


 追ってこない。


 それでいい。


 エリシアを、これ以上巻き込めない。


(エリシア…)

(ごめん…)


 心の中で、何度も謝る。


 -----


 どれくらい走ったのか。


 息が切れる。


 ハァハァハァハァ。


 肺が痛い。


 喉が焼ける。


 でも、走り続けた。


 町の門が見えた。


 木造の大きな門。


 その向こうに、外の世界が広がっている。


「おい、そこの!」


 門番の声。


 鋭い声。


「止まれ!」


 でも、無視する。


 速度を上げる。


 足が、さらに速く動く。


 タッタッタッタッ!


「おい!」


 門番が追いかけてくる足音。


 ドタドタドタ。


 でも、俺の方が速い。


 必死だから。


 逃げるしかないから。


 幸いにも門番は追いかけてこなかった。


 おそらく、持ち場を離れられなかったのだろう。


 門を抜ける。


 町の外。


 風が吹く。


 ヒュウウウ。


 冷たい風。


 開けた道が、前に伸びている。


 そして——


 森。


 深い、深い森が、道の先に広がっている。


 木々が密集している。


 暗い。


 でも、そこに隠れよう。


(あそこに…)

(あそこに、隠れよう…)


 道を外れる。


 草を踏む音。


 ザッザッザッ。


 土を蹴る音。


 足が、湿った土に沈む。


 グニュッと。


 森へ。


 木々が、俺を包み込む。


 枝が顔をかすめる。


 バシッバシッ。


 葉が服に引っかかる。


「はぁ…はぁ…」


 息が上がる。


 限界が近い。


 肋骨が、痛む。


 ズキズキと。


 治りかけの傷が、疼く。


 包帯の下で、傷が開いているかもしれない。


 でも、止まれない。


 まだ止まれない。


 誰かに見つかるかもしれない。


 もしかしたら、正体がバレて誰かが追ってきているかもしれない。


 さらに深く。


 木々が密集してくる。


 光が、届かなくなる。


 薄暗い。


 枝が複雑に絡み合っている。


 足元が見えにくい。


 根につまずきそうになる。


 ガクッ。


 どれくらい歩いたのか。


 時間の感覚がない。


 ただ、前に進んだ。


 足が、止まる。


 もう、限界だ。


 体が、動かない。


 木にもたれかかる。


 ドサッと。


 大きな木。


 樹皮がゴツゴツしている。


 背中に、その硬さを感じる。


 冷たい。


 ヒヤリと。


 でも、支えがないと立っていられない。


「はぁ…はぁ…」


 荒い息。


 心臓が、激しく鼓動している。


 ドクドクドクドク。


 全身から汗が噴き出している。


 ダラダラと。


 服が、汗で濡れている。


 汗が、額を伝う。


 目に入る。


 染みる。


 手で拭う。


 ゴシゴシと。


「これで…」


 呟く。


 声が、かすれている。


 ガラガラと。


「これで…よかったんだ…」


 自分に言い聞かせる。


 何度も、何度も。


「エリシアは…巻き込まれずに済む…」


 そう思った。


 これでいい。


 エリシアは、俺がいなければ安全だ。


 メルも、俺がいなければ襲われなかった。


 みんな、俺がいなければ幸せだった。


 でも——


 涙が、溢れてきた。


 ポロポロポロポロ。


「何で…」


「何で、泣いてるんだ…」


 止まらない。


 涙が、次から次へと溢れる。


 頬を伝う。


 顎から滴り落ちる。


 ポタポタと。


「俺は…」


「俺は…」


 声が震える。


 喉が詰まる。


 ギュッと。


「最悪の…クソ野郎だ…」


 メルを見捨てた。


 安否も確認せずに、逃げた。


 エリシアを置いて逃げた。


 あんなに優しくしてくれたのに。


 命を救ってくれたのに。


 全部、俺のせいなのに。


 俺が責任を取らなければいけないのに。


「ごめん…」


「ごめん…」


 何度も、何度も呟く。


 声が枯れる。


 でも、謝り続ける。


「ごめん、エリシア…」


「ごめん、メル…」


「ごめん、みんな…」


 木の根元に座り込む。


 ドサッと。


 力が抜ける。


 スーッと。


 もう、立っていられない。


 膝を抱える。


 小さく、丸くなる。


 顔を埋める。


 膝が、涙で濡れる。


 ジワジワと。


 涙が、止まらない。


 ポロポロポロポロ。


 嗚咽が漏れる。


 ヒック、ヒック。


 声を殺そうとしても、出てしまう。


(俺は…)

(何のために…)

(生きてるんだ…)


 答えは出ない。


 分からない。


 生まれてきた意味が、分からない。


 社畜として使い捨てられて。


 異世界に召喚されて。


 追放されて。


 今、森で一人。


(何も…)

(何も、残ってない…)


 ただ、暗闇が心を支配する。


 深い、深い暗闇。


 光が見えない。


 希望が見えない。


 絶望だけが、残る。


 重く、冷たい絶望。


 それが、全身を包み込む。


 まるで、鉛のように。


 森の中。


 誰もいない場所。


 木々に囲まれた、静寂だけがある場所。


 シーンと。


 拓海は、一人座り込んでいた。


 膝を抱え、顔を埋めたまま。


 涙を流し続けたまま。


 ポロポロと。


 時間だけが、過ぎていく。


 -----


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